赤い雨の日

夢紙 獏

赤い雨


 保育園の舞台袖は、湿った木の匂いがしていた。

 舞台の上では、カーテンの向こうからピアノの伴奏と、先生の張り上げる声が聞こえる。


 その日、僕と美咲はお遊戯会で「赤い雨」の役だった。といっても、本当に雨が降るわけじゃない。二人で大きな赤い折り紙を回して、客席に向かってひらひらと散らすだけの簡単な役目だ。


「ねえ」

 隣で美咲が、小さな声で言った。

「なに?」

「大きくなったら、けっこんしよう」


 僕はぽかんとして、それから思わず笑った。

「うん、する!」


 無邪気に握ったその手は、舞台のライトよりも温かかった。


 外は土砂降りだった。


 お遊戯会が終わって、僕と美咲は舞台袖から、残っていた赤い折り紙を子どもの勢いのまま、たくさん投げた。ひらひらと舞って、ライトの熱が消えた空気の中を落ちていく。

 その赤が降る様子は、まるで空から赤い雨が降っているみたいだった。


 保育園の庭の水たまりには、散らした折り紙がいくつも浮かんでいる。雨粒が跳ねるたびに、赤は滲んで揺れた。

 あの景色を、僕はずっと忘れられずにいる。



***



 時は流れて、中学、高校と僕らは同じ道を歩いた。だけど、ずっと隣にいたはずの美咲が、少しずつ遠く感じられるようになっていった。

 部活や友達、恋愛の噂……日々の中で、幼い日の約束なんて口にすることもなくなった。


 高校二年の雨の日だった。


「もういい! 勝手にすれば!」


 交差点で、美咲が傘も差さずに僕を睨んだ。きっかけはひとつじゃなかった。小さなすれ違いが積もって、言わなくていいことを言い、言うべきことを言わないまま――最後にくだらない一言で爆発しただけだ。


 彼女の肩口から落ちる雨粒が、制服の紺色を濃く染めていく。息が荒く、涙と雨が頬を伝うのが、信号の赤に照らされていた。


 信号待ちの車列のブレーキランプが、雨の向こうで滲んでいた。赤い光に縁取られた雨粒が、降ってはアスファルトに溶けて揺れる。


 ――赤い雨の日。


 ふとあの景色が蘇ったけれど、僕は何も言えなかった。言葉にすれば、あの赤が消えてしまいそうで怖かったのかもしれない。

 傘越しに美咲の後ろ姿が小さくなっていく。雨音と車のアイドリング音だけが、やけに遠く響いた。



***



 それから何年も経った。

 大学、就職、引っ越し。互いの消息も知らず、日々に流されていたある日――偶然、美咲と再会した。


 仕事帰り、駅前のカフェのガラス越しに見えた横顔。変わったようで変わらない笑顔に、僕の時間が一瞬で巻き戻った。


「……久しぶり」

「ほんとだね」


 ぎこちない挨拶から始まった会話は、意外にも滑らかだった。


 あの時の喧嘩の話になったとき、美咲は笑いながら言った。

「ごめんね、あの時。なんか意地張っちゃって」

「俺も……ごめん」


 そして、沈黙を破るように僕は聞いた。

「赤い雨の日、覚えてる?」


 美咲は目を丸くして、それから頬を赤く染めた。

「……忘れるわけないじゃん」


 胸の奥が熱くなった。あの日の約束が、まだ二人の中に生きている――そう確信した。



***



 結婚式当日。

 チャペルの高い天井から、赤い薔薇の花びらがふわりと舞い降りてくる。


 パイプオルガンの荘厳な音色が響き、白い壁に反射してやさしく包み込む。花びらの香りが空気に混じり、淡い甘さが胸いっぱいに広がる。


 祝福の拍手、カメラのシャッター音、神父の低い声。すべてが重なって、世界がスローモーションのように流れていく。


 光を受けた花びらがきらめき、床一面が淡い赤に染まる。

 まるで、あの日の赤い雨がもう一度降っているみたいだった。


「これからも、よろしくな」

「うん、一生」


 幼い日の約束が、ようやく果たされた。


 唇が触れた瞬間、外の小雨がステンドグラスを濡らし、花びらの赤と混ざり合って、世界をやさしく包み込んだ。


 拍手の音が遠くでこだまし、僕らだけの赤い雨が、永遠に降り続けているように思えた。

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