第八話(裏):幸福の防衛

 深夜の宿の屋上。冷たい月光が、三人の影を鋭くアスファルトに刻んでいる。  


 北の空には、アルヴィンが言った通り「欠けた月」が不吉に昇り始めていた。世界を侵食するような不快な魔力の脈動。だが、屋上の空気はそれとは別の、静謐な圧に満たされている。


「……ねえ、アルヴィン君。聞いたわね」  


 ネアが、夜風にさらさらと金髪をなびかせ、月を見上げたまま言った。その声には、昼間の愛らしさはなく、ただ透き通った論理だけが宿っている。


「カイルさんは『ここに留まる』と言ったわ。私たちは彼の仲間。だから、私たちもここに留まる。……それが全てよ」


「……お前ら、本気かよ」  


 アルヴィンは、迫りくる災厄の気配に震える拳を握りしめた。


「魔王だぞ。概念そのものの汚染なんだ。お前らがいかに……その、規格外だとしても、おっさんを巻き込めば、あいつの『普通』は木っ端微塵になるんだぞ」


「……だから、貴方がいるのでしょう?」  


 ネアがゆっくりとアルヴィンに視線を移した。その瞳は、深淵のように暗く、それでいて決意に満ちている。


「いい、アルヴィン君。私たちは『新人冒険者』なの。魔王なんて強大な存在、私たちにはどうすることもできない。……それは、勇者である貴方の役目よ」


「……なっ」


「……魔王、邪魔」  


 ルルが、感情を排した声で短く付け加える。


「……カイルとの、歩幅。乱されるの、嫌い。……アルヴィン、さっさと、消して」


 アルヴィンは、彼女たちの歪な、けれど純粋すぎる「人間としての覚悟」に言葉を失った。  


 彼女たちは戦わないのではない。カイルの隣で、カイルと同じ歩幅で生きるために、自らの全能を封印し続けると決めているのだ。彼女たちにとって、魔王をその手で滅ぼすことは、カイルと共に歩む「人間」としての自分たちを殺すことと同義なのだ。


「……英雄になんて、なって欲しくないのよ」  


 ネアが、寂しげに、けれど確信を持って微笑む。


「彼が世界を救う必要なんてない。彼はただ、市場で美味しいものを探し、私たちの不器用を笑い、今日のように温かいスープを囲んでくれればそれでいい。……そのために、貴方が『勇者』という舞台装置を全うしなさい」


 アルヴィンは、自分が守るべきものの正体を知った。  


 王都で教わった「世界平和」なんていう抽象的な言葉ではない。  


 今、目の前で、神としての誇りさえ投げ打って「一人の男の隣にいたい」と願う、この恐ろしくも健気な少女たちの嘘。そして、それを信じて疑わない、お人好しなおっさんの穏やかな日常。  


 それを守り抜くことこそが、真の意味で勇者に課せられた使命なのだと。


「……はは、とんだ貧乏クジだぜ」  


 アルヴィンは自嘲気味に笑い、聖剣の柄を強く握りしめた。


「おっさんの笑顔を守るために、魔王を始末しろ、か。……いいぜ。あんたらがそこまで『人間』でいたいってんなら、俺がその泥を全部被ってやるよ」


「ええ。期待しているわ、勇者様」  


 ネアが満足げに目を細める。


「カイルさんが、明日の朝も『いい天気だね』と笑えるように。……この街に、血の匂い一つ残さないでちょうだい」


 三人の視線は、再び北の空へと向けられた。  


 魔王という絶望。だが、この屋上にいるのは、それを「日常の邪魔者」と断じる二人の超越者と、その嘘を守るために真の覚悟を決めた一人の少年。


 夜明けは近い。  


 それは、少年の『正義』が、一人の凡人の『普通』を守るための盾へと変わる、静かなる戦いの始まりだった。

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