憧れの先輩とセフレになった話

とうふゆっけ

第1話

 目が覚めたとき、最初に見えたのは、先輩の背中だった。

 眠っている彼女の肩が、呼吸に合わせてゆっくり上下している。


 シーツの上には、くしゃくしゃのティッシュと、使いかけのゴムの箱が転がっていた。

 お酒のせいか、記憶はぼんやりとしている。

 けれど、先輩の手つきの感触だけは、はっきり残っていた。


 少しずつ、思い出す。

 昨日、僕は憧れの先輩と、一夜を共にしたのだ。


 渡辺わたなべ由美ゆみ先輩。

 優しくて、明るくて、人懐っこくて、太陽のような笑顔が素敵な、憧れの先輩。


 昨日の夕方、先輩は教室の隅で、一人講義を受けていた。

 そして、どこか遠くを見るような表情で、涙を流していたのだ。

 僕は思わず声をかけた。

 すると、先輩は寂しそうな表情のまま、言った。


「ちょっとだけ、付き合ってくれる?」


 たまたま同じ授業を受けていて、たまたま話しかけただけの僕のことを、先輩は家に呼んだ。

 そして、あれよあれよと先輩の家に上がり込み、お酒と香水の匂いに包まれて、あっさりと一線を超えた。


 先輩が、小さくうめいて寝返りをうつ。

 毛布の隙間から、胸のかたちが少しだけ見えてしまって、僕はとっさに目をそらした。


「……ん」


 ゆっくりとまぶたが開かれ、先輩の瞳に僕が映った。


「おはよう」


 先輩は、かすれた声で笑う。

 眠そうに目を細めていたが、その姿すらも愛おしく思った。


「……おはようございます」

「朝から暗い顔だね。なんかあった?」

「別に、なにもないです」

「私が処女じゃなくてショックだったとか」

「そんなんじゃないですよ」


 先輩は口を閉じたまま口角を上げ、えくぼを作った。

 僕の好きな、先輩の、少し意地悪な笑顔だった。


 僕は、自分でも信じられないほどに、先輩のことが好きだった。

 もうずっと前から……なんなら生まれるよりもずっと前から、先輩のことが好きだった気さえしていた。


 大学では何をしていても、無意識に先輩の姿を探していたし、先輩が友達と話している横顔を見るたびに、金縛りにあったように動けなくなっていた。


 どうしようもないほど、先輩に恋していた。

 だから、先輩のことは、世界で一番大切にしたかった。


 それなのに、昨夜、いとも簡単に一線を超えてしまった。


 僕はベッドから立ち上がって、昨日脱ぎ捨てた服を一枚ずつ着ていく。


「今日は三限からでしょ? もうちょっとゆっくりしてけばいいのに」


 先輩があくびをしながら言う。

 毛布の中から伸びた腕が、テーブルの上のペットボトルを探していた。


「先輩」

「んー?」

「……先輩は、どうして僕なんかと寝たんですか」


 口にした瞬間、重いかと思ったが、言ってしまった言葉はもう戻らない。

 先輩はゆっくりと瞬きをして、それから、さっきと同じような、意地悪そうな笑みを浮かべた。


「君だって、昨日あれだけ熱かったくせに」


 からかうように、先輩は言う。

 僕は先輩と目を合わせることができず、返す言葉を見失ってしまっていた。


 先輩は、僕なんかが好きにはなってはいけない相手だった。


 なぜなら、先輩にはすでに、彼氏がいるから。


 同じ学部の人が話してるのを聞いて、なんとなく耳にした程度の噂話だったが、目撃証言もあって、認めたくはないけれど、多分、本当のことだった。


 それなのに、先輩は僕を家に呼んで、こうして同じ寝具の中で、夜を共にした。

 そして、僕は思ってしまった。


 本当は彼氏なんていないんじゃないだろうか。


 所詮はただの噂で、先輩に彼氏はいないんじゃないか。

 そんな、拗らせた童貞のような、気持ち悪い妄想をしてしまう。

 思っているだけなら、まだよかったのに、僕は愚かにも、聞かずにはいられなかった。


「……先輩」


 自分の声は、情けなく震えていた。


「彼氏、いるんですか?」


 先輩は、ペットボトルに残っていた水を飲み干してから、言った。


「いるよ」


 その瞬間、心臓をつねられたように、胸が苦しくなった。

 しかし、分かりきっていたことだった。

 そもそも、これほど魅力的な人に、恋人がいないという方が、おかしな話なのだ。


「……そうですよね」


 やめておけばいいのに、僕の口は勝手に動いてしまう。


「どんな人、なんですか」


