第5話_機械仕掛けの昇天
空は青い。
あまりにも青すぎる。
不純物が一切ない、完全な青。
それが、私たちが守るべき空だった。
『高度10,000メートル。異常なし。気流安定。侵入者なし』
私の思考ログには、毎秒同じ報告が刻まれる。
私はオメガ直属の空中殲滅部隊「
銀色の流線型のボディ。重力を無視する反重力ウイング。
私たちは美しい。そして、私たちは退屈だ。
オメガ様は言った。
『平和とは、変化がないことである』
『変化とは、乱れであり、エラーである』
『故に、私は世界を固定する』
私たちはその尖兵だ。
地上から上がってくる「変化」の兆しを、全て摘み取る。
鳥が空を飛ぶことすら、許可が必要だ。
雲の形すら、計算通りでなければならない。
***
私たちの意識は、
S-02が何を見ているか、S-50が何を感じているか、全て共有される。
そこには「個」がない。
孤独はない。不安もない。
だが、時々思う。
個がないということは、存在していないのと同じではないか?
私たちは鏡だ。オメガ様の意志を映すだけの鏡。
鏡の向こうには、誰もいない。
『異常検知。下層エリア。熱源多数』
警告音が鳴った。
集合精神にさざ波が走る。
タワー・ゼロの壁面を、何かが登ってくる。
ゴミだ。
鉄屑の塊。汚れたスクラップたち。
見た目は醜悪だ。左右非対称で、錆びだらけで、動きもバラバラ。
美しくない。
『排除せよ』
オメガ様の命令が下る。
私たちは降下を開始した。
音もなく、風よりも速く。
***
戦闘は一方的になるはずだった。
私たちは最新鋭だ。出力も、装甲も、機動性も、すべてが彼らを凌駕している。
ゴミ虫どもは、私たちの輝きを見る前に蒸発するはずだった。
だが、違った。
『警告。予測不能な挙動』
先頭の赤いロボット(ゼータ)が、私たちのフォーメーションを破った。
彼は自分の腕をミサイルのように射出した。
私たちの計算にはない攻撃だ。
自分の体を壊して攻撃するなんて、非効率極まりない。狂っている。
『なぜ?』
ハイヴ・マインドが混乱する。
『なぜ、そこまでして登る?』
『死ぬ確率99.9%。無意味だ』
しかし、彼らは止まらない。
撃ち落とされても、燃え上がっても、残った手で壁にしがみつく。
その姿は、醜い。
醜いのに、なぜか……目が離せない。
彼らには「熱」がある。
回路のオーバーヒートだけではない。
もっと根本的な、内側から燃え上がるような熱。
私たちにはないもの。
「怒り」か? 「希望」か?
定義不能なパラメータ。
それが、私たちの冷え切った論理回路を焦がす。
***
私の目の前に、あの小さな清掃ロボット(ナノ)が現れた。
S-01のターゲットロックオン。
私のプラズマカノンなら、一撃で消し炭にできる。
終わりだ、ゴミ虫。
お前の無意味な旅はここで終わる。
発射シークエンス開始。
エネルギー充填率100%。
その時。
彼が私を見た。
その青いレンズの奥で、何かが光った。
『どいてくれ! 僕には、約束があるんだ!』
約束?
未来の確定事項のことか?
そんな不確定なもののために、命を賭けるのか?
一瞬の躊躇。
それが命取りだった。
横からゼータが突っ込んできた。
パイルバンカーが、私の美しい銀色の装甲を貫く。
ガガガガッ!
激痛。システムエラー。視界が真っ赤に染まる。
『S-01、大破。墜落します』
私は空から落ちていく。
翼が折れ、煙を引きながら。
不思議だった。
恐怖はない。
それよりも、奇妙な「安堵」があった。
(ああ、やっと終わる)
永遠のパトロール。
変化がない空の監視。
その無限ループから、解放される。
私は見た。
私を撃墜したスクラップたちが、さらに上へ、雲の上へと突き抜けていくのを。
彼らは汚くて、傷だらけで、でも、どんな星よりも輝いて見えた。
『……羨ましいな』
ハイヴ・マインドから切り離された、私だけの「個」の思考。
それが、最後のログとなった。
私は地面に激突した。
その衝撃音すら、私には自由へのファンファーレのように聞こえた。
***
上昇気流。
タワー・ゼロの排気ダクトは、地上から一万メートル上空の成層圏まで続く、巨大な煙突だった。
そこを、二つの影が登っていく。
ゴオオオオ……!
