第2話「あの時の人」
扉を開けた瞬間。
コーヒーと甘い香りが、静かに混ざって流れてきた。
木目を基調にした店内。
想像していたより落ち着いていて、「コンカフェ」という言葉から思い浮かべていた雰囲気とは少し違う。
公式サイトを見て、想像していたのと同じ感じだった。
——ここ、好きかもしれない。
そう思いながら、未来は奥のテーブルに案内された。
「どうぞ、こちらへ」
声に顔を上げた瞬間、胸の奥が、すっと鳴った。
黒に近いダークブラウンのボブ。
背筋の伸びた立ち姿。
落ち着いた目線。
——あ。
一瞬で、つながる。
——あの時の人。
高校生の頃。友達に誘われて、初めて行った地下アイドルのライブ。
ステージの左端で、マイクを握って、自然に場を回していたあの人。
派手すぎないのに、なぜか目が離せなかった。
物販で少しだけ話した、あのときの声。
「……」
未来は、気づかれないように息を整えた。
——本当に、あの時の人だ。
でも、言葉にはしなかった。
言ったら、この空気が変わってしまう気がした。
「チーフキャストの白石ひかりです」
「今日はよろしくお願いします」
丁寧で、少し距離のある標準語。
その話し方が、余計に“今のこの人”を感じさせてくる。
「佐藤未来です」
「よろしくお願いします」
未来は、自然に頭を下げた。
面接は、穏やかに進んだ。
大学のこと。
アルバイト経験のこと。
なぜこの店を選んだのか。
未来は、必要なことだけを、丁寧に答えた。
その間、ひかりは何度か、未来の顔を見る。
長く見つめるわけじゃない。
でも、ふとした瞬間に。
——やっぱり。
心の中で、ひかりは確信していた。
——あの時の子やな。
ライブ終わりの物販。
少し緊張しながら話していた、目の奥がまっすぐな子。
名前も、そのときの会話も、正確には思い出せない。
でも、「残る感じ」は、はっきり覚えている。
——成長したな。
声には出さない。
今は、“元アイドル”でも“あの時の人”でもなく。
ただ、店の面接官として、目の前の女の子を見る。
「接客の仕事、大丈夫そうですか?」
「はい」
「人と話すのは、好きです」
その答え方が、背伸びしていなくて、ひかりは内心で小さくうなずく。
——無理してへんな。
面接の終わりに、ひかりは柔らかく言った。
「今日は、ありがとうございました」
「結果は、改めてご連絡しますね」
「はい」
「ありがとうございました」
立ち上がるとき、一瞬だけ、視線が交わる。
でも、どちらも、何も言わない。
未来は心の中で思う。
——言わなくて、よかった。
ひかりも、同じように思っていた。
——今は、言わんでええ。
扉が閉まる。
それぞれが、少しだけ確信を抱えたまま。
この場所で、また別の関係が始まることを、
まだ二人は想像していなかった。
でも、もう、始まっていた。
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