第17話 華雄討伐と乙女の契約


​ 汜水関(しすいかん)から、早馬が飛び込んできた。


 連合軍の本陣は、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。


​「ほ、報告! 先鋒の孫堅(そんけん)軍、壊滅! 敵将・華雄(かゆう)の武勇凄まじく、祖茂(そも)殿をはじめとする多くの将が討ち取られました!」


​ その報告に、盟主である袁紹(えんしょう)は顔面蒼白となった。


 孫堅といえば「江東の虎」と恐れられる猛将だ。それが敗れるとは。


​「ええい、華雄ごときに誰か勝てる者はおらぬのか! ああ、私の顔良(がんりょう)と文醜(ぶんしゅう)さえ連れてきていれば……!」


​ 袁紹が情けない声を上げる中、敵将・華雄は陣の目の前まで迫り、大声で挑発を繰り返しているという。


 諸侯が互いに顔を見合わせ、誰も名乗り出ようとしない。


 その沈黙を破ったのは、末席にいた男だった。


​「――某(それがし)が参りましょう」


​ 見事な長い髭を携えた巨漢、関羽雲長である。


 袁術が「馬弓手(ばきゅうしゅ:下級兵士)ごときが!」と罵るが、曹操がそれを制して熱燗(あつかん)を勧めた。


​「まあ待て。この酒を飲んでから行け」


「酒は結構。……冷めぬうちに戻って参りますゆえ」


​ 関羽は酒を置いたまま、青龍偃月刀を手に天幕を出た。


 俊樹もまた、ニヤリと笑って立ち上がった。


​「兄上の露払いくらいは必要でしょう。玲花、行くぞ」


「はい、俊樹さん」

​                

​ 戦場に出ると、華雄が軍勢を率いて勝ち誇っていた。


 俊樹は玲花に目配せをした。


​「玲花、少し暴れておいで。兄上が華雄の首を取りやすいように、周りの雑魚を散らしてくれ」


「御意」


​ 玲花の姿が陽炎のように揺らぎ、消えた。


 次の瞬間、華雄の親衛隊たちの首が、次々と宙を舞った。


​「な、なんだ!? 何が起きた!?」


​ 見えない死神の鎌に刈り取られるように、兵士たちが悲鳴を上げて崩れ落ちる。


 混乱する華雄の前に、関羽が馬を飛ばした。


​「敵将、華雄! その首もらった!」


​ 一閃。


 青龍偃月刀が銀色の弧を描き、華雄の胴体と首を鮮やかに分断した。


 勝負は一瞬だった。


​ 天幕に戻った関羽が、華雄の首をゴロリと袁紹の前に転がした時、曹操が注いだ酒は、まだ湯気を立てていた。

​                

​ その夜。


 華雄討伐の混乱に乗じて、一人の影が董卓軍の陣営から抜け出していた。


 貂蝉である。


 彼女は着の身着のまま、必死に森の中を走っていた。


​「はぁ、はぁ……捕まるわけにはいかない……!」


​ だが、運悪く巡回中の董卓軍の兵士数名に見つかってしまった。


​「おい、ありゃあ貂蝉様じゃないか!」


「逃げ出したのか? へへっ、捕まえて俺たちで楽しんじまおうぜ!」


​ 下卑た笑みを浮かべた男たちが迫る。


 貂蝉は木の根に躓き、転倒した。


 万事休す。彼女が覚悟を決めて舌を噛もうとした、その時。


​「――汚い手で、その美しい花に触れるな」


​ 冷徹な声と共に、男たちの首が物理的にねじ切られた。


 俊樹と玲花だった。


 俊樹は腰を抜かしている貂蝉に手を差し伸べた。


​「立てるか? お嬢さん」


​ 月明かりに照らされた俊樹の顔を見て、貂蝉は息を呑んだ。


 昼間、戦場で雷のような威圧感を放っていた若き英雄。


 この男なら……この圧倒的な力を持つ男なら、あの呂布から私を守れるかもしれない。


​ 貂蝉の瞳に、計算と決意の光が宿った。

​                

​ 俊樹の天幕に匿われた貂蝉は、震える手で自らの帯を解いた。