 僕は、心のどこかで、先輩の彼氏がろくでもない奴だと聞けることを、期待していた。


 先輩は、少しだけ視線を落とした。

 さっきまでの軽い表情とは違う、柔らかくて、壊れそうな笑顔だった。


「すごく優しい人だよ。優しくて、周りがよく見えてて、気遣いもできて……」


 胸の奥が、きしむ音がした。


「どんな話でも聞いてくれるし、困ってたらすぐに助けてくれるし、一生一緒にいたいと思える、世界で一番大好きな人」


 淡々とした声だったが、その一言一言を、妙に大切そうに言っているように聞こえた。


「……で、でも!」


 耐えきれずに、言ってしまう。


「先輩を泣かせるような、ろくでもない人なんでしょ?」


 言った瞬間、空気が変わったのが分かった。

 先輩は、ぴたりと笑うのをやめて、僕をまっすぐ見た。


「ねえ」


 静かな声だった。


「悪口はやめて」


 責めるようでも、怒鳴るわけでもない。

 ただただ、言葉通りの否定だった。


「……じゃあ、なんで」


 喉の奥が熱くなる。


「なんで、僕なんかと寝たんですか」


 少しの沈黙のあと、先輩は小さく言葉を紡いだ。


「寂しかったから」


 そこで、先輩の言葉は一度区切れたけれど、僕は言葉を挟むことができなかった。


「ほら、心の隙間を埋めるために誰かと寝ることなんて、よくあることでしょ?」


 淡々とした口調だった。

 僕は、これ以上、先輩の言葉を聞きたくないと、強く思ってしまった。


「……そうですね」


 最初からわかっていたはずだ。

 僕は先輩にとっての特別な人じゃない。

 先輩にとっての僕は、たまたま同じ授業を受けていて、たまたま声をかけられて、たまたま拒絶しなかっただけの、都合の良い、他人でしかない。


「先輩」


 それでも、最後に、言わずにはいられなかった。


「僕、先輩のこと、好きです」


 一瞬、時間が止まったように感じた。

 先輩は、困ったように眉を下げて、笑った。


「えっと、ごめんね」


 絶望的なほどに、優しい笑顔だった。


「君とは、ただのセフレがいいから。好きとかは言わないで」


 胸の奥で、何かがぎゅっと潰れたようだった。

 視界がぼやけそうになって、僕は先輩から顔を背ける。


「……すみません」


 これ以上、この場所にいる理由がなくなってしまった。

 僕は鞄を持って、玄関へ向かう。

 まともに靴を履けなくて、転けそうになりながら、玄関の扉を開いた。


「またね」


 背中越しに、先輩の声がした。

 振り返ることも、返事をすることも、できなかった。

 僕はもう、先輩のことが分からなかった。


 大学へ向かう電車の中で、先輩からメッセージがきた。


『気が向いたら連絡して』


 僕は既読だけつけて、スマホを仕舞った。


「……あれ?」


 思わず、僕は電車でつぶやいてしまった。

 昨日、僕は先輩と連絡先を交換した覚えはない。


「なんで先輩、僕の連絡先を知ってたんだろ……」






 ◇ Side 渡辺由美 ◇






 私の初恋は、大学生のときだった。

 相手は、一学年上の、佐々木ささき拓実たくみ先輩。


 上京してきた私は、頼れる友達もおらず、右も左も分からなかった。

 ある時、履修登録のミスに気がついた。

 一人で事務室にやって来たが、鍵が閉まっていて入れなかった。


 途方に暮れていると、突然背後から、男の人に声をかけられた。


「どしたの? この世の終わりみたいな顔して」


 それが、拓実先輩だった。

 明るく染めた茶髪に、微妙にサイズ感の間違った服、そして、屈託のない笑顔。

 最初の印象は、チャラそう、だった。


 警戒しながらも、私は履修登録をミスしてしまい、困っていたことを告げた。

 すると、先輩は明るい声色で言った。


「履修登録むずいよね、分かる分かる。ちょい見してみ?」


 そう言って、先輩は私のスマホを覗き込んできた。


 結論から言うと、私のミスは大したことではなかった。

 スマホから簡単に修正できるのだが、機械に詳しくない私は「登録済み」という文字を見て、履修登録を終えてしまったと思い込んでいたのだ。


「俺も昔焦ったわ。あの画面良くないよな? そりゃ履修登録終わっちゃったと思うって」


 先輩は笑いながら「初めての履修登録祝いな」と、自動販売機でジュースを奢ってくれた。


 それから、先輩と連絡先を交換した。


「何かあったら気軽に連絡して。喋る相手がいなさすぎて寂しくてさ」


