第2話 衰えたことにしたかった

 異変に気づいたのは探索を始めてから一時間ほど経った頃だった。


「あれ?」


 俺は足を止めて、周囲を見回した。


 おかしい。


 確かにこのダンジョンには何度も来ているはずなのに、見覚えのない道に迷い込んでいた。


 Eランクダンジョン「東京第二十三」は、構造がシンプルなことで知られている。

 単純な洞窟型で、分岐も少なく、迷う心配はほとんどない。初心者向けのダンジョンとして推奨されている理由の一つだ。


 なのに――今、俺の目の前には見たことのない空間が広がっていた。


 洞窟ではない。


 そこは巨大な地下空間だった。


 天井は暗闘に消え、どこまで続いているかわからない。

 壁面は黒曜石のように滑らかで、かすかに赤い光を放っている。


 そして何より――空気が違う。


 Eランクダンジョンの穏やかな空気とは比較にならない、濃密な魔力の気配。

 全身の毛穴が開き、肌がピリピリと痺れるような感覚。


 これは……。


『え、なにこれ』

『急に雰囲気変わった?』

『こんなエリアあったっけ?』


 視聴者三人のコメントが流れる。


 俺は静かに周囲を警戒しながら、状況を分析した。


 考えられる可能性は二つ。


 一つは俺が道を間違えて、別のダンジョンの入口に迷い込んだというパターン。

 ダンジョン同士が地下で繋がっていることは、稀にある。


 もう一つは──。


「……これ、未発見エリアか?」


 ダンジョンは生きていると言われている。


 構造が変化したり、新しいエリアが突然出現したりすることがある。特にここ数年、そうした報告が増えていた。


 もし、俺が今いる場所が「未発見エリア」だとしたら。


 それはつまり――。


『待って、なんか来る』


 視聴者のコメントに、俺の体が反射的に動いた。


 後方に跳躍。


 次の瞬間、俺がさっきまで立っていた場所を、巨大な何かが薙ぎ払った。


「――っ!?」


 地面が砕け、岩が飛び散る。


 俺は着地しながら、その何かを視認した。


 それは獅子だった。


 ただし、普通の獅子ではない。


 体高は三メートルを超え、全身が燃え盛る炎に包まれている。

 たてがみは溶岩のように赤く輝き、瞳は黄金色に燃えていた。


 口を開くと、熱波と共に咆哮が響き渡る。


 空間そのものが震えた。


 そして俺は、その魔物の正体を知っていた。


 十年前。ダンジョン出現初期に──俺は何度もこいつと戦ったことがある。


 ──炎獅子イグニス。


 Sランクモンスター。


 本来ならA級以上のパーティでなければ挑むことすら許されない、最高峰の強敵。


「……マジかよ」


 俺は呟いた。


 なぜEランクダンジョンに、Sランクモンスターがいる?


