第一話 溶ける世界 —ゾロアスターの終末—
イラン・イスラム共和国の中部にある都市、ヤズドの空は、どこまでも青かった。
タケシは目を細めて、乾いた風に顔をさらした。日本の夏とは違う。湿気がない。汗をかいても、すぐに乾く。肌がぱりぱりする感じ。砂漠の街の空気だった。
「ここが、アーテシュキャデ」
サラが言った。火の寺院。ゾロアスター教の聖地。
白い建物の前に立つと、壁に刻まれた有翼の人物像が見えた。フラワシ、とサラは教えてくれた。守護霊。翼を広げた人間のような姿。その下に、炎を象った紋章。
「千五百年、火が燃え続けている」
「千五百年?」
「うん。ずっと」
タケシは建物の中を覗いた。薄暗い廊下の奥に、オレンジ色の光がちらついている。聖なる火。観光客は奥までは入れない。ガラス越しに見るだけ。
サラの横顔を見た。真剣な表情。祈っているのかもしれない。
三ヶ月前、テヘランの語学学校で出会った。タケシは日本語教師のボランティア、サラはスタッフ。最初は「日本語を教えて」から始まった。カフェで会うようになり、映画を観に行くようになり、気づけばこうして、彼女の故郷に連れてこられている。
彼女の実家。彼女の家族。彼女の宗教。
タケシは二十四歳。二年前に会社を辞めて、世界を見て回ろうと決めた。中東は「なんか面白そう」で来た。宗教のことなんて何も知らなかった。イスラム教とゾロアスター教の区別もつかなかった。
でも今は、少しだけわかる。サラの家族がどれだけ大切にしているものか。
「お祖父ちゃんが言ってた」サラは火を見つめたまま言った。「いつか、世界は終わる。でも、終わりの後に、本当の世界が始まるって」
「終わり?」
「フラショー・クレーティ。刷新。すべてが新しくなる日」
タケシは頷いた。よくわからなかったけど、頷いた。
寺院を出ると、午後の日差しが目を刺した。
ヤズドの旧市街は土色だった。日干し煉瓦の壁、迷路のような路地、バードギール(風採り塔)が空に突き出している。砂漠の街で涼を取るための伝統的な建築。サラが説明してくれた。
路地を歩くと、どこからか羊の匂いがした。肉を焼く匂い。香辛料。遠くでアザーンが聞こえる。イスラム教の礼拝の呼びかけ。この街の大多数はムスリムで、ゾロアスター教徒は少数派だ。
「昔は、もっと多かったの」サラは言った。「でも、アラブの征服以来、千四百年かけて、少しずつ減っていった」
「千四百年……」
「でも、残ってる。私たちは、まだここにいる」
その声に、静かな誇りがあった。
タケシはサラの手を取ろうとして、やめた。イランでは、未婚の男女が公の場で手をつなぐことはできない。サラはそれを知っている。タケシも、三ヶ月かけて学んだ。
ふたりは並んで歩いた。影が重なるくらいの距離で。
「明日、沈黙の塔に行こう」サラは言った。「ダフメ。昔、鳥葬をしていた場所」
「鳥葬って、あの……」
「うん。死体を鳥に食べさせる。土を汚さないために」
タケシは空を見上げた。青い空に、鳥が一羽、旋回していた。
そのとき——
空に、何かが見えた。
最初は飛行機かと思った。白い筋。でも、違う。もっと大きい。もっと明るい。
空の端、山の向こうから、光の帯が昇ってきた。
「……なに、あれ」
サラが足を止めた。
光は急速に大きくなった。尾を引いている。彗星だ。だが、彗星がこんなに明るいはずがない。昼間の空に、太陽と並ぶほどの光。
周囲の人々が空を見上げ始めた。指差す声。叫び声。イラン語で何か言っている。タケシには意味がわからない。
サラの顔が青ざめていた。
「サラ?」
彼女は答えなかった。唇が動いている。何かを呟いている。祈りの言葉かもしれない。
彗星は空を横切った。巨大な光の塊が、大気を焼きながら落ちていく。
そして——
山が、光った。
遠くの山脈。茶色い岩肌が、オレンジ色に染まった。溶岩のように。内側から光っている。
「え……?」
熱風が吹いてきた。乾いた、焦げ臭い風。髪が逆立つ。
山が、溶けていた。
岩が、流れていた。
銀色の、液体のようなものが、山肌を伝って流れ落ちている。
金属だ。
山の中の金属が、溶けて、流れ出している。
「サラ、何これ、何が——」
サラがタケシの腕を掴んだ。彼女の手は震えていた。でも、目は——目は、恐怖だけではなかった。何か別のもの。畏怖。期待。
「……来た」
「は?」
「タケシ、これは——」
轟音が響いた。
地面が揺れた。建物の壁から砂埃が落ちる。悲鳴が上がる。
路地の向こうから、光が迫ってきた。
溶けた金属の川が、街に流れ込んでくる。
銀色の、輝く、熱い——
「逃げ——」
タケシは走り出した。サラの手を引いて。でも、どこに逃げればいい。路地の先にも、光が見える。後ろにも。左右にも。
街全体が、金属の川に飲み込まれようとしていた。
熱い。空気が熱い。息を吸うと、肺が焼けるような感覚。
足元に、銀色の液体が迫ってきた。
触れた。
熱い——!
足首から、焼けるような痛みが走った。溶けた金属。千度を超える温度。皮膚が焼ける。肉が焦げる。骨が——
「あああああっ!」
タケシは叫んだ。痛みで視界が白くなる。膝から崩れ落ちる。
溶けた金属が、腰まで上がってきた。胸まで。首まで。
死ぬ。焼け死ぬ。
目を閉じた。
痛みが——
痛みが、続いている。
死なない。
目を開けた。
自分の体を見た。銀色の液体の中に浸かっている。首まで。口の高さまで。
でも、焼けていない。
さっきまで焼けていた皮膚が、元に戻っている。
熱い。確かに熱い。でも、死なない。
「……え?」
周りを見た。同じように、銀色の川の中に浸かっている人々がいた。老人。子供。女性。男性。みんな、首まで金属に浸かっている。みんな、生きている。
叫んでいる人がいた。もがいている人がいた。泣いている人がいた。
でも、祈っている人もいた。目を閉じて、静かに、祈っている。
サラを探した。
すぐ近くにいた。同じように金属に浸かって、目を閉じている。唇が動いている。祈りの言葉。
「サラ……! これ、何……!」
サラは目を開けた。
「フラショー・クレーティ」
「は?」
「終末。審判の時。私たちの——」
彼女の言葉が途切れた。顔が歪んだ。苦痛の表情。
「サラ!」
「大丈夫……これは……思い出してるだけ……」
「思い出す?」
「悪いこと……した、こと……」
彼女は目を閉じた。眉間に皺が寄っている。何かを耐えている。
タケシも、そのとき——
熱が、急に強くなった。
焼ける。内側から焼ける。
そして、記憶が浮かんできた。
小学校の教室。休み時間。クラスメイトが一人、机の周りに囲まれている。悪口を言われている。消しゴムを投げられている。泣いている。
タケシは見ていた。何もしなかった。止めなかった。助けなかった。
自分がターゲットになるのが怖かった。
だから、見て見ぬふりをした。
熱い。
焼ける。
その記憶が、火のように、体を焦がした。
「あっ……!」
痛みが走った。でも、体には傷がない。焼けているのは、心の方だった。
記憶が、次々と浮かんでくる。
ネットの掲示板。誰かが炎上していた。謝罪文を投稿していた。でも、みんなが攻撃を続けていた。「謝って済むと思うな」「一生許さない」「死ね」
タケシは書き込まなかった。でも、見ていた。面白がって見ていた。ザマァ、と思っていた。
熱い。
焼ける。
記憶のひとつひとつが、溶けた金属のように体を流れていく。
罪。自分がしてきた小さな罪。大きくはない。でも、確かにそこにある。傍観。無関心。冷笑。
タケシは目を閉じた。
熱さに耐えた。
記憶が過ぎ去るのを待った。
◇
どれくらい時間が経ったのか、わからない。
熱さが、少し和らいでいた。
目を開けると、空は暗くなっていた。夜だ。でも、星が見えない。空全体が、オレンジ色に光っている。溶けた金属の反射。
周りを見た。まだ、銀色の川の中にいる。首まで浸かっている。
サラがいた。目を開けている。疲れた顔だが、さっきよりは穏やかだ。
「……二日目」
サラが言った。声がかすれている。
「二日目?」
「三日間、続くの。これが」
「三日間も……?」
「でも、だんだん楽になる。私は、もうほとんど終わった」
確かに、彼女は穏やかに見えた。苦しんでいない。
タケシは自分の体を確認した。まだ熱い。でも、昨日ほどではない。焼けるような痛みは、鈍い温かさに変わりつつある。
「何が起きてるの、これ」
「審判」
「審判?」
「全部の人間が、全部の罪を、思い出す。それを、焼いて、浄化する」
タケシは黙った。
周りを見た。まだ苦しんでいる人がいる。顔を歪めて、うめいている人。泣いている人。
でも、さっきより少ない。
老人が一人、穏やかな顔で目を閉じていた。口元に、かすかな笑みが浮かんでいる。
