泥の眼

すう

泥の眼

 私の住んでいる、小さな町に博物館があった。

 昭和の頃、県外で財を築いた名士が地元に戻って建てたものだと聞いている。

 その博物館は海の近く、通りを一本入った民家の並ぶ通りにあった。白い外壁は周りに溶け込んでいて、遠くから見ると民家に混じって見えた。

 近くには港へと繋がる川があった。川といっても海のようだった。潮の満ち引きによって水位が変わり、緩やかに波打ち、かすかに海の匂いがした。川の中で泳ぐ魚も他の川の魚と違っていた。

 

 小学生の頃、学校行事の一環で博物館を訪れたのが最初だった。

 フロアも壁もベージュ色で、入り口には、現代の地元の民芸品や工芸品が並べられ、その奥は各年代ごとの国内の暮らしを示す展示になっていた。

 博物館はとても静かで、かつての生活で使われていた物がひっそりと置かれていて、なんとなく、そこでは、それぞれの時代がそのまま生きているような感じがした。

 それは嫌な雰囲気ではなかった。

 展示品ひとつひとつに、白いプレートの説明文がつけられて、それを読んでいくのも楽しかった。

 

 その博物館が閉鎖されるという。

 他の地方と同じく、私の町も高齢化と過疎化が少しずつ進んでいた。年々、博物館の経営が厳しくなっていたのは建物の外観を見ても分かる。白かった外壁は汚れてひび割れたまま、玄関のタイルの崩れも放置されていた。

 ただ入り口前に広がる庭木だけは年々、勢いを増していた。春先には黄色いレンギョウと白いウツギの花が咲き誇り、梅雨になるとアジサイ、夏に朝顔、秋には萩の花、冬には椿とサザンカが競うように咲く。道や建物にのし掛かりそうな勢いで繁るため、歩きにくいほどだった。

 近所に住む人から、繁みに蛇がいるという苦情が出たという話を聞いたこともある。確かにうっそうとした繁みは蛇や虫の格好の住処になっただろう。

 

 閉館に伴い、館内の蒐集物の大半は他の博物館や美術館に引き取られたと聞いた。複製品や引き取られなかった一部のものはネットオークションや閉鎖される博物館で売りに出されることになった。

 あの博物館の雰囲気は好ましかったので、何か手元に残しておけるものはないかと思い、私は博物館に向かうことにした。

 博物館に着いて、まず私がショックを受けたのは、玄関前の木々が切り倒されていたことだった。瑞々しい青葉もそのまま刈り取られ掘り起こされ、雑に敷地内に積み上げられていた。もうふた月もすれば今年も赤紫の小さな花を咲かせたであろう萩も束ねられていた。あたりには切られたばかりの葉と枝の青い匂いと土の匂いが漂っていた。

 博物館はすでに閉館に向けて建物全体に覆いが掛けられていた。建物自体も改装ないしは取り壊されるようだった。

 その奥には雑多にゴミがまとめられていた。古い紙の束、陶器や金属製の何か、壊れた木の箱からは梱包材がこぼれ落ちている。塗料だろうか、地面は黒ずんだ緑色に濡れていた。

 掘り返された土で汚れた、玄関前のタイルの上を歩いて博物館のなかに入ると、博物館の一階、受付とショップコーナーは拡張されていた。そこに複製品が説明もなく並べられていて、ただ値札のみがつけられていた。

 説明がないため、それが何か分からないものも多かった。土器の欠片、ナイフなどは分かるが、見たことのないものも多々ある。半年ごとに特別展が企画されるので、そこで使われていたものなのだろう。

 私は複製品を眺めていった。装飾用と思われる、小さな白い石を繋げたものはきれいだったが、それなりに値段がする。何に使ったのかよく分からない木製の箱もある。道端にある石にしか思えないものもある。

