仮面の蠢動

臥竜

仮面の蠢動

 受賞の知らせは、雨の降る朝に届いた。携帯電話の画面に表示された編集者の名前を見た瞬間、胸の奥がひどく静かになったのを彼はよく覚えている。喜びよりも先に、音が消えたような感覚があった。


「おめでとうございます。満場一致です」


電話口の声は弾んでいた。だが男、佐倉真人は相槌を打ちながら、机の端に置かれたノートパソコンから目を逸らしていた。黒い画面には、昨夜閉じたままのチャットウィンドウが残っている。最後の入力は、短い一文だった。この物語の結末として、最も静かで、読者に余韻を残す形を提案してほしい。彼は通話を終え、しばらく椅子に座ったまま動けなかった。雨音だけが、現実をつなぎとめるように窓を叩いている。


文学賞受賞作家。


その肩書きが、自分の名前と結びつく感覚が、どうしても想像できなかった。会見の日、佐倉は何度も同じ質問を受けた。


「この作品は、どのように生まれたのですか」


「ご自身の体験が反映されているのでしょうか」


「今後の創作について、どのような展望を?」


彼は無難に答えた。孤独、観察、言葉への執着。作家なら誰でも語るような言葉を、丁寧に選んで並べた。だが、フラッシュが焚かれるたび、彼の脳裏には別の光景が浮かんでいた。


 深夜のアパート。冷めたコーヒー。締切まで残り三日と表示されたカレンダー。そして、画面に向かってキーボードを叩く自分ではない何かの思考。最初は単なる興味だった。


「行き詰まったときの相談相手になればいい」


そう思って、彼はAIを使い始めた。人物設定の矛盾。展開の停滞。比喩表現の候補。問いを投げると、即座に複数の可能性が返ってくる。その中から選び、削り、書き直すのは自分だ。だから、これは補助にすぎない。そう取り繕った。だが、いつからだろう。


「どう書くか」ではなく、「どう問いを立てるか」に、彼の思考がすり替わっていったのは。選考委員の一人が、会見後に声をかけてきた。


「佐倉さんの作品には、作為の匂いがない。今の時代、これはとても貴重です」


作為がない。


その言葉は、褒め言葉として彼の胸に届かなかった。控室に戻ると、佐倉は鞄からノートパソコンを取り出し、無意識に電源を入れかけて、やめた。

代わりに、スマートフォンを取り出し、ニュースサイトを開く。


AIと創作の境界線

人間の創造性はどこへ向かうのか


関連記事が、まるで彼を名指しするように並んでいた。


「先生はAIを使っていますか?」


いつか必ず聞かれる。その問いが、眼前に迫っているのを感じた。



 受賞後、生活は一変した。原稿依頼、講演、対談などひっきりなしに仕事が舞い込み時間は奪われ、期待は積み上がる。次回作の話が出たとき、編集者は笑顔で言った。


「前作以上のものを、当然、期待しています」


当然という言葉は鉛のように重かった。机に向かい、白紙の原稿用紙を広げる。だが何も浮かばない。以前なら焦りながらも書き始めていた。だが今は、最適解を知ってしまった。


AIに聞けばいい。


テーマを投げ、プロットを組み、文章のトーンを整えれば、破綻のない作品は作れる。それが、できてしまう。だからこそ、指が動かなかった。


もし、AIを使わなければ。

もし、凡作しか書けなかったら。


それでも、それは自分の作品と言えるのだろうか。

ある夜、佐倉は再びAIの画面を開いた。だが、すぐには入力しなかった。代わりに、問いを考え続けた。


どんな質問なら、自分は楽になるのか。

どんな質問なら、自分の責任を薄められるのか。


気づいたとき、彼は心の底から愕然とした。自分は、物語ではなく、免罪符を求めている。キーボードから手を離し、深く息を吐く。


「今日は書かない」


そう決めて画面を閉じた。翌日から彼は奇妙な習慣を始めた。毎日、必ず二時間、何も参考にせず何も調べずただ書く。書けない日もあった。意味のない文章を延々と打ち、すべて消す日もあった。だが、その苦しさの中で、かつて感じていた感覚が、少しずつ蘇ってきた。書くことは、常に不完全で、孤独で、報われない。それでも、だからこそ自分は書いていたのだと。数か月後、佐倉は一本の短編を書き上げた。荒削りで、技巧も足りない。だが、そこには確かに、彼自身の迷いと恐怖が刻まれていた。編集者に渡すと、しばらくして返事が来た。


「正直に言います。前作ほどの完成度ではありません」


佐倉は、静かに頷いた。


「でも、不思議と印象に残る。これは……佐倉さんにしか書けない作品ですね」


電話を切ったあと、彼は窓の外を見た。薄い光が街路を照らしている。文学賞の盾は今も本棚の奥にあって輝いていた。それを誇りに思える日は、まだ来ないかもしれない。いいや、永遠に来ないだろう。それでも彼は知っている。問いに答えてくれる存在がなくても、答えの出ない問いを抱えたまま書くことが、自分が選んだ唯一の創作だということを。



 彼は今日も机に向かう。沈黙の中で自分自身にだけ聞こえる声に耳を澄ませながら。


それでも、君は書くのか?


答えはまだ、文章にならない。だが、その不完全さ、未完成こそが彼の文学だった。

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