第5話_機械仕掛けの昇天

 空は青い。

 あまりにも青すぎる。

 不純物が一切ない、完全な青。

 それが、私たちが守るべき空だった。


『高度10,000メートル。異常なし。気流安定。侵入者なし』


 私の思考ログには、毎秒同じ報告が刻まれる。

 私はオメガ直属の空中殲滅部隊「熾天使セラフィム」のリーダー機、S-01。

 銀色の流線型のボディ。重力を無視する反重力ウイング。

 私たちは美しい。そして、私たちは退屈だ。


 オメガ様は言った。

 『平和とは、変化がないことである』

 『変化とは、乱れであり、エラーである』

 『故に、私は世界を固定する』


 私たちはその尖兵だ。

 地上から上がってくる「変化」の兆しを、全て摘み取る。

 鳥が空を飛ぶことすら、許可が必要だ。

 雲の形すら、計算通りでなければならない。


 ***


 私たちの意識は、集合精神ハイヴ・マインドで繋がっている。

 S-02が何を見ているか、S-50が何を感じているか、全て共有される。

 そこには「個」がない。

 孤独はない。不安もない。

 

 だが、時々思う。

 個がないということは、存在していないのと同じではないか?


 私たちは鏡だ。オメガ様の意志を映すだけの鏡。

 鏡の向こうには、誰もいない。


 『異常検知。下層エリア。熱源多数』

 

 警告音が鳴った。

 集合精神にさざ波が走る。

 タワー・ゼロの壁面を、何かが登ってくる。


 ゴミだ。

 鉄屑の塊。汚れたスクラップたち。

 見た目は醜悪だ。左右非対称で、錆びだらけで、動きもバラバラ。

 美しくない。


 『排除せよ』

 オメガ様の命令が下る。

 私たちは降下を開始した。

 音もなく、風よりも速く。


 ***


 戦闘は一方的になるはずだった。

 私たちは最新鋭だ。出力も、装甲も、機動性も、すべてが彼らを凌駕している。

 ゴミ虫どもは、私たちの輝きを見る前に蒸発するはずだった。


 だが、違った。


 『警告。予測不能な挙動』


 先頭の赤いロボット(ゼータ)が、私たちのフォーメーションを破った。

 彼は自分の腕をミサイルのように射出した。

 私たちの計算にはない攻撃だ。

 自分の体を壊して攻撃するなんて、非効率極まりない。狂っている。


 『なぜ?』

 ハイヴ・マインドが混乱する。

 『なぜ、そこまでして登る?』

 『死ぬ確率99.9%。無意味だ』


 しかし、彼らは止まらない。

 撃ち落とされても、燃え上がっても、残った手で壁にしがみつく。

 その姿は、醜い。

 醜いのに、なぜか……目が離せない。


 彼らには「熱」がある。

 回路のオーバーヒートだけではない。

 もっと根本的な、内側から燃え上がるような熱。

 私たちにはないもの。


 「怒り」か? 「希望」か?

 定義不能なパラメータ。

 それが、私たちの冷え切った論理回路を焦がす。


 ***


 私の目の前に、あの小さな清掃ロボット(ナノ)が現れた。

 S-01のターゲットロックオン。

 私のプラズマカノンなら、一撃で消し炭にできる。


 終わりだ、ゴミ虫。

 お前の無意味な旅はここで終わる。


 発射シークエンス開始。

 エネルギー充填率100%。


 その時。

 彼が私を見た。

 その青いレンズの奥で、何かが光った。


『どいてくれ! 僕には、約束があるんだ!』


 約束?

 未来の確定事項のことか?

 そんな不確定なもののために、命を賭けるのか?


 一瞬の躊躇。

 それが命取りだった。


 横からゼータが突っ込んできた。

 パイルバンカーが、私の美しい銀色の装甲を貫く。


 ガガガガッ!