 そのなかで、私は黒い金属の小さな箱が気になった。

 手のひらほどの大きさの長方形で、四隅に華奢な脚がついている。表面には緩やかな凹凸があった。元の箱を模倣したのだろう、経年劣化に似せて、全体が黒ずんでいるため、どんな模様か判別つかない。

 台の上には同じような箱がいくつか並んでいるが、やはりこれまでの博物館の展示で見た覚えはなかった。

 私はその箱を買うことにした。値段もそれほど高くない。持ち上げると、思ったよりもずっしりとした重みがあり、金属で作られているのではないかと思った。

 帰宅した私は、改めて、その凹凸の模様を眺めた。模様が分かれば、この箱がどういう時代のもので、どういう目的で使われたか分かるのではないかと思ったからだ。

 私はふと箱を持った指先が黒く汚れていることに気づいた。箱全体が黒い塗料で覆われているようだ。少し迷ったが箱についた塗料を落とすことにした。展示物として使うわけではないし、経年劣化を再現する必要もない。塗料を落としたら安っぽく見えるかもしれないという懸念もあるが、そのときは塗り直しても良いかもしれない。私は水と布で少し拭いてみて、問題なさそうなことを確認してから全体の塗料を落としていった。

 黒い塗料を落とすと、箱の凹凸の模様は何かの植物をかたどった紋様だということが分かった。塗料で覆われていたことが理解できないほど紋様は細やかだった。細い線で、うねうねと渦巻く葉と枝が彫り込まれ、その先で柔らかそうな花が開いている。過度に彫り込まれているようにも見えるが、同時にその質感を感じさせるほど写実的でもあった。紋様に決まったパターンはなく、描かれた植物は有機的に枝を伸ばして葉をつけ花を開かせている。

 箱は銅製に思えたが、染料が塗られて腐食したのだろうか、ツヤはあるが単なる赤褐色ではなく、鈍い極彩色に見えた。雨上がりの水たまりに浮かぶ皮膜のように、さまざまな色が渦巻いて見える。

 塗料を落として良かったと思った。再現するためとはいえ、塗料に覆われていたのがもったいないほどだ。

 買ったときには蓋を開けなかったため気づかなかったが箱は二重になっていた。模様のついた薄い外側があり、隙間を挟んで中側の箱がある。入れ子構造だが、中の箱は取り出せない。また中側の箱には蓋はなく、外側の蓋についた模様は孔が空いていた。四隅の脚といい、香炉のように思えた。

 ふと過去の展示で香炉が扱われたことを思い出して、そのときに買った冊子を探し出して開いた。まったく同じデザインのものはなかったが、同じような二重構造になっているものもあるので、私はこれを香炉として使ってみることにした。

 私は香と灰を買ってきて、灰を箱に入れて香に火をつけて蓋を閉めた。甘さと苦さのある匂いがあたりにほのかに漂う。細く薄く、白い煙が香炉から立ちのぼり始める。煙は箱の渦巻く植物の模様に絡まり、ときおり呼吸するように勢いを強め弱め、そして箱から離れて間もなく空気に溶けていく。蓋の隙間から立ちのぼる煙は植物模様のようにも手のようにも見える。薄い白い腕が伸び、千切れ、また隙間から生えてくる。水たまりの皮膜のような、鈍い極彩色のきらめきがまた、その煙の渦巻く動きになにか視覚効果を与えているようだ。煙が、極彩色の模様が、有機的にうごめいているように見える。私はしばらく香炉の模様と煙の動きに魅入った。

 ふと気がつくと香の煙は消えていた。もう蓋から立ちのぼる白い煙はなく、ほのかな香りも感じなくなっていた。

 煙と極彩色の植物紋様をあまりに見つめ過ぎたのだろう、香炉から目を離すと、ぐにゃりと周りが歪んで見えた。私は椅子に深く腰掛けて目眩が収まるのを待った。カーテンが、壁が、天井が歪んでいく。歪みの動きは徐々にゆっくりになり、それから元のかたちになっていった。

