第一話 溶ける世界 —ゾロアスターの終末—

 イラン・イスラム共和国の中部にある都市、ヤズドの空は、どこまでも青かった。


 タケシは目を細めて、乾いた風に顔をさらした。日本の夏とは違う。湿気がない。汗をかいても、すぐに乾く。肌がぱりぱりする感じ。砂漠の街の空気だった。


「ここが、アーテシュキャデ」


 サラが言った。火の寺院。ゾロアスター教の聖地。


 白い建物の前に立つと、壁に刻まれた有翼の人物像が見えた。フラワシ、とサラは教えてくれた。守護霊。翼を広げた人間のような姿。その下に、炎を象った紋章。


「千五百年、火が燃え続けている」


「千五百年?」


「うん。ずっと」


 タケシは建物の中を覗いた。薄暗い廊下の奥に、オレンジ色の光がちらついている。聖なる火。観光客は奥までは入れない。ガラス越しに見るだけ。


 サラの横顔を見た。真剣な表情。祈っているのかもしれない。


 三ヶ月前、テヘランの語学学校で出会った。タケシは日本語教師のボランティア、サラはスタッフ。最初は「日本語を教えて」から始まった。カフェで会うようになり、映画を観に行くようになり、気づけばこうして、彼女の故郷に連れてこられている。


 彼女の実家。彼女の家族。彼女の宗教。


 タケシは二十四歳。二年前に会社を辞めて、世界を見て回ろうと決めた。中東は「なんか面白そう」で来た。宗教のことなんて何も知らなかった。イスラム教とゾロアスター教の区別もつかなかった。


 でも今は、少しだけわかる。サラの家族がどれだけ大切にしているものか。


「お祖父ちゃんが言ってた」サラは火を見つめたまま言った。「いつか、世界は終わる。でも、終わりの後に、本当の世界が始まるって」


「終わり?」


「フラショー・クレーティ。刷新。すべてが新しくなる日」


 タケシは頷いた。よくわからなかったけど、頷いた。


 寺院を出ると、午後の日差しが目を刺した。


 ヤズドの旧市街は土色だった。日干し煉瓦の壁、迷路のような路地、バードギール(風採り塔)が空に突き出している。砂漠の街で涼を取るための伝統的な建築。サラが説明してくれた。


 路地を歩くと、どこからか羊の匂いがした。肉を焼く匂い。香辛料。遠くでアザーンが聞こえる。イスラム教の礼拝の呼びかけ。この街の大多数はムスリムで、ゾロアスター教徒は少数派だ。