「あの人は?」
「たぶん、もう終わった人」サラは言った。「善い人生を送ってきた人は、早く終わる。罪が少ないから」
「罪が多いと、長くかかる?」
「うん。でも、終わりは来る。みんな、同じ場所に着く」
「同じ場所?」
「新しい世界。完璧な世界」
タケシは空を見上げた。オレンジ色の空。山が見えない。建物も見えない。溶けた金属と、空と、そこに浮かぶ人々だけ。
「サラは、これ、知ってたの?」
「知ってた。お祖父ちゃんから聞いてた。いつか来るって」
「信じてた?」
「……正直、半信半疑だった」サラは小さく笑った。「でも、来た」
「来たね」
「来た」
ふたりは黙った。
溶けた金属の中で、並んで浮かんでいた。
熱い。でも、死なない。
変な感覚だった。
◇
三日目の朝——いや、もう朝も夜もわからない——タケシは気づいた。
熱くない。
むしろ、温かい。心地いい。
銀色の液体が、肌を撫でている。温かいミルクのような感触。甘い香りがする。ミルクとハチミツを混ぜたような。
「……なにこれ」
タケシは液体を手ですくった。銀色に光っている。でも、熱くない。温かくて、滑らかで、なんなら——おいしそう。
舐めてみた。
甘い。
「なにこれ……」
サラが笑った。「浄化が終わったのね」
「これ、さっきまで溶けた金属だったよね?」
「ううん、変わってない。あなたが変わったの」
「俺が?」
「罪が焼かれて、浄化されたから。もう、これは温かいミルクにしか感じない」
タケシは周りを見た。
まだ苦しんでいる人がいる。少数だけど。顔を歪めて、熱さに耐えている人。
でも、多くの人は、穏やかだった。目を閉じて、温かさを楽しんでいる。子供が笑っている。老人が涙を流している——苦しみではなく、安堵の涙。
「もうすぐ終わる」サラは言った。「そしたら——」
そのとき、光が変わった。
オレンジ色の空が、白く光った。
溶けた金属が、動き始めた。渦を巻いて、どこかに流れていく。
地面が現れた。
タケシは地面に立っていた。
服は乾いている。体も乾いている。三日間、金属の中にいたはずなのに、何も濡れていない。何も焼けていない。
周りを見た。
サラがいた。同じように、地面に立っている。
他の人々もいた。何百人、何千人——いや、もっと多い。地平線まで、人が立っている。
そして——
何もなかった。
山がない。建物がない。木もない。川もない。
ただ、平らな大地が、どこまでも続いている。
緑の草が、一面に生えている。柔らかそうな草。牧草。
空は青い。雲ひとつない。太陽が輝いている。でも、暑くない。ちょうどいい温度。
風が吹いた。涼しい、心地いい風。
どこかで、牛の声がした。
振り向くと、白い牛が何頭か、草を食んでいた。羊もいる。犬もいる。穏やかに、草原を歩いている。
タケシは自分の影を見ようとした。
ない。
太陽は出ているのに、影がない。
「……ここ、どこ」
サラが隣に立っていた。
彼女は微笑んでいた。目に涙が浮かんでいる。でも、悲しみではない。喜び。安堵。
「ここが、新しい世界」
「新しい世界?」
「フラショー・クレーティの後。完璧な世界。お祖父ちゃんが言ってた通り」
タケシは周りを見回した。
平らな草原。青い空。白い牛。
人々が抱き合っている。泣いている。笑っている。何か叫んでいる——祈りの言葉かもしれない。感謝の言葉かもしれない。
老人が膝をついて、両手を空に掲げている。涙を流しながら、何かを唱えている。
若い女性が子供を抱きしめている。「終わったのよ」と言っている。「もう大丈夫よ」
みんな、幸せそうだった。
本当に、幸せそうだった。
タケシは——
タケシは、よくわからなかった。
「……これが、天国?」
