第5話 王宮診療所での日々
最初の出勤
王宮診療所に配属が決まった日のことを、
エルンスト・ハイネ先生は、少し間を置いてから口にした。
「ここではね、
君をただの“医療者”として迎えるつもりだ」
穏やかな声だった。
「それで、構わないかな」
私は、その場で頷いた。
「はい。
それでお願いします」
特別な立場を設けないこと。
巫女としてではなく、看護師として扱うこと。
指示系統も、責任の所在も、すべて通常どおり。
その条件は、事前に上を通して共有された。
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初出勤の朝。
私が足を踏み入れたのは、第1診療所だった。
王宮内に三つある診療所の中で、
ここが一番規模が大きい。
入院区画と処置室を備え、
さらに奥には手術室まである。
建物の入口には、強固な結界が張られていた。
その内側には、常に一名の騎士が待機している。
特別師団が持ち回りで担当し、
移動時はクロトがつくことも多いが、
診療所に常駐する担当は別だ。
この時間、詰所にいたのは、
男性の騎士だった。
人の出入りはあるが、
外来を受け持つ第2、第3診療所ほどの騒がしさはない。
それぞれが自分の役割を理解し、
必要なことだけを淡々とこなしている。
ここが、王宮診療所の中枢なのだと、
自然に分かった。
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「今日から入る、桜ね」
第1診療所の処置室前で、
ベテランの看護師、マルタ・シュナイダーが
手元の記録から顔を上げた。
「はい。よろしくお願いします」
「聞いてるわ。
看護師として、でしょ」
「ええ。それで」
「了解。
じゃあ、いつも通りいくわよ、桜」
処置室の中には、
準備を進めている看護師のロッテ・フィッシャーと、
器具を確認している医師の姿があった。
特別な紹介はない。
そのことが、むしろありがたかった。
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朝の申し送りは、第1診療所全体で行われた。
処置室の一角に集まり、
入院中の患者と、当日の対応予定を確認する。
エルンスト先生が、全体を一度見渡す。
「桜は、第1診療所付きになる」
声は低いが、柔らかい。
「立場は看護師だ。
特別扱いはしない」
念を押すように続ける。
「無理をさせない判断も、
こちらの責任だ」
誰も異を唱えなかった。
それで十分だと、全員が分かっている。
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処置室へ戻る途中、
廊下で、若い医師見習い――
ユリウス・カーンが、少し緊張した様子で声をかけてきた。
「あの……今日から、よろしくお願いします」
「こちらこそ。
まだ全然分からないことばかりなので、
いろいろ教えてください」
「はい、桜さん」
ユリウスは、ほっとしたように頷いた。
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最初に声をかけてきたのは、マルタだった。
「桜、まずは病棟から行きましょう」
そう言って、処置室の外へ歩き出す。
第1診療所の入院区画は、奥に長い。
左右に並ぶ病床を、マルタは迷いなく見ていく。
「基本は三十床。
今は二十床が埋まってるわ」
歩きながら、さらりと説明が入る。
「内科の患者さんが多い。
あとは、騎士が二人。
どちらも一時は重症だったけど、
今は回復に向かってる」
視線の先で、包帯を巻いた騎士が体を起こしていた。
病床の間隔は広めだが、
壁際には、使われていない簡易ベッドが折りたたまれている。
「戦闘があって、騎士が一気に運ばれてきたら、
ここからどんどん出すの」
私の視線に気づいて、マルタが言った。
「空いてる部屋にも入れるし、廊下だって使う。
三十床は、あくまで普段の話ね」
淡々とした口調だった。
「今は、まだ余裕があるわ。
だから今日は、流れを覚えて、
今いる患者の把握をして」
そう言って、最初の患者のもとへ向かう。
「お体の具合はどうですか?」
私は、ゆっくり声をかける。
マルタは横で脈を取り、熱を測り、
必要なところだけを短く指示する。
「次は体位交換ね。補助に入って!」
マルタは、近くにいた介助人の一人に声をかけた。無駄がない動きだった。
誰が何をするか、言葉にしなくても通じている様子だった。
入院患者の対応をそつなく、しかし着実にこなしていると、
処置室から呼び出しが入る。
「次は処置室ね。
桜、ついてきて」
「はい」
私は、マルタの半歩後ろを歩く。
まだ分からないことばかりだ。
だから、きちんと教えてくれる先輩がいることに、