「昔は、もっと多かったの」サラは言った。「でも、アラブの征服以来、千四百年かけて、少しずつ減っていった」


「千四百年……」


「でも、残ってる。私たちは、まだここにいる」


 その声に、静かな誇りがあった。


 タケシはサラの手を取ろうとして、やめた。イランでは、未婚の男女が公の場で手をつなぐことはできない。サラはそれを知っている。タケシも、三ヶ月かけて学んだ。


 ふたりは並んで歩いた。影が重なるくらいの距離で。


「明日、沈黙の塔に行こう」サラは言った。「ダフメ。昔、鳥葬をしていた場所」


「鳥葬って、あの……」


「うん。死体を鳥に食べさせる。土を汚さないために」


 タケシは空を見上げた。青い空に、鳥が一羽、旋回していた。


 そのとき——


 空に、何かが見えた。


 最初は飛行機かと思った。白い筋。でも、違う。もっと大きい。もっと明るい。


 空の端、山の向こうから、光の帯が昇ってきた。


「……なに、あれ」


 サラが足を止めた。


 光は急速に大きくなった。尾を引いている。彗星だ。だが、彗星がこんなに明るいはずがない。昼間の空に、太陽と並ぶほどの光。


 周囲の人々が空を見上げ始めた。指差す声。叫び声。イラン語で何か言っている。タケシには意味がわからない。


 サラの顔が青ざめていた。


「サラ?」


 彼女は答えなかった。唇が動いている。何かを呟いている。祈りの言葉かもしれない。


 彗星は空を横切った。巨大な光の塊が、大気を焼きながら落ちていく。


 そして——


 山が、光った。


 遠くの山脈。茶色い岩肌が、オレンジ色に染まった。溶岩のように。内側から光っている。


「え……?」


 熱風が吹いてきた。乾いた、焦げ臭い風。髪が逆立つ。


 山が、溶けていた。


 岩が、流れていた。


 銀色の、液体のようなものが、山肌を伝って流れ落ちている。


 金属だ。


 山の中の金属が、溶けて、流れ出している。


「サラ、何これ、何が——」


 サラがタケシの腕を掴んだ。彼女の手は震えていた。でも、目は——目は、恐怖だけではなかった。何か別のもの。畏怖。期待。


「……来た」


「は?」


「タケシ、これは——」


 轟音が響いた。


 地面が揺れた。建物の壁から砂埃が落ちる。悲鳴が上がる。


 路地の向こうから、光が迫ってきた。


 溶けた金属の川が、街に流れ込んでくる。


 銀色の、輝く、熱い——


「逃げ——」


 タケシは走り出した。サラの手を引いて。でも、どこに逃げればいい。路地の先にも、光が見える。後ろにも。左右にも。


 街全体が、金属の川に飲み込まれようとしていた。


 熱い。空気が熱い。息を吸うと、肺が焼けるような感覚。


 足元に、銀色の液体が迫ってきた。


 触れた。


 熱い——!


 足首から、焼けるような痛みが走った。溶けた金属。千度を超える温度。皮膚が焼ける。肉が焦げる。骨が——


「あああああっ!」


 タケシは叫んだ。痛みで視界が白くなる。膝から崩れ落ちる。


 溶けた金属が、腰まで上がってきた。胸まで。首まで。


 死ぬ。焼け死ぬ。


 目を閉じた。


 痛みが——


 痛みが、続いている。


 死なない。


 目を開けた。


 自分の体を見た。銀色の液体の中に浸かっている。首まで。口の高さまで。


 でも、焼けていない。


 さっきまで焼けていた皮膚が、元に戻っている。


 熱い。確かに熱い。でも、死なない。


「……え?」


 周りを見た。同じように、銀色の川の中に浸かっている人々がいた。老人。子供。女性。男性。みんな、首まで金属に浸かっている。みんな、生きている。


 叫んでいる人がいた。もがいている人がいた。泣いている人がいた。


 でも、祈っている人もいた。目を閉じて、静かに、祈っている。


 サラを探した。


 すぐ近くにいた。同じように金属に浸かって、目を閉じている。唇が動いている。祈りの言葉。


「サラ……! これ、何……!」


 サラは目を開けた。


「フラショー・クレーティ」


「は?」


「終末。審判の時。私たちの——」


 彼女の言葉が途切れた。顔が歪んだ。苦痛の表情。


「サラ!」


「大丈夫……これは……思い出してるだけ……」


「思い出す?」


「悪いこと……した、こと……」


 彼女は目を閉じた。眉間に皺が寄っている。何かを耐えている。


 タケシも、そのとき——


 熱が、急に強くなった。


 焼ける。内側から焼ける。


 そして、記憶が浮かんできた。


 小学校の教室。休み時間。クラスメイトが一人、机の周りに囲まれている。悪口を言われている。消しゴムを投げられている。泣いている。


 タケシは見ていた。何もしなかった。止めなかった。助けなかった。


 自分がターゲットになるのが怖かった。


 だから、見て見ぬふりをした。


 熱い。


 焼ける。


 その記憶が、火のように、体を焦がした。


「あっ……!」


 痛みが走った。でも、体には傷がない。焼けているのは、心の方だった。


 記憶が、次々と浮かんでくる。


 ネットの掲示板。誰かが炎上していた。謝罪文を投稿していた。でも、みんなが攻撃を続けていた。「謝って済むと思うな」「一生許さない」「死ね」


 タケシは書き込まなかった。でも、見ていた。面白がって見ていた。ザマァ、と思っていた。


 熱い。


 焼ける。


 記憶のひとつひとつが、溶けた金属のように体を流れていく。


 罪。自分がしてきた小さな罪。大きくはない。でも、確かにそこにある。傍観。無関心。冷笑。


 タケシは目を閉じた。


 熱さに耐えた。


 記憶が過ぎ去るのを待った。



         ◇



 どれくらい時間が経ったのか、わからない。


 熱さが、少し和らいでいた。


 目を開けると、空は暗くなっていた。夜だ。でも、星が見えない。空全体が、オレンジ色に光っている。溶けた金属の反射。


 周りを見た。まだ、銀色の川の中にいる。首まで浸かっている。


 サラがいた。目を開けている。疲れた顔だが、さっきよりは穏やかだ。


「……二日目」


 サラが言った。声がかすれている。


「二日目?」


「三日間、続くの。これが」


「三日間も……?」


「でも、だんだん楽になる。私は、もうほとんど終わった」


 確かに、彼女は穏やかに見えた。苦しんでいない。


 タケシは自分の体を確認した。まだ熱い。でも、昨日ほどではない。焼けるような痛みは、鈍い温かさに変わりつつある。


「何が起きてるの、これ」


「審判」


「審判?」


「全部の人間が、全部の罪を、思い出す。それを、焼いて、浄化する」


 タケシは黙った。


 周りを見た。まだ苦しんでいる人がいる。顔を歪めて、うめいている人。泣いている人。


 でも、さっきより少ない。


 老人が一人、穏やかな顔で目を閉じていた。口元に、かすかな笑みが浮かんでいる。


「あの人は?」


「たぶん、もう終わった人」サラは言った。「善い人生を送ってきた人は、早く終わる。罪が少ないから」


「罪が多いと、長くかかる?」


「うん。でも、終わりは来る。みんな、同じ場所に着く」


「同じ場所?」


「新しい世界。完璧な世界」


 タケシは空を見上げた。オレンジ色の空。山が見えない。建物も見えない。溶けた金属と、空と、そこに浮かぶ人々だけ。


「サラは、これ、知ってたの?」


「知ってた。お祖父ちゃんから聞いてた。いつか来るって」


「信じてた?」


「……正直、半信半疑だった」サラは小さく笑った。「でも、来た」


「来たね」


「来た」


 ふたりは黙った。


 溶けた金属の中で、並んで浮かんでいた。


 熱い。でも、死なない。


 変な感覚だった。



         ◇



 三日目の朝——いや、もう朝も夜もわからない——タケシは気づいた。


 熱くない。


 むしろ、温かい。心地いい。


 銀色の液体が、肌を撫でている。温かいミルクのような感触。甘い香りがする。ミルクとハチミツを混ぜたような。


「……なにこれ」


 タケシは液体を手ですくった。銀色に光っている。でも、熱くない。温かくて、滑らかで、なんなら——おいしそう。


 舐めてみた。


 甘い。


「なにこれ……」


 サラが笑った。「浄化が終わったのね」


「これ、さっきまで溶けた金属だったよね?」


「ううん、変わってない。あなたが変わったの」


「俺が?」


「罪が焼かれて、浄化されたから。もう、これは温かいミルクにしか感じない」


 タケシは周りを見た。