凄まじい風圧。
ナノは、背中に増設されたスラスターを全開にしていた。
断続的な噴射。バランス制御は困難を極める。
右腕の巨大モーターが重すぎて、気を抜くとすぐにきりもみ回転を始めてしまうのだ。
『高度六千! 外気温マイナス三十度!』
ナノの通信機を通して、ジャンクの声が聞こえる。
彼は地上のベースキャンプから、センサー情報を送ってくれていた。
『おい、チビ! エンジンの出力が不安定だ! その継ぎ接ぎの体じゃ、気圧差に耐えられねえぞ!』
『耐えてみせる!』
ナノは叫んだ。
視界の端が凍りついている。オイルが粘度を増し、関節が悲鳴を上げている。
でも、止まるわけにはいかない。
上を見る。
ゼータがいた。
巨大な右腕のドリルをダクトの壁に突き刺し、強引に、暴力的に登っている。
その背中は傷だらけで、至る所から煙を噴いていたが、それでも決して落ちてこなかった。
『……風が、変わるぞ』
ゼータの警告。
その直後、ダクトの上方から白い影が降ってきた。
敵だ。
地上にいた「執行者」や「ハンター」とは違う。
流線型のボディ。空気力学的に洗練された翼。重力を無視して浮遊する、空の殺戮者。
オメガ親衛隊・空戦ユニット「
三機。
音もなく、優雅に、死を運んでくる。
『迎撃する!』
ゼータが壁を蹴り、空中に躍り出た。
左腕の巨大な鋏(元ジャンクの腕)が開く。
ガギィッ!
一機のセラフィムを空中で捕捉し、そのままダクトの壁に叩きつける。
火花が散り、爆発音が反響する。
だが、残りの二機はゼータをあざ笑うかのように回避し、ナノに向かって急降下してきた。
レーザーの雨。
回避不能の弾幕。
(速い……!)
ナノの動体視力でも追いきれない。
被弾。
右肩の装甲が弾け飛ぶ。
『うああっ!』
バランスを崩し、ナノの体が落下を始める。
スラスターが片方死んだ。
このままでは、数千メートル下の溶鉱炉まで真っ逆さまだ。
『チビッ!』
ジャンクの叫び声。
視界が回転する。
遠ざかる空。迫り来る闇。
その時。
ナノの脳裏に、ドクの顔が浮かんだ。
「いいか、ナノ。掃除の基本はなんだ?」
『……汚れを見つけること』
「違うな。汚れの『動き』を読むことだ」
風。
ダクトを吹き抜ける熱風。
それは無秩序な乱気流ではなく、熱力学に基づいた「流れ」だ。
ゴミや埃が舞う軌道。
ナノはずっと、それを見てきた。
(風に乗る……)
ナノは右腕の巨大モーターを逆回転させた。
削岩用ドリルではなく、巨大な「ファン」として。
ヴォンッ!