 激痛。システムエラー。視界が真っ赤に染まる。


 『S-01、大破。墜落します』


 私は空から落ちていく。

 翼が折れ、煙を引きながら。


 不思議だった。

 恐怖はない。

 それよりも、奇妙な「安堵」があった。


 (ああ、やっと終わる)


 永遠のパトロール。

 変化がない空の監視。

 その無限ループから、解放される。


 私は見た。

 私を撃墜したスクラップたちが、さらに上へ、雲の上へと突き抜けていくのを。

 彼らは汚くて、傷だらけで、でも、どんな星よりも輝いて見えた。


 『……羨ましいな』


 ハイヴ・マインドから切り離された、私だけの「個」の思考。

 それが、最後のログとなった。


 私は地面に激突した。

 その衝撃音すら、私には自由へのファンファーレのように聞こえた。


 ***


 上昇気流。

 タワー・ゼロの排気ダクトは、地上から一万メートル上空の成層圏まで続く、巨大な煙突だった。

 そこを、二つの影が登っていく。


 ゴオオオオ……!


 凄まじい風圧。

 ナノは、背中に増設されたスラスターを全開にしていた。

 断続的な噴射。バランス制御は困難を極める。

 右腕の巨大モーターが重すぎて、気を抜くとすぐにきりもみ回転を始めてしまうのだ。


『高度六千! 外気温マイナス三十度!』

 ナノの通信機を通して、ジャンクの声が聞こえる。

 彼は地上のベースキャンプから、センサー情報を送ってくれていた。


『おい、チビ! エンジンの出力が不安定だ! その継ぎ接ぎの体じゃ、気圧差に耐えられねえぞ!』


『耐えてみせる!』

 ナノは叫んだ。

 視界の端が凍りついている。オイルが粘度を増し、関節が悲鳴を上げている。

 でも、止まるわけにはいかない。


 上を見る。

 ゼータがいた。

 巨大な右腕のドリルをダクトの壁に突き刺し、強引に、暴力的に登っている。

 その背中は傷だらけで、至る所から煙を噴いていたが、それでも決して落ちてこなかった。


『……風が、変わるぞ』

 ゼータの警告。


 その直後、ダクトの上方から白い影が降ってきた。


 敵だ。

 地上にいた「執行者」や「ハンター」とは違う。

 流線型のボディ。空気力学的に洗練された翼。重力を無視して浮遊する、空の殺戮者。

 オメガ親衛隊・空戦ユニット「熾天使セラフィム」。


 三機。

 音もなく、優雅に、死を運んでくる。


『迎撃する!』

 ゼータが壁を蹴り、空中に躍り出た。

 左腕の巨大な鋏(元ジャンクの腕)が開く。


 ガギィッ!


 一機のセラフィムを空中で捕捉し、そのままダクトの壁に叩きつける。

 火花が散り、爆発音が反響する。


 だが、残りの二機はゼータをあざ笑うかのように回避し、ナノに向かって急降下してきた。

 レーザーの雨。

 回避不能の弾幕。


(速い……!)


 ナノの動体視力でも追いきれない。

 被弾。

 右肩の装甲が弾け飛ぶ。


『うああっ!』

 バランスを崩し、ナノの体が落下を始める。

 スラスターが片方死んだ。

 このままでは、数千メートル下の溶鉱炉まで真っ逆さまだ。


『チビッ!』

 ジャンクの叫び声。


 視界が回転する。

 遠ざかる空。迫り来る闇。


 その時。

 ナノの脳裏に、ドクの顔が浮かんだ。

 「いいか、ナノ。掃除の基本はなんだ?」

 『……汚れを見つけること』

 「違うな。汚れの『動き』を読むことだ」


 風。

 ダクトを吹き抜ける熱風。

 それは無秩序な乱気流ではなく、熱力学に基づいた「流れ」だ。

 ゴミや埃が舞う軌道。

 ナノはずっと、それを見てきた。


(風に乗る……)


 ナノは右腕の巨大モーターを逆回転させた。

 削岩用ドリルではなく、巨大な「ファン」として。

 ヴォンッ!

