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 深夜の二時を過ぎた頃、雨音は少しずつ、遠い鳴動へと変わっていった。

 高架下を吹き抜ける風が、濡れた肌から容赦なく熱を奪っていく。流花の体が時折、小さく痙攣するように震えているのが隣にいてもわかった。

「……寒いよね」

「さむい。でも、大丈夫。いつも、こうだから」

 いつも。

 彼女にとっての「いつも」は、僕には想像もできないほど過酷なものなのだろう。

 僕は迷った末に、着ていたパーカーを脱いで彼女の肩にかけた。

「あ……」

「いいから。僕は、下にシャツを着てる」

 彼女は僕のパーカーの袖を掴み、その匂いを嗅ぐように鼻を寄せた。

 

「律のにおいがする。……変なにおい。紙みたいな、インクみたいな」

「勉強ばっかりしてたからかな。……嫌なにおい?」

「ううん。しらないにおい。……落ち着くにおい」

 流花は僕のパーカーに包まり、少しずつ、僕の方へと体を寄せてきた。

 彼女の肩が僕の腕に触れる。

 細くて、折れそうなほど華奢な骨の感触。

 学校の保健の授業で習った「人体の構造」なんて、何の役にも立たない。ただ、触れている場所から伝わってくる微かな鼓動が、彼女が今ここで、僕と同じ時間を共有していることを証明していた。

「律。……あしたも、ここにいる?」

「……え?」

「あしたになったら、律はあの『ぜんぶ』のところへ、帰っちゃうの?」

 彼女の問いは、鋭い針のように僕の胸に刺さった。

 帰る。

 あの、酸素の薄い家へ。母さんの支配する、完璧な地獄へ。

 

「……帰りたくない」

 

 本音だった。

 ここには何もない。コンクリートの床と、泥水と、雨の匂いだけ。

 けれど、ここには「僕が僕でなければならない理由」がない。

「じゃあ、ここにいればいいよ。……私、なにもないけど。律に、雨の音の聴き方なら教えられる」

「雨の音の聴き方?」

「うん。こっちの音は、電車の音。あっちの音は、誰かが傘を叩いてる音。……ほら、耳をすませて」

 流花に促されるまま、僕は目を閉じ、暗闇の中に意識を広げた。

 今まで「ノイズ」でしかなかった雨音が、不思議と立体的な層を持って聞こえ始める。

 遠くで走るトラックの飛沫。高架から滴り落ちる規則的な水滴。そして、隣で聞こえる、流花の穏やかな呼吸。

 

 それは、どんなクラシック音楽よりも美しく、僕の心を静めていった。

 

「律……」

 

 流花の声が、意識の隅に溶け込んでいく。

 睡魔が、氷のように冷たかった僕の意識を、ゆっくりと微睡みの中へと誘っていく。

 

「……明日も、ここにいるよ」

 

 僕は、守れるかどうかもわからない約束を口にした。

 けれど、その言葉を発した瞬間、僕の中で何かが決定的に壊れ、そして新しく組み上がったような気がした。

 

 翌朝、僕たちを待ち受けているのが「保護」という名の連行であれ、親の怒声であれ。

 今この瞬間の、雨の匂いと流花の体温だけは、誰にも奪わせないと、僕は意識が途切れる寸前に強く、強く願った。

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