残る青
🍀四葉(マメ科)
残る青
玄関の鍵は、少し重かった。
回すと、金属が乾いた音を立てて応えた。
締め切られた家の匂いが、ゆっくりと流れ出てきた。
木と畳、それから、どこかに残っていた石鹸のかすかな香り。
おばあちゃんの家だ、と遅れて実感する。
一階のリビングには、生活の途中がそのまま置かれていた。
めくられないままの日付で止まったカレンダー。読みかけの新聞。
小皿の上に、使いかけのパステルが二本、転がっていた。
縁の欠けた湯呑みが、テーブルの端に残っている。
窓の外では、雨が降っていた。規則正しく、でも主張しすぎない音。
よく来た家だった。
それ以上の言葉は、まだ見つからない。
◆
片付けが一段落した頃、母の携帯が鳴った。短い着信音が、この家には少し明るかった。
「ごめん、先に戻らなきゃ」
そう言って、母は玄関で靴を履いた。傘を持って、外へ出る。私はその背中を見送り、鍵の音をもう一度聞いた。
母の足音が消えると、家は別の顔をした。
音のない空気が、静かに満ちていく。
私は階段の前に立った。
二階を任されたが、しばらく放置されていた場所だ。少し面倒くさかった。
仕方ない、と思う。そうやって、気持ちを前に押し出す。
階段を上ると、床が小さくきしんだ。廊下の奥、閉じられた一枚のドアが見える。
ドアノブに、青い絵の具がついていた。
ほんの少し、乾いて、剥がれかけた青。
そこだけ時間が止まっているみたいで、視線が離れなかった。
開ける必要はない、と一瞬思う。でも次の瞬間には、もう指先が伸びていた。
ドアを開けると、匂いが先に入ってきた。
油絵の具と、木の匂い。懐かしさが、胸の奥を軽く叩く。
アトリエだった。
棚には、絵の具のチューブが色ごとに並んでいて、筆は缶に無造作に入っている。
窓際には小さな机。
子供の頃、私はそこで足をぶらぶらさせながら座っていた。
「線はね、間違ってもいいの」
そう言って、おばあちゃんは笑った。
白いキャンバスに、最初の一色を置く瞬間が、いちばん楽しかった。
「絵はね、完成しなくてもいいのよ」
ある日、おばあちゃんはそう言った。
私は、その言葉の意味が分からなかった。
私は、いつの間にか描かなくなった。
描くのが、辛くなったからだ。
どんなに頑張っても、もっと上手な人がいる。SNSを開くたび、コンテストの結果を見るたび、その事実が私を削っていった。
気づけば、筆を持つことさえ怖くなっていた。
棚の奥に、自分が使っていた筆を見つけた。
毛先は広がり、埃をかぶっている。
窓の外で、雨が強くなった。
部屋の隅に、イーゼルがあった。一つは空で、もう一つにはキャンバスが立てかけられている。
見覚えのない絵だった。
水彩で描かれた街は、砂に埋もれている。廃墟になったビルの隙間に、ひとりの人物が立っていた。
笑っている。こちらを見ているような、穏やかな笑顔。
そして、その上には青空が広がっていた。
満天の青。雲ひとつない。
イーゼルの脇には、筆とパレットが置かれている。
絵の一部は、まだ薄い。描きかけのまま、時間が止まったようだった。
これは、何。
おばあちゃんの、知らない時間。
未完成のまま、残された絵。
描きかけのまま、止まった時間。
「絵はね、完成しなくてもいいのよ」
おばあちゃんも、完成できなかったんだ。
私と、同じだった。
胸の奥から、何かが込み上げてきた。
視界が滲む。でも、涙は落ちなかった。
ただ、見つめていた。
青空を。
その圧倒的な、青を。
描きかけでも、滲んでいても。
この青は、ここにある。
イーゼルの脇に置かれた筆に、目が行った。
気づけば、手を伸ばしていた。
缶から一本取り出す。毛先は固く、埃をかぶっている。
違う。
もう一本。これも違う。
イーゼルの脇の筆。
おばあちゃんが最後に使ったもの。
握る。
手が、震えた。
何をしているんだろう。
これは、おばあちゃんの絵だ。
でも。
筆は、手の中にあった。
久しぶりの重さ。固さ。感触。
パレットの青を見る。
もう乾いている。
キャンバスに、筆を近づける。
触れるか、触れないかの距離。
怖い。
何年も、筆を持たなかった。
何年も、逃げていた。
でも今。
握っている。
穂先は、青空の手前で止まっていた。
息を止める。
心臓の音が聞こえる。
◆
結局、触れなかった。
ゆっくりと、筆を置く。
イーゼルの脇に、元あった場所に。
カタン、と乾いた音が、静かなアトリエに響いた。
息を吐いた。
窓が少し開いていて、風がカーテンを揺らした。
外を見ると、まだ雨が降っていた。
窓ガラスを伝う雨粒の向こうで、青空は視界の端に残っている。
私は、ただ立っていた。
指先に、筆の感触が残っている。
残る青 🍀四葉(マメ科) @sirotsumegusa
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます