閻魔大王の冬休み

琴坂伊織

第1話

 年に一度、閻魔大王は現世に降り、山奥の古民家で冬休みを過ごす。


 閻魔はこたつに入ったまま、ゆっくりと記憶を辿る。裁きの場で彼が見てきた無数の生、その中に埋もれた小さな罪たち。


 地獄に落とすほどではなかったが、かといってなかったことにもできない、心の棘のような罪。




 小学三年生の男の子。


 友達の消しゴムを勝手に使い、そのまま自分の筆箱にしまった。翌日、友達が困っている顔を見て、言い出せなくなった。


 そのまま一週間が過ぎ、一ヶ月が過ぎ、やがて少年は別の学校に転校していった。


 消しゴムは、ゴミ箱に捨てられた。


 少年は大人になり、家庭を持ち、平凡な人生を送った。そして老いて死んだ。閻魔の前に立ったとき、彼の魂は軽く、天秤は極楽の方に傾いた。


 だが閻魔は知っていた。


 その男が、人生の折々で、ふと小学生の頃の記憶を思い出していたことを。


 あの消しゴムのこと、友達の困った顔のこと。謝りたかった。でももう遅い。そう思いながら、心の奥に小さな棘を残したまま生きていたことを。


「……すまなかったな」


 閻魔は呟いた。裁きの場では、その棘を取り除くことはできなかった。善行と悪行を量り、結果を告げる。それが閻魔の仕事だ。小さすぎる罪は、帳簿には載らない。


 それでも、確かにそこにあった。


 閻魔は立ち上がり、棚から和紙と筆を取り出した。墨をすり、静かに筆を走らせる。


『昭和四十二年三月、友の消しゴムを返せなかった少年の罪』




 次の夜、閻魔は別の記憶を辿った。


 今度は、ある中年の女性。夫との些細な喧嘩の後、意地を張って三日間口をきかなかった。夫の方から謝ってほしかった。自分は悪くない。そう思っていた。


 四日目の朝、夫は仕事に向かう途中で交通事故に遭い、帰らぬ人となった。


 女性は後悔に苛まれながら、それでも生き続けた。子どもを育て、孫の顔を見て、静かに人生を終えた。


 閻魔の前に立ったとき、彼女の善行は罪を上回り、魂は軽やかだった。


 だが閻魔は知っていた。


 彼女が最期まで、あの三日間のことを忘れられなかったことを。夫の背中を見送った朝の記憶が、何度も何度も蘇り、そのたびに胸を締め付けていたことを。


「……辛かっただろうな」


 閻魔は和紙に筆を走らせる。


『平成六年十一月、夫に謝れなかった妻の罪』


 和紙を重ね、また次の記憶へ。




 生きている間、ずっと心の片隅に残り続けた棘。


 それらをひとつひとつ、丁寧に和紙に記していく。




 冬休みも半ばを過ぎると、閻魔は別の作業を始める。


 今度は、生前に誰にも評価されなかった善行を思い出すのだ。


 ある老人は、雪の日に毎朝、誰にも頼まれていないのに近所の家の前を雪かきしていた。誰も気づかず、誰も感謝しなかった。老人は黙々と雪をかき、黙って家に戻った。


 ある母親は、近所の子どもが一人で泣いているのを見かけ、何も言わずに飴玉を一つ手渡した。子どもは名前も聞かず、母親も名乗らなかった。


 閻魔は、それらの小さな優しさを思い出す。裁きの場では評価される機会のなかった、名もなき善行。


 帳簿には載らず、天秤にも乗らなかった、それでも確かに存在した温かさ。


 和紙に筆を走らせる。


『昭和五十三年の冬、誰にも知られず雪かきをした老人の善行』


『令和元年の春、泣く子に飴玉をあげた母の善行』


 書き終えた和紙は、罪を記したものとは別に重ねていく。善と悪、二つの束が、こたつの脇で静かに積み上がっていった。




 ある夜、閻魔はこたつの中で足を組み替えながら、ふと自分の手を見つめた。


 人間の姿をとっているこの手。地獄では裁きの筆を握り、善悪を記録し、魂の行き先を告げる手。だが今、この手が書き留めているのは、裁けなかったものたちだ。


「なぜ、こんなことをしているのだろうな」


 閻魔は独りごちた。


 裁きの場では、すべてを明確にしなければならない。罪の重さを量り、言葉にし、記録に残す。


 曖昧なものは裁けない。


 小さすぎる罪も、名もなき善行も、帳簿には載せられなかった。


 でも——。


 閻魔は和紙の束を見つめた。罪と善、どちらも等しく、ここにある。裁かれなかったが、確かに存在した人の心の軌跡。


「それでも、確かにそこにあったのだ」




 冬休みも終わりに近づいたある夜、閻魔はついに和紙を火にくべ始めた。


 一枚ずつ、丁寧に囲炉裏へと入れていく。灰は煙となり、夜空へと溶けていった。


 閻魔は黙って、それを見送る。


 罪を記した和紙も、善を記した和紙も、等しく火にくべる。どちらも同じように光り、同じように灰になり、同じように空へと還っていく。


「これでいい」


 最後の一枚が灰になったとき、閻魔は小さく呟いた。




 翌朝、雪はやんでいた。


 山道を下る老人がいた。いつもなら黙々と歩くだけなのに、今朝はなぜか、道ですれ違った若者に声をかけた。


「気をつけて行きなさい。道が凍っているからな」


 若者は驚いたように老人を見たが、すぐに笑顔で答えた。


「ありがとうございます」


 老人は照れくさそうに頷き、また歩き出した。なぜあんなことを言ったのだろう。自分でもよく分からない。でも、悪い気分ではなかった。


 それが自分の心から生まれたものなのか、それとも冬の夜に燃えた和紙の灰が、どこかで胸に落ちたからなのか——誰にも分からない。


 ただ、その日の世界は、ほんの少しだけ優しかった。




 冬休みの終わりが近づくと、閻魔大王は古民家を丁寧に掃除する。


 地獄に戻れば、また裁きが始まる。善と悪を分け、罪に名を与え、魂の行き先を告げる日々。


 それは閻魔の仕事だ。誰かがやらねばならない、大切な仕事。


 でも閻魔は知っている。


 人の生は、帳簿に書けないもので満ちていることを。


 だから年に一度、閻魔は冬休みを取る。




 裁けなかった罪を思い出し、評価されなかった優しさを、静かに火にくべるために。

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閻魔大王の冬休み 琴坂伊織 @iori_k20

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