 時間はとうに昼を過ぎていた。香が燃え尽きるまで、およそ一時間ほど香炉を見つめてしまったようだった。

 部屋の外に出たところで廊下の暗さに一瞬、驚いた。廊下の闇に覆われて、いっとき、先も足もとも見えなくなったあと、目が慣れて廊下がぼんやりと浮かび上がってきた。目が疲れているようだと私は思った。長い間、一点に集中していたからだろう。

 キッチンで湯を沸かそうとしていると、かすかに引っかくような音を聞いた。音のする方を向くと、キッチン脇の扉の向こうに猫の小さな黒い影が映っていた。

 私は扉をゆっくり開けた。逃げ出すかと思いきや、猫は逃げなかった。扉を開けた先に、灰色がかった黒い猫が座っていて私を見つめていた。

「……ルル?」

 私は思わずそう呼びかけていた。その猫があまりにも、かつて飼っていた愛猫に似ていたからだ。その毛並みも顔も座る姿も何もかもそっくりだった。

 だがルルはもう十年も前に亡くなっている。もし今生きていたとしたら、もっと年老いているだろう。目の前の猫は、まだ若い頃のルルがそのまま現れたようだった。ルルに似た猫は、私の呼びかけに反応するように、小さく鳴いた。その声も鳴き方もそっくりだった。私はゆっくりと腰を下ろした。手を伸ばすと猫は、しばらく私を見つめたあと去って行った。そういうところも似ていた。ルルは人懐こくて静かな猫だった。

 午後、私はその猫がふたたび来ても大丈夫なように、室内で飼うことも考えて準備することにした。同じ町にある実家に寄って何か使えるものは残っていないかと思ったが何も残っていなかった。

 果たしてルルに似た猫はまたキッチン脇に現れた。よほど人慣れしているのだろう、勝手知ったる様子で室内に上がり、用意された食事を取り、そのまま居ついた。私はその猫に新しい名前をつけようと思っていたが、思いつかずに、そのままルルと呼んでいた。何よりその猫は、ルルを自分の名前だと認識しているようで呼べば気まぐれな反応を返す。

 新しいルルは本当にかつてのルルに似ていた。つややかな毛並みを撫でたときの感触、肩周りの筋肉や骨格、椅子から飛び降りるときの仕草まで同じだ。ルルが蘇ったようだった。ときおり十年前に戻ったような感覚に陥る。

 十年前、私は学生で、キッチンで勉強してると、よくルルがテーブルの上に乗ってきた。プリントの上に座るので、ちょっとその体を押しのけて勉強を進めるのが日常だった。ルルは何かと上にのぼるのが好きで、よくキッチンの棚上にのぼって私たちを眺めていた。ここは実家ではないが、ルルによく似た猫がルルと同じ行動を取る。

 キッチンで雑誌を読んでいるとルルがテーブルの雑誌の上に座り、あるいは、棚の上に座ったルルがスマートフォンを眺める私を見つめている……。

 次第に、私は本当にルルが蘇ったのではないかと考えるようになった。

 きっと、あの香炉に何か不思議な力があって、あの世からルルを呼び戻したのだ。

 現実的ではないが、そう思ってみるのも面白かった。

 

 そこでふと考えてしまったのだ。

 猫を蘇らせることができるのであれば、人を蘇らせることも可能だろうか、と。

 私には、かつて親しい人がいたが、その人は亡くなった。そのことは……、その人のことは、あまりにも辛いため普段はほとんど思い出さないようにしているが、もしも……、と考え始めてしまったのだ。

 ルルに似た猫が現れたのは単なる偶然だし、ルルを蘇らせようとして香を焚いたわけではない。だがもしそうなら、と思ってしまった。

 香を焚いて人を蘇らせる方法など、どこにも書かれていないから、私は勝手にそれらしく、かの人の名前を墨で書いた紙を燃やした灰を入れて、毎晩、同じ時間に香を焚いてみることにした。買ってきた香の燃える時間は一時間ほどだ。