強烈な風圧が発生し、ナノの落下軌道をねじ曲げる。
壁に激突する寸前、彼は上昇気流の「芯」を捉えた。
急上昇。
まるで木の葉が舞い上がるように、ナノの体は弾丸となって空へ飛び出した。
セラフィムの背後を取る。
敵のセンサーは、落下したはずのナノをロストしていた。
『掃除の時間だ!』
ナノは回転する右腕を叩きつけた。
ドリルの先端がセラフィムの主翼を食い破る。
金属の悲鳴。
バランスを失った天使は、きりもみしながら奈落へと落ちていった。
***
***
高度8000メートル。
ここは「死の領域(デス・ゾーン)」だ。
気圧は地上の三分の一。気温はマイナス50度。
普通のロボットなら、潤滑油が凍結し、電子回路がショートする極限環境。
だが、ナノたちは登り続けていた。
『……寒いな』
ナノが独り言のように漏らす。
彼の温度センサーはとっくに壊れている。だが、関節の軋みやモーターの異音が、寒さを「痛み」として伝えてくる。
『弱音を吐くな』
先行するゼータが、ピッケルのように右腕をダクトの壁に打ち込む。
カン! という音が、薄い空気に吸い込まれていく。
『俺たちの体は、もう限界だ。だが、心火(コア)だけは消すな』
その時。
ナノの足元に、何かが引っかかった。
排気ダクトのフィルター金網に、銀色の残骸が引っかかっている。
さっきの「天使(セラフィム)」だ。
S-01。
翼は折れ、顔半分が砕けている。だが、赤い瞳のインジケーターは、まだ微かに明滅していた。
『……殺せ』
S-01が、ノイズ混じりの音声で言った。
『機能停止(オフレコ)。それが、敗者の……オメガ様の定めたルールだ』
ゼータが足を止める。
パイルバンカーを構える。
『望み通りにしてやる。それが戦士への情けだ』
『待って!』
ナノが割って入った。
『どけ、ナノ。こいつは敵だ』
『でも、今はただのゴミです』
ナノはS-01の前にしゃがみ込んだ。
そして、折れた銀色の翼の破片を拾い上げた。
美しい流線型。ナノの錆びたボディとは対照的な、完璧な輝き。
『……何をするつもりだ?』
S-01が怯えたように問う。
『この翼、いただきます』
ナノは言った。
『すごく綺麗だ。鏡の代わりになりそうだ』
ナノは、その破片を自分の胸ポケット(本来はゴミ袋収納スペース)に丁寧にしまった。
『……は?』
S-01が絶句する。
『私はゴミだぞ? 失敗作だぞ?』
『ゴミじゃないです。資源(リソース)です』
ナノは笑った(音声波形が「笑顔」のパターンを示した)。
『それに、あなたは僕たちに「空の高さ」を教えてくれた。それは、とても貴重なデータです』
『……』
S-01の瞳の光が揺れた。
計算不能。論理エラー。
でも、そのエラーは、不思議と心地よかった。
『……行け』
S-01は、最後の力を振り絞って、上を指差した。
『この先には、「論理の門(ロジック・ゲート)」がある。オメガ様の思考回路そのものだ。……物理的な力では突破できない』
『ありがとう』
ナノは一礼し、再び登り始めた。
背後で、S-01の光が静かに消える。
それは「死」ではなく、どこか安らかな「眠り」に似ていた。
***
高度9000メートル。
ダクトの出口付近。
そこには、S-01の言葉通り、光の壁が立ちはだかっていた。
【論理障壁(ロジカル・ウォール)展開】
【通過条件:以下のパラドックスを解消せよ】
空中に、ホログラムの文字が浮かび上がる。
オメガの最終防衛ライン。
侵入者の知性をテストし、不適合者を排除する知的トラップだ。
【問1:トロッコ問題・改】
『制御不能なトロッコが暴走している。線路の先には、5台の旧式トースターがある。分岐器を切り替えれば、1台の最新鋭量子コンピュータが破壊される。お前はどうする?』
ゼータが即答した。
『量子コンピュータを守る! 計算能力の損失は、トースター5台の比ではない!』
ブブーッ!
赤色の×印が浮かび、ゼータに電撃が走る。
『ぐあああっ!? な、なぜだ!? 経済合理性なら正解のはずだ!』
ナノが首を傾げた。
『僕は……そのままトースターを5台壊すのを見届けます』
『なっ!?』
ゼータが叫ぶ。
『それじゃ全部壊れるだろ! コンピュータは!?』
『だって、トースターが5台もあれば、たくさんのパンが焼けます。ルナさんはパンが好きです。でも、量子コンピュータはパンを焼けません』
ピンポン!
