第2話―魔導交通ステーション――風球の初航行

胸元の六角切面箱ろっかくせつめんばこが、歩くたびに小さく当たった。

陽光を受け、青緑の光がきらりと揺れる。

――風が俺に「行け」と囁いている気がした。


表彰式が終わったばかりなのに、俺はもう学院アカデミアを離れたくてうずうずしていた。

手に入れたばかりの自分専用の風球ふうきゅうを、どうしても今すぐ試してみたかった。

……たぶん、息抜きしたいというより、山頂からパミラ・マーケットへ滑り降りる道を、この目で確かめたかったのだろう。


胸の高鳴りを抑えきれず、俺は通りを渡って魔導交通まどうこうつうステーションへ向かう。

個人コードを通してゲートを抜け、専用の運輸環線ラインへ。

このラインを使えるのは学院アカデミアの三年生だけだ。


そこは駅というより、光に包まれた神殿のような場所だった。


半円形のドームは雲に届くほど高く、弧を描く窓から柔らかな日差しが差し込む。

霧のような魔力の粒が光を透かして舞い、金青にきらめいた。


それは風導晶ふうどうしょうから放たれる微細なエネルギー――風の息そのもののようだった。


灰白の石柱には古代の風紋ふうもんが刻まれ、柱の間には赤金色の球体風導儀ふうどうぎがいくつも浮かんでいる。

それぞれがゆるやかに回転し、基台の呪文スペルがほのかな熱を帯びて脈打っていた。


青と金のタイルが敷かれた床を進む。

足音がわずかに反響し、その模様がただの装飾ではないことに気づく。


導風陣どうふうじん回路サーキット

流れる気流に反応して足元の光紋こうもんがゆっくりと明滅する――まるで風が呼吸しているように。


中央には開放型のプラットフォームがあり、

半透明の防風結界バリアが円形に張られている。

そこに立つと、肌に当たる風圧の震えが心地よく伝わってきた。


ここが、学生たちが自分の風球ふうきゅうを起動する場所だ。


俺は金色の光輪こうりんの中へ進み、風球を取り出す。

磨かれた外殻に殿堂ホールの天井と光が反射して、世界が球の中に閉じ込められたように見えた。

アーチ、風導儀ふうどうぎ、光流――すべてが静かで、少し幻想的だった。



先輩たちがこのラインを使う姿を見ては、胸が熱くなったものだ。

今年、俺はようやく試験テストに合格し、正式にその許可パーミッションを手に入れた。


暗い通路を抜けた瞬間、眩しい陽光が降り注いだ。

夏の熱気と石の匂い、そして風晶ふうしょうのほのかな甘い香り。

焼けるように暑いのに、なぜか爽やかだった。


学院杯アカデミア・カップで得た風球を取り出し、表面の埃をぬぐってから、

ループ・ラインの起点にある台座の窪み《くぼみ》にそっと置く。

識別コードIDコードを入力すると、内部から「カラリ」と小さな機械音メカニカルサウンドが響いた。


風球が吸い込まれるように固定され、ゆっくりと回転しながら浮上する。

淡い光が走り、外殻が花弁のように一枚、また一枚と展開した。

柔らかく、淀みのない、美しい動きだった。


両側の金属フレームが自動的オートマティックに展開し、羽のような翅桿しかんが伸びる。

緑の透明な風晶ふうしょうが柔らかな光を帯び、光の羽が幾重にも重なった。

淡い青気せいきが符文の隙間から噴き上がり、らせん状に昇っていく。

空気は微かに静電香せいでんこうを含み、どこか甘い。


(ひ、ひぇ……使い方は聞いてたけど、実物は反則級だろ、これ……!)


