童話の国脱出記――頼むからエンディング見せてくれ

@novelkuma

第1話 漂流はカリキュラムに無かった

先に来たのは、塩水だった。


目を開けるより早く、塩気を含んだ水が喉の奥へ流れ込んで、反射で息を吸い込んだ瞬間、気道の内側を引っかかれるような痛みで身体がねじれた。


「ゴホッ……!」


手足が虚空をかいた。上がどっちで下がどっちかも分からない。身体がふわりと浮き上がったと思った次の瞬間、重たい手が足首を掴んで引きずり込むみたいに沈む。口を開けば水が入る。口を閉じれば息が詰まる。


(死ぬ)


頭が真っ白になりかけた、その刹那。やけに単純な考えが背中を叩いた。


(焦ったら死ぬ)


妙なほど、はっきりしていた。恐怖じゃない。警告みたいに。


俺はむちゃくちゃに腕を振った。どっちが上か計算する余裕なんてない。ただ「上」だと信じるほうへ、光が少しでも薄いほうへ。流れが服の裾を引っ張る。濡れた服は鉛みたいに重くて、脚は勝手に暴れて空回りした。


いったい、なんで。


どうして俺が、ここにいる?


最後の記憶は――無かった。


まるで誰かが俺の人生のフィルムをハサミでちょん切ったみたいに、「ここへ来る直前」だけがすっぽり抜け落ちている。図書館? 家? 学校? 馴染みの風景が一瞬で消えて、目の前にあるのは真っ黒な水だけだ。


そのとき、どこかで鈍い轟音がした。波が砕ける音。近い。


俺は肺に残った空気を絞り切って、最後に身体を弾くように上へ押し上げた。


――バシャッ!


頭が水面を突き破った。空気が肺に入ってきても甘いどころか、刃物みたいに冷たい。喉が焼ける。


「はっ……はっ……!」


周囲は海だった。果てのない濃紺の水面。水平線は見えない。代わりに見えるのは波だ。波はただの揺れじゃない。壁だった。盛り上がって、崩れて、また盛り上がる壁。


俺が息を吸う間すら、波が決めているみたいだった。


一度、息を吸う。次の波がうなじを殴る。水が鼻に入る。首が折れそうに反り、視界がひっくり返った。一瞬、水面の下へ沈む。水中は静かで、その静けさのほうが怖かった。


俺はまた浮上した。


「げほっ……!」


また息。また波。また水。


何回繰り返したか分からない。時間の感覚が切れていく。意識はあるのに、頭だけ半分寝ているみたいな感覚だ。「俺、まだ生きてるのか?」と思うたび、喉へ海水が流れ込んで現実を殴ってきた。


この状況が理不尽だ、なんて考える余裕はない。理不尽さは余裕のあるやつの感情だ。今の俺に許されているのは、獣の本能だけ。


(生きたい)


論文も借金もどうでもいい。とにかく、あと一回でいいから息をしたい。


身体がもう「泳ぐ」という動きをできなくなった。腕は掻くんじゃなく、振り回すだけになり、脚は蹴るんじゃなく痙攣みたいに震える。


それでも海は止まらない。


大きく盛り上がったうねりが俺を空中へ持ち上げた。その瞬間、波の谷の向こうで黒い帯がよぎった。


陸だ。


見えたからといって、力は湧かなかった。むしろ怖くなった。あそこまで行けるのか。今の身体で、それが可能なのか。確信がない。


でも、選択肢はない。


俺は歯を食いしばって腕を伸ばした。泳ぐというより、這うようなもがきだ。波が背中を押したかと思えば、次の瞬間には頬を叩いて進行方向をねじ曲げる。海は俺がどこへ行こうが興味がないみたいだった。ただ……俺の身体で遊んでいるみたいに。


「頼む……!」


声は風に噛み砕かれて消えた。


水は入り続け、俺は吐き続けた。目が痛くて開けていられない。視界が滲むたび、俺は頭を強く振った。ここで倒れたら、その先に「次」はない。それが分かりすぎるほど分かっていた。


そして、ある瞬間。つま先に何かが触れた。


砂か、石か。硬い感触。


反射で足を踏ん張る。もう一度。二度。身体が底を探し始めた。流れはまだ荒いが、もう沈まない。代わりに波が俺を押し飛ばす。海が最後にもう一回だけ残酷になろうとしているみたいに。


