第6章「弟子と仕組み」
朝の光が、拡張された作業場に差し込んでいた。
かつての染物屋の空き家は、ゴルドの手によって生まれ変わっていた。壁は補修され、屋根は新しく葺き替えられ、床には排水溝が整備されている。五つの作業台が整然と並び、奥には大きな水槽が三つ。乾燥用の棚も設置され、風通しのいい設計になっている。
「全員、集まれ」
洗一の声に、四人の若者が作業台の前に整列した。
セラ、トム、エマ、ルカ。
彼らが、清浄亭の「第一期生」だった。
「今日から、本格的な訓練を始める」
洗一は、四人の顔を見回した。
「お前たちには、クリーニングの全工程を教える。受付、検品、洗浄、仕上げ——全てだ」
トムが、無言で頷いた。エマは緊張した面持ちで、ルカは少し不安げな顔をしている。
セラだけが、落ち着いた表情だった。彼女は、この一ヶ月で最も成長した人間だ。
「まず、基本から教える」
洗一は、カウンターに置かれた依頼品——汚れたシャツ——を手に取った。
「クリーニングとは何か。お前たちは、どう思う?」
沈黙が流れた。
やがて、エマが恐る恐る口を開いた。
「汚れを——落とすこと、ですか?」
「それも正解だ。だが、半分だけだ」
洗一は、シャツを広げて見せた。
「汚れを落とすだけなら、誰でもできる。水に浸けて、こすれば、表面の汚れは落ちる」
四人が、無言で聞いている。
「だが、それだけでは駄目だ。俺たちの仕事は——『元の状態に戻す』ことだ」
洗一は、シャツの襟を指さした。
「この汚れを落としても、生地が傷んだら意味がない。色が褪せたら意味がない。形が崩れたら意味がない」
彼は、四人の目を順に見つめた。
「汚れを落とし、かつ、品物を傷めない。その二つを両立させることが——クリーニングの本質だ」
最初の訓練は、検品だった。
「検品は、全工程の基礎だ。ここで間違えると、後の全てが狂う」
洗一は、作業台に十着の衣類を並べた。
シャツ、ズボン、スカート、コート、革のベスト、絹のスカーフ——様々な素材、様々な汚れ。
「一着ずつ、検品してみろ。素材、汚れの種類、既存のダメージ——見つけたことを、全て報告しろ」
四人が、それぞれ衣類を手に取った。
セラは、手慣れた様子で検品を進めている。彼女は既に、基本的な検品技術を習得していた。
トムは、無言で衣類を観察している。彼の手つきは丁寧で、細部まで見落とさない。
エマは、少し戸惑っている様子だった。彼女は社交的な性格で、接客には向いているが、こういった黙々とした作業は得意ではないのかもしれない。
ルカは——手が震えていた。
「ルカ」
洗一が声をかけると、ルカはビクッと体を震わせた。
「力を抜け。緊張しすぎだ」
「す、すみません……」
「謝る必要はない。最初は誰でもそうだ」
洗一は、ルカの隣に立った。
「いいか、検品で一番大事なのは——観察することだ。見て、触って、匂いを嗅いで。五感を全部使え」
ルカは、深呼吸をして、再び衣類を手に取った。
今度は、少し落ち着いた様子だった。
一時間後、検品の結果を確認した。
「セラ——全問正解だ」
セラは、安堵したように息を吐いた。
「トム——一つだけ見落としがある。このコートの裏地、見てみろ」
トムが、コートを裏返した。
「……ほつれ、ですか」
「ああ。縫い目が緩んでいる。これを見落としたまま洗浄すると、さらにほつれが広がる」
トムは、無言で頷いた。彼の目には、悔しさが浮かんでいた。
「エマ——三つ見落としがある。素材の判定も、一つ間違えている」
エマの顔が、沈んだ。
「ごめんなさい……」
「謝るな。見落としは、経験で減らせる。大事なのは、どこを見落としたかを覚えておくことだ」
「はい……」
「ルカ——五つ見落としがある。だが、一つだけ、俺も見落としていた点を見つけた」
ルカが、驚いた顔で洗一を見た。
「このベストのボタン——よく見ると、一つだけ色が違う。過去に付け替えられている」
洗一は、ボタンを指さした。
「これは、検品の報告書に記載すべき情報だ。返却後に『ボタンが違う』というクレームを防げる」
ルカの目が、わずかに輝いた。
「やればできる。自信を持て」
昼食後は、洗浄の訓練だった。
「洗浄には、三つの方法がある」
洗一は、水槽の前に立った。
「一つ目は、水洗い——ランドリーだ。水と洗剤で洗う、最も基本的な方法。汗や泥など、水に溶ける汚れに効果的だ」
