第9話 トリアージ訓練編・医療側の準備
王宮診療所 勉強会
王宮診療所の小会議室には、診療所に所属する者のほとんどが集まっていた。
医師、看護師、薬師は全員。
介護人も、入院患者の対応に必要な三名を除き、全員が席についている。
この時間、診療所は完全に手を止めていた。
この勉強会自体も、突然決まったものではない。
ここ数日、エルンスト医師が診療の合間を縫って、繰り返し話題にしてきた内容だ。
――桜のいた世界には、
多数の負傷者が出た際、身分や階級に関係なく、状態を基準に対応の順序を整理する考え方があること。
――それを、騎士団と合同訓練を行い、現場で使える形に落とし込む予定であること。
この国では、身分や役職が重んじられる場面も少なくない。
だが同時に、医療の現場では、命の前に立場を持ち込むべきではない、という共通認識も、静かに育ってきていた。
今日は、そのための確認と整理の場だった。
場の中央に立ったエルンスト医師が、全員を一度見渡す。
「今日は、トリアージという概念について、桜に説明してもらう」
低く、落ち着いた声が室内に響く。
「すでに聞いている者も多いと思うが、トリアージとは、限られた医療資源の中で、できるだけ多くの命を救うために、治療や搬送の順序を整理するための枠組みだ」
誰も驚いた様子は見せない。
むしろ、続きを待つ空気があった。
「重要なのは、この判断が、身分や階級、役職によって左右されるものではない、という点だ」
そう前置きしてから、続ける。
「誰を優先するかを、個人の価値観や立場で決めるのではなく、状態という共通の基準で揃える」
「騎士への説明の前に、医療側の認識がばらついたままでは意味がない」
視線が、桜へ向けられる。
「詳細については、桜から説明してもらう」
桜は軽く頭を下げ、机の上の資料に目を落とした。
この場では、あまり緊張していない。
新人相手の勉強会と本質は変わらないし、何より、顔見知りばかりだ。
会話は、日本語だ。
異界の巫女としての能力が働き、桜の言葉は自然にこの世界の言語として伝わる。
だが、文字は違う。
資料は、この世界の文字で整えられている。
護衛騎士に文字を教わってから、簡単な文章であれば読めるようになってきた。
それでも、専門的な内容を一人でまとめるのは、まだ難しい。
だから、今回の資料作りにはマルタが関わっていた。
桜が内容を説明し、マルタがそれを言葉に整える。
誤解を生まない表現か、現場に合わない言い回しではないか――
二人で何度も確認しながら仕上げたものだ。
桜の手元の資料だけ、余白に日本語の書き込みがある。
分類の理由。
注意点。
言い換えるべき言葉。
それは読むためではなく、話すためのメモだった。
「……トリアージ、という考え方についてお話しします」
桜は視線を上げ、淡々と口を開く。
「これは、身分や立場によって、誰かを優先したり、後回しにしたりするためのものではありません」
「限られた時間と人手の中で、今、この場で何ができるかを整理するための枠組みです」
資料を一枚めくる。
「使えば迷わなくなる、というものではありません」
そう付け加える。
「現場では、必ず迷います。それは前提です」
何人かが、小さく頷いた。
「トリアージは、その迷いを消すものではなく、迷ったときに、同じ基準で考えるためのものです」
桜は、言い切らない。
「今日は、分類の考え方と、私のいた世界の現場では、それがどのように使われているかを中心にお話しします」
一度、視線を巡らせる。
「このあと、騎士の医療担当にも同じ説明をします」
「ですので、現場感覚と合わない点や、分かりにくいところがあれば、教えてもらえると助かります」
それは勉強会であり、同時に、訓練へ進むためのすり合わせの場だった。
誰かが判断を下すためではない。
誰かに責任を押しつけるためでもない。
身分や階級に関係なく、命の前に立つ者が、一人で抱え込まなくて済むように――
そのための、最初の確認だった。
室内の空気が、わずかに引き締まる。