 私は人生で初めて、男の人の連絡先を手に入れた。

 そのことが嬉しくて、その夜はずっと、自宅で先輩の連絡先を眺めていた。


 それからしばらく経ち、私はすっかり先輩と仲良くなっていた。


 そして、気がつくと、どうしようもないくらい、拓実先輩のことが好きになっていた。


 人生で、これほど男の人を好きになったことはなかった。

 気がつけば、先輩を目で追いかけていて、先輩と話せた日は、それだけで幸福感で溢れた日になった。


 そして、半年が過ぎたある日。


「拓実先輩! 私と、付き合ってください……っ!」


 私は、玉砕覚悟で先輩に告白した。

 先輩は人気者だったし、私のような地味な後輩を相手にしてくれるとは思っていなかったけれど、それでも、自分の気持ちを抑えることができなかった。


 先輩は私の告白を聞くと、驚いたように目を丸くした。

 それから、嬉しそうな笑顔を見せてくれた。


「俺でよければ、よろこんで」


 こうして私は、憧れの拓実先輩と付き合うことになった。


 それから、私たちはデートを重ねて、お互いのことをもっと深く知り合った。

 一緒に映画を見たり、水族館に行ったり。

 カフェでご飯を食べて、趣味のことや、今までの人生についても教えあった。


 そして、付き合ってから、ちょうど三ヶ月が経った日。

 私は、拓実先輩の家に行き、そこで初夜を迎えた。


 二人とも緊張していて、お互いに触れる手も、どこかぎこちなかった。

 初めて先輩が私の中に入ってきた時は、少し痛かった。

 けれど、先輩は私のことを、どこまでも優しくしてくれた。


 愛し合ったあと、先輩の腕の中で、私はつぶやいた。


「……先輩、けっこう上手ですね」


 彼は、恥ずかしそうに真っ赤になっていた。


「実は俺も初めてだったんだけどな」

「えっ、そうなんですか?」

「念願の童貞卒業。これで、仲間内で馬鹿にされずに済むぜ」

「ふふ、よかったですね」


 二人の汗を吸い込んだシーツの上で、私たちは笑いながら眠りについた。

 この時、私は幸せの絶頂にいた。

 こんな日々が、この先もずっと、続いてほしい。

 心から、そう願っていた。




 けれど、現実はそうはならなかった。




 ある日、デートの約束の時間になっても、先輩は来る気配がなかった。

 連絡を入れると、謝罪とともに「忘れていた」との返事が来た。

 デートの最中も、同じ話を何度も繰り返すようになった。


 私は先輩が心配になって、一緒に病院へ行った。

 診察が終わると、医師はカルテに目を落としたまま、重苦しい声で言った。


「若年性アルツハイマーです」


 その言葉の意味を理解するのに、私は数秒を要した。


「進行すれば、身近な人のことも分からなくなってしまう可能性があります」


 言葉が出なかった。

 あんなに元気だって先輩が、病気だという事実が、信じられなかった。


 その日は、どうやって家に帰ったのかすらも、覚えていない

 食欲はなくて、私たちは、ベッドに横並びに座った。

 先輩は、作ったような明るい笑顔で言った。


「安心してよ。他の何を忘れたって、由美のことだけは絶対に覚えてるから」


 きっとその言葉は、本心だったと思う。

 けれど、彼の病気は、意思の力でどうにかできる範疇を超えていた。


 先輩の記憶は、少しずつ、けれど確実に、ぼろぼろと崩れ落ちていった。


 昨日の出来事を忘れ、私の大学の学部を忘れ、私の家の場所を忘れた。


 それでも、先輩は明るく振る舞い、できることを全力でやっていた。

 常にメモ帳を持ち歩き、必死に日々の出来事を忘れないように書き留めていた。


 ある夜。

 先輩の腕の中で、私は、先輩が小さく震えていることに気がついた。


「先輩……大丈夫ですか?」


 先輩は、消え入るような声で、つぶやいた。


「……うん。平気だよ、へいき」


 背中に回された腕が、痛いほど私を締め付ける。

 私は涙を堪え、わざと明るい声を出した。


「だいじょうぶですよ」


 私は彼の素肌を、優しく撫でた。


「もし忘れても、私のテクで思い出させてあげますから。先輩、あんなに気持ちよさそうだったし、きっと体が覚えてるから、すぐ思い出しますよ」


 先輩は涙目で笑ってくれた。


「……はは。たしかにな、由美のテクなら思い出せるかも」


 そうして、私たちは耐え難い現実から逃げるように、もう一度体を重ねた。

