第1話

石扉の向こうは、思っていたより――狭かった。


「……あれ?」


 ヒロシは、足を止めた。


 通路は、人が二人並んで歩けるかどうか程度の幅。天井も低く、背の高い人間なら頭をぶつけそうだ。壁も床も、無骨な石造り。湿気を含んだ空気が、じっとりと肌にまとわりつく。


 もっとこう、だだっ広い洞窟とか、壮大な遺跡とかを想像していたのだが。


「思ったより……地味だな」


「第一層だしね」


 背後から、モルディオの声がした。


「演出に力を入れるのは、もっと先だよ。最初からクライマックスだと、疲れるでしょ?」


「そういうもんなのか……?」


 ヒロシは半信半疑のまま、ゆっくりと歩き出す。


 一歩進むごとに、靴底が石床に擦れる音がやけに大きく響いた。自分の呼吸音まで、はっきり聞こえる。


(……静かすぎないか)


 さっき、唸り声が聞こえた気がした。  気のせいだったのだろうか。


「なあ、モルディオ」


「何だい?」


「モンスターって、どこにいるんだ?」


「この先」


「ざっくりだなー」


「前方に集中しているとは限らない、って言えば満足かい?」


「不安しか増えない説明やめい」


 ヒロシは思わず声を荒げ、すぐに口を押さえた。


「……今の声、聞こえたかな」


「うん。たぶん」


 心臓が、急に早鐘を打ち始める。  剣も魔法もない。ポケットの中にあるのは、財布とスマホと鍵。


(あ、マズいなぁ。完全に丸腰じゃん……)


 ヒロシは、無意識に拳を握りしめた。


 そのとき。


 ――ガリ。


 前方の暗がりから、何かが石を引っ掻く音がした。


「……っ!」


 ヒロシの体が、反射的に強張る。


 音は、ゆっくりと近づいてくる。 規則的ではない。引きずるような、不揃いな足音。


「モ、モルディオ」


「うん?」


「来てる?」


「来てるね」


「来てるね、じゃない!」


 思わず小声で叫ぶ。


「え、えっと、どうすればいい!? 戦う!? 逃げる!?」


「どっちでもいいよ」


「適当すぎない!?」


 モルディオは、ヒロシの肩の高さまでふわりと浮かび、冷静に言った。


「選択肢は三つだ。 戦って勝つ。 戦って負けて死ぬ。 逃げてダンジョンとは無縁の生活に戻る」


「一個、最悪なの混ざってるんだけど!?」


 その間にも、影は確実に近づいてきていた。


 暗闇の中から現れたのは――  犬、のような形をした何か。


 ただし、脚は三本しかなく、体毛はところどころ剥げ落ち、目は左右で大きさが違う。口元からは涎が垂れ、呼吸のたびに、低く湿った音を立てている。


「……うわ」


 思わず、本音が漏れた。


「第一層のモンスターにしては、わりと当たりだよ」


「何処が当たりなんだよ!」


「見ての通り、動きが鈍い」


 獣は、ヒロシを見つけると、ぎこちなく体の向きを変えた。 三本脚で、よろよろと距離を詰めてくる。


 ――逃げろ。


 頭では分かっている。

 走って、扉の方へ戻ればいい。


 だが。


 足が、動かなかった。


(……あ)


 自分でも分かる。これは恐怖だ。


 金縛りみたいに、体が言うことをきかない。  目だけが、獣の動きを追っている。


「キミ」


 モルディオの声が、やけに近く聞こえた。


「逃げるなら、今だよ」


「……っ」


 獣が、唸り声を上げた。

 牙が、光を反射する。


 その瞬間、ヒロシの脳裏に浮かんだのは――  さっきまでいた、あの六畳一間の部屋だった。


 何も起きない。何も変わらない。ただ、日付だけが進んでいく場所。


(……ここで)


 ここで、逃げたら。


 きっとまた、同じ日々に戻る。

 それ自体は、安全で、正しくて、賢い選択だ。


 でも。


 ヒロシは、喉を鳴らして唾を飲み込んだ。


「……クソ」


 震える足に、力を入れる。


「体験版、だろ……!」


 そうだ。 これは“体験版”。


 無理なら、帰ればいい。 生きていれば。


 ヒロシは、近くに落ちていた石を拾い上げた。 拳大の、ずっしりとした重み。


「モルディオ!」


「何だい?」


「俺、今からめちゃくちゃダサい戦い方すると思う!」


 モルディオはヒロシを持っている石に目を向ける。


「まぁ、だろうね」


 獣が、距離を詰める。あと数歩。


 ヒロシは、息を吸い込んだ。


(……死にたくない)


 その気持ちだけが、妙に澄んでいた。


 ヒロシは、叫び声と一緒に、石を振り上げた。

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