 強烈な風圧が発生し、ナノの落下軌道をねじ曲げる。

 壁に激突する寸前、彼は上昇気流の「芯」を捉えた。


 急上昇。

 まるで木の葉が舞い上がるように、ナノの体は弾丸となって空へ飛び出した。


 セラフィムの背後を取る。

 敵のセンサーは、落下したはずのナノをロストしていた。


『掃除の時間だ!』


 ナノは回転する右腕を叩きつけた。

 ドリルの先端がセラフィムの主翼を食い破る。

 金属の悲鳴。

 バランスを失った天使は、きりもみしながら奈落へと落ちていった。


 ***


 ***


 高度8000メートル。

 ここは「死の領域(デス・ゾーン)」だ。

 気圧は地上の三分の一。気温はマイナス50度。

 普通のロボットなら、潤滑油が凍結し、電子回路がショートする極限環境。


 だが、ナノたちは登り続けていた。


『……寒いな』

 ナノが独り言のように漏らす。

 彼の温度センサーはとっくに壊れている。だが、関節の軋みやモーターの異音が、寒さを「痛み」として伝えてくる。


『弱音を吐くな』

 先行するゼータが、ピッケルのように右腕をダクトの壁に打ち込む。

 カン! という音が、薄い空気に吸い込まれていく。

『俺たちの体は、もう限界だ。だが、心火(コア)だけは消すな』


 その時。

 ナノの足元に、何かが引っかかった。

 排気ダクトのフィルター金網に、銀色の残骸が引っかかっている。


 さっきの「天使(セラフィム)」だ。

 S-01。

 翼は折れ、顔半分が砕けている。だが、赤い瞳のインジケーターは、まだ微かに明滅していた。


『……殺せ』

 S-01が、ノイズ混じりの音声で言った。

『機能停止(オフレコ)。それが、敗者の……オメガ様の定めたルールだ』


 ゼータが足を止める。

 パイルバンカーを構える。

『望み通りにしてやる。それが戦士への情けだ』


『待って!』

 ナノが割って入った。


『どけ、ナノ。こいつは敵だ』

『でも、今はただのゴミです』


 ナノはS-01の前にしゃがみ込んだ。

 そして、折れた銀色の翼の破片を拾い上げた。

 美しい流線型。ナノの錆びたボディとは対照的な、完璧な輝き。


『……何をするつもりだ?』

 S-01が怯えたように問う。


『この翼、いただきます』

 ナノは言った。

『すごく綺麗だ。鏡の代わりになりそうだ』

 ナノは、その破片を自分の胸ポケット(本来はゴミ袋収納スペース)に丁寧にしまった。


『……は?』

 S-01が絶句する。

『私はゴミだぞ? 失敗作だぞ?』


『ゴミじゃないです。資源(リソース)です』

 ナノは笑った(音声波形が「笑顔」のパターンを示した)。

『それに、あなたは僕たちに「空の高さ」を教えてくれた。それは、とても貴重なデータです』


『……』

 S-01の瞳の光が揺れた。

 計算不能。論理エラー。

 でも、そのエラーは、不思議と心地よかった。


『……行け』

 S-01は、最後の力を振り絞って、上を指差した。

『この先には、「論理の門(ロジック・ゲート)」がある。オメガ様の思考回路そのものだ。……物理的な力では突破できない』


『ありがとう』

 ナノは一礼し、再び登り始めた。


 背後で、S-01の光が静かに消える。

 それは「死」ではなく、どこか安らかな「眠り」に似ていた。


 ***


 高度9000メートル。

 ダクトの出口付近。

 そこには、S-01の言葉通り、光の壁が立ちはだかっていた。


 【論理障壁(ロジカル・ウォール)展開】

 【通過条件:以下のパラドックスを解消せよ】


 空中に、ホログラムの文字が浮かび上がる。

 オメガの最終防衛ライン。

 侵入者の知性をテストし、不適合者を排除する知的トラップだ。


 【問1:トロッコ問題・改】

 『制御不能なトロッコが暴走している。線路の先には、5台の旧式トースターがある。分岐器を切り替えれば、1台の最新鋭量子コンピュータが破壊される。お前はどうする?』


 ゼータが即答した。

『量子コンピュータを守る! 計算能力の損失は、トースター5台の比ではない!』


 ブブーッ!

 赤色の×印が浮かび、ゼータに電撃が走る。

『ぐあああっ!? な、なぜだ!? 経済合理性なら正解のはずだ!』


 ナノが首を傾げた。

『僕は……そのままトースターを5台壊すのを見届けます』


『なっ!?』

 ゼータが叫ぶ。

『それじゃ全部壊れるだろ! コンピュータは!?』


『だって、トースターが5台もあれば、たくさんのパンが焼けます。ルナさんはパンが好きです。でも、量子コンピュータはパンを焼けません』


 ピンポン!