サラは頷いた。「ここには悪がない。苦しみがない。争いがない。山もない。害獣もいない。永遠に、平和」
「山がないのは、いいこと?」
「山は、悪神アーリマンの攻撃の跡。本来の世界は、平らだった。これが、正しい姿」
タケシは遠くを見た。
どこまでも平ら。どこまでも緑。どこまでも青。
マインクラフトのスーパーフラットみたいだ、と思った。
初期設定のワールド。何もない。何も作られていない。ただ、草原があるだけ。
「お腹、空かない?」
「空かない。もう食べる必要がない」
「喉は?」
「渇かない」
「じゃあ、何するの?」
サラは少し考えた。
「……神を讃える。善を行う。永遠に」
「永遠に」
「うん」
タケシは黙った。
風が吹いた。涼しい、心地いい風。
牛が鳴いた。羊が草を食んでいる。
平和だった。確かに、平和だった。
でも——
「サラ」
「うん?」
「……ヒマじゃない?」
サラは笑った。困ったような、でも幸せそうな笑い。
「そうかも」
「だよね」
「でも」彼女は空を見上げた。「私は、嬉しい。お祖父ちゃんに会えるかもしれない。お婆ちゃんにも。ずっと昔に死んだ人たちに」
「死んだ人も、ここにいるの?」
「全員復活したはず。全時代の、全人類が」
タケシは人の群れを見た。確かに、すごい数だ。地平線まで人がいる。
「じゃあ、何億人もいるってこと?」
「何百億人かも。人類の歴史全部だから」
「全員が、ここに?」
「たぶん、ゾロアスター教徒だけ。他の宗教の人は、別の場所に行ったと思う」
タケシは首をかしげた。
「俺、ゾロアスター教徒じゃないけど」
「……そうだね」サラは言った。「あなたは、たまたま私と一緒にいたから」
「巻き込まれた?」
「そう。ごめんね」
「いや、べつに……」
タケシは草原を見た。
平らで、緑で、青くて、平和で。
悪くはない。悪くはないけど。
「サラ」
「うん」
「これから、どうするの」
サラは黙った。
風が吹いた。草が揺れた。牛が鳴いた。
「……わからない」
「わからない」
「うん。でも、きっと何かあるよ」
彼女は微笑んだ。幼い頃から聞かされてきた物語。信じていたのか、半信半疑だったのか。でも、今、目の前にある。
タケシは隣に立った。
彼女の手を取った。
イランじゃない。もう、誰も止めない。
サラは少し驚いた顔をして、それから、笑った。
「いいの?」
「いいんじゃない? 天国だし」
ふたりは手をつないで、草原に立っていた。
どこまでも平らな世界で。
永遠に続く午後の中で。
◇ ◇ ◇
【解説】
これは、ゾロアスター教の終末イメージ。
フラショー・クレーティ(Frashokereti)。「刷新」「作り変え」を意味するアヴェスター語だ。世界の終わりと、その後に来る完璧な世界。ゾロアスター教徒が何千年も待ち望んできた、約束された未来。
ゾロアスター教は、紀元前千数百年頃、イラン高原で生まれた。創始者はザラスシュトラ(ギリシャ語読みでゾロアスター)。世界最古の一神教とも、二元論の宗教とも言われる。善の神アフラ・マズダと、悪の神アーリマンが対立し、人間はその戦いに参加する。善い思い、善い言葉、善い行いを実践し、最終的に善が勝利する——それがゾロアスター教の世界観だ。
そして、終末論の源流でもある。
後のユダヤ教、キリスト教、イスラム教に見られる「最後の審判」「死者の復活」「天国と地獄」といった概念の多くは、ゾロアスター教から影響を受けたと考えられている。ペルシャ帝国がバビロン捕囚のユダヤ人を解放したとき、ユダヤ教はゾロアスター教の思想に触れた。そこから終末論が流入し、後のキリスト教やイスラム教へと受け継がれていった。
つまり、私たちが「世界の終わり」と聞いてイメージするものの多くは、このイラン高原の古い宗教にルーツがある。
◇
