もしも、ゾンビの世界に突然放り込まれたら。

@okamuramyao

Ep.1

 僕はブラック企業で働く社畜、24歳だ。

 もう何もかもが嫌になっていた。

 上司には毎日怒鳴られ、同僚には陰で笑われ、二年付き合った彼女には先月、あっさり振られた。


「はぁ……」


 ため息が、夜の廊下に溶ける。

 このまま生きていて、何かいいことがあるんだろうか。そんな考えが、頭の奥にこびりついて離れない。


 時刻は深夜二時。

 終電はとっくに終わり、帰る手段はない。今夜は宿直室に泊まるしかなさそうだった。


 夕食も食べていない。

 寝る前に、あれを飲もう。そう思って、会社を出て最寄りのコンビニに寄った。レジ袋の中で、冷えたストロング缶が軽く音を立てる。


 帰り道、ふと顔を上げた瞬間だった。


「あ……」


 雲の切れ間を、白い光が一瞬で横切った。

 流れ星だ。


 子どもの頃、よく願い事をしたのを思い出す。三回唱えれば叶う、なんて本気で信じていた。今となっては、そんな純粋さもどこかに置いてきてしまったけれど。


 歩きながら、缶のプルタブを引く。

 強いアルコールが喉を焼き、空腹の身体に一気に回った。足元が少しだけ浮くような感覚。


 夜空を見上げたまま、僕は小さく呟いた。


「……みんな、死んじまえばいいのに」


 冗談でも、怒りでもない。

 ただ、疲れ切った心から零れ落ちた言葉だった。



 ◆



「……いてて」


 鈍い頭痛とともに目が覚めた。

 宿直室の床には、空になったストロング缶が三本転がっている。昨夜は、さすがに飲み過ぎたらしい。


 時刻は朝七時半。

 目覚ましをかけていなくても、この時間に目が覚めてしまう。身体のほうが、もう社畜の生活リズムを覚えてしまっていた。


「とりあえず……昨日の続き、やるか」


 独り言を呟きながらスーツに着替え、オフィスへ向かう。

 だが、廊下に出た瞬間から、胸の奥に小さな違和感が引っかかった。


 静かすぎる。


 いつもなら、誰かしらの足音や、空調の低い唸りが聞こえる時間だ。

 それが、今朝は何もない。


「あれ……?」


 エレベーターの前に立つ。

 表示灯は消えたまま、うんともすんとも言わない。


「……動いてない?」


 嫌な予感が、じわりと広がる。

 ふと周囲を見回して、僕は言葉を失った。


 床や壁に、走る無数のヒビ。

 天井の一部は剥がれ落ち、配線がだらしなく垂れ下がっている。


「……このビル、こんなにボロかったっけ」


 視線の先、廊下の窓ガラスが割れていた。

 昨日まで、確かに無事だったはずだ。


「……昨日は、割れてなかったよな」


 嫌な汗が背中を伝う。

 ゆっくりと窓に近づき、外を覗き込んだ瞬間、思考が止まった。


「……え?」


 街が、壊れていた。


 ビルの外壁は崩れ、道路は裂け、全てがなぎ倒されたかのように崩壊している。

 まるで、大地震でも直撃した後のような光景。


「……夢、じゃないよな」


 自分の声が、やけに遠く聞こえる。

 頬をつねる余裕すらなかった。


「……寝てる間に、地震でもあったのか? いや……さすがに、気づくよな」


 震える手でスマートフォンを取り出し、電源を入れる。

 画面は点いたが、表示されたのは圏外の文字だけだった。


 通信は、完全に途絶えている。



 ◆ 



 非常階段を駆け下り、外へ出た。

 途中の踊り場で、思わず足が止まる。


 階段の壁や床には、乾いた血の跡のようなものがべったりとこびりついていた。引きずられたような筋や、手形らしき跡もある。

 ところどころ階段自体が破損しており、ただ事ではないことは一目で分かった。


 それでも――。


 血の跡はあっても、人間の姿はどこにもない。


「誰かいませんかー!」


 声を張り上げる。

 だが返ってきたのは、建物に反響した自分の声だけだった。

 その音もすぐに、街の中へ吸い込まれて消える。


「……誰か一人くらい、いるよな?」


 自分に言い聞かせるように呟き、僕は小走りで街へ出た。

 誰かいませんか。

 そう何度も叫びながら、ただ人影を探して走った。


「……コンビニ」


 昨夜、酒と夜食を買った店だった。

 自動ドアは開いたまま、店内は荒らされ、商品が床に散乱している。

 レジには金が残ったままだ。


 喉の渇きを思い出し、棚から水のペットボトルを一本だけ拝借する。

 罪悪感を覚える相手すら、もういない気がしていた。


 そこからも、ひたすら街を走った。

 スーパーマーケット。

 住宅街。

 商店街。


 どこにも、人はいない。


 ただ、地面には引きずったような血痕が点々と残り、それが僕の不安を静かに、確実に膨らませていった。


「……とりあえず、家に戻ろう」


 民家の前に倒れたままの自転車を見つけ、持ち主に断ることもなく拝借する。

 ペダルを踏み込みながら、胸の奥に重たいものが沈んでいくのを感じていた。


 街には、もう誰もいない。

 そんな考えを、僕はまだ、はっきり言葉にできずにいた。 



 ◆

 


 息を切らしながら、自宅のアパートの前に立った瞬間、僕は立ち尽くした。


 二階建ての古い木造アパート。

 外観は、確かに僕が住んでいたそれと同じだ。

 だが、外壁には大きな亀裂が走り、階段は途中から崩れ落ち、手すりは無残に曲がっている。


「…………」


 街の壊れ方からして、ここだけが無事だとは思っていなかった。

 それでも、四年も住んだ場所がこんな姿になっているのを見ると、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 軋む階段を慎重に上り、二階へ向かう。

 途中、踏み抜けそうな段があり、思わず足を止める。


 僕の部屋は、奥から三番目。

 ドアは、鍵が壊れたまま半開きになっていた。


「……ただいま」


 誰もいないと分かっていても、その言葉は自然と口をついて出た。


 部屋の中は、荒れ果てていた。

 家具は倒れ、引き出しは引き抜かれ、床には中身が散乱している。

 だが、妙なことに、金目のものが盗まれた様子はない。


 床に、乾いた血の跡が残っていた。

 点ではなく、擦れた筋になって、部屋の奥へと続いている。


「……なんだよ、これ」


 血の跡は、ベッドの脇で途切れていた。

 その先に何があったのか――考えるのを、やめた。


「……きっと、悪い夢だ」


 そう自分に言い聞かせる。

 昨夜は飲み過ぎた。頭がまともに働いていないだけだ。


 窓から風が吹き込み、破れたカーテンが静かに揺れた。

 気づけば、外はすっかり暗くなっている。


 きっと、寝て起きたら、いつもの世界に戻っている。

 きっと、きっと……。


 僕はそう願いながら、壁にもたれたまま、眠りについた。

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