セーブル・サニーサイド

尾谷金治

第1話 散髪

ディスタウンの空は、今日も今日とて鉛色に塗り潰されていた。

酸性雨がキャンピングカーのルーフを叩く、不規則で重苦しいリズム。それが、この移動式なんでも屋「ケミカルキッチン」における唯一のBGMだ。もっとも、客なんてものは今日も来ない。ドアをノックするのは、風か、あるいはたちの悪い借金取りくらいのものだ。

車内には、紫煙がけだるげに漂っていた。

セーブル・サニーサイドは、運転席の後ろに設えられた粗末なソファに深く沈み込んでいた。口端に咥えたオリジナル銘柄「ビルド」のフィルターを噛み潰し、肺腑から灰色の煙を吐き出す。

ラッキーストライクを模して、ジャンクな葉っぱを調合したその煙草は、喉を焼くような刺激と、安っぽい甘い香りが同居している。

「あー……」

セーブルが、天井のシミを睨みつけながら呻いた。

視界の端で、黒く伸びた前髪が鬱陶しそうに揺れる。彼女の癖っ毛は、手入れをサボるとすぐに爆発したような鳥の巣になる。研究に没頭していたここ三日ほど、鏡すら見ていない。

「おい、ヒーター」

「なんでしょうか、博士」

即座に応答があった。

声の主は、キッチンカウンターの横に鎮座していた四角い電気ストーブだ。

ただし、その側面からは無骨なマニピュレーターアームが二本生え、底面にはキャタピラではなく多関節の脚部が備わっている。首のない胴体上部、本来なら操作パネルがある位置に埋め込まれた液晶画面には、ドット絵のような無機質な『瞳』が表示されていた。

「髪、伸びた。切れ」

「博士。前回カットしてからまだ三週間しか経っていません。それに、そのボサボサの原因は伸びたせいではなく、昨日風呂に入らずに寝たことによる寝癖と皮脂汚れが主な要因かと」

「うっさいな。いいから切んの。お前、私の言うこと聞けないわけ?」

「……了解しました。散髪モードへ移行します」

ヒーターの液晶の瞳が、呆れたように(そう見えるようにプログラムされているわけではないが、セーブルにはそう見えた)細められた。

ウィオォォ、と低い駆動音を立ててヒーターが立ち上がる。

彼の右腕のマニピュレーターが、ガチャリと音を立てて展開し、内部から櫛とハサミがせり出した。左腕からは掃除機のような吸引ノズルが伸びる。これぞ、セーブルが度重なる「思いつき」で実装した無駄機能の一つだ。

セーブルはのっそりと起き上がると、狭い通路の真ん中に置かれた丸椅子に、ドカリと腰を下ろした。

ヒーターが背後に回る。

電気ストーブ特有の、ほんわりとした熱気が背中に触れた。冬場のディスタウンは芯まで冷えるが、ヒーターが近くにいるだけで暖房いらずだ。

「今回はどうしますか? 前回同様、メンテナンス性を重視したショートボブで?」

「んー、適当でいい。前が見えりゃそれで」

「一番困るオーダーですね。……では、襟足は刈り上げ気味に整えます」

ジョキ、ジョキ、と小気味よい音が車内に響き始めた。

ヒーターの手際は、そこらの理髪店よりも遥かに正確だ。ミリ単位の誤差も許さない精密動作で、セーブルの黒髪を切り落としていく。

切られた髪が床に落ちる前に、左手の吸引ノズルがシュゴオォと吸い込んでいくため、散らかることもない。

「……博士、ここ数日、食事のバランスが偏っています。髪質が悪くなっていますよ」

「プロテインバー食ってんだからいいだろ。あとタバコ吸うのに邪魔だから、前髪もっと短くして」

「これ以上短くすると、額の広さが強調されますが」

「喧嘩売ってんのかテメェ」

軽口を叩きながらも、セーブルは目を閉じてその身を任せていた。

ヒーターの金属の指先が、時折うなじや耳裏に触れる。冷たい金属の感触と、彼自身の排熱の暖かさ。人間相手なら、たとえ同性であっても肌が触れれば鳥肌が立つほどの拒絶反応が出るセーブルだが、相手がコイツなら何も感じない。

ただの機械。自分が作り出した、便利な道具。

そう認識しているからこそ、ここは彼女にとって世界で一番安全な場所だった。

「終わりました、博士」

十分もしないうちに、ヒーターが告げた。

セーブルが目を開け、ヒーターの胴体に反射した自分の姿を見る。

ボサボサだった鳥の巣は消え、首筋が露わになったスッキリとしたショートヘアになっていた。

「ん、上出来」

セーブルは立ち上がると、首筋に張り付いた細かい毛を払おうとして――ふと、自分の着ているタンクトップの中に毛クズが入っていることに気づいた。吸引ノズルでも吸いきれなかった細かい髪が、胸元や背中に入り込んでチクチクする。

「あー、チクチクする。最悪」

「クロスを掛ける前にあなたが座ったからです。自業自得です」

「うっさい。……風呂入る」

その言葉と同時だった。

セーブルは、ヒーターの目の前で、着ていたタンクトップの裾を掴むと、躊躇いなくそれを脱ぎ捨てた。

薄暗い車内に、白磁のような肌が露わになる。

研究室(と呼んでいる車内スペース)に籠りきりの不健康な白さ。肋骨が薄く浮き出た華奢な身体つきだが、年齢相応の柔らかさはある。

彼女はそのまま、ズボンも、下着さえも、無造作に脱ぎ捨てていく。

そこには「見られている」という意識など微塵もない。部屋にあるタンスや冷蔵庫の前で着替えるのと、何ら変わりない動作だ。

ヒーターの液晶の瞳が、目前にある裸体を捉える。

だが、そこに情欲の色はない。MK3ユニットを外している現在の彼は、あくまで高度な演算処理を行うロボットに過ぎない。

「……博士。左の肩甲骨付近に、新たなあざが確認できます。昨日、機材搬入の際にぶつけたものと思われますが、痛みは?」

「あー? ああ、これか。別に痛くねえよ」

セーブルは全裸のまま、ヒーターの方へ背中を向けて確認させる。

その無防備な背中、くびれた腰、そして丸みを帯びた臀部。

ヒーターの電子頭脳は、それを単なる『生体データ』として処理していた。

《対象:セーブル・サニーサイド。体温36.5度、平熱。脈拍正常。体表面に軽度の汚れと、切断された毛髪の付着を確認。洗浄を推奨》

「シャワーユニット、お湯出る?」

「タンクの水量は十分です。加熱を開始します……完了しました。40度で給湯可能です」

「ん、サンキュ」

セーブルはあくびを一つ噛み殺すと、一糸まとわぬ姿のまま、車両後部の極狭シャワーブースへと歩いていく。

その足取りに合わせて、小ぶりな胸や腰の肉が自然に揺れる。

男たちが血眼になって探し回るような『女の肉体』がそこにあるというのに、この空間に漂うのは、色気というよりはもっと即物的な、生活の匂いだけだ。

バタン、とシャワーブースの扉が閉まる音。

直後、ジャーッという水音が響き始めた。

取り残されたヒーターは、床に脱ぎ捨てられたセーブルの汗と煙草と安っぽいシャンプーの匂いが染みついた布切れを、マニピュレーターでつまみ上げる。

「……洗濯が必要ですね」

彼は淡々と、それを洗濯カゴへと放り込んだ。

液晶の瞳は、変わらず無機質な光を放っている。

だが、もしここに『MK3』が接続されていたなら、今の光景に対して回路が焼き切れるほどのオーバーヒートを起こしていただろうことは、想像に難くなかった。

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