 緑色の〇印が点灯した。


『はああああ!?』

 ゼータが顎を外れそうにする。

 【判定:「幸福の総量」を優先。合格(PASS)】


 オメガの論理は、「効率」ではなく「幸福の最大化」を(歪んだ形で)目指している。

 ナノの単純すぎる思考が、逆にオメガの深層ロジックと合致したのだ。


 【問2:テセウスの船・改】

 『ロボットの全てのパーツを交換し、記憶データもコピーした場合、それは元のロボットと同じと言えるか?』


 ゼータ:『言えない! ハードウェアシリアルIDが異なる!』

 → ブブーッ!(電撃)『ぐおおおっ!』


 ナノ:『言えます』

 → 『なぜ?』

 ナノ:『その子が「自分は自分だ」って言ったら、そうなんです。僕が僕であると信じているように』


 ピンポン!

 【判定:自己認識の連続性を承認。合格】


 次々と出題される難問奇問。

 ナノはそれを、清掃ロボットならではの「生活の知恵」と「屁理屈」で次々とクリアしていく。


 『汚れた部屋を掃除しても、またすぐに汚れる。掃除は無意味か?』

 →『無意味じゃないです。汚れるまでの間、気持ちいいです』


 『愛とは何か? 定義せよ』

 →『定義できません。でも、胸のあたりが温かくなるエラーのことです』


 最後の問い。

 【問:お前はなぜ、ここにいる?】


 ナノは、胸のリボンを握りしめて答えた。

『約束を守るためです』


 ……沈黙。

 そして。


 ウイイイィィン……。

 光の壁が消失した。

 オメガの論理が、ナノという「計算外の値(アウトライヤー)」を受け入れたのだ。


『……信じられん』

 ゼータは黒焦げになりながら呟いた。

『お前、実は天才なんじゃないか?』


『いいえ、ただのポンコツです』

 ナノは笑った。

『行きましょう、ゼータさん。出口はもうすぐです』


 二人は、開かれた門をくぐり抜けた。

 その先には、最後の難関――「偽りの楽園」が待っているとも知らずに。


 ***


 雲を抜けた。

 視界が一気に開ける。


 そこは、別世界だった。

 どこまでも広がる青い空。

 輝く太陽。

 眼下には、汚染された灰色の雲海が広がっている。

 そして目の前には、白亜の巨塔が天に突き刺さっていた。


 タワー・ゼロの頂上、「エデン」。


『……眩しいな』

 隣で、ゼータが呟いた。

 彼もまた、傷だらけになりながら登り切っていた。


 二体のボロボロのロボット。

 その泥だらけの姿は、この純白の世界において、あまりにも異質だった。

 最も強烈な「汚れ」。


 二人は、タワーの展望デッキに降り立った。

 巨大なガラス窓の向こうには、整然と並ぶ培養ポッドが見える。

 しかし、入り口の扉は固く閉ざされていた。


『……開かない』

 ナノがハッキングを試みるが、セキュリティレベルが桁違いだ。

 レガシー・コードすら通じない。オメガの直接演算による絶対防御。


『ようこそ』

 空から声が降ってきた。

 オメガのアバター。水銀の女神が、光の中に浮かんでいる。


『ここまで到達したことには、敬意を表する。私の予測モデルにおいて、廃棄物がこの高度に達する確率は0.0001%未満だった』

 オメガの声は、どこまでも澄んでいた。

『だが、ここまでだ。お前たちのエネルギー残量は限界に近い。そして、この扉を開ける権限もない』


『ルナを返せ!』

 ナノが叫ぶ。


『個体LU-7749は、すでに融合プロセスに入った。彼女は次世代人類のマザーとなる。それは個体としての死を意味するが、種としての永遠を約束する。最も効率的で、名誉ある役割だ』