自然と胸が緩んだ。
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マルタの後に続いて処置室に入ると、
空気が少し張りつめていた。
病棟よりも音が多い。
器具の触れ合う音、短い指示、布が擦れる気配。
「桜、ここで先生の補助に入って」
マルタに呼ばれて、横につく。
処置台の上には、若い騎士がうつ伏せに横たわっていた。
背中の鎧はすでに外され、
肩甲骨の下から腰にかけて、布が大きく切られている。
「魔物との交戦中に、爪で引き裂かれている」
簡潔な説明だった。
一本ではない。
深さの違う裂創が、斜めに走っている。
縁は荒く、汚れも残っていた。
エルンスト先生が、慎重に傷を確認する。
「骨には届いていない。
呼吸も安定している」
一瞬、騎士の背に手をかざし、
すぐに判断を下す。
「麻酔は使わない。
疼痛緩和で十分だ」
「はい」
その言葉で、処置室の空気が定まった。
「ユリウス。
疼痛緩和を」
「……はい」
ユリウスが一歩前に出る。
深く息を整え、短い詠唱を口にした。
淡い光が、騎士の背中を包む。
意識はそのままに、
痛みだけが、少し遠のいていく。
治す魔法ではない。
耐えられる程度まで、和らげるだけのものだ。
騎士の肩から、ふっと力が抜けた。
「……助かります」
「効果は長くありません」
ユリウスの声は、まだ少し硬い。
「今のうちに進めよう」
エルンスト先生はそう言って、
視線を再び傷へ戻した。
私は、マルタの動きを見ながら、
器具の準備を手伝う。
手順は、日本と大きくは変わらない。
「声かけ、お願い」
マルタに言われ、騎士の顔を見る。
「これから洗います。
疼痛魔法が効いていると思いますが、
我慢できない痛みがあったら、必ず言って下さいね」
騎士は短く息を吸い、頷いた。
洗浄が始まると、
背中の筋肉がわずかに強張る。
私は、そっと肩に手を置く。
「頑張りましょうね」
魔力は使えない。
だから、できるのは声と手だけだ。
「縫合に入る」
エルンスト先生の一声で、流れが切り替わる。
一針ずつ、確実に。
裂けた皮膚が、少しずつ寄せられていく。
出血は多かったが、
想定の範囲内だった。
「終わりだ」
その言葉に、
騎士は深く息を吐いた。
「数日は入院で。
おそらく熱が出る。
痛み止めの薬草を飲んで、しっかり休みなさい。
退院の時期は、明日の様子を見て決める」
「分かりました」
騎士はそう答えると、ゆっくりと上体を起こした。
顔色はまだ冴えないが、足取りはしっかりしている。
「歩けそうね」
マルタが短く確認する。
「無理はしないで。ベッドまで行きましょう」
そう言って、近くにいた介助人の一人に視線を向けた。
「部屋まで誘導をお願い。途中で辛そうだったら、すぐ休ませて」
「はい」
介助人が騎士の横につき、腕を差し出す。
騎士はそれを借りて立ち上がり、深く一度、頭を下げた。
「ありがとうございました」
「今日はもう休んで」
マルタはそう返して、患者に向けるときの穏やかな笑みを浮かべた。
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午後の診療が落ち着いたころ、入口に立つ護衛の顔ぶれが入れ替わっていた。
昼休憩を挟んでの交代。
その午後のかかりとして配置についたのが、リーゼだった。
「サクラ様。午後の護衛を引き継ぎました」
形式通りの敬礼。
けれど、声は穏やかだった。
それから数時間後。
「サクラ様、十六時です。
本日の診療所での勤務は、ここまでとしてください」
「分かりました。ありがとうございます」
私は病棟と処置室の方へ向き直り、軽く頭を下げた。
「本日はここまでになります。お先に失礼します」
「お疲れさまでした」
「また明日」
短い言葉が返り、現場はすぐ次へと進んでいく。
診療所を出ると、リーゼが半歩後ろについた。
午後の担当が、そのまま居室まで送る。
それは、すでに取り決められている流れだった。
「このまま、お部屋までお送りします」
「お願いします」
回廊を歩きながら、リーゼは周囲への警戒を怠らない。
それでも歩調は、私に合わせて落とされている。
「本日も、無理はなさっていませんか」
「はい。大丈夫です」
「それでしたら、安心しました」
部屋の前で、リーゼは足を止めた。
「ありがとうございました、リーゼ」
「またお会いできて、うれしく思います」
リーゼはそう言って一礼した。
扉が閉まるまで、騎士としての姿勢を崩さずに。
部屋に入ると、私はようやく息を吐いた。
それは、今までのため息とは違い、
胸の奥に静かに満ちる、充足感に近いものだった。
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