アルゴス
@aipiro
アルゴス
アルゴスは、銀河系の中では比較的近い位置にある恒星だ。
数百光年先。私が今見ている光は、私が生まれるより前に放たれたものにすぎない。
大学院で天文学を専攻している私は、修士論文とは別に、夜間の観測時間を使ってこの星を追っていた。
理由は単純で、名前に惹かれただけだ。
ギリシャ神話に登場する、百の目を持つ番人。見ることだけを役割とした存在。その響きが、なぜか頭から離れなかった。
分類上、アルゴスは太陽とよく似た恒星だ。表面温度は約5800K、安定していて特筆すべき変動はない。
少なくとも、教科書の中ではそうなっている。変光星でもなく、連星でもない。観測しても、何も起きないはずだった。
そもそも、起きるはずがない。
私がしているのは、過去を覗いているだけなのだから。
最初の違和感は、露光条件を変えた直後だった。
露光時間をわずかに短くし、再度観測を行った。
特別な理由はない。単に前回のデータと比較したかっただけだ。
アルゴスは、いつも通り画面の中央に現れた。
点光源。変哲のない恒星。私は数値を確認し、無意識のうちに前回のログと並べて表示させた。
光度は0.01等の範囲で変化していた。
わずかな差だが、前回の操作と同じ方向に動く。
誤差の範囲内だ。
装置の揺らぎ、空気の状態、解析ソフトの癖。いくらでも理由は考えられる。
私は一度データを閉じ、もう一度だけ観測を行った。
条件は、前回と同じに設定したはずだった。
結果は、さらにずれた。
大きな変化ではない。グラフにすれば気づかない人もいるだろう。
それでも私は、画面から目を離せなかった。数値の動きが、どこか素直すぎる気がした。
私は観測条件を一つだけ変えた。
露光時間を、意図的に不自然な値にする。
しばらくして表示された結果は、その変更をなぞるように、同じ方向へ動いていた。
私は椅子にもたれ、息を吐いた。
笑ってしまいそうになる。偶然だ。そう考えるほうが、ずっと楽だった。
だが、同じ偶然が三度続く確率を、私は知っている。
翌日、私は前夜のデータをプリントアウトし、研究室に持っていった。
紙にすると、数字は妙に現実味を帯びる。画面で見ていたときよりも、はっきりと「揃って」見えた。
「誤差じゃないの?」
指導教官はそう言って、紙を軽く叩いた。
私は反論しかけて、やめた。誤差で説明できることは、分かっている。分かっているからこそ、ここにいる。
「装置を疑った?」
「はい。校正もしました」
「観測場所は?」
「同じです」
教官は椅子にもたれ、少し考えたあと、肩をすくめた。
「だったら、なおさらだ。太陽型の恒星だろ。変わる理由がない」
その言葉に、私は頷いた。
変わる理由がない。だからこそ、おかしい。
「もう一度やってみろ。条件を固定してな」
それは、安心させるための言葉だった。
少なくとも、その場ではそう受け取った。
研究室を出るとき、私は無意識に空を見上げた。
昼の空に、アルゴスは見えない。
見えないのに、そこにある。
その夜、私は別の観測装置を使った。
研究室に残っている、旧式の望遠鏡だ。感度も精度も最新のものには及ばない。
だからこそ、結果が一致しなければ、諦めがつく。
観測場所も変えた。
学内の屋上。街灯の光が邪魔をする、条件としては最悪の場所だ。
アルゴスは、やはりそこにあった。
数値は荒れていた。ノイズも多い。
それでも、私はある一点だけを見ていた。前夜と同じ操作を、同じ順番で行う。
結果は、遅れて現れた。
追いつくように、調整するように。
私は思わず笑った。
ここまで条件を崩しても、まだ合わせてくる。
「違うやり方」を試した。
意識的に、観測の順序を乱す。
迷いながら、手を止めてから、再開する。
それでも、結果は変わった。
変わり方まで含めて、こちらの手順をなぞっていた。
私は観測を止めた。
装置の電源を落とし、ログを保存せずに立ち上がる。
これで終わりだ。
そう思った。
だが、帰り際に振り返ったモニターには、見覚えのない時刻のデータが一行だけ追加されていた。
先ほどの操作に応えるかのように、光度の変化が記録されている。
言い換えれば、こちらの観測に反応しているのだ。
私は、しばらく動けなかった。
偶然ではない。
誤作動でもない。
そして、意図的とも言えない。
ただ、こちらが関わった結果だ。
私は椅子に戻り、もう一度電源を入れた。
今度は、何も考えずに。
アルゴスは、静かに、だが確かに、私の観測を待っていた。
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