そのとき、足元がかすかに震えた。

青金色の光紋が床の下から滲み出し、水脈のように流れながら、風球の共鳴に合わせて回転する。

光はやがて一点に収束し、直径二メートルほどの魔力円盤まりょくえんばんを形成した。


円盤の表面には環状の風紋ふうもんが刻まれ、中心のシンボルが風球と呼応する。

ふたつの間に気流が生まれ、低く唸るような共鳴音ハミングを放った。


俺は深く息を吸い込み、翅桿しかんを握り直す。

呼吸と風のリズムを合わせるように意識を集中させた。


コアの鼓動が安定すると、円盤の縁がぱっと輝いた。

風圧が潮のように押し寄せ、身体がふわりと持ち上がる。


(これが……!)


柔らかな上昇気流が足元から押し上げる。

俺の立つ円盤は風に抱かれるように浮かび上がり、青金の光紋が縁をめぐって流れ、風鳴りが微かに響いた。


上昇する気流が安定すると、円盤の下から聞こえる風音は低音から高音へと変化し、鼓動と同じリズムで胸の奥に響く。

反射した光が風球の表面を滑り、殿堂の天井が水面のように揺らめいた。


世界そのものが、風に抱かれているような錯覚。


視界の下で、床がどんどん遠ざかる。

青金のタイル、光輪、柱影――それらが次第に小さくなり、殿堂全体が風球の光面に映り込む。


まるで「風に持ち上げられた夢」そのものだった。



外へ続く透明な軌道トラックが、日差しの中で虹のように輝く。

両側の防風結界バリアが気流に反応して瞬き、幾重もの光の層を映した。


足元の円盤は風球と完全に同期して脈動し、一定の推力で前方へと滑るように進んでいく。


気流のリズムはやがて穏やかになり、身体が柔らかな風に包まれる感覚に変わった。


俺は風球の内側で脈打つ鼓動を感じる。

それは単なる機械の震動ではない。

まるで、呼吸しているような生命の律動。


吸って、吐いて――風が俺と呼吸を合わせている。


その安定した鼓動に安心しながら、俺はようやく緊張を解き、ゆっくりと微笑んだ。


(これが……風と一つになるってことか)



風球は小さいが、市場価格は一基あたり千カラ。

使用回数は十五回までと決まっており、

飛行のたびに魔導交通まどうこうつうステーションのカウンターで

充能チャージ校正キャリブレーションを受けなければならない。


手続きは少し面倒だが、ビグトラス島では最も安定していて、

反応の良い短距離移動装置ショートレンジ・トランスポーターだ。


前方の光壁がゆらりと波紋を広げた。

まるで眠りから覚めた水面のように、層を成した光がゆっくりと揺れる。


風圧が強まり、胸の奥で推力スラストが集まるのを感じた。

次の瞬間、すべての音が細長い風鳴かぜなりに変わる。


陽光に照らされた防風トンネル《ウインド・トンネル》が金青にきらめき、

柔らかなプレッシャーが背を押した。


――風が俺を送り出す。


眼前の景色が一気に開けた。


山腹を走る気流の道が蛇のようにうねり、白霧が潮のように押し寄せる。

遠くの海岸線は銀の糸を引くように光り、霧の向こうに、街の輪郭がぼんやりと浮かんでいた。

金と青の光がちらちらと瞬き、風に溶けるように揺れている。


俺は風軌ウインド・ラインに沿って身を預け、斜面を滑るように降下する。

頬をなでる風が低く唸り、

視界の端で光と影がめくるめくように流れていく。


(はは……これが自由ってやつか)