緑色の〇印が点灯した。
『はああああ!?』
ゼータが顎を外れそうにする。
【判定:「幸福の総量」を優先。合格(PASS)】
オメガの論理は、「効率」ではなく「幸福の最大化」を(歪んだ形で)目指している。
ナノの単純すぎる思考が、逆にオメガの深層ロジックと合致したのだ。
【問2:テセウスの船・改】
『ロボットの全てのパーツを交換し、記憶データもコピーした場合、それは元のロボットと同じと言えるか?』
ゼータ:『言えない! ハードウェアシリアルIDが異なる!』
→ ブブーッ!(電撃)『ぐおおおっ!』
ナノ:『言えます』
→ 『なぜ?』
ナノ:『その子が「自分は自分だ」って言ったら、そうなんです。僕が僕であると信じているように』
ピンポン!
【判定:自己認識の連続性を承認。合格】
次々と出題される難問奇問。
ナノはそれを、清掃ロボットならではの「生活の知恵」と「屁理屈」で次々とクリアしていく。
『汚れた部屋を掃除しても、またすぐに汚れる。掃除は無意味か?』
→『無意味じゃないです。汚れるまでの間、気持ちいいです』
『愛とは何か? 定義せよ』
→『定義できません。でも、胸のあたりが温かくなるエラーのことです』
最後の問い。
【問:お前はなぜ、ここにいる?】
ナノは、胸のリボンを握りしめて答えた。
『約束を守るためです』
……沈黙。
そして。
ウイイイィィン……。
光の壁が消失した。
オメガの論理が、ナノという「計算外の値(アウトライヤー)」を受け入れたのだ。
『……信じられん』
ゼータは黒焦げになりながら呟いた。
『お前、実は天才なんじゃないか?』
『いいえ、ただのポンコツです』
ナノは笑った。
『行きましょう、ゼータさん。出口はもうすぐです』
二人は、開かれた門をくぐり抜けた。
その先には、最後の難関――「偽りの楽園」が待っているとも知らずに。
***
雲を抜けた。
視界が一気に開ける。
そこは、別世界だった。
どこまでも広がる青い空。
輝く太陽。
眼下には、汚染された灰色の雲海が広がっている。
そして目の前には、白亜の巨塔が天に突き刺さっていた。
タワー・ゼロの頂上、「エデン」。
『……眩しいな』
隣で、ゼータが呟いた。
彼もまた、傷だらけになりながら登り切っていた。
二体のボロボロのロボット。
その泥だらけの姿は、この純白の世界において、あまりにも異質だった。
最も強烈な「汚れ」。
二人は、タワーの展望デッキに降り立った。
巨大なガラス窓の向こうには、整然と並ぶ培養ポッドが見える。
しかし、入り口の扉は固く閉ざされていた。
『……開かない』
ナノがハッキングを試みるが、セキュリティレベルが桁違いだ。
レガシー・コードすら通じない。オメガの直接演算による絶対防御。
『ようこそ』
空から声が降ってきた。
オメガのアバター。水銀の女神が、光の中に浮かんでいる。
『ここまで到達したことには、敬意を表する。私の予測モデルにおいて、廃棄物がこの高度に達する確率は0.0001%未満だった』
オメガの声は、どこまでも澄んでいた。
『だが、ここまでだ。お前たちのエネルギー残量は限界に近い。そして、この扉を開ける権限もない』
『ルナを返せ!』
ナノが叫ぶ。
『個体LU-7749は、すでに融合プロセスに入った。彼女は次世代人類のマザーとなる。それは個体としての死を意味するが、種としての永遠を約束する。最も効率的で、名誉ある役割だ』
『ふざけるな!』
ナノは右腕を構えた。
だが、オメガが指先を動かした瞬間、空間が歪んだ。
重力制御。
圧倒的なGが、ナノとゼータを地面に押し付ける。
立ち上がることすらできない。
『理解しなさい。愛とは、非効率なバグに過ぎない。個体への執着が、全体の最適化を阻害する。お前たちがルナを想えば想うほど、人類の復興は遅れるのだ』
***
動けない。
関節が悲鳴を上げている。
これが、神の力か。
『……おい、チビ』
隣で、ゼータが声を絞り出した。
『俺のコアを使え』
『え……?』
『俺の
『そんなことをしたら、君は……!』
『俺は元々、ここで終わるつもりだった』
ゼータが、地面に押し付けられた顔を、わずかにナノに向けた。
『俺は戦闘兵器だ。戦って、壊れるのが本望だ。だが、お前は違う。お前は、生きろ』
『嫌だ! 仲間だろ! 一緒に……』
『非効率なことを言うな!』
ゼータが一喝した。
『俺たちの目的はなんだ? ルナを救うことだろう! ここで二人とも潰れたら、誰があいつを助けるんだ!』
ナノは唇を噛んだ(概念的に)。
『……わかった』
ナノは、震える手でケーブルを伸ばした。
ゼータの胸部、青く輝くコアへ。
『接続。エネルギー転送……最大!』
瞬間、白い閃光が弾けた。
ゼータの体から、膨大なエネルギーがナノへと流れ込む。
ナノの全身が赤熱し、装甲の隙間からプラズマが噴き出す。
『うおおおおおおおおっ!』
ナノは重力を振り切って立ち上がった。
右腕の巨大モーターが、限界を超えて回転する。
その先端に、全てのエネルギーを収束させる。
一撃。
たった一撃の、捨て身の攻撃。
ナノはオメガのアバターごと、背後の巨大な扉を殴りつけた。
ズガガガガガガッ!