 まだ苦しんでいる人がいる。少数だけど。顔を歪めて、熱さに耐えている人。


 でも、多くの人は、穏やかだった。目を閉じて、温かさを楽しんでいる。子供が笑っている。老人が涙を流している——苦しみではなく、安堵の涙。


「もうすぐ終わる」サラは言った。「そしたら——」


 そのとき、光が変わった。


 オレンジ色の空が、白く光った。


 溶けた金属が、動き始めた。渦を巻いて、どこかに流れていく。


 地面が現れた。


 タケシは地面に立っていた。


 服は乾いている。体も乾いている。三日間、金属の中にいたはずなのに、何も濡れていない。何も焼けていない。


 周りを見た。


 サラがいた。同じように、地面に立っている。


 他の人々もいた。何百人、何千人——いや、もっと多い。地平線まで、人が立っている。


 そして——


 何もなかった。


 山がない。建物がない。木もない。川もない。


 ただ、平らな大地が、どこまでも続いている。


 緑の草が、一面に生えている。柔らかそうな草。牧草。


 空は青い。雲ひとつない。太陽が輝いている。でも、暑くない。ちょうどいい温度。


 風が吹いた。涼しい、心地いい風。


 どこかで、牛の声がした。


 振り向くと、白い牛が何頭か、草を食んでいた。羊もいる。犬もいる。穏やかに、草原を歩いている。


 タケシは自分の影を見ようとした。


 ない。


 太陽は出ているのに、影がない。


「……ここ、どこ」


 サラが隣に立っていた。


 彼女は微笑んでいた。目に涙が浮かんでいる。でも、悲しみではない。喜び。安堵。


「ここが、新しい世界」


「新しい世界?」


「フラショー・クレーティの後。完璧な世界。お祖父ちゃんが言ってた通り」


 タケシは周りを見回した。


 平らな草原。青い空。白い牛。


 人々が抱き合っている。泣いている。笑っている。何か叫んでいる——祈りの言葉かもしれない。感謝の言葉かもしれない。


 老人が膝をついて、両手を空に掲げている。涙を流しながら、何かを唱えている。


 若い女性が子供を抱きしめている。「終わったのよ」と言っている。「もう大丈夫よ」


 みんな、幸せそうだった。


 本当に、幸せそうだった。


 タケシは——


 タケシは、よくわからなかった。


「……これが、天国?」


 サラは頷いた。「ここには悪がない。苦しみがない。争いがない。山もない。害獣もいない。永遠に、平和」


「山がないのは、いいこと?」


「山は、悪神アーリマンの攻撃の跡。本来の世界は、平らだった。これが、正しい姿」


 タケシは遠くを見た。


 どこまでも平ら。どこまでも緑。どこまでも青。


 マインクラフトのスーパーフラットみたいだ、と思った。


 初期設定のワールド。何もない。何も作られていない。ただ、草原があるだけ。


「お腹、空かない?」


「空かない。もう食べる必要がない」


「喉は?」


「渇かない」


「じゃあ、何するの?」


 サラは少し考えた。


「……神を讃える。善を行う。永遠に」


「永遠に」


「うん」


 タケシは黙った。


 風が吹いた。涼しい、心地いい風。


 牛が鳴いた。羊が草を食んでいる。


 平和だった。確かに、平和だった。


 でも——


「サラ」


「うん?」


「……ヒマじゃない?」


 サラは笑った。困ったような、でも幸せそうな笑い。


「そうかも」


「だよね」


「でも」彼女は空を見上げた。「私は、嬉しい。お祖父ちゃんに会えるかもしれない。お婆ちゃんにも。ずっと昔に死んだ人たちに」


「死んだ人も、ここにいるの?」


「全員復活したはず。全時代の、全人類が」


 タケシは人の群れを見た。確かに、すごい数だ。地平線まで人がいる。


「じゃあ、何億人もいるってこと?」


「何百億人かも。人類の歴史全部だから」


「全員が、ここに?」


「たぶん、ゾロアスター教徒だけ。他の宗教の人は、別の場所に行ったと思う」


 タケシは首をかしげた。


「俺、ゾロアスター教徒じゃないけど」


「……そうだね」サラは言った。「あなたは、たまたま私と一緒にいたから」


「巻き込まれた?」


「そう。ごめんね」


「いや、べつに……」


 タケシは草原を見た。


 平らで、緑で、青くて、平和で。


 悪くはない。悪くはないけど。


「サラ」


「うん」


「これから、どうするの」


 サラは黙った。


 風が吹いた。草が揺れた。牛が鳴いた。


「……わからない」


「わからない」


「うん。でも、きっと何かあるよ」


 彼女は微笑んだ。幼い頃から聞かされてきた物語。信じていたのか、半信半疑だったのか。でも、今、目の前にある。


 タケシは隣に立った。


 彼女の手を取った。


 イランじゃない。もう、誰も止めない。


 サラは少し驚いた顔をして、それから、笑った。


「いいの?」


「いいんじゃない? 天国だし」


 ふたりは手をつないで、草原に立っていた。


 どこまでも平らな世界で。


 永遠に続く午後の中で。




         ◇ ◇ ◇


【解説】


 これは、ゾロアスター教の終末イメージ。


 フラショー・クレーティ(Frashokereti)。「刷新」「作り変え」を意味するアヴェスター語だ。世界の終わりと、その後に来る完璧な世界。ゾロアスター教徒が何千年も待ち望んできた、約束された未来。


 ゾロアスター教は、紀元前千数百年頃、イラン高原で生まれた。創始者はザラスシュトラ(ギリシャ語読みでゾロアスター)。世界最古の一神教とも、二元論の宗教とも言われる。善の神アフラ・マズダと、悪の神アーリマンが対立し、人間はその戦いに参加する。善い思い、善い言葉、善い行いを実践し、最終的に善が勝利する——それがゾロアスター教の世界観だ。


