第二話 凍る世界 —北欧神話の終末—
ツヨシは背中を土壁に預けて、白い息を吐いた。二月、ウクライナのドンバス地方。気温はマイナス十五度を下回っている。防寒着の隙間から、針のような冷気が入り込んでくる。指先の感覚がない。足の指も怪しい。
遠くで閃光が走った。 直後、足元から突き上げるような震動が伝わる。 一、二、三秒――。 遅れて「ドン!」と、空気を震わせる重い音が追いかけてきた。 たぶん、着弾地点は一キロ先。
「眠るなよ、ツヨシ」
隣に座っていたエリックが言った。スウェーデン人。金髪を短く刈り込んだ、熊のような体格の男。コールサインは「ヴァイキング」。首にはミョルニル——トールのハンマーを象ったペンダントをかけている。
「眠ってない」
「嘘つけ。目が閉じてた」
「瞑想してたんだ」
エリックが低く笑った。その笑い声が白い
ツヨシは三十二歳。元陸上自衛隊、普通科。五年前に退官して、民間軍事会社を転々とした。アフリカ、中東、そしてここ。ウクライナ東部。ルハンスク州のどこか。正確な位置は、もうよくわからない。
なぜここにいるのか、と聞かれても困る。
金か。使命感か。退屈か。たぶん、全部少しずつ。
自衛隊を辞めたのは、実戦を経験したかったからだ。訓練だけの日々に耐えられなかった。本物の戦場が見たかった。銃を撃ちたかった。撃たれてみたかった。
そういう欲望を持つ自分が異常だとは思っていた。でも、止められなかった。
「今日で何日目だ」エリックが聞いた。
「塹壕生活?」
「いや、最後にまともな飯を食ってから」
ツヨシは考えた。三日前にレーションを食べた。その前は……覚えていない。補給線が断たれて、物資が届かなくなって、もう一週間になる。
「三日」
「俺は四日だ」
エリックが懐から何かを取り出した。銀色の包み。非常用の栄養バー。最後の一本。
「半分やる」
ツヨシは首を振った。「いらない。お前が食え」
「馬鹿言うな。お前、この前、俺に缶詰くれたろ」
あれは五日前だった。ツヨシのバックパックの底に、奇跡的に残っていたツナ缶。エリックが三日間何も食べていないと聞いて、渡した。
「あれは余ってただけだ」
「嘘つけ。最後の一個だったの、知ってる」
エリックは栄養バーを二つに割って、片方をツヨシの手に押し付けた。冷たい。カチカチに凍っている。
「食え。命令だ」
「お前に命令される覚えはない」
「じゃあ、頼みだ。兄弟として」
ツヨシは黙って、栄養バーを口に入れた。甘い。人工的な甘さ。舌の上でゆっくり溶かす。噛むのがもったいない。
エリックも自分の分を口に入れた。二人で黙って、凍った栄養バーを舐めていた。
また砲声。今度は近い。五百メートルくらいか。土壁から砂がぱらぱらと落ちてきた。
「ツヨシ」
「なんだ」
「ヴァルハラって、知ってるか」
ツヨシは首を傾げた。「北欧神話の? 死んだ戦士が行くところだろ」
「そう」エリックは首のペンダントを触った。「俺の婆ちゃんが信じてた。俺も、まあ、半分くらい信じてる」
「半分?」
「死んだら何もないかもしれない。でも、もしヴァルハラがあるなら——」エリックは笑った。「悪くない場所だと思わないか?」
「戦い続けるんだろ。毎日」
「そう。毎日戦って、毎日死んで、毎日復活する。そして毎晩、仲間と酒を飲む」
「それの何がいいんだ」
「お前、本気で言ってるのか?」
エリックがツヨシの顔を覗き込んだ。青い目。真剣な目。
「俺たちみたいな人間にとって、それ以上の天国があるか? 戦い続けられる。死んでも終わらない。仲間と一緒に。永遠に」
ツヨシは黙った。
確かに、と思った。
自分は何のために戦場に来たのか。金か。使命感か。違う。戦いたかったからだ。銃を撃ちたかった。撃たれたかった。生きるか死ぬかのスリルを味わいたかった。
でも、死んだら終わりだ。それが怖くて、いつも少しだけ臆病になる。本当はもっと前に出たい。もっと危険な任務を引き受けたい。でも、死んだら終わりだから——
「死んでも終わらないなら」ツヨシは呟いた。「何でもできるな」
「だろ?」エリックが笑った。「リスポーン無限のFPSみたいなもんだ。やりたい放題だぜ」
無線機が鳴った。
ノイズ混じりの声。ウクライナ語。ツヨシには半分くらいしか聞き取れない。でも、単語は分かった。
ロシア軍。前進。包囲。
エリックが立ち上がった。「来るぞ」
ツヨシもライフルを構えた。AK-74。弾倉は残り二本。予備はない。
塹壕の向こうから、エンジン音が聞こえてきた。重い音。装甲車だ。複数。
無線が叫んでいる。撤退しろ。撤退しろ。
でも、どこへ?
後ろも敵だ。補給線が断たれたということは、退路も断たれたということだ。
「ツヨシ」
エリックが手を伸ばしてきた。握手を求めている。
「最後まで一緒だ。いいな」
ツヨシはその手を握った。冷たい。でも、力強い。
「ああ。最後まで」
地平線から、装甲車が姿を現した。三台。いや、五台。その後ろに、歩兵の影が見える。数十人。百人以上かもしれない。
こちらは八人。弾薬は底をついている。
勝てるわけがない。
でも——
「エリック」
「なんだ」
「ヴァルハラに行くには、どうすればいい」
エリックが笑った。歯を見せて、子供のように。
「簡単だ。剣を持って死ね。戦いながら死ね。逃げるな。最後まで戦え」
ツヨシはライフルを構えた。スコープ越しに、先頭の装甲車を見た。
「了解」
引き金を引いた。
◇
最初に気づいたのは、寒さがないことだった。
目を開けると、空が見えた。灰色の空。雲が低く垂れ込めている。でも、寒くない。ウクライナの塹壕で感じていた、骨まで凍るような冷気がない。
ツヨシは起き上がった。
自分の体を見た。血がない。穴がない。さっき、胸に三発食らったはずなのに。最後に見た光景は、自分の体から噴き出す血と、エリックが叫んでいる顔だった。
立ち上がると、足元は石畳だった。古い、磨り減った石。周囲を見回す。
巨大な建物の中にいた。
天井が見えないほど高い。柱が何本も立っている。木の柱。太い。直径二メートルはある。壁には盾や剣や斧が飾られている。何百、何千という武器。
そして——人がいた。
たくさんの人。男も女も。様々な服装。鎧を着た者。革の服を着た者。現代の軍服を着た者。
全員が、武器を持っている。
「ツヨシ!」
振り向くと、エリックがいた。
血まみれではない。穴だらけではない。五日間何も食べていないやつれた顔ではない。健康そうで、筋肉質で、笑っている。
「お前も来たか!」
エリックが近づいてきて、ツヨシを抱きしめた。熊のような腕。骨が軋むほど強い。
「ここ、どこだ」
「ヴァルハラだ」エリックは目を輝かせていた。「本当にあったんだ。婆ちゃんの言った通りだ」
ツヨシは周囲を見回した。信じられなかった。死んだはずだ。胸に三発食らって、血を流して、意識が遠のいて——
「俺たち、死んだのか」
「ああ。死んだ。そして、ここに来た」
「他のやつらは?」
「知らない。たぶん、来なかったんだろう」
八人いた仲間。エリックとツヨシ以外の六人は、ここにいない。
「なんで俺たちだけ?」
「剣を持って死んだからだ」エリックが言った。「最後まで戦ったからだ。ヴァルキューレが選んだんだ」
ヴァルキューレ。戦場で死んだ戦士を選んで、ヴァルハラに連れていく女たち。
ツヨシはまだ信じられなかった。でも、現実として、自分はここにいる。生きている。いや、生きているのとは違う。死んだのに、存在している。
「それで」ツヨシは聞いた。「ここで何をするんだ」
エリックが笑った。子供のような笑顔。
「戦うんだ」
◇
ヴァルハラの一日は、こうだった。
朝——朝と呼んでいいのかわからないが、空が少し明るくなる時間——角笛が鳴る。低く、長く、腹に響く音。
戦士たちが起き上がる。何千人、何万人。大広間の床に雑魚寝していた者たちが、武器を手に取り、外へ出ていく。
広場がある。
見渡す限りの平原。草が生えている。灰色の空の下、どこまでも続く戦場。
そこで、戦う。
ルールはない。チームもない。各自が好きなように戦う。剣で斬り合う者。斧を振り回す者。槍で突く者。弓を射る者。素手で殴り合う者。
ツヨシは最初、戸惑った。
自分が知っている戦争とは違う。塹壕戦ではない。銃撃戦ではない。これは——なんだ?
「バトルロイヤルだ」
エリックが横に立っていた。手には両刃の斧。
「好きなように戦え。殺せ。殺されろ。どうせ夕方には復活する」
「銃は?」
「ない。ここには、お前が死んだときに持っていた武器しかない」
ツヨシは自分の手を見た。空っぽだ。ライフルを持っていたはずだ。最後の瞬間まで撃っていた。
「銃は『剣』じゃないからな」エリックが言った。「ヴァルハラは古い場所だ。近代兵器は認められていないらしい」
「じゃあ、俺は素手で戦えと?」
「待ってろ」
エリックが広場の端に行き、武器の山から剣を一本取ってきた。片手剣。刃渡り七十センチくらい。柄には革が巻かれている。
「これを使え。練習だと思って」
ツヨシは剣を受け取った。重い。でも、バランスはいい。振ってみる。空を切る音。
「よし」エリックが斧を構えた。「まずは俺と一戦やるか」
「お前と?」
「練習だ。死んでも復活する。遠慮するな」
エリックが踏み込んできた。斧が弧を描いて迫ってくる。ツヨシは反射的に剣で受けた。衝撃が腕に伝わる。重い。
「いいぞ!」
エリックが笑いながら、連続で斬りかかってくる。ツヨシは後退しながら、剣で受ける。受ける。受ける。
攻撃の隙が見えた。
踏み込んで、剣を突き出す。エリックの脇腹に刺さった。肉を裂く感触。血が噴き出す。
エリックが膝をついた。
「やる……じゃないか……」
血を吐きながら、笑っている。
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃない。死ぬ」エリックはまだ笑っていた。「でも、夕方には復活する。待ってろ」
そう言って、エリックは倒れた。目が閉じる。呼吸が止まる。
ツヨシは呆然と立ち尽くした。
今、自分は友人を殺した。剣で刺して、殺した。
周りを見た。誰も気にしていない。他の戦士たちは、それぞれの戦いに夢中だ。斬り合い、殺し合い、血を流し、倒れ、また立ち上がり——
立ち上がる?
倒れていた戦士が、起き上がった。さっき首を斬られて死んだはずの男が、何事もなかったように立ち上がり、また剣を構えている。
そうか、とツヨシは思った。
ここでは死なない。何度殺されても、復活する。
だから——
「うおおおお!」
背後から叫び声。振り向く間もなく、背中に衝撃。槍が貫通していた。自分の胸から、槍の穂先が突き出している。
痛い。
死ぬほど痛い。
膝から崩れ落ちる。血が口から溢れる。視界が暗くなる。
これが死か、と思った。二度目の死。
意識が——
◇
目が覚めた。
大広間の床に寝ていた。体を起こす。傷がない。痛みもない。さっき槍で貫かれたはずの胸が、何事もなかったように塞がっている。
「おう、起きたか」
エリックが横に座っていた。手に木の杯を持っている。
「復活した……」
「だろ?」エリックが杯を差し出した。「夕方になると、全員復活する。そして、宴会だ」
ツヨシは杯を受け取った。一口飲む。甘い。アルコールの熱が喉を焼く。うまい。ウクライナの塹壕で飲んだ安物のウォッカとは比べ物にならない。
周りを見た。大広間に、何千人もの戦士が集まっている。長いテーブルが何列も並んでいて、その上に料理が山盛りになっている。肉。パン。果物。チーズ。
「腹減ってないか?」エリックが聞いた。
減っている。猛烈に。ウクライナでは何日もまともに食べていなかった。
「食え。いくらでもある」
ツヨシは手を伸ばした。肉を取る。焼いた豚肉。熱い。脂がしたたっている。かぶりつく。
うまい。
信じられないくらい、うまい。
「ここの肉はセーリムニルっていう豚だ」エリックが説明した。「毎日殺して食べても、翌朝には復活する。俺たちと同じだ」
ツヨシは黙って食べ続けた。肉を食べ、パンを食べ、蜂蜜酒を飲んだ。腹がいっぱいになっても、まだ食べられる気がした。
「どうだ」エリックが聞いた。「悪くないだろ」
「悪くない」
ツヨシは認めた。
戦って、死んで、復活して、飯を食って、酒を飲む。
悪くない。全然、悪くない。
「でも」ツヨシは聞いた。「これが永遠に続くのか?」
「ああ。永遠に」
「飽きないのか」
エリックは首を振った。「飽きるわけないだろ。毎日違う相手と戦える。毎日新しい技を試せる。毎日死んで、毎日復活する。こんな贅沢があるか?」
ツヨシは考えた。
確かに、そうかもしれない。
現実の戦場では、死んだら終わりだ。だから、いつも少しだけ臆病になる。本当はもっと前に出たい。もっと危険な任務を引き受けたい。でも、死んだら終わりだから——
ここには、その制限がない。
好きなだけ戦える。好きなだけ死ねる。好きなだけ復活できる。
「明日」ツヨシは言った。「もう一回、お前と戦わせてくれ」
エリックが笑った。「もちろんだ」
◇
日が経った。
何日経ったのか、正確にはわからない。ヴァルハラには暦がない。太陽の位置で時間を測るが、曇りの日が多くて、よくわからなくなる。
でも、長い時間が経ったことは確かだった。
ツヨシは変わっていた。
最初は剣の扱いもぎこちなかった。現代の銃器戦闘しか知らなかったから。でも、毎日戦い、毎日死に、毎日復活するうちに、体が覚えていった。
剣の振り方。盾の使い方。斧の間合い。槍の捌き方。
何度も殺された。首を斬られ、胸を刺され、腹を裂かれ、頭を割られた。そのたびに、「なるほど、こうやって殺されるのか」と学んだ。そして翌日、同じ手を使って相手を殺した。
「死に戻り」の学習。
ゲームでいうところの、「死んで覚える」プレイスタイル。
ツヨシはそれを楽しんでいた。
「お前、強くなったな」
ある日の夕食時、エリックが言った。
「まだまだだ」
「いや、最初と比べたら別人だ。俺も何回か殺されたし」
確かに、エリックを殺した回数は増えていた。最初は十回に一回くらいだったのが、今では三回に一回くらいは勝てる。
「このペースなら、あと百年くらいで俺に追いつくな」
「百年?」
「冗談だ。たぶん、五十年くらいだ」
エリックが笑った。ツヨシも笑った。
五十年。現実の世界なら、気が遠くなる時間だ。でも、ここでは——永遠の中の五十年など、誤差のようなものだ。
「なあ、エリック」
「なんだ」
「ここには、俺みたいな『新人』はいないのか」
エリックは考えた。「いる。たまに来る。でも、ほとんどは古い時代の戦士だ。ヴァイキング時代とか、中世とか」
「近代は?」
「少ない。近代の戦争は、銃で死ぬからな。『剣を持って死ぬ』という条件を満たしにくい」
「じゃあ、俺たちは珍しいのか」
「ああ。だから、みんな興味を持ってる。お前の戦い方、見られてるぞ」
ツヨシは周りを見た。確かに、何人かの戦士がこちらを見ている。髭を生やした巨漢。鎧を着た老人。顔に青い刺青を入れた女。
「現代の戦士がどう戦うか、見たいんだろう」エリックが言った。「銃器の代わりに剣を持ったら、どうなるか」
「期待に応えられるかな」
「応えてるさ。お前の動き、合理的だからな。無駄がない。訓練された軍人の動きだ。古い時代の戦士たちには新鮮に見えるんだろう」
ツヨシは蜂蜜酒を飲んだ。
不思議な気分だった。
ウクライナの塹壕で、凍えながら死ぬのを待っていた自分が、今、ヴァルハラで古代の戦士たちと酒を飲んでいる。毎日戦い、毎日死に、毎日復活している。
楽しい。
認めざるを得なかった。これは、楽しい。
戦争ジャンキーの天国。ゲーマーの夢。無限リスポーンのバトルロイヤル。
ツヨシは杯を掲げた。「永遠に続くといいな」
エリックも杯を掲げた。「永遠に続くさ」
そう言って、二人は酒を飲んだ。
◇
変化は、突然やってきた。
ある朝——いつもと同じように角笛が鳴り、戦士たちが起き上がり、広場に向かおうとしたとき——
寒かった。
ヴァルハラに来てから、寒さを感じたことはなかった。暑くも寒くもない、ちょうどいい気温がずっと続いていた。
でも、その朝は寒かった。
吐く息が白い。肌が粟立つ。指先が冷たい。
「なんだ、これ」ツヨシは呟いた。
外に出ると、空が違っていた。
いつもの灰色ではない。もっと暗い。黒に近い灰色。そして——雪が降っていた。
白い結晶が、ゆっくりと舞い降りてくる。地面に積もり始めている。
周りの戦士たちが、ざわめいていた。何かを囁き合っている。古い言葉。ツヨシには意味がわからない。
エリックの顔が強張っていた。
「エリック?」
「フィンブルの冬だ」
「なんだ、それ」
「ラグナロクの前兆」
ラグナロク。
その言葉は知っていた。北欧神話の終末。神々の黄昏。世界の終わり。