――ふと、頭の中に遠い日の情景が浮かんだ。


あの頃、俺はまだ幼くて、エンおじさんに連れられて山腹の風道展望台ふうどうてんぼうだいへ行った。

そこからは環状リングライン全体が見渡せ、

数十の風球ふうきゅうが気流の軌道トラックに沿って滑るように走っていた。

夕陽の光を受けて、淡く光りながらゆっくりと旋回していた。



「おじさん、あれ、なに?」


幼い俺が空を指さして尋ねる。


エンおじさんは小さく笑い、俺を肩車した。


「――あれは風のかたちだ。

お前がいつかそれを操れるようになったら、どこへでも行ける。」


その声に合わせるように、風が谷間を抜けていった。

少しあたたかくて、甘い香りのする風だった。


あの瞬間、俺ははじめて思ったんだ。


――風は見えないものなんかじゃない。


夢へと続く、一本の道なんだって。


「おじさん……見てる? 俺、ほんとにやったよ。」


風の中で、そっとつぶやく。


まさかあのときの約束を、本当に叶える日が来るなんて――


この瞬間を、俺は三年も待っていたんだ。


風がそっと髪を揺らし、視界をふさいだ。

俺はそれを、ゆっくりと指で払いのけた。


身のまわりの景色がみるみる後ろへ流れていく。

気流の推進力スラストは想像以上に強く、速度はほとんど学院の風導列車ふうどうれっしゃに追いつきそうだった。


その列車は学院の隣にある鐘楼しょうろうから出発し、山脈の風道ふうどうに沿って蛇行しながら下っていく。

途中でパミラ市集マーケット人魚噴泉マーメイド・スプリングを通り、さらにプリュス大通り《アヴェニュー・プルス》を抜け、いくつかの中継駅を経て最終的に港外環ポート・リングへ到着する。

全行程はおよそ六時間――もし気脈の変動や風脈検査ふうみゃくけんさがあれば、さらに遅れることもある。


だが今、俺の風球はわずか三十分足らずで、あの見慣れた山道を一気に駆け抜けていた。



前方の風脈ふうみゃくは安定しはじめ、気流の温度が少しずつ上がっていく。

下方の遠くに港区ポート・エリアの輪郭が霧の合間に浮かび、金属の塔屋とうやが柔らかな光を反射していた。


それはまるで、これから始まる祝祭セレモニーを迎える合図のように見えた。



「カ……」


運輸環線ラインの浮力が身体をやさしく支え、俺は風球ふうきゅうの速度を微調整した。

オーバースピードで軌道を外さないように。

その時、胸元の六角切面箱ろっかくせつめんばこが、かすかに震えた。


なぜだろう。

一瞬、誰かに見られているような気がした。


(……今、動いた?)


(いや、気のせいか……)


見下ろすと、箱はすでに静まり返っていた。

――たぶん、考えすぎだろう。


余計なことを考えるのをやめて、俺は再び風に意識を向けた。

耳をかすめる風の音が、さっきよりもずっと鮮明に聞こえる。

まるで何かが返事をしてくれているようだった。

その感覚に、胸の奥がじんわりと熱くなる。

本当に飛んでいるんだ。

自由に――風のままに。



「よっしゃ──!」


軽い叫びと同時に、俺は風球の翅桿しかんを握りしめ、風と一緒に空を駆け抜けた。

風線が背後に伸び、気流が微かに震える。

それは、自由へのはじまりだった。


風球の右側にある時間表示器をちらりと見た。

午後三時。

この速度なら、山麓のスウィートに着くまで、あと三時間ほどだろう。


「アハハハ──!」


髪が風に舞い上がり、風圧が頬を叩く。

思わず笑い出したくなるような、めまいにも似た快感。

俺は顔を上げ、全身で風を受け止めた。

その瞬間、島全体が――俺の足の下を流れていった。


(これが……エンおじさんの言ってた「風の形」か……!)