 一晩、二晩、私は香を焚いた。甘く苦い匂いが漂い、かすかに墨と紙の燃えた匂いがする。香を焚いている間、最初のときと同じく香炉の植物模様に見蕩れた。薄く立ちのぼる白い煙は、香炉の上で踊るように渦巻き、それに合わせて極彩色の模様が揺らめいているように見える。その模様の変化を捉えようとするが上手く捉えられず、ただその動きに見せられて、そうするうちに一瞬で時は過ぎ去り香は燃え尽きる。

 

 二日目の晩、私はひどく魘された。どんな夢だったのか覚えていない。ただ川が流れていたように思う。どろどろとした何かが流れるそばに人が立っていて地面には白い何かが落ちていた。腕ではないかと思う。その人が何か言い私は泣き叫んだ……、何を言われたのか、どういう状況だったのか、すべて曖昧模糊としている。

 目を覚ましたとき、部屋のなかに人影が立っているように見えて私はぎくりと体を強張らせた。しかしそれは見間違いだった。窓から射し込む光と影が人に見えただけだった。

 ベッドから身を起こしたとき、妙に疲労感が残っていた。貧血か何かのように身を起こしていられない。窓越しの薄い光、カーテンの薄い影が床に落ちているのをしばらく眺めた。じっとしていても倦怠感は去らない。

 私は仕事を休むことにした。

 

 

 三日目の晩、私は机の奥にポストカードを見つけた。

 それはなくしたと思っていた、かの人からのポストカードだった。白地に金色のエンボス加工の貝殻が並んでいて、反対側にはとりとめなく日々のことが几帳面な字で書かれてある。ポストカードを見つけるまで、もらったことすら忘れていた。

 次に見つけたのは、借りたまま返すのを忘れていたペンだった。それから、一緒に旅行に行ったときに買った古いガイドブックを見つけた。

 見つけるたびに、私はどうして忘れていたんだろうと思った。

 たぶんこれまでは、その人が死んだという辛さにすべてが覆い尽くされていたのだろう。

 私は、これらもルルと同じで、忘却という死から蘇ったものだと考えた。

 

 

 しかし一週間ほど経ったが、それ以外、特にこれと言って、何も起こらなかった。

 強いていえば、ずっと育ててきた観葉植物が枯れてしまった。もちろんそれは、私の育て方が悪いか、何か外的な要因があったのだろう。水やりをしているのに、土が乾ききっていた。

 長年育ててきた観葉植物を失ったのは悲しかった。

 週末、親が私の部屋を訪ねてきた。数年前に怪我をして以来、電車に乗ることも減っていたため、こちらの部屋まで訪ねてくるのは珍しかった。

 電話がないので心配したという。大げさだなと私は思った。つい先日、ルルを飼い始めたときに、何か使えるものが残っていないか実家に寄ったばかりだ。

「ルルのこと、覚えてる?」

「ルル?」

 覚えていないかのような反応に驚く。何年も家のなかで飼っていたのに覚えていないことなどあるだろうか。あの家のあらゆるところにルルと暮らした記憶が残っている。

「ほら、うちに猫いたよね」

 黒っぽい、灰色の猫だと言っても思い出せないようだった。私は親が年老いたことを思い、少しだけ認知症の可能性を疑ってひやりとした。

「うちで猫を飼ったことないよ」

「あるよ」

 私は反論したが、結局、思い出せないようだった。

 年老いたとはいえ、ずっと一緒に暮らしてきたルルが忘れられていることが悲しい。

 私は蘇ったルルを見れば何か思い出すかもしれないと思ったが近くにルルはいなかった。狭い部屋で隠れられる場所は限られている。ルル、と名前を呼んでも出てこない。見当たらないということは外に出てしまっているのかもしれない。私は不安になった。

 親が帰ったあと、私はルルを探しに行こうとスマートフォンを取ったところで、上の棚から見下ろす、暗がりできらめく小さな目に気づいた。

「ルル」

 ルルは口を開けて、人の耳には聞こえない音を出して私の呼びかけに応えた。私は安堵した。いつからここにいたんだろう。さっきは入れ違いになってしまったのかもしれない。

 