「三年続く冬」エリックは空を見上げながら言った。「夏が来ない。太陽が隠れる。世界が凍りつく」
「三年?」
「そして、その後に——最後の戦いが来る」
エリックの目が輝いていた。
恐怖ではない。興奮だ。
「俺たちがここにいる理由だ」エリックは言った。「ヴァルハラで訓練してきた理由。この日のためだったんだ」
雪が強くなってきた。吹雪に変わりつつある。視界が白く霞む。
角笛が鳴った。
いつもとは違う音。もっと長く、もっと低く、もっと荘厳な音。
大広間から、声が響いてきた。
「集まれ! 全員、集まれ!」
戦士たちが走り出した。大広間に向かって。ツヨシもエリックについていった。
大広間には、何万人もの戦士が集まっていた。そして、その中心に——
一人の男がいた。
長い灰色の髭。片目。広いつばの帽子。手には槍を持っている。
オーディン。
神々の父。ヴァルハラの主。
彼が口を開いた。
「エインヘリャルよ」
声は大きくないのに、大広間の隅々まで響いた。
「時が来た。ラグナロクが始まる」
戦士たちがどよめいた。歓声を上げる者。武器を掲げる者。祈る者。
「我々は戦う。巨人と戦う。炎の軍勢と戦う。狼と戦う。蛇と戦う」
オーディンの片目が、大広間を見渡した。
「そして、負ける」
静寂が落ちた。
「運命は決まっている。我々は敗北する。私は狼に食われる。トールは蛇と相打ちになる。世界は燃え、沈み、終わる」
ツヨシは息を呑んだ。
負ける。最初から、負けると決まっている。神でさえ、運命には勝てない。
「だが」オーディンは続けた。「だからこそ、我々は戦う。負けると分かっていても、剣を持って立つ。逃げない。諦めない。最後の瞬間まで、戦士として戦う」
彼は槍を掲げた。
「それが、我々の誇りだ。それが、ヴァルハラの戦士だ」
戦士たちが叫んだ。
剣を掲げ、斧を振り、盾を打ち鳴らした。大広間が揺れるほどの歓声。
ツヨシは隣のエリックを見た。
エリックは泣いていた。
涙を流しながら、笑っていた。
「最高だ」エリックは言った。「最高の死に方だ。神と一緒に、最後の戦いで死ぬなんて」
「負けるのに?」
「負けるからいいんだ」エリックはツヨシの肩を掴んだ。「勝ち負けじゃない。どう戦ったかだ。最後まで立っていたかどうかだ」
ツヨシは何も言えなかった。
理解できなかった。負けると分かっている戦いに、なぜこんなに喜べるのか。
でも——
周りを見た。何万人もの戦士が、歓声を上げている。全員が、これから死ぬことを知っている。二度と復活しない死を迎えることを知っている。なのに、全員が笑っている。
なぜだ。
なぜ、笑えるんだ。
◇
フィンブルの冬は、本当に三年続いた。
ヴァルハラにも雪が積もり、風が吹き荒れた。でも、戦士たちは変わらず戦い続けた。雪の中で剣を交え、吹雪の中で死に、夕方には復活して酒を飲んだ。
ツヨシも戦い続けた。
技が上がった。体が変わった。もはや「現代から来た新人」ではなく、立派なエインヘリャルになっていた。
そして、三年目の冬の終わり——
空が裂けた。
文字通り、裂けた。灰色の空に、黒い亀裂が走った。その向こうから、赤い光が漏れている。炎の光だ。
大地が震えた。ヴァルハラの大広間が揺れ、柱が軋み、武器が壁から落ちた。
角笛が鳴った。
最後の角笛。
戦士たちが外に出た。何万人も。いや、何十万人かもしれない。人類の歴史の中で、戦場で死んだ最も勇敢な者たち。
空の亀裂から、何かが出てきた。
巨人だ。
山のように巨大な人型の影。何十体も。何百体も。炎をまとった者。氷をまとった者。岩でできた者。
そして——狼がいた。
地平線を覆うほどの巨大な狼。口を開けると、その顎は天と地を繋ぐほど大きかった。
フェンリル。
オーディンを殺す運命の狼。
蛇もいた。
世界を一周するほど長い蛇が、大地を割って現れた。その体が動くたびに、地震が起きる。
ヨルムンガンド。
トールと相打ちになる運命の蛇。
ツヨシは剣を握りしめた。
これが、ラグナロク。
これが、最後の戦い。
「行くぞ、ツヨシ」
エリックが横に立っていた。斧を構えている。笑っている。
「怖いか?」
「怖い」ツヨシは正直に言った。「死ぬのは怖い」
「俺もだ」エリックも正直に言った。「でも、逃げない。お前も逃げるな」
「逃げない」
「約束だ」