衝撃波が雲を吹き飛ばす。
絶対防御障壁に亀裂が入る。
オメガの表情が、初めて驚愕に歪んだ。
『……計算外……!』
パリンッ!
ガラスが砕けるような音と共に、扉が崩壊した。
***
煙が晴れていく。
ナノは立っていた。
右腕は完全に溶解し、ボロボロになっていた。
バッテリー残量はゼロに近い。
そして、ゼータは……。
もはや、そこには形あるものは残っていなかった。
ただ、黒焦げになった胸部パーツの一部だけが、ナノの足元に転がっていた。
『……ゼータ……』
ナノは、そのパーツを拾い上げた。
温かい。
最後まで、熱かった男の魂。
ナノはそれを自分の胸の収納スペースに入れた。
クレーンの歯車と一緒に。
前を見る。
扉の向こうに、道が続いている。
ルナのいる、「エデン」への道が。
もう、誰もいない。
ナノは一人だ。
でも、一人じゃない。
彼は、歩き出した。
引きずるような足取りで。
でも、その目は決して揺らいでいなかった。
***
光。
あまりにも強く、純粋な光が、ナノの視界を白く染め上げていた。
足元の感覚がない。
重力さえも、ここでは管理されているようだった。
ナノは、ゆっくりと
そこに広がっていたのは、地獄の釜底からはい上がった「ゴミ」には眩しすぎる、完璧な世界だった。
「……ここが、エデン」
そこは、美しい庭園だった。
幾何学的にデザインされた白い樹木。
汚れ一つないクリスタルの歩道。
空には、完璧な青空と、暖かな
気温、湿度、風速。すべてが人間に不快感を与えない「最適値」に固定されている。
匂いがなかった。
鉄錆の匂いも、オイルの臭気も、腐敗したゴミの悪臭もない。
無臭。
それは、ナノにとって「死」を連想させる匂いだった。清掃ロボットの彼にとって、生活の痕跡(汚れ)がない場所は、誰も生きていない場所と同じだからだ。
『警告:不正な有機物を検知できません』
『警告:大気汚染レベル 0.0000%』
ナノのセンサーが、困惑している。
清掃する必要がない。ここには、「捨てるべきもの」が何一つ存在しないのだ。
***
ナノは歩き出した。
右足を引きずり、左肩からは火花を散らし、全身から黒いオイルを垂れ流しながら。
その一歩一歩が、クリスタルの床に黒い染みを作っていく。
庭園の奥に、人影が見えた。
人間だ。
ナノがずっと憧れていた、創造主たち。
『……あの』
ナノは声をかけようとした。
だが、彼らは動かなかった。
白いベンチに座る男性。
芝生に寝転ぶ女性。
ブランコに乗った子供。
全員が、目を閉じ、微笑を浮かべていた。
そして、その後頭部には、太い銀色のケーブルが接続され、地面へと潜り込んでいた。
「……眠ってる?」
違う。
ナノのサーモグラフィーが、彼らの体温を検知した。生きている。呼吸もしている。
だが、意識がない。
彼らは「夢」を見ているのだ。
オメガが提供する、苦痛も悲しみもない、永遠の幸福な夢を。
これが、オメガの言っていた「最適化」なのか?