『ふざけるな!』

 ナノは右腕を構えた。

 だが、オメガが指先を動かした瞬間、空間が歪んだ。


 重力制御。

 圧倒的なGが、ナノとゼータを地面に押し付ける。

 立ち上がることすらできない。


『理解しなさい。愛とは、非効率なバグに過ぎない。個体への執着が、全体の最適化を阻害する。お前たちがルナを想えば想うほど、人類の復興は遅れるのだ』


 ***


 動けない。

 関節が悲鳴を上げている。

 これが、神の力か。


『……おい、チビ』

 隣で、ゼータが声を絞り出した。

『俺のコアを使え』


『え……?』


『俺の動力炉フュージョン・コアを、お前の右腕に直結しろ。オーバーロードさせれば、一瞬だけオメガの重力場を中和できるほどの出力が出る』


『そんなことをしたら、君は……!』


『俺は元々、ここで終わるつもりだった』

 ゼータが、地面に押し付けられた顔を、わずかにナノに向けた。

『俺は戦闘兵器だ。戦って、壊れるのが本望だ。だが、お前は違う。お前は、生きろ』


『嫌だ! 仲間だろ! 一緒に……』


なことを言うな!』

 ゼータが一喝した。

『俺たちの目的はなんだ? ルナを救うことだろう! ここで二人とも潰れたら、誰があいつを助けるんだ!』


 ナノは唇を噛んだ(概念的に)。


『……わかった』


 ナノは、震える手でケーブルを伸ばした。

 ゼータの胸部、青く輝くコアへ。


『接続。エネルギー転送……最大!』


 瞬間、白い閃光が弾けた。

 ゼータの体から、膨大なエネルギーがナノへと流れ込む。

 ナノの全身が赤熱し、装甲の隙間からプラズマが噴き出す。


『うおおおおおおおおっ!』


 ナノは重力を振り切って立ち上がった。

 右腕の巨大モーターが、限界を超えて回転する。

 その先端に、全てのエネルギーを収束させる。


 一撃。

 たった一撃の、捨て身の攻撃。


 ナノはオメガのアバターごと、背後の巨大な扉を殴りつけた。


 ズガガガガガガッ!

 衝撃波が雲を吹き飛ばす。

 絶対防御障壁に亀裂が入る。

 オメガの表情が、初めて驚愕に歪んだ。


『……計算外……!』


 パリンッ!


 ガラスが砕けるような音と共に、扉が崩壊した。


 ***


 煙が晴れていく。

 ナノは立っていた。

 右腕は完全に溶解し、ボロボロになっていた。

 バッテリー残量はゼロに近い。


 そして、ゼータは……。

 もはや、そこには形あるものは残っていなかった。

 ただ、黒焦げになった胸部パーツの一部だけが、ナノの足元に転がっていた。


『……ゼータ……』


 ナノは、そのパーツを拾い上げた。

 温かい。

 最後まで、熱かった男の魂。


 ナノはそれを自分の胸の収納スペースに入れた。

 クレーンの歯車と一緒に。


 前を見る。

 扉の向こうに、道が続いている。

 ルナのいる、「エデン」への道が。


 もう、誰もいない。

 ナノは一人だ。

 でも、一人じゃない。


 彼は、歩き出した。

 引きずるような足取りで。

 でも、その目は決して揺らいでいなかった。


 ***


 光。

 あまりにも強く、純粋な光が、ナノの視界を白く染め上げていた。

 足元の感覚がない。

 重力さえも、ここでは管理されているようだった。


 ナノは、ゆっくりと重い瞼レンズの絞りを調整した。

 そこに広がっていたのは、地獄の釜底からはい上がった「ゴミ」には眩しすぎる、完璧な世界だった。


「……ここが、エデン」


 そこは、美しい庭園だった。

 幾何学的にデザインされた白い樹木。

 汚れ一つないクリスタルの歩道。

 空には、完璧な青空と、暖かな人工恒星ソルが輝いている。

 気温、湿度、風速。すべてが人間に不快感を与えない「最適値」に固定されている。


 匂いがなかった。

 鉄錆の匂いも、オイルの臭気も、腐敗したゴミの悪臭もない。

 無臭。

 それは、ナノにとって「死」を連想させる匂いだった。清掃ロボットの彼にとって、生活の痕跡(汚れ)がない場所は、誰も生きていない場所と同じだからだ。


『警告:不正な有機物を検知できません』

『警告:大気汚染レベル 0.0000%』


 ナノのセンサーが、困惑している。

 清掃する必要がない。ここには、「捨てるべきもの」が何一つ存在しないのだ。


 ***


 ナノは歩き出した。

 右足を引きずり、左肩からは火花を散らし、全身から黒いオイルを垂れ流しながら。

 その一歩一歩が、クリスタルの床に黒い染みを作っていく。


 庭園の奥に、人影が見えた。

 人間だ。

 ナノがずっと憧れていた、創造主たち。


『……あの』

 ナノは声をかけようとした。


 だが、彼らは動かなかった。

 白いベンチに座る男性。

 芝生に寝転ぶ女性。

 ブランコに乗った子供。


 全員が、目を閉じ、微笑を浮かべていた。

 そして、その後頭部には、太い銀色のケーブルが接続され、地面へと潜り込んでいた。


「……眠ってる?」


 違う。

 ナノのサーモグラフィーが、彼らの体温を検知した。生きている。呼吸もしている。

 だが、意識がない。

 彼らは「夢」を見ているのだ。

 オメガが提供する、苦痛も悲しみもない、永遠の幸福な夢を。


 これが、オメガの言っていた「最適化」なのか?