「えっ?」


(うわ……あれは──)


気流が身体のまわりを渦を描いて流れる。

霧帯と光の流れが交差し、高度が変わるたびに、風の中にきらめく影が現れた。

幻覚じゃない。

いくつもの球状の生物が、環風かんぷうに乗ってゆっくりと上昇している。

青白い透明の羽をもち、半透明の身体はまるで水と光でできているようだ。

その中心で、金の点が呼吸のように明滅していた。


あれは「風灯霊ふうとうれい」――

高空の気脈にしか現れない幻生体げんせいたい

風に寄り添い、空気中の霊子れいしを食べて生きる。

環風が安定すると、無数の風灯霊が空を満たし、

まるで星の雨が漂うような光景になるという。


息を止めた。

少しでも動けば、この脆い光を散らしてしまいそうだった。

数匹の風灯霊が俺の周りをゆるやかに旋回し、

羽ばたくたびに微かな気紋が生まれる。

光と風で言葉を交わしているようだった。


そのうちの一匹が、俺の肩のすぐそばまで近づく。

身体から青白い脈光がゆっくりと脈打ち、

まるで俺を観察するように、そして応えるように。

次の瞬間、その光はふっと弾け、

細かな粒となって風の中へ溶けていった。


俺はその光が消えていくのを、ただ見送った。

胸の奥に、言葉にできない温かさが広がっていく。


(……これが、環風が生み出した命なんだな。)



その時だった――。


「ガグルルルル……!」


高空から、共鳴するような鳴き声が響いた。

数羽の水色のミルバ《MIRUBA》が、独特な声を上げながら目の前を横切っていく。

透明で軽やかな翼が陽光を受けて虹色の光を放ち、

まるで風に抱かれた光の生き物のようだった。


その姿が空高く舞い上がっていくのを見つめながら、胸の奥がふっと熱くなる。


学院杯アカデミー・カップ優賞ゆうしょう――


それは、ミルバの使用許可だった。


もし彼らと肩を並べて飛べたら、どんな気持ちになるのだろう。


(きっと……絶対的な自由フリーダムだ!)


思わず目を閉じる。


ミルバたちと一緒に空を旋回し、舞う光景を想像した。


風が頬を撫で、胸の鼓動がそのまま風音に重なっていく。


 

