4
深夜の二時を過ぎた頃、雨音は少しずつ、遠い鳴動へと変わっていった。
高架下を吹き抜ける風が、濡れた肌から容赦なく熱を奪っていく。流花の体が時折、小さく痙攣するように震えているのが隣にいてもわかった。
「……寒いよね」
「さむい。でも、大丈夫。いつも、こうだから」
いつも。
彼女にとっての「いつも」は、僕には想像もできないほど過酷なものなのだろう。
僕は迷った末に、着ていたパーカーを脱いで彼女の肩にかけた。
「あ……」
「いいから。僕は、下にシャツを着てる」
彼女は僕のパーカーの袖を掴み、その匂いを嗅ぐように鼻を寄せた。
「律のにおいがする。……変なにおい。紙みたいな、インクみたいな」
「勉強ばっかりしてたからかな。……嫌なにおい?」
「ううん。しらないにおい。……落ち着くにおい」
流花は僕のパーカーに包まり、少しずつ、僕の方へと体を寄せてきた。
彼女の肩が僕の腕に触れる。
細くて、折れそうなほど華奢な骨の感触。
学校の保健の授業で習った「人体の構造」なんて、何の役にも立たない。ただ、触れている場所から伝わってくる微かな鼓動が、彼女が今ここで、僕と同じ時間を共有していることを証明していた。
「律。……あしたも、ここにいる?」
「……え?」
「あしたになったら、律はあの『ぜんぶ』のところへ、帰っちゃうの?」
彼女の問いは、鋭い針のように僕の胸に刺さった。
帰る。
あの、酸素の薄い家へ。母さんの支配する、完璧な地獄へ。
「……帰りたくない」
本音だった。
ここには何もない。コンクリートの床と、泥水と、雨の匂いだけ。
けれど、ここには「僕が僕でなければならない理由」がない。
「じゃあ、ここにいればいいよ。……私、なにもないけど。律に、雨の音の聴き方なら教えられる」
「雨の音の聴き方?」
「うん。こっちの音は、電車の音。あっちの音は、誰かが傘を叩いてる音。……ほら、耳をすませて」
流花に促されるまま、僕は目を閉じ、暗闇の中に意識を広げた。
今まで「ノイズ」でしかなかった雨音が、不思議と立体的な層を持って聞こえ始める。
遠くで走るトラックの飛沫。高架から滴り落ちる規則的な水滴。そして、隣で聞こえる、流花の穏やかな呼吸。
それは、どんなクラシック音楽よりも美しく、僕の心を静めていった。
「律……」
流花の声が、意識の隅に溶け込んでいく。
睡魔が、氷のように冷たかった僕の意識を、ゆっくりと微睡みの中へと誘っていく。
「……明日も、ここにいるよ」
僕は、守れるかどうかもわからない約束を口にした。
けれど、その言葉を発した瞬間、僕の中で何かが決定的に壊れ、そして新しく組み上がったような気がした。
翌朝、僕たちを待ち受けているのが「保護」という名の連行であれ、親の怒声であれ。
今この瞬間の、雨の匂いと流花の体温だけは、誰にも奪わせないと、僕は意識が途切れる寸前に強く、強く願った。
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