 いや、答えは明白だ。


 ここは「未発見」のダンジョンだ。東京第二十三ダンジョンの一部ではない。この場所が偶然、未知の超高難度ダンジョンに繋がって迷い込んでしまったのだ。


『は?』

『嘘でしょ』

『S……Sランク!?』


 コメント欄が騒然となる。


 視聴者三人。同接三人の底辺配信で、Sランクモンスターとの遭遇。


 これは、絶体絶命のピンチ――のはずだった。


 普通なら。


「はぁ」


 俺はため息をついた。


 面倒くさい。


 本当に面倒くさい。


 できれば見なかったことにして、さっさと帰りたい。

 明日も仕事があるし、そろそろ眠いし、何よりこの配信を見ている視聴者は三人だけだ。誰も俺が逃げたところで文句は言わないだろう。


 けれど。


「……逃げられる状況じゃないか」


 炎獅子イグニスは、すでに臨戦態勢に入っている。


 逃走を図れば背中から焼き尽くされるだろう。あの炎のブレスは範囲も威力も桁違いだ。


 なら、選択肢は一つしかない。


「やるか」


 俺は、腰の短剣に手をかけた。


 十年ぶりに。


 本気を出す時が来たらしい。


 「Grooooooo!!!!」


 炎獅子イグニスが、大地を蹴った。


 三メートル超の巨体が信じられない速度で迫ってくる。燃え盛る炎のたてがみが尾を引き、流星のように俺に向かって突進してきた。


 普通の冒険者なら、この時点で終わりだ。


 Sランクモンスターの速度は、人間の反射神経では対応できない。

 認識した時にはすでに遅く、巨大な爪に引き裂かれているか、炎のブレスに焼き尽くされているか。


 だが──。


「遅ぇ」


 俺は呟きながら、横に一歩。


 たったそれだけの動作で、炎獅子の突進を躱した。


 巨体がすぐ横を通り過ぎていく。熱波が頬を撫でる。けれどそれだけだ。

 爪の一本も、炎の一片も、俺の体には触れなかった。


『!?』

『今の……』

『避けた……?』


 視聴者三人のコメントが流れる。


 俺自身、少し驚いていた。


 十年も現場を離れていたのに、体は覚えている。

 筋肉の動かし方、魔力の流し方、敵の動きを読む感覚。

 すべてが、まるで昨日まで戦っていたかのように──。


「……衰えたと思ってたんだけどな」


 独り言が口をついて出る。


 炎獅子イグニスは、突進の勢いのまま地面に着地し、振り返った。


 黄金の瞳が、俺を捉える。


 獣の本能が告げているのだろう。目の前の人間は、見た目通りの存在ではない、と。


 低い唸り声。


 そして次の瞬間、炎獅子の口が大きく開いた。


 これは――ブレスだ。


 Sランクモンスター「炎獅子イグニス」の得意技。口から放たれる超高熱の炎は、Bランク冒険者の防御魔法すら一瞬で蒸発させる威力を持つ。


 普通なら、この時点で詰み。


 だが俺は、静かに右手を掲げた。


「【障壁】」


 呟くように紡いだ言葉と共に、俺の前方に半透明の壁が出現した。


 次の瞬間、炎獅子の口から灼熱の奔流が放たれる。


 轟音。


 熱波。


 視界を埋め尽くす紅蓮の炎。


 けれど――俺の【障壁】は、びくともしなかった。


 炎が障壁に当たり、左右に分かれていく。ま

 巨大な岩に激流がぶつかるように、Sランクモンスターのブレスが、俺の前で無力化されていた。


『は?』

『嘘だろ……』

『なにこれなにこれなにこれ』


 コメント欄が騒ぎ始める。


 が、俺はそれを気にしている余裕がなかった。


 いや、正確には――気にしていなかった。


 十年ぶりの戦闘。十年ぶりの、本気。


 体の奥底で、何かが目を覚ましていく感覚があった。


 封印していたはずの力。忘れようとしていた感覚。「最強」と呼ばれていた頃の、あの日々が蘇ってくる。


「……仕方ないか」


 俺は障壁を維持したまま、左手で短剣を構えた。


 この短剣は、何の変哲もない鋼の刃だ。魔法付与もされていないし、特殊な素材でもない。ダンジョン素材で作られた魔法武器と比べたら、おもちゃみたいなものだ。


 けれど――関係ない。


 武器なんて、結局は使い手次第だ。


 俺は短剣を握る手に、魔力を込めた。


 淡い光が、刃に宿る。


 これは十年前、俺が独自に編み出した技術。魔力を武器に収束させ、切れ味と威力を飛躍的に向上させる方法。今でこそ「付与強化」として知られる技術だが、当時は俺だけができる「特異技術」として恐れられていた。


 炎のブレスが途切れる。


 炎獅子は息継ぎのために、一瞬だけ攻撃を止めた。


 その隙を、俺は逃さなかった。


 地面を蹴る。


 加速。


 瞬間移動にも見える速度で、俺は炎獅子との距離を詰めた。


「――っ!」


 炎獅子が反応する。巨大な前足を振り上げ、俺を叩き潰そうとする。


 けれど、遅い。


 俺の方が、圧倒的に速い。


 振り下ろされる爪の下を潜り抜け、俺は炎獅子の喉元に肉薄した。


 そして――。


 短剣を、一閃。


 銀色の軌跡が、闇を切り裂く。


 次の瞬間、炎獅子イグニスの体が――真っ二つに裂けた。



◇ ◇ ◇



 静寂が地下空間を支配した。


 俺の目の前には二つに分かれた炎獅子の亡骸が転がっている。


 燃え盛っていた炎は消え、巨体は急速に魔力を失っていく。やがて肉体は光の粒子となって分解され、後に残ったのは拳大の赤い結晶だけだった。


 炎獅子の核。


 Sランクモンスターのドロップアイテム。市場価格は、軽く数千万円を超える希少素材だ。


「ふぅ」


 俺はため息をついた。


 十年ぶりの本気。


 思ったより体は動いた。衰えていると思っていたが、そうでもなかったらしい。

 いや、もしかしたら最初から衰えてなんかいなかったのかもしれない。


 ──俺はただ「衰えたことにしたかった」だけで。


「……まあ、いいか」


 独り言を呟きながら炎獅子の核を拾い上げる。


 ちょうどいい臨時収入だ。


 そんなことを考えながら、ふと気づいた。


 視界の端に何かが点滅している。


 スマートフォンだ。


 配信アプリが激しく通知を送ってきている。


「……あ」


 俺は自分が配信中だったことを思い出した。


 まずい。


 今の戦闘、全部配信に乗っていたのか?


 慌ててスマートフォンを取り出し、配信画面を確認する。


 視聴者数――128,439人。


「……は?」


 俺は画面を二度見した。


 同接三人だったはずの配信が十二万人を超えている。


 コメント欄は濁流のように流れていた。


『やばいやばいやばい』

『なにこれ見ました???』

『Sモン一刀両断ってマジ????』

『誰かこれ見てる!? リアタイで見てる人いる!?』

『俺今日誕生日なんだけど最高のプレゼントもらった』

『切り抜き師どこ!? 今すぐ来て!!!』

『透明人間さん何者なの……』

『C級ってなんだっけ???』

『おいおいおい待てよ』

『嘘だろ……嘘だと言ってくれ……』


 スパチャの通知も止まらない。


【スパチャ ¥10,000】神回でした……

【スパチャ ¥5,000】え、何が起きたの???