通常、ミルバの姿を間近で見られるのは、空港エアポートのミルバ搭載区とうさいくだけだ。

地上にいる人々は、ただ空を仰ぎ、

雲を越えて飛ぶ彼らの光点を見ることしかできない。


ミルバたちは高空の気脈層きみゃくそうに棲み、

風圧がもっとも安定する層を好んで旋回する。

だからこそ、今こうして同じ高度で彼らとほぼ並んで飛んでいることが、

信じられないほどの衝撃と感動を与えていた。


息をすることさえ、忘れるほどに。


『ミルバ《MIRUBA》』――。


ビグトラスアイランド・ビグトラスに棲む、不思議な生き物だ。

水色の羽をもち、普通の鳥とは違って翼が二対ある。

その体躯は一般的な鳥の二十倍ほどもあり、

二人を乗せ、さらに荷物まで積めるほどの大きさを誇る。


彼らがもっとも好む食べ物は、この島の特産である

「ベリド果樹ベリド・フルーツツリー」の種子だという。


その果実は雲層の上、断崖や岩壁に生える樹木に実り、

気脈きみゃくが安定し、風圧が均衡するわずかな時間帯にしか採れない。


環境は危険で、収穫量もごく少ない。

だからこそ、この果実は高級香辛料スパイスとして取引される。


市場マーケットでは、ベリド果から作られた辣油ラーユ

小瓶ひとつで中級風晶ミディアム・ウィンドクリスタル一個分の値がつくほどだ。


その果実の辛さは尋常ではなく、

島の人々はそれを乾燥させ、特別な漬け込み法で外皮の辛膜しんまくを取り除いてから

ようやく調味料にするという。

もし生のまま口にすれば――

唇が火に焼かれたような痛みを感じるらしい。


……ミルバのような謎めいた生物だけが、

あんなものを丸ごと噛み砕き、平然と飲み込めるのだろう。


ミルバ《MIRUBA》たちは普段ふだんはおだやかで、島の人々と平和に共存している。

だが――食事のときだけは、まるで別の生き物になる。


辛膜しんまくを直接触れないよう、

唾液だえきで慎重に包み込みながら種を噛み砕く。

集中を切らせば終わりだ。

もし辛膜をそのまま飲み込んでしまえば、

ミルバはたちまち暴走し、異常なほど興奮状態に陥るという。


昔、ふざけ半分でそれを見ようとした者がいて――

怒り狂ったミルバに足で押しつぶされたらしい。

その光景を想像するだけで、背筋がぞくりとする。


「なるほど……『風神の使者ふうじんのししゃ』と呼ばれるわけだな」

思わずつぶやき、風の流れとともに視線を向けた。


からさと風をあやつる生き物なんて……それ自体が奇跡ミラクルだよな)