 その日の夜も、ゆらゆらと立ちのぼる香を眺めていた。

 白い煙が香炉に刻まれた植物紋様に絡まり渦巻くさまは深い思索を誘い、忘れていた記憶を呼び覚ます。

 かの人と一緒に海に行ったことがある。

 当時、私はこの町を離れて関東に住んでいて、海が恋しかった。かの人が海に連れて行ってくれたが、コンクリートに打ち寄せる海は海と思えず、こんなもの海じゃないと難癖をつけた。そうして『本物』の海を見に行くことになった。

 長く電車に乗って、ついた海辺には誰もいなかった。秋も深くなった頃で、風の吹きつける海を訪ねる者も少ないのだろう。しかしその日はそれほど風も強くなかった。日の暮れかかった海は鈍い黄金に光り、見渡す限り、静かにうねる波が寄せては返していた。

 あれはいつのことだろう。

 そうだ、某駅の北側に大きな商業施設が建った年だった。

 もともと某駅の北側は、駅の南側に比べて大型の商業施設は少なかった。ミニシアターなどはあったが、まばらに小さなカフェがあるだけだった。

 かの人と海へ行った帰り、どこで食べるかという話になって、その駅の北側に新しく建ったという商業施設に寄ってみることになった。

 人が多くて入れないかもしれないと思ったが、案外すんなりとレストランに入ることができた。地中海をテーマにした店で、竹編みの椅子と丸いテーブルに並んで座って、ムール貝とパスタを食べた。

 そういえば、と私は思った。

 某駅の商業施設が建ったのは、もう私がこの町に戻ったあとだ。

 かの人と私がつきあっていたのは町に戻ってくる前だから、かの人と海に行ったあとで、まだ建ってもいない施設に寄ることはできない。

 他の人との記憶と勘違いしているのだろうか。別の場所と間違えているのだろうか。しかし思い出した記憶は妙に鮮やかだった。

 そもそも今まで忘れていたくらいだから、記憶自体が曖昧になっていても不思議ではない。

 かの人と付き合っていた当時、高校時代から親しくしていた友人にもよくそのことを話していた。私はスマートフォンのアプリを開いて、かつての恋人のこと、実家にいた猫のことを覚えていないかと友人に尋ねた。しばらくすると、覚えていないという返答が返ってきたので困惑した。確かにどちらも何年も前のことだが、まったく覚えていないということはあるだろうか……。私は、なんとも言いようのない不安を覚えた。

 ふと、机の上に置いてある会社から支給されたスマートフォンが点滅していることに気づいて手に取った。そこにメールと着信が並んでいるのを見て驚いた。

 それは同僚と上司からのものだった。欠勤連絡がありませんが……、という内容から始まり、部屋を訪ねたがいないという内容のメールが届いていた。

 無断欠勤した覚えもないし、訪ねてきたという時間帯は部屋から出ていない。私はメールに慌てて返信した。

 親も友人もルルを知らないと言っていた。何かがおかしい。ルルが現れたのは、あの香炉で香を焚いてからだ。

 例えば、あの香に幻覚作用があるという可能性はあるだろうか……。

 あの香炉を買ったのは博物館が閉鎖されるからだった。あの博物館が閉鎖するというのは本当なのだろうか。

 私は家を出て博物館へと向かった。

 

 

 あたりは静かに夕暮れが近づきつつあった。

 近くの川は満ち潮の影響で水位が上がっている。あたりには、かすかに潮の匂いがしていた。

 博物館の白い外壁はほのかに朱に燃え立っていた。数日前に見たときのまま、建物を取り壊すために全体に覆いが掛けられている。私はなんとなくほっとした。少なくとも博物館が閉鎖されるのは本当だった。いや、寂しさを感じるのも確かだ。

