第七話(裏):因果の清算

 宿の一室、揺れる蝋燭の光が、眠るカイルの横顔を淡く照らしていた。  


 ルルがその傍らに座り、カイルの傷口にそっと手をかざしている。彼女の指先から溢れる微かな光が、裂けた皮膚を繋ぎ、内出血を霧散させていく。


「……おい、そこまでにしておけ。やりすぎだ」  


 壁際で腕を組んでいたアルヴィンが、低い声で釘を刺した。


「これ以上治したら、明日あのおっさんが起きた時、自分の体の異常に気づいちまう。……『一晩で完治した』なんて、凡人の回復力じゃありえねえんだよ」


 ルルは不満げに眉をひそめたが、アルヴィンの指摘を否定はしなかった。


「……痛そう。……嫌」


「分かってる。だが、あのおっさんが必死に守り抜いたのは、あんたたちとの『日常』なんだ。それを台無しにするな」


 アルヴィンの言葉に、部屋の隅で闇に溶けていたネアが、ゆっくりと顔を上げた。  彼女の周囲では、物理的な温度とは無関係な「寒気」が渦巻いている。


「分かっているわ。……だから、あいつの魂も、返してあげたわ」  


 ネアの言葉に、アルヴィンは背筋が凍るのを感じた。  


 先程まで、この部屋の空気は「何か」を押し潰すような凄まじい圧力に満ちていた。彼女たちは、カイルを傷つけた盗賊の首領の魂を、輪廻の円環から引きずり出し、永遠の虚無へと突き落とそうとしていたのだ。


「……踏みとどまったのか?」


「ええ。……そんなことをすれば、私たちはもう、あの人が守ってくれた『ただの女の子』ではいられなくなる。人であることを逸脱した行いは、カイルさんの隣に座る権利を自ら捨てるのと同じことだわ」


 ネアが握りしめていた拳を解くと、部屋を支配していた異様な圧迫感が霧散した。  カイルに血を流させた怒りは、今も彼女たちの胸中で燃え盛っている。だが、それ以上に彼女たちが恐れたのは、カイルの目に映る自分が「化け物」に変わってしまうことだった。


「……お前ら、なんであのおっさんがあんなになるまで、手を出さなかったんだ」  


 アルヴィンは、ずっと抱いていた疑問を口にした。


「お前らの力があれば、あんな連中、指一本触れさせずに消せただろう」


「……できない。……そんなこと」  


 ルルが、カイルの包帯を巻き直しながら、消え入りそうな声で答える。


「……カイルは、私たちが弱いと思っている。……助けが必要な、新人だと思っている。……もし私たちが力を見せたら、カイルの居場所がなくなる」


「彼は、私たちのために命を懸けてくれた。……その尊い誤解を、私たちが壊すわけにはいかないのよ」  


 ネアが、自嘲気味に微笑む。


「彼が傷つくのを見るのは、死ぬよりも辛い。けれど、彼が『守り抜いた』という誇りを持って明日を迎えられるなら、私たちはその傷さえも受け入れなければならない。……それが、私たちが選んだ『人間としての振る舞い』よ」


 アルヴィンは、深いため息をついた。  


 自分よりも圧倒的に強い存在が、自分を「守るべき弱者」として扱う。その不条理な献身を、彼女たちは狂おしいほどの愛を持って享受している。  


 この歪な均衡を守るために、彼女たちは神としての万能を捨て、泥にまみれ、時には愛する人の流血さえも「演出」として受け入れる。


「……狂ってるな。本当、救いようがねえよ。お前らも、あのおっさんも」  


 アルヴィンは、そう言い捨てて窓の外を向いた。  


 けれど、その声に蔑みはなかった。


「アルヴィン君。明日、カイルさんが起きたら、貴方の『聖剣の加護』のおかげで傷が軽く済んだとでも言っておいて。……貴方の功績にすれば、彼は納得するわ」


「……ああ、分かったよ。俺はもう、あんたらの嘘の共犯者だからな」


 アルヴィンは、聖剣の柄を強く握りしめた。  


 明日になれば、カイルは自分の幸運を笑い、二人の無事を心から喜ぶだろう。  


 その光景が、どれほど薄氷の上に成り立つ危ういものであるかを知っているのは、この部屋にいる三人だけだ。


 夜の帳が、静かに深まっていく。  


 カイルの寝顔を守るように、二人の超越者は再び「弱き少女」の仮面を被り、明日の朝に備えて意識を沈めていった。

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