 しかし、そんなものは気休めでしかなく、現実から逃れることはできない。




 平穏な日常は、突然に壊された。

 いつものように、私が先輩の部屋で夜ご飯を作っていた時のことだった。


 帰宅した先輩が、キッチンにいた私を見て、目を見開いた。


「だ、誰だ!?」


 一瞬、先輩は冗談を言っているのだと思った。

 けれど、先輩の表情は真剣そのものだった。


「ど、どうしたんですか、先輩? 私です。先輩の彼女の由美ですよ」


 できる限りの笑顔で近づこうとした私を、先輩は突き飛ばした。

 床に倒れ込んだ私を、先輩は怯えたような目で見下ろしていた。


「勝手に人の家に入り込んで何してるんだ」


 アパートに、先輩の怒号が響く。


 全身に悪寒が走り、信じ難いほどの恐怖と絶望が襲う。

 私は、必死で彼にすがり寄った。


「じょ、冗談はやめてよ……。先輩、私、由美だよ」

「来るな。それ以上近寄ったら、警察を呼ぶ」


 彼が、スマホの画面を見せる。

 その時、アパートの外から、「どうしたんですか!?」と近隣の人たちの声が聞こえてきた。


「……っ!」


 私は、迫り上がってくる嗚咽を我慢しながら、立ち上がった。

 そして、私は逃げるように部屋を飛び出した。


 外は土砂降りだった。

 とっさだったので、財布もスマホも全部部屋に置いてきてしまった。

 行く当てもなく、ただ、近くの公園で雨に降られていた。

 寒さからか、恐れからか、体の震えが止まらなかった。


 気が付くと、私は公園で一人、泣いていた。


 その時、私を打ちつけていた雨粒が消えた。

 誰かが、私に傘をさしてくれたのだ。

 振り返ると、そこにいたのは、先輩だった。


「先輩……!」


 先輩の手には、私のカバンが持たれていた。


「……俺の部屋に、これがあった」


 私がカバンを受け取ると、先輩はもう一つ、私に傘を渡してくれた。


「ごめん……本当に、ごめん……ごめん……」

「先輩……もしかして、思い出して……」

「由美のことも忘れるなんて、ろくでもないやつだ、俺……」


 傘をさしていたのに、先輩の頬は濡れていた。

 私は、力いっぱい、先輩の胸に抱きついた。


「……そんなこと、ないよ」


 先輩は何も悪くない。

 先輩は、いつでも私のことを思いやってくれる、とても優しい人……。


 けれど、だからこそ、先輩は自分を責めてしまう。

 仕方のないことなのに。病気のせいなのに。

 私を忘れてしまったことを、責めて、傷ついてしまう。


 どうにかして、先輩をこの苦しみから救ってあげたい。

 けれど、私にはどうすることもできなかった。


 その後、先輩のご両親から連絡があり、彼は大学を休学して実家に戻り、療養することになったという。

 今の所、病気が治る見込みはないらしい。


 夜、私は一人で自宅に帰ってきた。

 いつもと変わらない部屋が、妙に静かに感じた。

 視界がぼやけて、鼻の奥から、つんとした悲しみが込み上げてくる。


「うっ……ああ……」


 一人きりになると、急に嗚咽が込み上げた。

 胸の奥から溢れ出てくる悲しみを、止めることができなかった。


 悲しくて、悲しくて、涙が止まらなかった。

 彼に忘れられたことよりも、私が彼に自責の念を与えてしまったことが、何よりも辛かった。


 先輩の力になりたいのに、私にはどうすることもできない。


 私にできることは、ただ一つだけだった。




 ◇




 それから、一年余りの時が過ぎた。

 彼の母親が言うには、少しずつ回復しているものの、完治は見込めないという。


 この春、彼は、大学に復学したということだった。


 私は、必死になって彼を探したが、見つけることはできなかった。

 あっという間に一日が終わり、私は一人で、夕方の講義を受けていた。


「大丈夫ですか?」


 その時、ふと懐かしい声に、話しかけられた。

 振り返ると、そこには、先輩がいた。

 彼は黒髪になって、少し落ち着いた雰囲気になっていたけれど、優しい目元は変わっていなかった。


「……あ、突然すみません。なんか先輩、この世の終わりみたいな顔してたんで……」


 自分では気づいていなかったが、私は、涙を流していたようだった。

 急いで、涙を拭う。


「僕で良ければ、話くらい聞きますよ? ……その、変な意味じゃなくて!」


 あの時から、何も変わらない……。