 玄関脇は掘り起こされた土も乾き、木々が立っていた跡もなくなっている。

 その奥の廃棄物の山はさらに高くなり、そして一面に黒ずんだ緑色の泥が広がっていた。刈り取られた木々も箱も梱包材も、すべて黒ずんだ緑に覆われている。

 その濃緑の泥は夕焼けを映して朱と金にきらめき、まだら模様をなしていた。

 前に見たときは、捨てられた箱からこぼれ落ちているくらいで、緑色の塗料かと思った程度だった。今や、その緑は博物館の敷地内に広がり、博物館の入り口にも染み出していた。緑色の泥は覆いにもべっとりとつき、端からゆっくりと地面に垂れ落ち、まるで建物全体が緑の泥に沈んでいくようにすら見える。その緑が何か分からないが、塗料とは思えず、どうしてこんなふうに放置されているのかも分からなかった。

 もう複製品の販売も終わって、あとは取り壊すだけということだろうか。

 潮の匂いに混じって、湿った苔と黴、それから何かが腐ったような、下水のような悪臭がする。

 思わず後退った私は、湿った音を聞いて地面を見下ろすと、敷地内に広がる泥を踏んでしまったことに気づいた。靴の端からじわりと緑の泥水が染み出す。

 私は逃げ出すように家に帰った。

 

 

 部屋の扉を掴んだときに、私はいつの間にか自分の手に緑の泥で汚れていることに気づいた。私の手のひらについた泥は当然、鈍い銀色のステンレス製のドアノブにも付着してしまう。あとで洗う必要があると思いながらドアノブを回して、部屋に入り、まっすぐに洗面所に向かった。洗面所の蛇口にも緑の泥が付着する。私は水を流して手を洗った。ハンドソープを取って泡立てると、石鹸の匂いが鼻先を掠めて悪臭が薄くなり、手が白い泡に包まれて安堵したが、それは一時のことだった。水で泡を洗い流すと、手はまだ汚れたままだった。

 ハンドソープのポンプヘッドも黒ずんだ緑に汚れる。洗っても洗っても、なかなか緑が落ちない。私はちっともきれいにならない手を眺めた。タオルで手を拭うと、ふわふわとした生成りのタオルはたちまち鈍い緑の泥を吸ってまだらになった。

 足もとがベタベタするのを感じて見下ろすと、いつの間にか、足はくるぶしまで泥だらけだった。振り返ると、点々と床に緑の足跡がついていた。

 足跡からじわりと泥水が染み出し、フローリングに広がっていく。

 私は緑の泥が広がっていく床の上を歩いて洗面所を出た。廊下の壁にも暗い緑が侵食していた。悪臭に息が詰まる。新しいタオルで鼻を覆ったが、タオル程度で防げないのか、もはや臭気が鼻の粘膜にこびりついているのか、どうにもならなかった。

 歩くたび湿った音を立てる廊下を歩いていくと、奥の部屋の前に、知らない扉があった。ドアノブも扉もまだ泥に侵食されていない。

 扉を開けると、そこは真っ暗だった。


 扉を開けただけだ。

 なかに入った覚えはなかったが、私はいつの間にか、暗闇のなかに立っていた。

 そこで初めて私は怖くなった。何が起こっているのか分からないのが怖い。どうしてこうなったのかが分からない。

 あたりに手を伸ばしたが、手に何も触れなかった。さっき扉の前に立っていたはずだ。その扉もない。

 私はその場にしゃがみ込んで四方に手を伸ばしてみた。何もない。ただ床はベトベトとして湿っている。しゃがみ込んだときに床についた手に、粘度のある柔らかい濡れたものが触れる。息をするたび、黴と何か腐ったような匂いが鼻につく。どこかで天井から泥が垂れているのか、ぴちゃぴちゃと湿った音が立つ。おそらく、ここもあの濃緑の泥に覆われているのだろう。