フラショー・クレーティの具体的な内容は、九世紀から十世紀に編纂された「ブンダヒシュン」という文献に詳しい。
終末は、彗星の衝突から始まる。ゴチフルという名の彗星が地球に落ち、その熱で世界中の山々に埋まっていた金属が溶け出す。溶けた金属は川となって大地を覆い、人間の口の高さまで達する。
全ての人間——生きている者も、死んで復活した者も——この溶けた金属の川を渡らなければならない。
善人にとって、それは温かいミルクのように感じる。悪人にとっては、灼熱の苦痛となる。
しかし、ここが重要なポイントだ。悪人も最終的には浄化され、救われる。永遠の地獄はない。三日間の苦しみの後、全ての人間が清められ、新しい世界に入る。
これは、後のキリスト教やイスラム教の「永遠の地獄」とは決定的に異なる。
◇
なぜ、このような終末イメージが生まれたのか。
それを理解するには、ゾロアスター教が生まれた土地を見る必要がある。
イラン高原。中央アジアからペルシャ湾に至る、広大な高原地帯。乾燥した気候、厳しい日差し、そして——山。
ザグロス山脈、エルブールズ山脈。イラン高原を囲む巨大な山々。古代の遊牧民にとって、山は障害物だった。牧草地を分断し、移動を妨げ、狼や盗賊が潜む場所。
ゾロアスター教の神話では、山は悪神アーリマンの攻撃の結果として生まれた、とされている。創造時の世界は完全に平らだった。アフラ・マズダが作った完璧な世界。しかし、悪神が攻撃し、大地を歪め、山を隆起させ、谷を穿った。
つまり、山は「悪の傷跡」なのだ。
だからフラショー・クレーティでは、山が溶ける。谷が埋まる。世界は創造時の完璧な状態——平らな草原——に戻る。
遊牧民の理想が、ここにある。
どこまでも平らな牧草地。障害物のない大地。羊を追って、どこまでも歩いていける世界。害獣のいない世界。狼も蛇もサソリもいない。牛と羊と犬だけがいる、牧畜の楽園。
それが、ゾロアスター教の「天国」だ。
◇
海が出てこないことにも注目したい。
メソポタミア文明は、ティグリス・ユーフラテス川の氾濫と共に生きてきた。だから彼らの神話には洪水が登場する。ノアの箱舟の原型となったギルガメッシュ叙事詩の洪水神話。水による破壊と再生。
一方、イラン高原は内陸の乾燥地帯だ。海は遠い。川も少ない。水は貴重だが、洪水の恐怖はない。
だから、ゾロアスター教の終末には水が出てこない。代わりに、金属が出てくる。溶けた金属。
これは、イラン高原の鍛冶文化と関係があるかもしれない。古代イランは優れた金属加工技術を持っていた。鉄、銅、青銅。鍛冶師は尊敬される職業だった。溶けた金属を扱い、それを形作る。火と金属の力で、道具を、武器を、装飾品を作る。
「溶けた金属で世界を浄化する」というイメージは、鍛冶の工程——不純物を燃やし、金属を精錬する——と重なっている。
世界は、巨大な炉の中に入れられ、不純物(悪)を焼かれ、純粋な状態に戻される。
◇
もうひとつ、注目すべきは罰の軽さだ。
ゾロアスター教の終末では、悪人も三日間の苦しみで浄化される。それで終わり。永遠に続く地獄はない。
これは、後のキリスト教やイスラム教と比べると、驚くほど寛大に見える。
キリスト教の黙示録では、罪人は「火と硫黄の池」で永遠に苦しむ。イスラム教のジャハンナム(地獄)でも、多くの解釈では罰は永続する。
なぜ、この差が生まれたのか。
ひとつの仮説がある。
宗教が「社会統制のツール」として発達するにつれ、罰のイメージがインフレーションを起こしたのではないか。
ゾロアスター教が生まれた時代、社会はまだ小さかった。部族単位。顔の見える共同体。悪いことをすれば、周囲の目がある。社会的制裁がある。だから、宗教による「脅し」はそれほど強くなくてよかった。「痛い思いをすれば反省する」程度で十分だった。