洗一は、汚れたシャツを水槽に浸けた。
「二つ目は、溶剤洗い——ドライクリーニングだ。水ではなく、油性の溶剤を使う。油汚れや、水に弱い素材に適している」
洗一は、【溶剤生成】で魔力溶剤を精製してみせた。
四人の目が、驚きで見開かれた。
「三つ目は、複合処理——ウェットクリーニングだ。水洗いとドライクリーニングの両方を組み合わせる。最も難度が高いが、最も効果的でもある」
洗一は、振り返った。
「この世界には——さらに、もう一つの方法がある」
「もう一つ……?」
セラが、首を傾げた。
「穢れの浄化だ」
洗一は、【汚染鑑定】を発動した。
視界に、作業場内の穢れが浮かび上がる。——ほとんど検出されない。この場所は、清潔に保たれている。
「穢れは、通常の洗浄では落とせない。魔力を使った特殊な処理が必要になる」
「それは——セイイチさんにしか、できないんですか?」
トムが、静かに訊いた。
「今のところはな。だが——将来的には、お前たちにも教える」
四人の目が、驚きで見開かれた。
「穢れの浄化は、この世界で最も価値のある技術だ。それを身につければ、お前たちは——どこでも生きていける」
夕方、洗一は一人で作業場に残っていた。
騎士団から預かった儀礼用甲冑のサンプル——ガルディスが残していった一着——を、改めて分析していた。
【汚染鑑定】が起動する。
——対象:儀礼用甲冑(騎士団正装)
——素材:鋼鉄(ミスリル含有)、革(内張り)、布(装飾部分)
——汚染:瘴気(中濃度)。金属部分に浸透。革と布は軽度。
——特記:甲冑全体に微量の魔力付与。防御性能に影響。
複合素材だった。
金属、革、布——それぞれ異なる処理が必要になる。しかも、魔力付与されている。間違った処理をすれば、防御性能を損なう可能性がある。
百二十着。
これを、一ヶ月で処理する。
一日四着のペースだ。
五人で分担すれば——一人あたり、一日に0.8着。
だが、新人たちには、まだ任せられない。少なくとも、最終的な穢れの浄化は、洗一自身がやる必要がある。
となると——前処理(金属の磨き、革と布の洗浄)を新人に任せ、穢れの浄化は洗一が一括で行う。
分業。
それが、唯一の解決策だった。
「セイイチさん」
セラの声が、背後から聞こえた。
「まだ、起きてたのか」
「眠れなくて……」
セラは、作業場に入ってきた。
「今日の訓練——私、ちゃんとできてましたか?」
「ああ。全問正解だったろう」
「でも——他の三人に比べたら、私は先に始めてるから。当然っていうか……」
「当然じゃない」
洗一は、甲冑から目を離さずに言った。
「お前は、一ヶ月前は何もできなかった。字もろくに読めなかった。それが、今では検品を完璧にこなせる」
「……」
「成長は、比較するものじゃない。昨日の自分と、今日の自分を比べろ。それだけでいい」
セラは、しばらく黙っていた。
やがて、小さな声で言った。
「私——セイイチさんみたいになれますか」
「俺みたいに?」
「はい。汚れを見て、すぐにわかる。どうすれば落とせるか、全部わかる。そういう——職人に」
洗一は、ようやくセラの方を向いた。
「なれる」
断言した。
「才能は——お前にはある。あとは、経験だ。経験を積めば、俺と同じことができるようになる」
「本当ですか……?」
「嘘は言わない」
洗一は、セラの目を見据えた。
「だが、時間はかかる。俺は三十年かけて、今の技術を身につけた。お前には——十年で同じレベルに達してもらう」
セラの目が、わずかに見開かれた。
「十年……」
「長いか?」
「いえ——」
セラは、首を振った。
「十年なら——頑張れます」
その声には、決意が込められていた。
「なら、明日から、さらに厳しくする。覚悟しておけ」
「はい」
セラは、頭を下げた。
「おやすみなさい、セイイチさん」
「ああ。おやすみ」
セラが去った後、洗一は再び甲冑に向き合った。
十年。
セラが一人前になるのに、十年。
だが——この世界には、その時間がないかもしれない。
神が言っていた。百年を待たずに滅ぶ、と。
穢れは——広がっている。
この甲冑に染み込んだ瘴気も、その一端だ。
俺は——何をすべきなのか。
汚れを落とす。一着ずつ、一人ずつ。
それしか、俺にはできない。
だが——それで、世界を救えるのか?
