Last Gear
如月 睦月
第1話 噂
介護施設の食堂では、昼のワイドショーが必要以上に大きな音で流れていた。
字幕の下を、株価と天気と芸能人の不祥事がせわしなく行き来する。
テーブルに並ぶ湯呑みの湯気は薄く、冷めるのが早い。
「閉鎖、だとよ」
神山金治は、箸を置いて言った。
七十八歳。
水産加工場で五十年、刃物と機械の間で生きてきた手は、
いまも落ち着きなく膝の上で動いている。
「噂であります」
郷田鉄五郎が即座に訂正した。
七十五歳。
背筋は癖のように伸び、言葉の終わりには必ず「で、あります」が付く。
元警察官。
制服を脱いで久しいが、姿勢だけは抜けなかった。
「噂でも、火のない所に煙は立たないさ」
煙草の先を灰皿に押し付けながら、姫野ケイが笑った。
七十二歳。
色の抜けた赤い口紅と、視線だけが若い。
指先で煙草を回す仕草に、長い癖と色気が滲む。
テレビでは、経営難の老人ホームが特集されていた。
スタッフ不足、資金不足、行政の対応の遅れ。
どれも、この施設と無縁ではない。
「理事長が、金を出さないらしい」
誰かが言った。
食堂の空気が、わずかに重くなる。
神山は窓の外を見た。
港町育ちの目には、この内陸の空はいつも低く見える。
——ここがなくなったら、どこへ行く。
考えないようにしていた問いが、潮のように押し寄せる。
身寄りもないのだから。
「で、あります」
郷田は咳払いを一つした。
「まだ決まった話ではない。慌てる必要は——」
「慌てるさ」
ケイが被せる。
「歳を取るとね、時間は金より足りないんだよ」
その言葉に、誰も反論しなかった。
午後のレクリエーションの時間、郷田は中庭を歩いた。
腰に鈍い痛みがある。
それでも歩幅は崩さない。
警察官だった頃の癖だ。
神山は倉庫で、壊れかけの車椅子を直していた。
工具は揃っていないが、手は覚えている。
ケイは駐車場に出て、古いセダンのボンネットに手を置いた。
エンジンは眠っているが、車体はまだ走る姿勢だ。
「あなたもくたびれてるけど……走れるわよね」
誰にともなく呟く。
ケイは何かあるといつも動かないこのセダンに話しかけていた。
自分とセダンを重ねて見ているのだ。
夕方、三人は自然と同じテーブルに集まった。
「もしも、でありますが」
郷田が切り出す。
「もしも、本当に閉鎖するなら——どうするでありますか」
神山は即答しなかった。
煙草を消し、初めて真顔になったケイが言う。
「どうする、じゃない。どうにかする、のよ」
その瞬間、三人の間に、若い頃にもなかった沈黙が落ちた。
恐れではない。
覚悟に近い何か。
郷田は静かに頷いた。
「……その場合、合法の範囲で、で、あります」
ケイは笑った。
「約束はできないわね」
外では、夕暮れの風が旗を揺らしていた。
施設の名前が書かれた布が、かすかに軋む音を立てる。
その音を、三人は同時に聞いていた。
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