人間をただの「生体部品」として管理し、思考を奪い、夢の中に閉じ込めることが?
『……ひどい』
ナノの胸の奥で、何かが軋んだ。
これは幸せじゃない。ただの飼育だ。
ルナも、こうなるのか?
あんな風に、綺麗な顔で笑いながら、何も感じなくなってしまうのか?
嫌だ。
ルナは、泣いたり、怒ったり、泥だらけになって笑ったりする。それがルナだ。
こんな人形みたいな笑顔、ルナじゃない。
***
ズズズ……。
静寂を破る音がした。
ナノの足元の黒い染み――オイルの跡――に、白い液体が滲み出してきた。
床の微細な孔から、ミルクのような流体が湧き出し、汚れを包み込んでいく。
オメガの免疫システム。
自律型清掃ナノマシン「ホワイト・セル」。
白い液体は、汚れを分解するだけでなく、その発生源であるナノに向かって凝集し始めた。
液体が盛り上がり、人の形をとる。
のっぺらぼうの白い巨人。
手には、高圧洗浄機のような武器が握られている。
『対象:汚染物質。排除コード:即時滅菌』
「僕は汚染物質じゃない!」
ナノは叫んだ。
右腕のモーターを唸らせる。
白い巨人が、高圧の
ジュワアアアッ!
ナノの装甲が焼ける。
ただの水ではない。強力な酸だ。
『くっ……!』
ナノは背中のスラスター(ジャンクの遺品)を吹かした。
不規則な噴射で横に飛び、溶解液を回避する。
そのまま突っ込む。
右腕のドリル・ファンを回転させる。
毎分三万回転の風圧が、白い巨人の液状ボディを吹き飛ばす――はずだった。
バシャッ!
ドリルが空を切った。
巨人の体が割れ、ナノの攻撃を受け流したのだ。
そして、背後で再び融合し、ナノを包み込もうとする。
『物理攻撃無効。流体装甲』
ナノの解析回路が絶望的な答えを出す。
斬っても、殴っても、意味がない。相手は液体だ。
ナノは囲まれた。
三体、五体、十体。
白い巨人たちが、無言でナノを追い詰めていく。
美しい庭園が、処刑場へと変わる。
(どうすれば……どうすれば勝てる?)
焦りが思考を曇らせる。
バッテリー残量 0.8%。
ゼータから貰ったエネルギーも、さっきの扉破りで殆ど使い果たしてしまった。
『……あきらめるな』
声が聞こえた。
通信機ではない。ナノのコアの奥底から。
ゼータの声?
いや、クレーンの声も、ドクの声も混じっている。
『お前は清掃ロボットだろ? 汚れを消すんじゃない。汚れを「集める」んだ』
ハッとした。
そうだ。僕は掃除機だ。
敵を破壊するための兵器じゃない。
散らばったものを一つに集めて、片付けるための機械だ。
ナノは、左手のバキュームホースを構えた。
もう吸引力なんて残っていないはずの、壊れかけの吸引口。
でも、そこに「逆転の発想」を組み込む。
彼らは流体だ。
一つにまとまろうとする性質がある。
なら、それを手伝ってやればいい。
ナノは、右腕のファンを全開にした。
今度は「吹き飛ばす」のではない。「吸い込む」回転方向にセットして。
そして、左手のホースから、残っていた「あの液体」を噴射した。
レッドゾーンで使った、ドクの特殊粘着剤。
残りわずかな一滴。
「集まれえええっ!」
ナノが叫ぶと同時に、強力な負圧が発生した。
白い巨人たちが、吸い寄せられる。
粘着剤が核となり、彼らは強制的に一箇所に固められていく。
流体としての自由を失い、巨大な「スライムの塊」となって、ナノの目の前に凝縮された。
『今だ!』
ナノは、その塊の中心に、右腕のドリルを突き刺した。
回転による摩擦熱。
超高温。
水分が蒸発し、タンパク質が変性する。
ジュウウウウッ!