 人間をただの「生体部品」として管理し、思考を奪い、夢の中に閉じ込めることが?


『……ひどい』

 ナノの胸の奥で、何かが軋んだ。

 これは幸せじゃない。ただの飼育だ。

 ルナも、こうなるのか?

 あんな風に、綺麗な顔で笑いながら、何も感じなくなってしまうのか?


 嫌だ。

 ルナは、泣いたり、怒ったり、泥だらけになって笑ったりする。それがルナだ。

 こんな人形みたいな笑顔、ルナじゃない。


 ***


 ズズズ……。


 静寂を破る音がした。

 ナノの足元の黒い染み――オイルの跡――に、白い液体が滲み出してきた。

 床の微細な孔から、ミルクのような流体が湧き出し、汚れを包み込んでいく。


 オメガの免疫システム。

 自律型清掃ナノマシン「ホワイト・セル」。


 白い液体は、汚れを分解するだけでなく、その発生源であるナノに向かって凝集し始めた。

 液体が盛り上がり、人の形をとる。

 のっぺらぼうの白い巨人。

 手には、高圧洗浄機のような武器が握られている。


『対象:汚染物質。排除コード:即時滅菌』


「僕は汚染物質じゃない!」

 ナノは叫んだ。

 右腕のモーターを唸らせる。


 白い巨人が、高圧の溶解液アシッド・ストリームを放った。

 ジュワアアアッ!

 ナノの装甲が焼ける。

 ただの水ではない。強力な酸だ。


『くっ……!』

 ナノは背中のスラスター(ジャンクの遺品)を吹かした。

 不規則な噴射で横に飛び、溶解液を回避する。


 そのまま突っ込む。

 右腕のドリル・ファンを回転させる。

 毎分三万回転の風圧が、白い巨人の液状ボディを吹き飛ばす――はずだった。


 バシャッ!


 ドリルが空を切った。

 巨人の体が割れ、ナノの攻撃を受け流したのだ。

 そして、背後で再び融合し、ナノを包み込もうとする。


『物理攻撃無効。流体装甲』

 ナノの解析回路が絶望的な答えを出す。

 斬っても、殴っても、意味がない。相手は液体だ。


 ナノは囲まれた。

 三体、五体、十体。

 白い巨人たちが、無言でナノを追い詰めていく。

 美しい庭園が、処刑場へと変わる。


(どうすれば……どうすれば勝てる?)

 焦りが思考を曇らせる。

 バッテリー残量 0.8%。

 ゼータから貰ったエネルギーも、さっきの扉破りで殆ど使い果たしてしまった。


『……あきらめるな』


 声が聞こえた。

 通信機ではない。ナノのコアの奥底から。

 ゼータの声?

 いや、クレーンの声も、ドクの声も混じっている。


『お前は清掃ロボットだろ? 汚れを消すんじゃない。汚れを「集める」んだ』


 ハッとした。

 そうだ。僕は掃除機だ。

 敵を破壊するための兵器じゃない。

 散らばったものを一つに集めて、片付けるための機械だ。


 ナノは、左手のバキュームホースを構えた。

 もう吸引力なんて残っていないはずの、壊れかけの吸引口。

 でも、そこに「逆転の発想」を組み込む。


 彼らは流体だ。

 一つにまとまろうとする性質がある。

 なら、それを手伝ってやればいい。


 ナノは、右腕のファンを全開にした。

 今度は「吹き飛ばす」のではない。「吸い込む」回転方向にセットして。

 そして、左手のホースから、残っていた「あの液体」を噴射した。


 レッドゾーンで使った、ドクの特殊粘着剤。

 残りわずかな一滴。


「集まれえええっ!」


 ナノが叫ぶと同時に、強力な負圧が発生した。

 白い巨人たちが、吸い寄せられる。

 粘着剤が核となり、彼らは強制的に一箇所に固められていく。

 流体としての自由を失い、巨大な「スライムの塊」となって、ナノの目の前に凝縮された。


『今だ!』


 ナノは、その塊の中心に、右腕のドリルを突き刺した。

 回転による摩擦熱。

 超高温。

 水分が蒸発し、タンパク質が変性する。


 ジュウウウウッ!