 そして、終末論の源流でもある。


 後のユダヤ教、キリスト教、イスラム教に見られる「最後の審判」「死者の復活」「天国と地獄」といった概念の多くは、ゾロアスター教から影響を受けたと考えられている。ペルシャ帝国がバビロン捕囚のユダヤ人を解放したとき、ユダヤ教はゾロアスター教の思想に触れた。そこから終末論が流入し、後のキリスト教やイスラム教へと受け継がれていった。


 つまり、私たちが「世界の終わり」と聞いてイメージするものの多くは、このイラン高原の古い宗教にルーツがある。



         ◇



 フラショー・クレーティの具体的な内容は、九世紀から十世紀に編纂された「ブンダヒシュン」という文献に詳しい。


 終末は、彗星の衝突から始まる。ゴチフルという名の彗星が地球に落ち、その熱で世界中の山々に埋まっていた金属が溶け出す。溶けた金属は川となって大地を覆い、人間の口の高さまで達する。


 全ての人間——生きている者も、死んで復活した者も——この溶けた金属の川を渡らなければならない。


 善人にとって、それは温かいミルクのように感じる。悪人にとっては、灼熱の苦痛となる。


 しかし、ここが重要なポイントだ。悪人も最終的には浄化され、救われる。永遠の地獄はない。三日間の苦しみの後、全ての人間が清められ、新しい世界に入る。


 これは、後のキリスト教やイスラム教の「永遠の地獄」とは決定的に異なる。



         ◇



 なぜ、このような終末イメージが生まれたのか。


 それを理解するには、ゾロアスター教が生まれた土地を見る必要がある。


 イラン高原。中央アジアからペルシャ湾に至る、広大な高原地帯。乾燥した気候、厳しい日差し、そして——山。


 ザグロス山脈、エルブールズ山脈。イラン高原を囲む巨大な山々。古代の遊牧民にとって、山は障害物だった。牧草地を分断し、移動を妨げ、狼や盗賊が潜む場所。


 ゾロアスター教の神話では、山は悪神アーリマンの攻撃の結果として生まれた、とされている。創造時の世界は完全に平らだった。アフラ・マズダが作った完璧な世界。しかし、悪神が攻撃し、大地を歪め、山を隆起させ、谷を穿った。


 つまり、山は「悪の傷跡」なのだ。


 だからフラショー・クレーティでは、山が溶ける。谷が埋まる。世界は創造時の完璧な状態——平らな草原——に戻る。


 遊牧民の理想が、ここにある。


 どこまでも平らな牧草地。障害物のない大地。羊を追って、どこまでも歩いていける世界。害獣のいない世界。狼も蛇もサソリもいない。牛と羊と犬だけがいる、牧畜の楽園。


 それが、ゾロアスター教の「天国」だ。



         ◇



 海が出てこないことにも注目したい。


 メソポタミア文明は、ティグリス・ユーフラテス川の氾濫と共に生きてきた。だから彼らの神話には洪水が登場する。ノアの箱舟の原型となったギルガメッシュ叙事詩の洪水神話。水による破壊と再生。


 一方、イラン高原は内陸の乾燥地帯だ。海は遠い。川も少ない。水は貴重だが、洪水の恐怖はない。


 だから、ゾロアスター教の終末には水が出てこない。代わりに、金属が出てくる。溶けた金属。


 これは、イラン高原の鍛冶文化と関係があるかもしれない。古代イランは優れた金属加工技術を持っていた。鉄、銅、青銅。鍛冶師は尊敬される職業だった。溶けた金属を扱い、それを形作る。火と金属の力で、道具を、武器を、装飾品を作る。


 「溶けた金属で世界を浄化する」というイメージは、鍛冶の工程——不純物を燃やし、金属を精錬する——と重なっている。


 世界は、巨大な炉の中に入れられ、不純物(悪)を焼かれ、純粋な状態に戻される。



         ◇



 もうひとつ、注目すべきは罰の軽さだ。


 ゾロアスター教の終末では、悪人も三日間の苦しみで浄化される。それで終わり。永遠に続く地獄はない。


 これは、後のキリスト教やイスラム教と比べると、驚くほど寛大に見える。


 キリスト教の黙示録では、罪人は「火と硫黄の池」で永遠に苦しむ。イスラム教のジャハンナム(地獄)でも、多くの解釈では罰は永続する。


 なぜ、この差が生まれたのか。


 ひとつの仮説がある。


 宗教が「社会統制のツール」として発達するにつれ、罰のイメージがインフレーションを起こしたのではないか。


 ゾロアスター教が生まれた時代、社会はまだ小さかった。部族単位。顔の見える共同体。悪いことをすれば、周囲の目がある。社会的制裁がある。だから、宗教による「脅し」はそれほど強くなくてよかった。「痛い思いをすれば反省する」程度で十分だった。


