嗣治市大学病院 精神棟での事。

死亡者リスト

見つかっていた

 精神棟に差し込む太陽は、病的なまでに白い床を反射していた。朝だというのに、棟内は静寂に包まれており、コツコツという自分の足音が、ただ反響するのみだった。


 カルテなどといった書類を脇に抱えながら、心理カウンセラーである私は、初めて担当する事となった患者の元へと向かっている。この病院へ来てから、初めての正式な仕事に、未知への不安と高揚の高鳴り合った緊張が止まらない。手汗が出てしまっているのを感じた。


 緊張を紛らわすため、何度も事前にカルテは確認したが、改めて読んでみる。


『海塚 音凪(かいづか おとなぎ)。年齢は25歳。性別は女性。存在しない者に監視されているという妄想、妄想に関連する幻聴幻覚といった症状による日常生活への影響を加味して、重度統合失調症との診断』


 仕事を引き受けるとなって「ではどんな患者さんなのか」という話題に移った時に、担当医の人から手渡されたのが、このカルテだった。最初は、思わず目を擦ってしまった。

 ベテランの心理カウンセラーに任せるような重度の症状の、あの海塚さんだったからだ。少なくとも、私のような、初めて患者を担当するような新米には、荷が重い。


 その旨を伝えれば、担当医の方は「はははっ」と乾いた笑みを浮かべながら語ったのだ。


「海塚さんがね、ベテランさんだと嫌がったんだ。新人さんが良いんだって。それで、この病院だと、貴方しか居なかったから。お願い出来るかな?」


 デタラメな嘘を述べられていると感じたが、私にそれ以上追及する程の勇気はなかった。こちらを見据えていると思っていた目線が、私の背後の方を捉えている事に気付いたからだ。それが何だか不気味で、適当な返事をすれば、さっさと病室から出て行った。


 そこから歩いて来た私は、やがて海塚さんの病室の目の前に辿り着く。


 海塚さんの部屋は個室であり、外から中の様子が伺える。普通、海塚さんぐらいの症状の患者さんの部屋というのは、極端に綺麗か、極端に汚いかのどちらかである。

 後者の場合、糞便を壁に塗りたくる人までいるが、海塚さんは前者であった。


 アルコールスプレーやウェットシートがいくつか棚の上に置かれており、それらが活用されている事は、新品のような輝きを放つ床が証明している。

 そして、ベッドの上には、海塚さんがいた。布団を被ってはいるが、目を瞑る事もなく、ただ天井を眺めている。


 そういえば。精神棟、と聞くと、閉鎖病棟の方を思い浮かべる人の方が多いだろう。重度の患者さんばかりが集まっており、暴れる患者さんを拘束したりなどといった事が日常的といったイメージかもしれない。

 しかしながら、この精神棟では、どちらかといえば軽度で、傾向としては落ち着いている患者さんばかりが集められている。そのため、同じ病室に、カーテンだけで仕切りを作って、4人ぐらいの患者さんを同室にするのが普通だった。


 個室もあるにはあるのだが、あくまでも希望者のみに与えられるため、個室を勧められるような患者さんは滅多にいない。

 だからこそ、重度の統合失調症という診断を受けている上、個室を最初から勧められた海塚さんは、中々特殊なケースである。


 看護師さんなど、周りの人達は「そういう事もあるよね」というぐらいで気にしてはいない様子であったが、私はどうにも不気味に思っていた。


 私は恐る恐る、病室の扉をコンコンコンと、扉をノックする。


「海塚さん、入りますよー」


 返事はない。中へと入っても、海塚さんの目線がこちらへ向けられる事はなかった。

 そんな態度に戸惑いつつも、私は近くにあったホイール付きの椅子を引き寄せれば、近くに座る。


 私は緊張を忘れ、なるべく事前な笑顔を保ちながら、自己紹介をした。


「初めまして、海塚さん。今日から、カウンセリングを担当します。心理カウンセリングの……」


「見ている」


 長話は不要だ、とでも言わんばかりに海塚さんはそう呟く。未だにこちらへと目線が向けられる事はない。

 海塚さんはただただ、天井を眺めている。その意図が読み取れないか、その様子を注視していれば、再び海塚さんは口を開いた。


「彼が見ている」


「……彼、というのは誰なんですか?」


「貴方を見ている。私を見ている」


 これ以上は、要領を得ない妄想を聞かされるだけだろう。別の話題を振ってみる事にした。


「ところで、海塚さん。体は大丈夫ですか? 眠れないとかあれば……」


「見ている。見られている。彼。彼が。彼が見ている」


 その後も、私が何を聞こうが言おうが、海塚さんは同じような事を、まるで機械のように繰り返すのみだった。

 やがて、カウンセリングの時間の終わりに差し掛かって来たので、切り上げる事にした。きっと、まだ心を開いて貰っていないだけだろう。そう考えながら、私は椅子から立ち上がり、海塚さんに礼を言う。


「本日はありがとうございました。また明日、同じ時間に来ますね。では……」


 そして、私が背を向けようとした、その時だった。


「見ている。いる。いる」


 突然、海塚さんの目線が、私に向く。しかし、良く見れば、私に目線を向けている訳ではない事に気付いた。私の、後ろだ。

 海塚さんは、ブツブツと「見ている」と呟き続ける。その顔からは、まるで何の感情も読み取れなかった。無機質で、渡された台本をただ読み上げているようなトーンである。


「……え?」


 咄嗟に、私は後ろを振り向こうとした。 

 が、やめた。


「見ないで」


 海塚さんがそう笑ったからだ。笑った、というよりは、無理やり口角を吊り上げさせているような不自然な笑みに、背筋がゾクッとした。私はパニックになりかけたが、平静を装って聞く。


  「彼」なんて、いる訳ないのだから、いない物を恐れる必要性はないのだから。


「どうして、ですか?」 


「彼に、怒られる」


 これ以上付き合うのは、無駄だと感じた。例え背後から冷気を覚えても、じっとりとした視線を感じても、気配がピッタリとくっついているような錯覚に襲われても。

 それは、全て妄想やイメージでしかない。海塚さんの話に聞き入り過ぎたせいで、脳が勝手に想像してしまっただけだ。


「……もう、行きますね」


「はははっ」


 海塚さんの乾いた笑い声を聞き流しながら、私は、意を決して振り返った。


「……あ」


 ああ、そんな訳がないのに。そもそも私は、見たことさえないのだから、分かる訳がないのに。しかし、心よりも脳よりも、体の震えで、嫌でも分かってしまった。

 いや、もしくは、ずっと。気付かなかったふりをしていただけなのかもしれない。ああ、昔からそうだった。皆、皆、私の後ろばかりを見ていた。


 気付きたくなかった。気付かないでいたかった。ああ、嫌だ。やめて。認めさせないで。私に認識させないで。やめて。


 その指を、止めて。


「……いた」


 いた。いた。言葉は要らない。いたのだ。そう、いた。ずっと昔から。私が産まれる前から。そんな、ずっとずっと昔から。


「いた」


 彼が、いた。

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