博士とブランカ
Zaku
初めての想い
ふつふつと、何かが肌を駆け抜ける触感。
今、よく分からないどこかにいる。
瞳を開けようともがいてみるが、力が入らない。
まるでここが世界のすべてだと、全身を鎖に縛られた気分に陥る。
ふと、瞳が緩んだような気がした。
初めて開く瞼とともに流れ込んできたのは――諦念に満ちた光無き瞳だった。
◇
「おや、お目覚めのようだね」
開幕早々の刺激は、床の硬さと濡れた感覚。
そしてじゃらりと散ったガラス片が少々食い込んで痛い、だった。
「初めまして、アンダーソン君」
アンダーソンの視界に掌が差し出された。
それは何層にも渡る重厚で黒い色の布に巻かれた腕であり、肌を一切見せていなかった。
彼は腕の持ち主が誰なのか、視線を掌から上へと向ける。
そこには白衣に身を包んだ一人の女性がいた。
髪の毛は透き通るような銀髪。
冬の雪原に咲き誇る雪花のような美しさと誠実さをその人は備えていた。
きょとんとした表情で彼女は首を傾げる。
「おや、私に見惚れてしまったかな? 失敬。この見た目の都合上、対面する相手は選ぶ主義でね。
欲情する低俗な輩を見分ける良い術かと一時期思ってはいたんだが。それだと、このか弱い肉体はあっという間に蹂躙されてしまうだろう? だから外界と遮断されたここにずっと閉じこもってるんだ。
おっと失礼、生まれたばかりの君が私の見た目で欲情するなんてことは根本的に無理だった」
彼女が何を言っているのかさっぱりだった。
そもそも声の概念すら皆無のため、今のアンダーソンは、体の感覚に従うだけが取り柄だった。
そうこうしていると、胸の奥から次第に湧き上がってくるよく分からない
「ふぇ……おぎゃあっ!」
「おやおや、初対面の相手に泣かれると、私でも少々傷つくな。仕方ないね」
銀髪の女性は、ガラスと水で満ちた地面に足を踏み入れる。
そのままアンダーソンの腰と頭に手をやり、ひょいと持ち上げると腕の中で揺らしながらその頭を撫でる。
「傾国の美女顔負けの私に抱かれてるんだ。感激してほしいくらいだね」
涙と大声を周囲へと喚き散らしていたが、初めて全身に行き渡る夢心地な触感に慣れてくると、次第に泣き声は鎮まっていった。
「良い子だ、アンダーソン試作一号君。うーん、ちょっと長いし言うのが面倒だな」
すうすうと寝息を立てながら、薄っすらと開いたアンダーソンの瞳の先。
人差し指を顎に押し当て、しばらく思考に耽っている銀髪の女性。
相変わらず、アンダーソンには何なのかさっぱりだった。
誰かも分からない。
何をしたいのかも分からない。
生まれて初めて見た女性の姿を頭に焼き付けると、やがて視界はまどろみと共に闇へと飲まれていく。
「それなら、私がもっと良い名前をつけてあげよう」
世界が徐々に黒一色へと染まっていく。
その薄くなっていく意識の中、アンダーソンの耳にはひっそりとその声が響いてきた。
「ブランカ。私が最初に作った君には、その名が相応しい。確か意味は――」
◇
珈琲の香りが好きだ。
昨日までの空気が浸透しきった体に、朝の心構えを取り戻させてくれるからだ。
電子パネルに指を這わせ、博士の大好きな味と温度に設定すると、決定ボタンを押す。
ガリガリと、箱の中で音が反響する。
背部に詰まった豆が挽かれ、芳醇でコクのある匂いが漂ってくる。
それが下で待ち構えたカップの中へと抽出。
すべての工程が終わり、箱からカチッ、と開錠音が鳴る。
中のカップを取り出し、湯気の立つそれを盆の上に載せる。
ゆっくりと、こぼさないように廊下の階段を上がっていく。
慣れた手つきでドアノブに触れると、いつもの悲惨な光景が視界一杯に流れ込んできた。
「ぐあーっ! また失敗しちゃったー!」
椅子に腰かけた銀髪の女性が、机に乗った大量の書類を空中へと一斉に放り投げる。
宙を舞う書類の群体。
それらが一通り床に散らばる様を見る人物は――その身の丈には到底見合わない、腕が出ない長袖の白衣に身を包む少女。
ブランカは目の前で頭を抱える博士を見て、静かにため息を吐く。
「博士。珈琲を持ってきました」
「ああ、ありがとうブランカ。ごめんね、いつも変なところを見せちゃって」
「いえ、博士が朝一番に嘆いていることなんて、いつものことですから」
「ふふふ、知ってるかいブランカ。天才にも種類があるんだ。遅咲きか早咲きか。私の場合、それが後者なだけだよ」
「それってただの努力してる人ですよね。つまり博士は一般人なんですね」
「ははは、やはり君との会話はいつもユニークで面白いな」
ブランカは珈琲をこぼさないよう、そろりと足を動かす。
ふと、思い切り床が後ろへとスライドし、彼女は体勢を崩す。
先ほどの書類の一枚が視界にチラついた。
「「あ」」
ぱしゃり。
ぶちまけられた
ぽたぽたと、珈琲の雫が髪の毛や顎を伝って顔から床下に沁みを作っていった。
「…………」
「……博士、ごめんなさい。書類につまずきました」
とりあえず悪いと感じたら謝る。
物心ついた時に博士から教えてもらった教訓だ。
それを初めて実践してみるが、沈黙がここまでむずがゆいものだとブランカは知らなかった。
そうして瞳と心を右往左往していると、
「――ぷっ、あっはははははは!」
博士は腹を抱えてひーこら笑い声を振り撒きながら、机の上をバシバシと叩いている。
「――博士、今朝の珈琲に笑い薬でも入っていましたか?」
「や、やめてくれ! 今君の口から何か言われたら……ぶっはははははは!」
再びの爆笑の渦。
何がそんなに可笑しいのか、ブランカにはちっとも分からなかった。
怒りの鉄拳のような制裁を受けるかと思っていたが、その真逆。
やがて笑い声が止むと、黒いグローブをまとった博士の掌が見えた。
差し出された博士の手をしばらく眺め、ブランカは白衣の袖越しに彼女の手を取る。
立ち上がると、博士は地面に落ちていた書類――いろんな数式や研究結果などが事細かに書かれた――でゴシゴシと顔の茶色を拭き取っていく。
「これからやろうとしてた予定だけど、全部キャンセルすることにした」
博士の顔面が本来の肌色を取り戻すと、ブランカの方を見ながら彼女は言う。
「じゃあ博士、今日の予定は――」
「ブランカ、出かける支度だ。これからショッピングに行こう」
鼻歌を歌いながら、博士は研究室の奥にある自室へとステップ。
つくづくこの人は何を考えているのか分からないなと、本日も博士について頭を悩ませるブランカであった。
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