――そして、投げられた。


身体が砂に擦れた。肩がぐらつき、膝が折れる。俺は転がるように浜へ上がり、うつ伏せになった。


「はぁ……はぁ……!」


舌先がしょっぱい。唇もしょっぱい。まばたきをすると砂がまぶたに貼りつく。肘が熱くひりつき、手のひらから血の混じった海水が流れた。


俺は砂の上に寝転んだまま、しばらく息だけをした。息をすること自体が作業だった。心臓が肋骨の内側を叩いている。


ようやく首を回して海を見た。相変わらず黒く、相変わらずうねっている。さっきまで俺を飲み込もうとしていた海。


「……死ぬかと思った」


口に出して、やっと生きている実感が少しだけ湧いた。声が震える。格好いい台詞なんて出てこない。そんな余裕もない。


俺は身体を起こした。


日が沈みかけていた。燃えるような夕焼けじゃない。紫と墨が混ざった曖昧な光が、海面と空を押し潰している。


天気が悪いわけじゃないのに、気分が悪い。


単に遭難した恐怖とは違った。


この場所の空気そのものが、馴染まない。


前を見ると森があった。浜に沿って続く森。木は大きく、葉は密だ。


なのに……静かすぎる。


風で葉が揺れているのに、ざわめきがほとんどない。揺れているのに、静かだ。


(変だな)


野生は本来、静かじゃない。昼でも夜でも、何かが動き、何かが鳴き、何かが逃げる。俺の知っている自然は、うるさくて当たり前だった。


でもあの森は……生きているというより、息を殺して見張っている感じが強い。


まるで舞台裏のセットみたいに。あるいは誰かが筆で雑に描いて放置した絵みたいに。


逆に、海は。


海には音がある。波、うねり、遅れて寄せて砕ける荒い呼吸。


なのに、その音の隙間に、ひとつだけ混じっていた。


……俺が見ていないときでも、海が俺を見ている気がする。


説明したくない感覚だった。ここでそれを認めた瞬間、何かが確定してしまいそうで。


俺は無理やり首を振った。遭難して神経が尖っているだけだ。そう思い込もうとした。


海から目を離し、森を見た。森はさらに暗くなっていた。浜のほうにはまだ光が残っているのに、森の奥にはもう夜が座り込んだみたいだった。


(入るべきか。それとも……海岸線を歩くべきか)


浜沿いのほうが安全かもしれない。見通しが利くし、迷いにくい。だが海が近すぎた。さっきの流れがもう一度だけ俺を掴めば終わりだ。


かといって森へ入るのは……あの沈黙が重い。イノシシや蛇が出る可能性だってある。そういう危険は誰でも知っている。


問題は、あの森が「物理的な危険」だけを抱えているように見えないことだった。


闇の中で何かが身を縮めているような気配。


俺という異物を探っている、冷たくて粘つく視線。


俺は砂の上で立ち尽くしたまま、海と森を交互に見た。どちらも危険に見えた。そして、どちらかを選んだ瞬間、今の「分からない状態」が終わってしまいそうだった。


そのとき、遠くで淡い光が瞬いた。


最初は星明かりが水面に反射したのかと思った。だが光は規則的だった。ひとつ、ふたつ、みっつ。


動かない灯り。


俺は鼻を鳴らした。


風に乗ってくる匂い。塩気の向こうに、薄いが確かな匂いが混ざっている。


濡れた木が燃える焦げ臭さ。それに、ねっとりしたタールの匂い。


人がいる場所だ。少なくとも、俺の知っている基準では。


俺はそちらへ一歩踏み出しかけて、止まった。


背後で波が一度、大きく砕けた。ほとんど同時に森の奥でも――ごく小さく――何かが動いた気配がした。足音なのか、枝が折れる音なのか、断言できないほど小さな音。


でもその小さな音が、妙に俺のうなじを総毛立たせた。


まるで誰かが後頭部に冷たい息を吹きかけたみたいに。


俺は無意識に手を持ち上げた。何かを防がなきゃいけないみたいに。あるいは……この無秩序な状況を掴まなきゃいけないみたいに。


そのとき指先が、俺の意思と関係なく、ごくわずかに寄った。


親指と人差し指が触れ、中指がその下を支える。


とても古い癖。何かを直し、整えるときにいつも出る手癖。


手の中には何もないのに、指先に、重くて馴染んだ感触が触れた気がした。


そして一瞬だけ、指先が熱くなって、すぐ冷えた。


俺はびくっとして手を開いた。


(なんだ、今の)


錯覚か? 幻覚か?


心臓がもう一度、強く跳ねた。低体温のせいか、脱水のせいか。身体が身体じゃない。


俺は唇を噛んだ。


今大事なのはそこじゃない。幻覚だろうが何だろうが、ここで棒立ちしていたら本当に死ぬ。


俺はもう一度、灯りを見た。森を見た。海を見た。


どっちにしても、動かなきゃいけない。


だが最初の一歩をどこへ出すか――その選択は、思った以上に重かった。


今夜は、俺を放っておいてくれそうになかった。

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