 薄衣がはらりと落ち、月光のような白い肌と、豊満でありながら引き締まった肢体が露わになる。


 まだ誰の手にも触れられていない、至高の芸術品。


​「……様」


「ん?」


​ 俊樹が振り返ると、半裸の貂蝉が潤んだ瞳で見つめていた。


​「お願いです、私をお守りください。……対価として、私の『初めて』を貴方様に差し上げます」


​ 貂蝉は俊樹にすがりつき、その胸に顔を埋めた。

 色仕掛け。ハニートラップだ。


 男ならば抗えないであろう極上の誘惑。しかし、俊樹の反応は冷ややかだった。


​「……服を着なさい」


「え?」


「俺は売春宿に来たつもりはない。それに、心のない体など抱いても虚しいだけだ」


​ 俊樹は貂蝉の肩を突き放した。


 その拒絶に貂蝉が呆然としていると、天幕の入り口から殺気に満ちた声が響いた。


​「――あらあら。私の俊樹さんに何をしているのかしら、この泥棒猫は」


​ 玲花だった。


 その瞳は鮮血のように赤く輝き、嫉妬のあまり爪が伸び、牙が剥き出しになっている。

 

「ひっ!?」


​ 貂蝉が悲鳴を上げる。


 玲花は俊樹の眷属となってから、独占欲が強くなっていた。俊樹に色目を使う女は、たとえ絶世の美女であろうと排除対象でしかない。


​「死になさい。その汚い体ごと、ミンチにしてあげる」


「待って! 違うのです!」


​ 玲花が爪を振り上げた瞬間、貂蝉は床に額を擦り付けて泣き叫んだ。


​「誘惑したかったわけではありません……! こうするしか、生きる道がなかったのです!」


​ 貂蝉は涙ながらに語った。


 呂布に目をつけられ、今夜にも貞操を奪われるはずだったこと。その後、董卓の玩具にされる運命だったこと。


 美貌ゆえに男たちに翻弄され続けた、悲劇的な境遇を。


​「……私はまだ、穢れてはいません。でも、あそこに戻れば地獄が待っています。だから……俊樹様の力にすがるしか……」


​ 貂蝉の告白を聞き、玲花の殺気がスッと引いた。

 玲花自身もまた、村娘として無力だった頃、俊樹に救われた経験がある。


 彼女は貂蝉の前にしゃがみ込むと、その顎を持ち上げた。


​「……貴女、俊樹さんの『一番』になりたいの?」


「いいえ! 滅相もございません!」


​ 貂蝉は必死に首を振った。


​「一番は玲花お姉様です! 私はその端で……侍女でも道具でも構いません。ただ、あの方のそばに置いていただけるだけで……」


「お姉様……」


​ その響きに、玲花は満更でもない顔をした。


 自分を「一番」と認め、下につくというなら話は別だ。それに、この美女がそばにいれば、俊樹の覇業の役に立つかもしれない。


​「……いいでしょう。許してあげます」


​ 玲花は貂蝉に自分の着物をかけてやり、俊樹の方を向いた。


​「俊樹さん。この子、私の妹分として面倒を見てもいいですか?」


「玲花がいいなら構わないよ。……貂蝉、だったな」


​ 俊樹は貂蝉の頭に手を置いた。


​「もう体を売るような真似はしなくていい。俺の仲間になった以上、呂布だろうが董卓だろうが、指一本触れさせない」


​ その力強い言葉と、玲花の意外な優しさに、貂蝉の目から堰を切ったように涙が溢れ出した。


​「ありがとうございます……! この御恩は、生涯忘れません……!」


​ 計算でも誘惑でもない、本心からの忠誠。


 こうして、絶世の美女・貂蝉は、俊樹と玲花の「家族」として迎え入れられた。

 

 だが、獲物を奪われた「虎」が黙っているはずがない。


 虎牢関(ころうかん)の彼方から、鬼神の咆哮が近づいていた。

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