答えは、まだ見えなかった。
翌日から、訓練は本格化した。
朝六時に起床。水槽の水を入れ替え、作業場の掃除。
七時から、座学。洗一が作成したマニュアルを使い、クリーニングの理論を教える。
——汚れの分類。油溶性、水溶性、タンパク系、タンニン系。それぞれの特性と、処理法。
——素材の分類。布、革、金属。それぞれの強度と、適した洗浄法。
——穢れの分類。瘴気、呪い、腐敗。それぞれの危険度と、浄化法。
九時から、実技。実際の依頼品を使った、検品と洗浄の訓練。
昼食を挟んで、午後は応用訓練。シミ抜き、仕上げ、梱包。
夕方五時に訓練終了。だが、希望者は残って自主練習ができる。
セラは、毎日残った。
トムも、黙って残ることが多かった。
エマとルカは、最初は定時で帰っていたが、三日目からは二人も残るようになった。
「セイイチさん——質問があります」
訓練五日目の夜、エマが手を挙げた。
「なんだ」
「この——ポケットチェックって、なんでこんなに重要なんですか?」
洗一は、頷いた。
「いい質問だ」
彼は、作業台の上に、いくつかの小物を並べた。
ペン、コイン、紙くず——そして、小さな石。
「前の世界——俺がいた場所——では、ポケットの中身を確認しないと、こういうものが洗濯機に入る」
「それで?」
「ペンが入っていると、インクが漏れて、他の衣類まで汚れる。コインが入っていると、洗濯機が傷む。紙くずは——繊維に絡みついて、取れなくなる」
四人が、頷いた。
「この世界では——もっと危険なものが入っていることがある」
洗一は、小さな石を手に取った。
「これは、先週の依頼品から出てきたものだ」
【汚染鑑定】を発動する。
——警告:呪術汚染検出
——分類:接触型呪い(軽度)
——危険度:低い(長時間接触で発症)
「呪いの石だ。持ち主は——多分、気づいていなかった」
四人の顔が、青ざめた。
「もしこれを見落として、洗浄工程に入れていたら——どうなったと思う?」
沈黙。
「最悪の場合、呪いが他の衣類に移染する。一着の見落としが、数十着の被害になる」
洗一は、石を布で包んだ。
「だから、ポケットチェックは徹底しろ。指一本入る隙間があれば、必ず確認しろ。これは——命を守るための作業だ」
四人が、真剣な顔で頷いた。
訓練二週目、洗一は「分業体制」の試行を始めた。
「今日から、工程ごとに担当を分ける」
洗一は、ホワイトボード——ゴルドが作ってくれた木製の板——に、図を描いた。
「受付・検品——セラとエマ。洗浄——トムとルカ。仕上げ・引渡——全員で交代」
「穢れの浄化は——?」
セラが訊いた。
「俺が担当する。当面は」
洗一は、四人の顔を見回した。
「この分業体制は、騎士団の依頼に対応するためのものだ。百二十着の甲冑を、一ヶ月で処理する」
「百二十着——」
ルカが、顔を青ざめさせた。
「一日四着か、五着のペースだ。一人では無理だが、五人なら——できる」
「本当に——できるんですか?」
エマが、不安げな声で訊いた。
「やるんだ」
洗一は、断言した。
「騎士団の依頼を完遂できれば、清浄亭の評判は王国中に広まる。そうなれば——お前たちの未来も、開ける」
四人が、顔を見合わせた。
「俺は——お前たちを信じている。だから、この仕事を任せる」
沈黙が流れた。
やがて、セラが口を開いた。
「やります」
その声は、静かだが、力強かった。
「私——セイイチさんを、信じます」
トムが、無言で頷いた。
エマが、少し震える声で言った。
「私も——やります」
ルカが、深呼吸をしてから言った。
「俺も——頑張ります」
洗一は、四人の顔を見つめた。
孤児だった彼ら。誰にも期待されず、どこにも居場所がなかった彼ら。
今、彼らは——仲間になろうとしている。