【スパチャ ¥50,000】今日から推します

【スパチャ ¥3,000】同接3人の底辺じゃなかったんか……

【スパチャ ¥100,000】これは伝説の回


 俺はスマートフォンを持つ手が震えるのを感じた。


 いや、違う。


 これは喜びで震えているんじゃない。


 恐怖だ。


 ──目立ってしまった。


 十年間、俺が最も避けてきたこと。

 誰にも注目されず、静かに生きていくこと。それが、たった一瞬で崩れ去った。


「……くそっ」


 俺は呟いた。


 今すぐ配信を切りたい。切って、逃げて、何事もなかったかのように明日から会社に出勤したい。


 けれどもう遅い。


 十二万人が見ている。そして、切り抜き動画が拡散されるのは時間の問題だ。明日には、日本中がこの映像を見ているだろう。


 Sランクモンスターを一撃で倒した、謎のC級冒険者。


 話題にならないわけがない。


「……はぁ」


 俺は、深くため息をついた。


「えー……あー、その……皆さん、こんばんは。透明人間です」


 カメラに向かって、ぎこちなく語りかける。


「えっと、今のは……何て言うか、まあ、その……運が良かったというか」


『運で草』

『Sモンを運で倒すな』

『謙遜が下手すぎる』

『十年ぶりに声出して笑った』


「いや、本当にそうで……というか、このダンジョン、どこなんでしょうね。多分、未発見のダンジョンに迷い込んだと思うんですけど」


『まだいるの!?』

『早く出て!!!』

『危険すぎるでしょ!!!』


「あ、はい。出ますね。帰ります」


 俺は踵を返し、来た道を戻ろうとした。


 が。


 その時、視界の端で何かが動いた。


 振り返る。


 暗闇の奥から、新たな気配が近づいてくる。


 一つじゃない。


 二つ。三つ。四つ。五つ――いや、もっと。


 無数の赤い瞳が暗闘から俺を見つめていた。


「……うそだろ」


 炎獅子イグニスは群れで行動する習性がある。


 俺が倒したのは群れのリーダーだけだ。


 残りの群れが目覚めた。


『ちょ』

『待っ』

『うわあああああ』

『逃げて逃げて逃げて』


 コメント欄が悲鳴で埋まる。


 視聴者数はさらに増えていた。200,000人を超えている。


 俺はもう一度ため息をついた。


「……仕方ないか」


 そう言って、再び短剣を構えた。


 三十分後。


 俺は完全に疲弊した状態で地上に戻ってきた。


 結局、炎獅子は全部で八体いた。


 全部倒した。


 一体も逃さず、一体も見逃さず。


 Sランクモンスターを八体。同接三人の底辺配信者が。Eランクダンジョンに入ったはずなのに。


 どう考えても、おかしな話だ。


 配信の視聴者数は、最終的に三十五万人を超えていた。


 スパチャの総額は——確認するのが怖いので、まだ見ていない。


 ダンジョンの入口を出ると、夜の新宿の街並みが広がっていた。ネオンの光が目に染みる。


 入った時には誰もいなかった入口付近に、今は黒塗りの高級車が何台も停まっていた。


「……何だよ、これ」


 呆然と呟いた瞬間、車のドアが開いた。


 中から降りてきたのは黒髪ロングの女性だった。


 年齢は二十代半ばくらいだろうか。黒いスーツに身を包み、鼻の上には知的な印象を与える眼鏡をかけている。


 美人だ。それも、モデルか女優かと思うほどの。

 けれど、その表情には一切の感情がなかった。氷のように冷たく、鋭い。獣を思わせる警戒心が、その瞳の奥に宿っていた。

 彼女は真っ直ぐに俺の前まで歩いてくると、懐から何かを取り出した。


 黒い手帳。


 開くと、そこには金色のエンブレムが輝いていた。

 俺はそのエンブレムに見覚えがあった。


 いや——嫌というほど知っている。


 国家ダンジョン管理局特務課。

 通称、「ダンジョン警察」。

 ダンジョン関連の重大事件を扱う、国家機関の中でも最高機密に分類される部署だ。


「桐生透さんですね」


 女性が感情のない声で言った。


「私は国家ダンジョン管理局特務課の神崎凛と申します。少々、お話を伺わせていただけますか」


 それは命令だった。拒否権なんてないということを俺は知っていた。


「配信、まだ切ってないんですけど」


「構いません。むしろ、このまま続けてください」


「は?」


「あなたの配信は現在、リアルタイムで五十万人以上が視聴しています。今切れば、余計な憶測を呼ぶでしょう」


 五十万人。


 さっき見た時よりまた増えている。

 俺は思わず天を仰いだ。


 静かに生きたい。

 ただそれだけなのに、なぜこうなる。


「……はぁ」


 何度目かわからないため息をついて、俺は神崎凛と名乗る女性の後について歩き始めた。


 これが——俺の「底辺配信者」生活が終わった日。


 そして、「透明人間」が日本中にその名を轟かせることになった、最初の一日だった。

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