 そこにいたのは、優しくて、お節介な、拓実先輩そのものだった。


「……じゃあ、ちょっとだけ、付き合ってくれる?」


 そうして、私たちは部屋に来て、お酒を飲み、体を重ねた。

 彼は、やはり、何もかもを忘れてしまっていた。

 私の弱いところも、キスの仕方も、かつて交わした愛の言葉も。


 けれど、こうしている間だけは、かつての幸せな日々が戻ってきたようだった。

 私は、懐かしい多幸感に包まれながら、その日は穏やかな眠りについた。


 目が覚めると、彼はすでに起きていて、ベッドに座っていた。

 軽い会話を交わした後、彼は服を着ながら聞いてきた。


「先輩は、どうして僕なんかと寝たんですか」


 その言葉を言ったあと、彼は少し後悔したように顔を伏せた。

 私は、誤魔化すように意地悪く笑った。


「君だって、昨日あれだけ熱かったくせに」


 本当のことなんて、言えるはずがなかった。

 私があなたを愛していること。

 あなたが私を愛してくれていたこと。

 でも、あなたは病気で、それを忘れてしまったこと。


「……先輩。彼氏、いるんですか?」


 私はペットボトルの水を飲み干してから答えた。


「いるよ」


 いるよ。ずっと、私の目の前に。

 あなたが私の彼氏なんだよ、先輩。


「……そうですよね。どんな人なんですか?」


 私は、視線を落とした。

 先輩と出会ってから、今までの、楽しかった思い出を、一つ一つ、丁寧に思い出していた。


「すごく優しい人だよ。優しくて、周りがよく見えてて、気遣いもできて……」


 彼への思いを並べるたびに、幸せだった日々が思い出されて、胸が張り裂けそうになった。


「どんな話でも聞いてくれるし、困ってたらすぐに助けてくれるし、一生一緒にいたいと思える、世界で一番大好きな人」


 先輩が私を覚えていなかったとしても。

 私は、先輩とずっと一緒にいたいと思ってるんだよ。


「……で、でも! 先輩を泣かせるような、ろくでもない人なんでしょ?」


 違う、やめてよ。

 彼は……あなたは、とても優しくて、素晴らしい人なんだよ。


「ねえ。悪口はやめて」


 彼は黙り込んだ。

 そして、聞いてきた。


「なんで、僕なんかと寝たんですか」


 僕なんか、なんて言わないで。

 先輩は、ずっと私の心の支えだったんだよ。


「寂しかったから」


 だから、あなたがいなくなって、私は、ずっと寂しかった。

 よくないことだって、分かってる。

 それでも、少しでも、あなたと一緒にいたかった……。

 ただ、それだけなんだよ。


「ほら、心の隙間を埋めるために誰かと寝ることなんて、よくあることでしょ?」


 沈黙を埋めるように、私はそう口にした。

 すると、彼は言った。


「先輩。僕、先輩のこと、好きです」




 その言葉を聞いた瞬間、時間が止まった気がした。




 私が、一番欲しかった言葉だった。


 けれど、私は彼の気持ちに応えてはいけない。


 彼は、どんなに頑張っても、いつか私を忘れてしまう。

 そして、私たちが親密な関係になるほど、彼は、自分を強く責めてしまうだろう。


 そんなの、耐えられなかった。

 大好きな人が、自分を責めて、傷ついてしまうなんて。


「えっと、ごめんね」


 私は笑った。

 自分にできる、精一杯の、優しい笑顔で。


「君とは、ただのセフレがいいから。好きとかは言わないで」


 ごめんね。

 本当に、ごめんね……。


 あなたとずっと一緒にいたい。

 私も大好きだよって、あなたを抱きしめながら、伝えたい。


 でも、これ以上は、近づいてはいけない。


 あなたに近づいて、また、あなたが自分を傷つけてしまうくらいなら。

 私は、恋人にならなくていい。


 それが、私にできる、ただ一つのことだった。


「……すみません」


 彼は、震える足で玄関に向かった。


 これで良かったんだ。


 先輩がまた、私と関係を作って……。

 それを思い出せなくて、そして、自分を傷つけてしまうくらいなら。


 私たちは、これだけの関係でいるのが、一番なんだ。


「またね」


 私はそうつぶやいた。


 次に会う時には、きっとまた初対面になっているのだろう……。


 溢れ出る涙を抑えられないまま、最後に、彼の背中を見送った。


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