白貝庸の半世
桜川九龍
第1話 火傷の痕
これは、一人の男の実話を基にした私小説である。
春先の午後。多くの人が食後の眠気に襲われていたであろう頃に、僕は北陸のある都市で生を受けた。 産声を聞いた産婦人科医の第一声は
「この子は東大に行く」
だったそうだ。そのひと言が後の母親のネグレクトに繋がるとは知る由もない。
僕が覚えている一番古い記憶は、胸に大火傷を負った二歳の頃だ。
お邪魔したお宅の廊下を歩いているときに、来客者のためにお茶を用意している最中のおばさんと、僕は出会い頭でぶつかった。
お盆の上に載せられていたコーヒーカップは僕を目掛けて落ちてきた。その光景はスローモーションのようでもあり、一瞬のことでもあった。幸いなことに、コーヒーは顔にはかからず、首元から胸元に飛び散った。その時の熱さや痛みは覚えていない。祖母に服を脱がされ、胸元をタオルでゴシゴシと擦られた記憶と共に、僕の胸には大きなケロイドが残った。
親が転勤族で、僕は三歳の時に北陸から関西へと引っ越した。マンモス団地の五階で新しい生活が始まり、クリスチャンでもないのに、僕はカトリックの幼稚園に通うことになった。
それっぽい想い出として、キリスト生誕の劇をやった覚えがある。 確か、役は羊。 聖堂を見上げるとステンドグラスがあって、そこから射し込む橙色の光が好きだった。
ある日のこと。 縄跳びの縄を、うまく結ぶことができなかった僕は先生の前で何度もやり直しさせられた。困ったときに助けてくれる存在はいない。途端に僕は不安になった。周りに居たはずの他の子たちもいなくなり、頼れる存在だった先生にも無視されたようなそんなことは初めてのことだった。
同じことができない。それだけのことで誰も知らない世界に立たされたような不安を僕は感じた。
僕は特にヤンチャだったり、問題児という訳ではなかったと思うが、好奇心が旺盛で、思いつくと、すぐに行動に移してしまう少し散漫な子どもだった。だから、自分が興味が持てないことに対して集中力が続かない子どもだった。
ある日。スーパーで品出しをしていたオバサンが落とした空箱を、僕が拾って渡したことがあった。 オバサンは「ありがとう」と言ってくれた。
『ありがとう』と言われて、『いいこと』をしたと思った僕は褒められたくて母親の方を向いた。
ところが、母親は呆れたような顔をして僕を見ていた。何でだろう。僕は途端に不安に襲われた。
「あのオバサン、お母さんにぶつかっても何も言わんと行ったんやで? そんな人に余計なことせんでえぇのに、あんた、何でいらんことすんのや」
突然、怒られたことを僕はうまく受け入れることができなかった。褒めてくれると期待した自分の気持ちや、おばさんの笑顔がぐちゃぐちゃになっていく。痛い。苦しい。僕は何ごともなかったフリをした。そうすることで泣かずにすんだ。
後に母親の口から語られたことだが、母親は予科練出身で、特攻隊に志願していた父(祖父)から、酷く厳しい『しつけ』をされていたという。無意識のうちに、母親は僕にも同じことをしていたのだろうか。そんな風に思うようになったのは僕も『人からされて嫌だったこと』を、無意識のうちに人にする負の連鎖を始めてからだった。
僕はどんなに叱られても、母親のことが好きだった。母親という壁があることで安心できた。 卒園式の前日、母親は着付けに合わせて髪を美容院でセットを済ませていた。髪形が崩れるからと居間で、座ったまま眠る母親の隣で僕は眠った。 僅かな時間でも母親と離れることが、不安で怖かった。
白貝庸の半世 桜川九龍 @i_am_yo
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