しかし、社会が大きくなるにつれて、匿名性が増す。悪事をしても、バレなければ罰せられない。そうなると、宗教による「脅し」を強化する必要が出てくる。「死後に神が見ている」「永遠に苦しむぞ」と言わなければ、人々を制御できなくなる。
ゾロアスター教の「三日間のおしりペンペン」が、キリスト教・イスラム教の「永遠の拷問」へとエスカレートしていった——そう考えることもできる。
ゾロアスター教は終末論の「原型」であり、まだ素朴な、人間的なスケールの罰を保っている。それは、後の宗教によって上書きされる前の、原初的な感覚を伝えているとも言える。
◇
さて、現代人から見ると、ゾロアスター教の天国は奇妙に映るかもしれない。
平らな草原。山がない。川がない。都市がない。食べる必要がない。働く必要がない。ただ、永遠に平和。
正直なところ——ヒマそうだ。
でも、それは私たちが「都市生活者」だからだ。
私たちは、刺激に囲まれて生きている。インターネット、スマートフォン、映画、ゲーム、仕事、人間関係。退屈する暇がない。退屈は苦痛でさえある。
一方、古代の遊牧民にとって、「退屈」は贅沢だったかもしれない。
彼らの日常は、生存のための闘いだった。家畜を守る。狼を追い払う。水場を探す。移動する。争う。奪われる。病気になる。死ぬ。
そういう人々にとって、「何もしなくていい」「害獣がいない」「争いがない」という状態は、まさに夢のような世界だったはずだ。
天国は、その土地の「今ここにないもの」の裏返しとして形作られる。
砂漠の民は、川と木陰の庭園を夢見る(イスラム教のジャンナ)。
極寒の北欧では、無限の肉と酒と暖かさを夢見る(ヴァルハラ)。
そして、山と害獣に囲まれた遊牧民は、平らで安全な牧草地を夢見る。
天国は普遍的ではない。それは、文化によって、土地によって、まったく異なる形をとる。
◇
ところで、物語の中でサラは「私たちは、まだここにいる」と言った。
ゾロアスター教徒は、現在も存在する。イランに約二万五千人、インドに約五万人(パールシーと呼ばれる)。世界全体で十万人から二十万人。
彼らは、千四百年にわたるイスラム支配の中で、少数派として生き延びてきた。迫害を受け、差別を受け、それでも信仰を守り続けてきた。
ヤズドという街は、その象徴的な場所だ。砂漠の中の古都。千五百年燃え続ける聖火。沈黙の塔。ゾロアスター教の聖地。
そこで、今も、フラショー・クレーティを待っている人々がいる。
世界が溶け、山が消え、平らな草原が現れる日を。
先祖と再会し、永遠の平和が訪れる日を。
彼らにとって、それは「変な宗教の変な終末論」ではない。何千年も受け継がれてきた、切実な希望だ。
私たちが「ヒマそうだ」と感じる天国も、彼らにとっては——あるいは、彼らの祖先にとっては——夢にまで見た理想郷なのだ。
◇
この連作「終末コレクション」では、世界各地の終末と、その先にある「天国」を描いていく。
キリスト教の黙示録。イスラム教のキヤーマ。北欧神話のラグナロク。ヒンドゥー教のユガ・サイクル。アステカの五つの太陽。仏教の末法。
それぞれの文化が、それぞれの土地で、それぞれの天国を夢見てきた。
その違いを味わうことで、私たちは自分の常識を相対化できる。「天国とはこういうものだ」という無意識の前提を、揺さぶることができる。
そして最後に、日本の「終末」を考えてみたい。
日本には、明確な終末論がない。審判もない。天国のイメージも曖昧だ。
それは欠落なのか、それとも、日本独自の「終わり方」なのか。
その答えを、連作の最後に探っていく。
(第一話 了)
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