エドガー・クリアアイズの最後の仕事

神酒紫

1

 それは酷く美しい冬の朝だった。陽光は淡く、しかし潔いくらいに晴れ渡っていた。

 空気は冷涼として張り詰め、肌にまとわりつくように包み込む。


 こんな日に死神の役を全うするとしたら、どんな心境だろうか。それも、幼い頃に苦楽を分け合った弟の処刑を。


エドガー・クリアアイズはぬるま湯で顔を洗った。彼の透き通るように白いまつ毛を、水が伝っていく。


 彼は顔をタオルで拭いながら、いつになく憂鬱で張り詰めた切なさを抱いていた。しかしそれを顔に出すことはしない。


 彼の軍師という立場は今日限りだ。今日の仕事が終わればただの無職になるわけだ。それも彼はよく理解していた。


 その最後の仕事の準備のために、彼は自室を出た。廊下を歩き階段を降りて一階の厨房に顔を出す。

 そこでは使用人たちが朝食を準備していながら顔をあげ、彼に挨拶する光景が広がった。彼は敬愛する使用人たちに問うた。


「ブラウニーを焼きたいのだが、オーブンは空いているだろうか?」


 すると褐色の肌に波打つ黒髪を後ろで引っ詰めた若き女中頭が、その淡い紫の瞳で視線を送った。


「エドガー様、少々お待ちください」


 そういうと彼女はオーブンと思わしき場所を開き、中からマフィンの型やオーブンの天板を取り出した。

 

「どうぞ」

「ありがとう、ディラティ」


 エドガーは慣れた手つきでオーブンに薪をくべて火をつけた。

 それから大きな器に小麦粉とカカオパウダー、バター、玉子と砂糖、膨らまし粉などを手早く混ぜた。清涼感のあるハッカ油を加えると最後に見慣れない何かの実のようなものを入れる。


「ディラティ、このブラウニーは絶対に誰にも味見させないように」


 呼ばれた女中頭は、心得ました、とお辞儀する。


 エドガーはオーブンを開けると中の温度を肌の感覚で確認し、そこへ型に流し込んだブラウニーの生地を入れた。

 彼にとって記憶に残っている味を再現するのは、朝飯前だった。


 それが焼き上がると、大きめの六切れに切り分け、銀の皿に乗せ、銀の覆いで蓋をした。


 準備が整うと、彼は愛する弟子と共に朝食をとった。


 彼は今日も正直食べ物が喉を通るような心境ではなかったが、今まで何度もそうしてきたように、食べ物を茶で流し込んだ。そうすると少なくとも頭が回るだけの力を得ることはできる。


 彼はやわらかな声で弟子を呼んだ。


「サニー。これを運んでください」


 弟子は用意された覆いのかぶさった銀の皿を一瞥すると、一瞬顔をこわばらせた。


「わかり、ました」


 弟子は憂いを含んだ眼差しでエドガーを見つめた。エドガーは、その眼差しすら気にした様子もなくこう言った。


「さ、行きましょう」



 二人が徒歩で向かったのは王宮の地下にある牢獄。そこへ続く石の階段を降りていくごとに閉塞感と圧迫感に似たものを二人は感じていた。


 ひとつの独房の前にエドガーは立った。胸の内では心臓が嫌なくらい静かに鼓動している。


 独房の檻の中にいる男性は、雰囲気さえ違えど、色彩や面影がエドガーに酷似していた。ただその人懐こそうな表情は、今のエドガーには出せないものだった。だがこの人懐こさの裏に残虐さを隠し持っているのだ。


 今更何を足掻こうとも両親の願いと、国の法律に則って動いている自分に、変更はない。


 ただ、囚人の名前を呼ぶことはできなかった。


 獄中の囚人のすがるような瞳を見ながら、エドガーはこう言った。


「明日はお前の処刑日だ。最後の食事だ。食べろ」


 軍師の指示のもと、看守は弟子から銀の皿を受け取り、流れるような動きで牢の中に運び込んだ。冷たい石の床に直接置かれたその皿は、まだ熱を帯びた甘い香りの焼き菓子が乗っている。その横に木の杯に満たされた赤ワイン。


 看守が警戒しながら後ろ向きに牢を出ると、囚人は飢えた獣のように動き、皿の前に胡座をかいて座り込んだ。そして


「これが俺の最後の飯かよ」


 と小声で毒づく。


 清潔とは言い難いであろう手で、まだ熱のこもった焼き菓子を頬張る。ひとくち齧るごとにそのひとくちが大きくなっていく。


 エドガーは、いまだにその焼き菓子が囚人にとって好きな味であるのを確信した。


 囚人は最後の一切れを手に取ると、それをゆっくりと噛んだ。噛んで、噛んで。飲み込むのですら、ゆっくりと味わっていた。


 それが済むと、今まで一度も手をつけなかった赤ワインを飲み干した。


 ワインのせいなのか、胃が満たされたせいなのか、囚人は上機嫌だった。

 

「なあ、エドガー。このブラウニー、昔お前が焼いてくれたのに似てる……俺も悪いことしたけど……違法魔法を手に入れれば、お前と同じ土俵に立てると思ってた……でも魔法には代償がいるって思うと、俺の代わりにその魔法を受け取ってくれて……今は感謝してる」


 囚人の言葉に、エドガーは微動だにしない。


 しかし内面では、囚人が今でも自分を双子の兄として思っていてくれたことに淡い喜びを感じていた。

 しかしそれはすぐに罪悪感という名の、どす黒いタールに覆われるのだが。


 檻の中の弟は、上機嫌でこの上ないくらいに無邪気に笑っていた。


 そしてふと彼はこう呟いた。


「明日かぁ……嫌、だなぁ」


 弟は、眠くなったのか満足そうな表情で横になるとそのまま寝息を立てて眠ってしまった。


 深い寝息が次第にゆっくりになり、浅く短くなっていく。そしてその呼吸音がついに途絶えた。


 やや間があって、軍師エドガーは看守を呼んだ。


 看守は目の前の檻の中に入ると、横たわった囚人を仰向けにさせ、脈をはかり、心臓の音を聞いた。


「とまっています」


 今まで視界の隅で大人しくしていた弟子が、涙を浮かべて口元を覆った。


 エドガーは自分も牢の中に入ると、弟の安らかな寝顔を目に映した。今にも微笑んで目を開きそうなその顔を。


 最後に弟の記憶を見るために額に触れた。


 最後まで兄が善良だと信じた弟の記憶に、エドガーは思わず口を開きかけた。

 

 でもその名前を今口にできる資格を、彼はないと感じ、ただ静かに檻の外で涙を拭う弟子の側に戻っていった。

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