「約束だ」
戦士たちが走り出した。
何十万人もの戦士が、巨人と狼と蛇に向かって走っていく。勝てるわけがない。誰もが知っている。神々でさえ負ける戦いに、人間が勝てるわけがない。
でも、走っている。
全員が、走っている。
ツヨシも走った。
剣を握りしめ、叫びながら、走った。
最初の巨人に斬りかかった。足首に剣を突き立てた。巨人は気づかない。蟻が刺したくらいの感覚だろう。でも、斬った。戦った。
周りで戦士たちが死んでいく。
踏みつぶされる者。焼き殺される者。凍らされる者。
ツヨシも死んだ。
巨人の拳が振り下ろされて、体が潰れた。骨が砕け、内臓が飛び散り、意識が——
復活しなかった。
いつもなら、夕方には大広間で目が覚める。でも、今回は違った。暗闘の中で、意識だけが漂っている。
これが、本当の死か。
もう復活しない。もう戦えない。もう——
光が見えた。
白い光。温かい光。
その中に、人影があった。
エリック。
他の戦士たち。
何十万人もの戦士が、白い光の中にいた。
「終わったのか」ツヨシは聞いた。
「終わった」エリックが答えた。「俺たちは負けた。神も死んだ。世界も終わった」
「じゃあ、これは……」
「知らない。でも、悪くない気分だ」
エリックは笑っていた。
周りを見た。全員が笑っていた。
何十万人もの戦士が、死んで、負けて、それでも笑っていた。
「なんで笑ってるんだ」ツヨシは聞いた。「負けたのに」
「だから笑ってるんだ」エリックが言った。「最後まで戦った。逃げなかった。剣を持ったまま死んだ。これ以上の死に方があるか?」
ツヨシは考えた。
負けた。死んだ。何も残らなかった。
でも——
最後まで戦った。仲間と一緒に。神と一緒に。勝てないと分かっていても、最後の瞬間まで剣を振った。
それは——悪くない。
悪くない、気がする。
ツヨシは笑った。
なぜか、笑えた。
「やっぱり」ツヨシは言った。「ラスボス、強かったな」
エリックが声を上げて笑った。「ああ、強かった! 全然勝てなかった!」
「でも、楽しかった」
「ああ、楽しかった!」
白い光が強くなっていく。
何も見えなくなる。何も聞こえなくなる。
でも、笑い声だけは聞こえていた。
何十万人もの戦士の、晴れやかな笑い声。
負けて、死んで、それでも笑っている。
ツヨシは目を閉じた。
悪くない終わり方だ、と思った。
◇ ◇ ◇
【解説】
これは、北欧神話の終末イメージ。
ラグナロク(Ragnarök)。古ノルド語で「神々の運命」を意味する言葉だ。英語では「Twilight of the Gods(神々の黄昏)」とも訳される。世界の終わりであり、神々の死であり、そして——誰も勝たない戦い。
北欧神話は、他の多くの宗教と決定的に異なる点がある。
ゾロアスター教では、最後に善が勝つ。悪神アーリマンは滅び、世界は完璧な状態に戻る。キリスト教でも、最後の審判で神が勝利し、悪は永遠に罰せられる。イスラム教でも同様だ。善と悪の戦いがあり、最終的には善が勝つ。
しかし、北欧神話では違う。
ラグナロクで、神々は負ける。
オーディンはフェンリル(巨大狼)に食われて死ぬ。トールはヨルムンガンド(世界蛇)と相打ちになり、蛇を殺した後に自らも毒で死ぬ。フレイは炎の巨人スルトに殺される。ヘイムダルとロキは互いを殺し合う。
世界は炎に包まれ、海に沈む。
勝者はいない。全員が死ぬ。
◇
なぜ、このような神話が生まれたのか。
北欧の環境を想像してほしい。
スカンジナビア半島。北極圏に近い土地。冬は長く、夏は短い。日照時間は極端に変動する。冬には太陽がほとんど昇らない日々が続き、夏には沈まない白夜がある。
農業は難しい。土地は痩せている。海は荒れる。森には狼がいる。
そういう土地で暮らす人々にとって、「最終的には負ける」というのは、ある意味で日常的な感覚だったのかもしれない。
自然には勝てない。冬には勝てない。老いには勝てない。死には勝てない。
どんなに強い戦士でも、いつかは死ぬ。どんなに繁栄した王国でも、いつかは滅びる。それが、北欧の人々が見てきた現実だった。
だから、彼らの神話には「永遠の勝利」がない。
代わりにあるのは、「どう負けるか」という問いだ。
◇
ヴァルハラについて、もう少し詳しく説明しよう。
