記憶の海に沈む名前
さあら
記憶
人は忘れることで生き延びる。
それでも、忘れてはいけないものが確かにある。
その街には「記憶保管所」があった。正式名称は〈市立記憶保存研究施設〉だが、誰もそんな堅苦しい名前では呼ばない。人々はただ、そこを「保管所」と呼んだ。
保管所では、人の記憶を保存できる。
事故、病気、老い、あるいは耐えがたい喪失によって失われる前に、大切な記憶を結晶化し、保管する技術が確立されてから二十年が経っていた。
私はその保管所で、記憶閲覧技師として働いている。
技師の仕事は、保存された記憶を本人、あるいは許可された遺族に閲覧させることだ。記憶は映像でも文章でもなく、もっと曖昧で、もっと生々しい。匂い、温度、感情、心臓の鼓動――それらすべてが混ざり合って、ひとつの「体験」として再生される。
他人の記憶を覗くことに、私はもう慣れていた。
慣れてしまったことを、時々ひどく怖いと思う。
その日、受付に置かれた依頼書を見て、私は手を止めた。
「記憶閲覧希望者:相沢 澪
対象記憶保持者:相沢 澪
閲覧理由:確認」
自分自身の記憶を閲覧する依頼は、珍しくない。だが「確認」という理由は、あまり見ない。
澪は午後三時、約束通り現れた。
年齢は二十代後半だろうか。肩までの黒髪、白いワンピース。どこか所在なさげに視線を彷徨わせる姿が印象的だった。
「今日は、どの記憶をご覧になりますか」
私がそう尋ねると、彼女は少し考えてから答えた。
「……私が、忘れている記憶です」
曖昧な答えだった。
「もう少し、詳しく伺っても?」
「はい。でも、私にもよく分からなくて」
澪は胸に手を当てた。
「小さい頃から、ずっと引っかかっている感覚があるんです。何か大事なものを置き忘れてきたみたいな。名前を呼ばれた気がするのに、振り返ると誰もいない、みたいな」
記憶の欠落は、本人には空白としてではなく、違和感として残ることが多い。
「私の記憶、ここに保管されていますか?」
私は端末を操作し、彼女のIDを検索した。
一件の記憶結晶が表示される。
「あります。ただし……保存日時が特殊です」
「特殊?」
「保存されたのは、あなたが七歳の時です」
七歳。
記憶保存技術が一般化する前の、かなり早い時期だ。
「その頃の記憶を、自分で?」
「いいえ。保護者の申請によるものですね」
澪の眉がわずかに寄った。
「……父と母は、何も言ってくれませんでした」
「閲覧しますか」
少しの沈黙の後、彼女は頷いた。
閲覧室は、白く静かな空間だ。
澪はリクライニングチェアに身を預け、ヘッドレストに頭を乗せる。私は記憶結晶をセットし、再生準備を整えた。
「途中で中断することもできます。無理はしないでください」
「大丈夫です。たぶん……知りたいんです」
私は再生ボタンを押した。
――世界が、切り替わる。
夏の匂いがした。
夕方、少し湿った風。セミの鳴き声。小さな手が、誰かの手を握っている感触。
『澪』
名前を呼ぶ声がする。
視界が揺れ、下を見ると、小さな足。赤いサンダル。
これは、七歳の澪の記憶だ。
隣にいるのは、同じくらいの背丈の男の子だった。
短い髪、日に焼けた腕。彼は笑っている。
『一緒に海、行こうって言ったじゃん』
海。
遠くに、きらきら光る水平線が見える。
胸の奥に、説明のつかない感情が込み上げてくる。
懐かしさと、切なさと、強い不安。
次の瞬間、場面が暗転した。
夜。
雨の音。大人たちの慌ただしい声。誰かが泣いている。
『……見つかりません』
『そんな……あの子が……』
男の子の姿は、もうどこにもいない。
七歳の澪は、ずぶ濡れで立ち尽くしていた。
小さな胸が苦しくて、息ができない。
『私が……私が離れたから……』
記憶はそこで、強制的に遮断される。
閲覧が終わった。
澪は、しばらく目を閉じたまま動かなかった。
やがて、ぽろりと涙が零れる。
「……あの子」
声が震えている。
「名前、思い出せないんです。でも……私の、大事な人」
私は、記憶データの付帯情報を確認していた。
そこには、通常なら表示されないメモが残されている。
「澪さん」
「はい」
「この記憶には、続きがあります。ただし……あなたが意図的に封印したものです」
彼女は目を見開いた。
「私が?」
「はい。保存時の記録によると、あなた自身の意思で、この記憶の一部を削除し、保管を依頼しています」
七歳の子どもが、自分の記憶を封印する。
それは、よほどのことだ。
「続きを……見られますか」
「可能です。ただ、覚悟が必要です」
澪は、深く息を吸った。
「忘れたまま生きるのが、ずっと苦しかった。なら……ちゃんと苦しみたい」
私は、再生を再開した。
――雨の夜の、その先。
海辺。
男の子は、防波堤の向こうに落ちていた。
澪は、手を伸ばしていた。
でも、届かなかった。
『助けて』
その声が、今も耳に残っている。
救急車の赤い光。
大人たちの怒鳴り声。
『澪、見ちゃだめ!』
誰かが、彼女の目を覆う。
そして、七歳の澪は思ったのだ。
――忘れなきゃ。
――覚えていたら、生きていけない。
記憶の最後に、小さな声が残っていた。
『ごめんね。
忘れるけど、あなたを大事じゃなくなるわけじゃない』
再生が終わった。
澪は、声を上げて泣いた。
子どものように、嗚咽を漏らしながら。
「……私、ずっと逃げてた」
しばらくして、彼女は言った。
「でも、忘れても、消えないんですね」
「ええ。記憶は、形を変えるだけです」
胸の奥の違和感。
理由のない寂しさ。
それらは、忘れた記憶の影だった。
「名前……」
澪が呟く。
私は、そっと付帯情報を見せた。
「相沢 蒼」
彼女は、その名前を何度も口の中で転がした。
「蒼……」
涙が、静かに止まる。
「これから、どうしますか」
澪は、しばらく考えてから微笑んだ。
泣き腫らした目で、それでも確かに前を見て。
「忘れたことも、思い出したことも、全部持って生きます。
それが、私の記憶だから」
彼女が帰った後、閲覧室には静寂が戻った。
私はふと、自分の胸に手を当てる。
誰にも見せたことのない、私自身の記憶の結晶が、ここにもある。
忘れることで守ったもの。
思い出すことで、ようやく救われるもの。
記憶の海は、深く、静かで、残酷だ。
それでも人は、そこに潜り続ける。
大切な名前を、胸に沈めたまま。
記憶の海に沈む名前 さあら @rilarunomori
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