「分類は、重症度によって、大きく四つに分けて考えます」
一つ目、と指を折る。
「すぐに処置をしなければ、命に関わる状態です。
止血や気道の確保など、
その場で対応できることを最優先します」
二つ目。
「処置は必要ですが、
少し待っても状態が大きく悪化しないと判断される場合です。
応急処置を行い、
順番を待ってもらいます」
三つ目。
「歩行が可能で、
自分で指示を理解し、動ける状態です。
この場合は、
自身で対応できる範囲の処置、
もしくは今回は騎士との訓練なので、
騎士同士で、ある程度の応急対応を行ってもらいます」
そこで、桜はわずかに間を置いた。
「そして――
現時点では、
処置を行っても助かる可能性が、極めて低いと判断される状態です」
声の調子は変えないように意識する。
「負傷者が少ない状況であれば、
できる限りの対応を検討します」
だが、と続ける。
「多数の負傷者が同時に発生している場合は、
何もしない、という判断を
しなければならないこともあります」
室内が、静まり返った。
「つらい判断を迫られると思います。
それでも、限られた時間と手の中で、
今、助けられる命を最大限守るために、
必要なことでもあります」
資料を一枚めくる。
「分類は絶対ではありません。
状態が変われば、
判断も変わります」
視線を上げる。
「だからこそ、とても難しいものです。
私の世界でも、
正解はないと言われているくらいですから」
資料を閉じた。
「つらく、重い判断だからこそ、
一人で決めるものではなく、
同じ基準を共有した上で、
現場で確認し合っていく必要があるのだと思います」
言葉が終わっても、
すぐに声は上がらなかった。
理解できてしまったからこその沈黙だった。
最初に口を開いたのは、若い看護師のエミールだった。
「……最後の分類について、ひとついいですか」
桜は、静かに頷く。
「助かる可能性が低いと判断された場合……
本当に、何もしない、という選択になるんでしょうか」
責める調子ではない。
確認するような声だった。
「多数の負傷者がいる状況では、
そう判断せざるを得ない場合があります」
桜は、短く答えた。
少し間を置いて、ユリウス医師が続ける。
「それは……
見捨てる、という判断と、
違わないと感じる人もいますよね」
桜は首を振らなかった。
「はい。
そう感じる人もいます」
そして、はっきりと言う。
「実際に、
あの判断が正しかったのかどうか、
ずっと悩み続ける人もいます」
その言葉に、
ロッテが静かに息を吸った。
「……私も、その一人です」
視線が集まる。
「以前、
負傷者が一度に運び込まれたことがありました」
「誰から診るか決めきれず、
現場が混乱しました」
淡々とした口調だった。
「もっと早く決めていれば、
助けられたかもしれない人がいたかもしれない」
「そう思ったまま、
今でも時々、考えます」
一瞬、沈黙が落ちる。
「見捨てる判断より、
決められなかった自分の方が、
正直、怖いです」
桜は、その言葉を遮らなかった。
ただ、小さく頷く。
「……話してくださって、ありがとうございます」
それから、ゆっくりと言葉を続ける。
「トリアージは、
正しい答えを出すためのものではありません」
視線を巡らせる。
「判断の重さを、
一人で背負わないための枠組みです」
そのとき、
エルンストが静かに口を挟んだ。
「だからこそ、
医療側だけでなく、
騎士とも、この考え方を共有する必要がある」
その一言で、
この場の位置づけが、はっきりした。
「今日は、
この考え方を確認するところまででいい」
少し間を置き、続ける。
「訓練では、さらに迷うだろう。
実践では、なおさらだ」
視線を巡らせ、言い切った。
「だからこそ、
机上の話で終わらせない。
実際に使える訓練にする」
その言葉に、
室内の空気が、静かに引き締まった。
ここから先は、
知るだけでは足りない。
――動くための準備が、始まる。
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