ヴァルハラ(Valhalla)は、古ノルド語で「戦死者の広間」を意味する。オーディンが支配する、アースガルド(神々の国)にある巨大な宮殿だ。
ここに入れるのは、戦場で名誉ある死を遂げた戦士だけ。ヴァルキューレ(戦乙女)が戦場を飛び回り、最も勇敢な死者を選んでヴァルハラに連れていく。
選ばれた戦士は「エインヘリャル」と呼ばれる。彼らはヴァルハラで永遠に暮らす——ただし、「暮らす」という言葉は適切ではないかもしれない。
毎朝、彼らは武装して広場に出る。そして、互いに戦う。本気で。殺し合う。首を斬り、胸を刺し、腹を裂く。死ぬ。
だが、夕方になると全員が復活する。傷は癒え、失った手足も元に戻る。そして夜は、大広間で宴会だ。セーリムニルという魔法の豚(毎日殺されて食べられても翌朝復活する)の肉を食べ、ヘイズルーン(魔法の山羊)の乳から作った蜂蜜酒を飲む。
この繰り返しが、永遠に続く。
——ラグナロクが来るまで。
ヴァルハラの戦士たちは、ラグナロクのために訓練されている。いつか来る最終戦争で、オーディンと共に巨人と戦うために。
つまり、ヴァルハラは「天国」であると同時に「訓練場」なのだ。
◇
ここで、日本の読者は「靖国神社」を連想するかもしれない。
確かに、表面的な類似点はある。「戦場で死んだ者が特別な場所に行く」という構造。戦死を名誉として扱う価値観。
しかし、本質は全く異なる。
靖国神社では、死者は「祀られる」。静かに眠り、生者に崇められる存在になる。死者が何かを「する」わけではない。受動的な存在として、祭祀の対象になる。
一方、ヴァルハラでは、死者は「戦い続ける」。毎日剣を振り、毎日死に、毎日復活する。能動的な存在として、永遠にアクティブであり続ける。
現代的な比喩を使えば、こう言えるかもしれない。
靖国が「殿堂入り」なら、ヴァルハラは「無限リスポーンのオンラインゲーム」だ。
戦争を愛する者——あえて「戦争ジャンキー」と呼ぼう——にとって、ヴァルハラは理想の場所だ。死を恐れる必要がない。何度でも挑戦できる。新しい技を試せる。失敗しても、やり直せる。仲間と一緒に、永遠に戦い続けられる。
ゲームが存在しなかった時代に、北欧の人々は「死に戻り」の概念を考え出していた。
それは、彼らがどれほど「戦い」を愛していたかの証だろう。
◇
では、戦士以外の人間はどうなるのか。
北欧神話では、戦場で死ななかった者——病死、老衰、事故死など——は、ヘルヘイム(ヘルの国)に行くとされる。ヘルという女神が支配する、冷たく暗い地下世界だ。
ただし、これはキリスト教の「地獄」とは異なる。ヘルヘイムは罰の場所ではない。拷問もない。ただ、寒くて、暗くて、特に何も起きない場所だ。
言い換えれば、「退屈」が罰なのだ。
戦士にとって最悪の運命は、永遠の苦痛ではなく、永遠の退屈だった。
ここに、北欧の価値観が表れている。
北欧神話を語り継いだのは、主に戦士階級だった。王や首長に仕えるスカルド(詩人)たちが、サガ(物語)を語った。彼らの聴衆は戦士たちだった。
だから、北欧神話は「戦士の神話」なのだ。
農民の死後、漁師の死後、女性や子供の死後については、ほとんど語られない。それは、語り手にとって興味のないことだったから。
◇
ラグナロクの後、世界はどうなるのか。
現存する文献——主に十三世紀に書かれた『詩のエッダ』と『散文のエッダ』——によれば、世界は再生する。海から新しい大地が浮上し、生き残った少数の神々が再会し、二人の人間(リーヴとリーヴスラシル)が新しい人類の祖先になる。
しかし、多くの学者は、この「再生」の部分は後世の追加だと考えている。
十三世紀のアイスランドは、すでにキリスト教化されていた。エッダを書いた人々は、異教の神話をキリスト教的な枠組みの中で解釈し直した可能性がある。「滅亡の後の再生」という構造は、キリスト教の影響かもしれない。
本来の北欧神話は、どうだったのか。
おそらく——滅びて、終わり。
再生なんてなかった。
だからこそ、「今この瞬間をどう生きるか」「どう死ぬか」が全てだった。
結果は決まっている。運命は変えられない。神でさえ、ラグナロクを止められない。
でも、だからといって、何もしないのか?