「よし。じゃあ——始めるぞ」
訓練三週目、ガルディスが再び訪れた。
「進捗は、どうだ」
「順調です。予定通り、来週から本格的な処理を開始できます」
洗一は、拡張された作業場を案内した。
「四人の弟子を雇いました。分業体制を敷いて、効率的に処理します」
ガルディスは、作業場を見回した。
「……見事だ」
その目には、感嘆の色が浮かんでいた。
「一ヶ月前は、小さな空き家だったと聞いている。それが——」
「必要に迫られただけです」
「必要に迫られて、これだけのことができる人間は——そういない」
ガルディスは、洗一の目を見据えた。
「お前は——何者だ?」
「……何者、とは」
「ただの職人ではない。戦略がある。組織を作る能力がある。そして——穢れを落とせる」
洗一は、しばらく黙っていた。
何者か。
正直に答えるなら——異世界から来た、元クリーニング工場の工場長だ。
だが、それを言って、信じてもらえるだろうか。
「俺は——汚れを落とす職人です。それ以上でも、以下でもない」
ガルディスは、しばらく洗一の顔を見つめていた。
やがて、かすかに笑った。
「……いいだろう。詮索はしない」
彼は、懐から書類を取り出した。
「これは——騎士団からの正式な発注書だ。百二十着の儀礼用甲冑、瘴気浄化処理」
洗一は、書類を受け取った。
「来週、甲冑を運び込む。処理完了後、残金を支払う」
「承知しました」
ガルディスは、踵を返した。
だが、出口で立ち止まり、振り返った。
「清水洗一——お前の仕事ぶりを、俺は見ている。期待を裏切るな」
「裏切りません」
ガルディスは、頷いて去っていった。
その夜、洗一は一人で作業場に残っていた。
発注書を、何度も読み返していた。
百二十着。金貨五十枚の前払い。残金は——金貨百枚。
合計、金貨百五十枚。
これまでの売上を全て合わせても、これほどの金額にはならない。
成功すれば——清浄亭は、この地域で最大のクリーニング店になる。
失敗すれば——信用を失い、全てが終わる。
賭けだった。
だが、賭ける価値はある。
「セイイチさん」
セラの声が、背後から聞こえた。
「また起きてたのか」
「どうしても——気になって」
セラは、洗一の隣に座った。
「大丈夫——ですか?」
「何がだ」
「その——プレッシャー、みたいなもの。百二十着って、すごい数ですよね」
洗一は、少し考えてから答えた。
「プレッシャーは——ある。だが、怖くはない」
「怖くない……?」
「前の世界で——俺は、もっと大きなプレッシャーを経験してきた」
洗一は、窓の外を見た。月が、静かに輝いている。
「繁忙期には、一日に千着以上を処理した。スタッフは二十人。機械は十台以上。一つのミスで、数百着が台無しになる」
「千着——」
セラが、息を呑んだ。
「それに比べれば——百二十着は、少ない」
「でも——あのときは、機械があったんですよね? ここには——」
「ないな。だから、人の力でやる」
洗一は、セラの目を見た。
「お前たちの力で、やる」
セラは、しばらく黙っていた。
やがて、彼女は——笑った。
「……わかりました」
「何がわかった」
「セイイチさんは——私たちを、信じてるんですね」
「当然だ。信じられない人間を、雇ったりしない」
セラは、立ち上がった。
「じゃあ——明日から、もっと頑張ります。セイイチさんの期待に、応えられるように」
「ああ。頼りにしてる」
セラは、頭を下げて、去っていった。
洗一は、再び発注書に目を落とした。
百二十着。
一ヶ月。
五人の力で。
——やってやる。
洗一は、そう心に誓った。
【第6章・了】
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