 しばらくすると、真っ暗だと思われた空間にぼんやりと何かがあることに気づいた。黒い影のようなものが見える。人の背丈ほどの大きさに泥を積み上げた山の影に思えた。近寄ろうとして、私はそれが動いていることに気づいて怖くなった。

 それはゆっくりと歩いていた。いや、歩くといっても足も手もあるかどうか分からない。ただ不規則に揺れながら動いている。目が慣れるに従って詳細が少しずつ明らかになってくる。それは濃緑の泥に覆われた化け物のような何かだった。泥を滴らせながら、どこに向かうわけでもなく、ゆっくりと歩いている。それは一つではなかった。そこここに同じような塊がある。ある塊はずるずると動いて、ぴちゃぴちゃと湿った音を立て、ある塊はその場に深く沈み込んでいき、ある塊は手を伸ばすようにその形を変形させていた。

 どこかで何かが断続的に振動するような低い音がする。その音は、うごめく塊から聞こえてくるようだった。


 私はそれらから逃れるようにおそるおそる歩き始めた。ここがどこか、あれが何かも分からないが、早くここから逃げ出したかった。悪臭はひどく、息が詰まりそうで、絶え間なく頭痛がする。もはや空気自体が濃緑の泥に覆われている気がした。吸い込むだけで泥を吸っているのではないかという気分になる。頭が朦朧とする。

 あてどなく歩くうちに、ふと前方にぼんやりとした光が見えることに気づいた。曖昧模糊とした暗闇のなか、白く光る何かがある。私はそこに向かって歩いた。

 それは巨大な香炉だった。

 四隅に脚があり、香炉の壁面は細かな植物紋様が刻まれている。渦巻く葉と枝が繊細にうねうねとして絡み合い、その先に、柔らかそうな花弁がつけた花が開いている。暗褐色の表面は、雨上がりの水たまりに浮かぶ皮膜のように、さまざまな色が渦巻いて見える。

 いつの間にか、あたりはやや明るくなっていた。

 それは頭上高く、一面に星空が広がっているからだった。暗い藍色の空に小さな白い星がかすかにまたたいている。その星の合間から、濃緑の泥が滲み出て滴り落ちていた。

 私はよろよろとしながら香炉に辿り着いた。

 あの香炉だ。

 私が夜ごとに香を焚いていた。ずっと眺めていたから分かる。毎夜、香が燃え尽きるまで眺めていたのに、不思議なことに、その植物紋様の配置を覚えることができなかった。

 今ならその理由が分かる。目の前にある巨大な香炉の紋様は静かにゆっくりと形を変えていた。極彩色の葉が広がり枝が伸びて絡み合い、蕾が開き、花が開き、また萎れていく。

 香炉に辿り着いた私は香炉のなかを覗き込んだ。

 そこには巨大な眼球が埋まっていて、私を見返していた。生きた瞳は瞳孔を開き、覗き込む私をまっすぐに見ている。目蓋がないため閉じることはないが、瞳孔の揺らぎ、虹彩の海溝みたいな網の目状の紋様、白い結膜、それらはうっすらと濡れて生きているように見えた。ただ涙のように泥が滲み出ている。

 叫んだかもしれない。私は気を失いかけて、その場に崩れ落ちた。香炉の縁に捕まろうとしたが、香炉は濡れていて……、いや、私の手が泥に汚れているためだろう。上手く掴めず、その場に崩れ落ちた。

 少しの間、本当に気を失っていたのかもしれない。泥に顔をつけて倒れていた私は立ち上がろうともがいた。何もかもが濃緑の泥にまみれている。地についた手が手と思えない。単なる泥の塊に見えた。ぞっとして泥を拭おうとしたが、手の泥を拭っても、手の形さえはっきりしない。

 なにこれと私は言った。声を出したつもりだったが声は出なかった。ただ低いうめき声のような音が響いただけだった。

 

 その音は先ほど暗闇のなかで聞いた、振動するような低い音だった。 



  了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

泥の眼 すう @plumpot

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