 しかし、社会が大きくなるにつれて、匿名性が増す。悪事をしても、バレなければ罰せられない。そうなると、宗教による「脅し」を強化する必要が出てくる。「死後に神が見ている」「永遠に苦しむぞ」と言わなければ、人々を制御できなくなる。


 ゾロアスター教の「三日間のおしりペンペン」が、キリスト教・イスラム教の「永遠の拷問」へとエスカレートしていった——そう考えることもできる。


 ゾロアスター教は終末論の「原型」であり、まだ素朴な、人間的なスケールの罰を保っている。それは、後の宗教によって上書きされる前の、原初的な感覚を伝えているとも言える。



         ◇



 さて、現代人から見ると、ゾロアスター教の天国は奇妙に映るかもしれない。


 平らな草原。山がない。川がない。都市がない。食べる必要がない。働く必要がない。ただ、永遠に平和。


 正直なところ——ヒマそうだ。


 でも、それは私たちが「都市生活者」だからだ。


 私たちは、刺激に囲まれて生きている。インターネット、スマートフォン、映画、ゲーム、仕事、人間関係。退屈する暇がない。退屈は苦痛でさえある。


 一方、古代の遊牧民にとって、「退屈」は贅沢だったかもしれない。


 彼らの日常は、生存のための闘いだった。家畜を守る。狼を追い払う。水場を探す。移動する。争う。奪われる。病気になる。死ぬ。


 そういう人々にとって、「何もしなくていい」「害獣がいない」「争いがない」という状態は、まさに夢のような世界だったはずだ。


 天国は、その土地の「今ここにないもの」の裏返しとして形作られる。


 砂漠の民は、川と木陰の庭園を夢見る(イスラム教のジャンナ)。


 極寒の北欧では、無限の肉と酒と暖かさを夢見る(ヴァルハラ)。


 そして、山と害獣に囲まれた遊牧民は、平らで安全な牧草地を夢見る。


 天国は普遍的ではない。それは、文化によって、土地によって、まったく異なる形をとる。



         ◇



 ところで、物語の中でサラは「私たちは、まだここにいる」と言った。


 ゾロアスター教徒は、現在も存在する。イランに約二万五千人、インドに約五万人(パールシーと呼ばれる)。世界全体で十万人から二十万人。


 彼らは、千四百年にわたるイスラム支配の中で、少数派として生き延びてきた。迫害を受け、差別を受け、それでも信仰を守り続けてきた。


 ヤズドという街は、その象徴的な場所だ。砂漠の中の古都。千五百年燃え続ける聖火。沈黙の塔。ゾロアスター教の聖地。


 そこで、今も、フラショー・クレーティを待っている人々がいる。


 世界が溶け、山が消え、平らな草原が現れる日を。


 先祖と再会し、永遠の平和が訪れる日を。


 彼らにとって、それは「変な宗教の変な終末論」ではない。何千年も受け継がれてきた、切実な希望だ。


 私たちが「ヒマそうだ」と感じる天国も、彼らにとっては——あるいは、彼らの祖先にとっては——夢にまで見た理想郷なのだ。



         ◇



 この連作「終末コレクション」では、世界各地の終末と、その先にある「天国」を描いていく。


 キリスト教の黙示録。イスラム教のキヤーマ。北欧神話のラグナロク。ヒンドゥー教のユガ・サイクル。アステカの五つの太陽。仏教の末法。


 それぞれの文化が、それぞれの土地で、それぞれの天国を夢見てきた。


 その違いを味わうことで、私たちは自分の常識を相対化できる。「天国とはこういうものだ」という無意識の前提を、揺さぶることができる。


 そして最後に、日本の「終末」を考えてみたい。


 日本には、明確な終末論がない。審判もない。天国のイメージも曖昧だ。


 それは欠落なのか、それとも、日本独自の「終わり方」なのか。


 その答えを、連作の最後に探っていく。




(第一話 了)

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