違う。
負けると分かっていても、最後まで戦う。
それが、北欧の戦士の美学だった。
◇
現代において、北欧神話を信仰する人々がいる。
アサトル(Ásatrú)と呼ばれる宗教運動だ。アイスランド語で「神々への信仰」を意味する。一九七〇年代にアイスランドで始まり、現在ではスカンジナビア諸国を中心に、世界中に信者がいる。
二〇一三年には、アメリカの退役軍人省が、アサトル信者のために「ミョルニル」(トールのハンマー)を墓石の宗教シンボルとして公式に認めた。軍の中にも、少なからぬ信者がいるのだ。
彼らにとって、ヴァルハラやラグナロクは「変な神話」ではない。
「負けると分かっていても戦う」という姿勢は、現代の軍人にも響くものがあるのだろう。戦場に行く者は、自分が死ぬ可能性を常に意識している。その中で、「死に方」に意味を見出す思想は、一種の慰めになりうる。
「Till Valhalla(ヴァルハラで会おう)」という言葉は、アメリカ軍の一部で、戦死した仲間への弔辞として使われている。
◇
ここで、この連作のテーマに戻ろう。
第一話では、ゾロアスター教の天国を描いた。平らな草原、影のない体、害獣のいない世界。主人公は「ヒマじゃない?」と感じた。
第二話では、北欧神話の天国を描いた。毎日の戦闘、死と復活、仲間との宴会。主人公は「楽しい」と感じた——少なくとも、ある程度は。
この違いは何か。
第一話の天国は「平和」だった。争いがない。苦しみがない。変化がない。
第二話の天国は「戦い」だった。毎日死ぬ。毎日殺す。でも、毎日復活する。
どちらも、その文化の「今ここにないもの」の裏返しだ。
乾燥したイラン高原の遊牧民は、平らで安全な牧草地を夢見た。
極寒の北欧の戦士は、永遠に戦い続けられる場所を夢見た。
天国は普遍的ではない。それは、文化によって、土地によって、生き方によって、まったく異なる形をとる。
◇
さて、第一話と第二話の間には、もう一つ重要な違いがある。
それは、「結末」だ。
ゾロアスター教の終末は、善の勝利で終わる。悪は滅び、世界は完璧になり、人々は永遠に幸せに暮らす。
北欧神話の終末は、全滅で終わる。神も巨人も戦士も死ぬ。世界は燃え、沈む。勝者はいない。
では、北欧の戦士たちは、なぜ笑っていられるのか。
答えは、彼らにとって「勝敗」は本質ではないからだ。
重要なのは、「どう戦ったか」だ。「最後まで立っていたか」だ。「逃げなかったか」だ。
結果は運命によって決まっている。でも、姿勢は自分で選べる。
その選択こそが、人間の尊厳だ。
——少なくとも、北欧の人々はそう考えた。
この価値観は、現代日本人には理解しにくいかもしれない。私たちは「結果」を重視する文化で育った。勝てば官軍。負ければ賊軍。プロセスより結果。努力より成果。
でも、北欧の戦士たちは違う考え方をしていた。
彼らにとって、「負けても戦った」ことには意味がある。
それは、彼らが過酷な環境で生きてきたからかもしれない。どんなに頑張っても、冬は来る。どんなに祈っても、嵐は収まらない。結果をコントロールすることはできない。
だからこそ、「姿勢」に価値を見出した。
これが正しいかどうかは、私にはわからない。
ただ、こういう考え方もある、ということは知っておいていいだろう。
◇
最後に、一つだけ付け加えておきたい。
北欧神話は、現代において様々な形で再解釈されている。マーベルの映画、ビデオゲーム、ファンタジー小説。ヴァルハラやラグナロクは、ポップカルチャーの定番素材だ。
その中には、北欧神話の精神を捉えたものもあれば、表面的なイメージだけを借りたものもある。
また、残念ながら、北欧神話のシンボル——ルーン文字、ミョルニル、ヴァルクヌット——が、白人至上主義者によって悪用されることもある。
これは、北欧神話そのものの問題ではない。神話は道具だ。どう使うかは、使う人間による。
この物語で描いたヴァルハラは、人種や民族に関係なく、「戦場で名誉ある死を遂げた者」なら誰でも入れる場所だ。日本人のツヨシも、スウェーデン人のエリックも、同じ戦士として扱われる。
それが、私がこの物語で描きたかった北欧神話の姿だ。
戦いを愛し、仲間を愛し、運命を受け入れ、最後まで笑って死ぬ——そういう人々の物語。
それが天国かどうかは、人によって違うだろう。
でも、彼らにとっては、確かに天国だったのだ。
(第二話 了)
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