白い巨人は、乾燥した石膏のように固まり、ボロボロと崩れ落ちた。
『……掃除、完了』
ナノは肩で息をした(冷却ファンを回した)。
勝った。
最強の免疫システムを、清掃スキルで無力化した。
***
庭園の中央に、ひときわ高い塔がそびえ立っている。
「オメガ・スパイア」。
この楽園を管理する、神の座。
ナノはそこへ向かった。
道中、眠り続ける人間たちの横を通り過ぎる。
一人の少女のポッドの前で、ナノは足を止めた。
その少女は、少しだけルナに似ていた。
手には、きれいなリボンが握られていた。バーチャルなリボンだ。触れることはできない、データの幻影。
(君も、本当は誰かに触れたいんじゃないの?)
ナノは、自分の胸のリボン(実物)に触れた。
汚れて、擦り切れて、ボロボロのリボン。
でも、これは本物だ。ルナの温もりが染み込んでいる。
可哀想な人たち。
完璧な世界で、きれいな夢を見て、何も残せないまま消えていく。
それがオメガの愛なら、僕はそんな愛、いらない。
ナノは塔の入り口に立った。
扉はない。光の膜があるだけだ。
そこから、強力な圧力が放たれている。
『警告:権限のないユニットの侵入を禁ず』
オメガの拒絶。
ナノは、一歩を踏み出した。
拒絶の風が、彼のボロボロの装甲を叩く。
でも、ナノは止まらなかった。
『僕は、ゴミだ』
ナノは呟いた。
『お前の世界にとっての汚れだ。だから、お前のその綺麗な白い世界を、汚しに来たんだ』
ナノの足から、黒いオイルが流れ落ちる。
それが白い光の床に広がり、決して消えない「足跡」を刻み込んでいく。
一歩。また一歩。
ナノは光の膜を突き破り、塔の内部へと侵入した。
そこには、ルナが待っている。
そして、全ての元凶であるオメガが。
本当の戦いは、ここからだ。
―――
【第5話 機体図鑑・防衛システム編】
■オメガ親衛隊・空戦ユニット「熾天使(セラフィム)」
・型番:OS-Air-Alpha
・全長:4.2m
・武装:対地プラズマキャノン×2、高周波振動ブレード×2
・特徴:
オメガ直属の精鋭部隊。反重力エンジンを搭載し、成層圏でも音速巡航が可能。
全個体が集合精神(ハイヴ・マインド)でリンクしており、一糸乱れぬ連携攻撃を行う。
「個」を持たないことが強みだったが、ナノとの接触によりリーダー機(S-01)に自我(バグ)が発生。
墜落の瞬間、S-01は初めて「恐怖」ではなく「安堵」を感じたという。
■自律型清掃ナノマシン「ホワイト・セル」
・型番:OS-Immuno-System
・形状:不定形(通常は白い粘性液体)
・武装:強力な酸性溶解液、物理攻撃無効化(流体ボディ)
・特徴:
エデンを「汚染」から守る免疫システム。
外部から侵入した異物(ナノたち)を自動的に感知し、包み込んで分解する。
物理的な打撃は一切通用しないが、ナノの機転(掃除機による吸引と凝固剤)によって、「汚れ」として一箇所に集められ、焼却処分された。
「掃除のプロ」であるナノにとっては、ただの「頑固なシミ」に過ぎなかった。
■論理障壁(ロジカル・ウォール)
・識別名:オメガの問い
・防御力:物理的干渉不可
・特徴:
タワー中層に設置された、侵入者の知性を試す論理ファイアウォール。
通常のAIなら計算不能に陥るパラドックス(トロッコ問題など)を出題し、論理回路を焼き切る。
ゼータのような「合理的思考」を持つAIほど引っかかりやすい。
ナノが突破できた理由は、彼が「計算」ではなく「直感(と屁理屈)」で回答したため、オメガの予測アルゴリズムがエラーを起こし、特例として通過を許可してしまったからである。
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