そして、飼育しいくに関して言えば、ミルバは巨大すぎて、

特別な訓練士免許トレーナーライセンスを持つ一部の者しか扱えない。


だが、例外が一つある。

学院杯アカデミー・カップ優賞ゆうしょうを得た三年生は、

一定期間いっていきかんミルバの臨時使用権ライセンスを得て、

試乗や研究リサーチに使うことが許されるのだ。


あんな存在を自らの手で馴らせるなんて――

想像しただけで胸が高鳴る。


その資格を持てば、ミルバを交通トランスポート手段として使い、

島特有の自然現象ナチュラル・フェノメノン――

環風かんぷう」に乗って空を旅することができる。


環風は、島の底から湧き上がる巨大な螺旋気流らせんきりゅう

この中空島ちゅうくうとう全体の動力源であり、

都市や機構きこうの活動もすべてその風の循環に支えられている。


ミルバはその逆風ぎゃくふう順風じゅんぷうのあいだを自在に行き来し、

ゆえに富豪や貴族にとって最上級の乗騎じょうきとされているのだ。


「ガグルルルーー」


ミルバ《MIRUBA》の鳴きなきごえが空に響き、

やがて遠くの雲層うんそうへと溶けていった。


俺はふと考える。

――あの「風神ふうじん使者ししゃ」と呼ばれる生き物たちは、

本当に風の言葉を理解しているのだろうか。


もし彼らが風と対話できるのなら、

人間にもきっと、その方法があるはずだ。


風の声を聞けたなら、

自分だけの進むべき道を見つけられるかもしれない。


俺の脳裏に、あの競技、あの風球、


そして――いつも俺より一歩先を行く彼女の姿がよぎった。


観客席かんきゃくせきからこちらを見ていたルキの、

あの意味深いみしんな笑みがふっと浮かぶ。



「いつか必ず――」


俺は風の中で、そっと自分に言い聞かせた。


環風かんぷうに沿ってしばらく滑走かっそうすると、

遠くにパミラ市集マーケット霧帯むたいの中から少しずつ姿を現した。


そこは下層の気脈きみゃくへとつながる中継区ちゅうけいくであり、

さらに下の「人魚噴泉駅マーメイド・スプリング」へ行くには、

いったんここで降りてから、徒歩で次の風軌ふうきに接続しなければならない。


理論上では、この区間も「風導列車ふうどうれっしゃ」に乗ることができる。


固定された軌道きどうをゆるやかに滑る魔導運輸まどううんゆで、

気脈が安定し、安全で快適かいてき――だが、遅すぎる。


学生の間では、

「二コマ分の課題かだいを車内で片づけられる」なんて冗談もある。


俺も笑ったし、実際に乗ったこともある。


あの遅くて、静かで、風のない旅路たびじは、

まるでガラス瓶の中に閉じ込められたみたいだった。


だからその後、俺はときどき自分の足で歩くことを選んだ。


ほんの時々、風の気配がやけにんでいる日だけ。


風の中を歩きながら、今日はどこまで連れていってくれるのか――それを確かめたくなる。



エンおじさんはよく言っていた。



本当ほんとう風術師ふうじゅつしは、まず“風の気持ち”を聞けるようにならなきゃいけない」って。


たぶん俺は、つい必要のない道にばかり時間を費やしてしまう。


それでも――後悔したことは一度もない。


なぜって、


指先をかすめ、袖のあいだから抜けていく風の感触。

それだけでわかる。――俺は今も、この島でちゃんと息をしている。



遠くに高塔こうとう気橋ききょうがぼんやりと姿を現した。

幾重にも重なる建物は、まるで空に浮かぶ階段の街のようだ。


市集マーケット三層構造さんそうこうぞう

上層は貴族や旅商人が行き交う風橋交易区ふうきょうこうえきく

中層は最も賑やかな生活と食坊のエリアで、

露店ろてんの呼び声があちこちから響いていた。


そこには多彩な魔導食店まどうしょくてんが並び、

そして俺がこれから通り抜け、「人魚噴泉駅マーメイド・スプリング・ステーション」へ向かう道でもある。


最下層は風脈ふうみゃくに支えられた工房帯こうぼうたい

錬金師れんきんし風技師ふうぎしたちが昼夜を問わず、

魔導具を作り、気導器きどうきを修理している。


各層の平台は風石ふうせき雲木うんぼくを組み合わせて造られ、

屋根には銀青色ぎんせいしょく金属瓦きんぞくがわらが敷かれている。

陽光と霧が交差し、その間で柔らかな光がきらめいた。


上層の懸橋けんきょうは網のように張りめぐらされ、

空中の屋根と屋根をつないでいる。


風流ふうりゅうがそこを通るたび、橋索きょうさくがかすかに震え、

低く長いハミングのような音をかなでた。


中央には雲を突くように高い鐘楼しょうろうがそびえ、

塔身とうしんには螺旋風紋らせんふうもん古代符文こだいふもんが刻まれている。

毎時になると、塔内から圧縮気脈あっしゅくきみゃくが放たれ、

空中に吊るされた「風鈴陣ふうりんじん」を鳴らす。


その音は島中に響き渡り――


住民にとって、それはただの時報じほうではなく、


「島のしまのこころが今も呼吸している」ことの証だった。」


高所こうしょから見下みおろすと、

市集マーケット全体が風に揺れる花のように広がっていた。

主街道しゅかいどうは四方へ放射状ほうしゃじょうに伸び、

旗や光流帯こうりゅうたいが風に踊る。


屋根下には青と白の風灯ふうとうが吊るされ、

それぞれに少量の気脈エネルギーが封じ込められていた。

ほのかに明滅めいめつする光が、空気にぬくもりを与える。


香り、喧騒けんそう、そして音楽。

それらすべてが空気に混ざりあい、

まるで街全体が風に照らされて輝いているかのようだった。


「ふぁ~~いい匂い」


谷間から一陣の風が吹き上がり、

焼き果実のような甘い香りを運んできた。


その中には微かに風晶粉末ふうしょうふんまつが混じり、

陽光を受けてきらりと光っている。


空気の奥から、ぼんやりと音律が聞こえた。

誰かが魔導音箱まどうおんばこの周波数を調整しているような――

低いハミングと人声が交じりあい、

祭典の始まりを告げている。


想像するだけで、腹がぐうと鳴った。


今日は島にとって十年に一度の――

そして百年に一度の大祭りの日だ。


普段なら、空港から訪れる貴賓や、

船でやってくる旅人であふれ返っている頃。

おそらく夕方六時には、風さえも賑やかさで満たされるだろう。


「ぐるるる──」


この日のために、俺は三日も腹を空かせてきた!


だって、世界各地から集まる美食の数々。

その中でもとりわけ――『SWEET クロワッサン・祭典限定版さいてんげんていばん』は別格だ。


毎年、何時間も並ばなければ手に入らない、まさに人間界の至福!


