鉛筆スモッグ

阿州苛草

鉛筆スモッグ

 万年筆が壊れた。小遣いを貯めて買った物だ。ペン先だけではなく持ち手からも、今日までに滲じむ量が増えていった。人に言える訳は様々にある。

 

 ほつれたポケットの隙間から抜け落ちてしまって、私は不注意でそれを蹴飛ばしてしまってからに知った。道の端に転がったのを拾うと、紙に挟むクリップが嫌に開いて、キャップが馬鹿になっていた。または、夢で見た物を文字として、紙に写そうとした手が力んだ。変に割れたペン先から生まれたインクの溜まりが、輝きを失って無様に広がるのを冴えていく目で眺めたり。様々にある。


 平安時代には、和歌を綴った紙に香を焚いて意中の人へ送るというのがある。私はそれを教科書から知った時に、美しくも残酷な駆け引きだと思った。言葉で伝えようとする感情を、香りとしても伝えようと試みて。一文字にかかる重みは変わり、文面となり、それを香りと共に知って、豊かな言葉の世界に包まれる。だけれど、その香りを知ったとき、微笑んで呆けるか、顔に表情が消えるかは分からない。そのように思ってもなお、筆を確かに走らせて、一人眺める月の満ち欠けの遅さを知る。哀れゆえの鋭く、無邪気な美しさがある。


 私の万年筆から描かれる文字は、紙に馴染むまで、レモンの匂いが仄かに香る。インクを補充する際に、静かに隠れて香水を忍ばせるからだ。万年筆を軽く振ってからでないと香水とインクが分離してしまい、文字が途切れ途切れの線になってしまう。可愛らしくも苦々しい。


 壊れてしまった万年筆と書きかけの手紙だけが残った。思い立ってから数日は、流れるように言葉を紡ぐことができた。しかし肝心の、思いを書く前に、壊れた。文字が書けなくなった。インクをいくら足しても無理で、何度振っても変わらなかった。


 友人や家族から隠れて買った香水を、手紙の上に置いた万年筆の横に添えて、境内の下に埋めた。後ろめたさと恥ずかしさで、一人、夕暮れに影を作りながら手早く土を掘った。元通りに地面を均す頃には月が明瞭に浮かび、街灯の点滅に虫が群がる。私しかいない、寂れた場所だった。


 河川敷にあるこの神社からは、川向うの学校が見える。校庭はもちろん、校舎には人気が無かった。手紙を思い出して、軽い息が溢れた。友人に紛れて下らないことを持ち掛けるの精一杯で、二人で帰ると喉奥が詰まり、毎回同じような会話しか出来ない。


 人通りの少ない道を選んで、家へと足を進めた。夜の喧騒は間延びして、遠くから聞こえるばかりで、風の音が残る静けさだった。いつか、今日の馬鹿げたことを伝えられるように、私はなりたい。具体的なことを明日に任せる前に、せめて寝る直前までは考えようと思った。明るい光が漏れる扉に手をかけて、私は家へと帰った。

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鉛筆スモッグ 阿州苛草 @asyuuirakusa314

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