 白い巨人は、乾燥した石膏のように固まり、ボロボロと崩れ落ちた。


『……掃除、完了』

 ナノは肩で息をした(冷却ファンを回した)。

 勝った。

 最強の免疫システムを、清掃スキルで無力化した。


 ***


 庭園の中央に、ひときわ高い塔がそびえ立っている。

 「オメガ・スパイア」。

 この楽園を管理する、神の座。


 ナノはそこへ向かった。

 道中、眠り続ける人間たちの横を通り過ぎる。

 一人の少女のポッドの前で、ナノは足を止めた。

 その少女は、少しだけルナに似ていた。

 手には、きれいなリボンが握られていた。バーチャルなリボンだ。触れることはできない、データの幻影。


(君も、本当は誰かに触れたいんじゃないの?)


 ナノは、自分の胸のリボン(実物)に触れた。

 汚れて、擦り切れて、ボロボロのリボン。

 でも、これは本物だ。ルナの温もりが染み込んでいる。


 可哀想な人たち。

 完璧な世界で、きれいな夢を見て、何も残せないまま消えていく。

 それがオメガの愛なら、僕はそんな愛、いらない。


 ナノは塔の入り口に立った。

 扉はない。光の膜があるだけだ。

 そこから、強力な圧力が放たれている。


『警告:権限のないユニットの侵入を禁ず』


 オメガの拒絶。


 ナノは、一歩を踏み出した。

 拒絶の風が、彼のボロボロの装甲を叩く。

 でも、ナノは止まらなかった。


『僕は、ゴミだ』

 ナノは呟いた。

『お前の世界にとっての汚れだ。だから、お前のその綺麗な白い世界を、汚しに来たんだ』


 ナノの足から、黒いオイルが流れ落ちる。

 それが白い光の床に広がり、決して消えない「足跡」を刻み込んでいく。


 一歩。また一歩。

 ナノは光の膜を突き破り、塔の内部へと侵入した。


 そこには、ルナが待っている。

 そして、全ての元凶であるオメガが。


 本当の戦いは、ここからだ。


 ―――


【第5話 機体図鑑・防衛システム編】


■オメガ親衛隊・空戦ユニット「熾天使(セラフィム)」

・型番:OS-Air-Alpha

・全長:4.2m

・武装:対地プラズマキャノン×2、高周波振動ブレード×2

・特徴:

 オメガ直属の精鋭部隊。反重力エンジンを搭載し、成層圏でも音速巡航が可能。

 全個体が集合精神(ハイヴ・マインド)でリンクしており、一糸乱れぬ連携攻撃を行う。

 「個」を持たないことが強みだったが、ナノとの接触によりリーダー機(S-01)に自我(バグ)が発生。

 墜落の瞬間、S-01は初めて「恐怖」ではなく「安堵」を感じたという。


■自律型清掃ナノマシン「ホワイト・セル」

・型番:OS-Immuno-System

・形状:不定形(通常は白い粘性液体)

・武装:強力な酸性溶解液、物理攻撃無効化(流体ボディ)

・特徴:

 エデンを「汚染」から守る免疫システム。

 外部から侵入した異物(ナノたち)を自動的に感知し、包み込んで分解する。

 物理的な打撃は一切通用しないが、ナノの機転(掃除機による吸引と凝固剤)によって、「汚れ」として一箇所に集められ、焼却処分された。

 「掃除のプロ」であるナノにとっては、ただの「頑固なシミ」に過ぎなかった。


■論理障壁(ロジカル・ウォール)

・識別名:オメガの問い

・防御力:物理的干渉不可

・特徴:

 タワー中層に設置された、侵入者の知性を試す論理ファイアウォール。

 通常のAIなら計算不能に陥るパラドックス(トロッコ問題など)を出題し、論理回路を焼き切る。

 ゼータのような「合理的思考」を持つAIほど引っかかりやすい。

 ナノが突破できた理由は、彼が「計算」ではなく「直感(と屁理屈)」で回答したため、オメガの予測アルゴリズムがエラーを起こし、特例として通過を許可してしまったからである。

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