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「増える……っていうか、空から降ってきたのが、そこに溜まってるだけだよ。当たり前じゃないか」

 僕は戸惑いながらも、教え諭すような口調で答えた。自分でも驚くほど、声が震えていた。

 彼女は僕の答えを聞くと、「ふーん」と喉を鳴らして、再び水たまりを見つめた。

「たまってる。……じゃあ、雨が止めば、なくなるの?」

「そうだよ。太陽が出れば乾くし、地面に染み込んだりもする。……君、そんなことも知らないの?」

 僕の問いに、彼女は答えなかった。ただ、水たまりの表面に落ちる雫がつくる同心円を、飽きることなく眺めている。

 

 よく見ると、彼女の周囲には荷物らしきものが一切なかった。傘も、鞄も、靴すら履いていない。泥に汚れた裸足が、冷たいコンクリートの上に無造作に置かれている。

 

「君……名前は? 家はどこなの? こんな時間に、一人で……」

「なまえ、は」

 

 彼女は、初めて僕の目を真っ直ぐに見た。

 その瞳には、光がなかった。絶望しているのではない。最初から、光というものを知らないような、空虚な深淵。

 

「……るか、って、よばれてた気がする。漢字は、しらない」

「ルカ……?」

「家はないよ。ここは、雨が当たらないから、いい場所」

 

 家がない。

 その言葉の重みに、僕は二の句が継げなくなった。

 僕が「監獄」と呼び、逃げ出してきたあの場所は、彼女のような存在からすれば、想像もつかないほどの富と安全に満ちた場所なのだろう。

 けれど、目の前の彼女――流花は、不幸そうには見えなかった。

 ただ、そこに「存在している」だけ。

 誰の期待も背負わず、誰の視線も気にせず、雨が降れば増える水たまりを不思議に思う。その圧倒的な「自由」が、僕にはあまりにも眩しく、そして恐ろしく感じられた。

 

「君は? どこから来たの? なんで、そんなに泣きそうな顔をしてるの?」

 

 今度は、彼女が僕に問いかけた。

 

「僕は……」

 

 答えようとして、言葉が詰まった。

 模試の判定がどうだとか、母さんに管理されているだとか。そんなことを彼女に話すのが、ひどく滑稽で、恥ずべきことに思えたからだ。

 

「……逃げてきたんだ。全部、嫌になって」

「にげてきた。どこから?」

「家。学校。……この、全部」

 

 僕は自分の手を広げて、自分を取り囲む目に見えない檻を示すように言った。

 流花は少しだけ首を傾げ、それから僕の隣まで這い寄ってきた。

 

 彼女が動くたびに、古い布が擦れるような音と、微かな雨の匂いがした。

 

「よくわからないけど。ここにいればいいよ。ここは、誰にも見つからない場所だから」

 

 彼女が僕の腕に、そっと手を触れた。

 驚くほど、冷たかった。

 けれど、その冷たさは母さんの手の熱とは違い、僕の心の火照りを静かに鎮めてくれるような気がした。

 

「……お腹、空いてない?」

 

 僕はポケットに手を突っ込み、家から持ち出した財布を確かめた。

 

「おなか、すいた。……なにか、あるの?」

 

 流花の瞳に、初めて小さな光が灯った。

 それは知識でも期待でもなく、生きるための本能的な「欲」の光だった。

 

 僕は立ち上がった。足首の痛みは、もう消えていた。

 

「ちょっと待ってて。……すぐに、戻るから」

 

 土砂降りの外へ、僕は再び足を踏み出した。

 今度は、逃げるためじゃない。

 生まれて初めて、自分の意志で、誰かのために「何か」をするために。

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