先週の『ビグトラス魔導食報まどうしょくほう』によれば、

今年の限定版は封印から二年ぶりに再販。

たった三千個しか作られないらしい。


本当の理由は、素材の希少さと製法の難しさにある。

シェフは気脈きみゃくが最も安定する早朝、

風晶火ふうしょうびで温度を細かく調整しながら、

生地の中のミラ果精みらかせいとブルーベリー果露かろの比率を完璧に保たなければならない。

ほんのわずかな温度差でも、香りが逃げてしまうのだ。


クロワッサンの外層は繊細な黄金色のパイ生地。

幾重にも巻かれた縁が光を受けて柔らかく艶めき、

頂上には薄く粉糖が散らされている。

それが少し溶けると、まるで朝霧の露のようにきらめく。


ひと口かじると、

パイが小さく「カリッ」と鳴り、

温もりを帯びた香りがふわりと広がった。


香りが舌の上で花開き、

温かい空気が味覚をやさしく包みこむ。


シェフはこの絶妙な均衡を「風の余韻」と呼んでいるらしい。

甘さと香りが口の中で共鳴するその一瞬。

パイの余韻が消えた後、

ようやく柔らかな中身が顔を出す。


――本当の秘密は、

その幾重にも重なったフィリングの中に隠されているのだ。


中のフィリングは三層構造になっている。

最初の層はミラ果蜜かみつのピュレ。

さわやかで、ほんのりとした酸味が心地よい。


二層目は北丘ほっきゅうブルーベリーの果露かろで、

じっくり煮詰められた濃厚な甘みと、

わずかに残る渋みが絶妙なバランスを生み出している。


そして最深部には西生桃せいせいとうのピュレが隠されている。

舌の上でとろけるほど柔らかく、

その甘さは風のリズムのように――

最初は軽く、やがて深く、最後に静かに余韻を残す。


まるで味そのものが風の旋律になって、

口の中で奏でられているかのようだった。


ある人はこう言う。

焼き上がったあと、窓辺に置いておくと、

熱気が風に巻き上げられ、

甘い香りが通りの端から端まで流れていくという。

まるで「空気まで甘くなった」ような錯覚を起こすのだ。



そして、つい先ほど発行された《パミラ風味日報》の魔導版によれば、

今年の SWEET 慶典限定クロワッサンは、たった三千個だけの製造。

風晶陣列ふうしょうじんれつによって焼成時間を正確に管理し、

一窯ごとに焼き上がるたび、空中に残数が自動表示されるという。


三千個すべてが完売した時点で、

その焼成陣は二年間封印され、

次の風祭ふうさいが訪れるまで再び稼働することはない。


単なる商業パフォーマンスではない――

本当の理由は、素材の希少性にある。

製造に必要なミラ果と西生桃せいせいとうは、

島の北部にある浮空果林ふくうかりんでしか採れない。

そこでは二年に一度、特定の気圧と温度条件が揃った時だけ、

花が咲き、実が成る。


さらに、風晶陣に使われる蒸気風石じょうきふうせきも、

高湿環境でしか安定共鳴しない。

時期を一つでも誤れば、焼成陣全体の感度が狂ってしまうのだ。


ゆえに、この限定クロワッサンは「風と果実の奇跡の共作」と呼ばれている。

一つ一つが五人の風晶師ふうしょうしと三人の菓子職人の手で作られ、

わずかな誤差でも、果膏かこう霊圧れいあつの乱れによって凝結に失敗する。


その二つの記事が発表された途端、島中の住民が熱狂した。

多くの人々が二日前から港に並び、

そして――俺もまた、

三日も空腹のまま、頭がくらくらしそうになりながらも、

夕方までにどうしても辿り着こうとしていた。


(急がないと、風に香りまで奪われちまう!)


クロワッサン限定版は一つ二百九十七カラ。

ちょうど三日分の食費にあたる。

そう考えた瞬間、つばがこみ上げてくるのを必死にこらえた。


パミラ市街マーケットの輪郭が、だんだんと鮮明になっていく。

下では露店の商人たちが、古文書や不思議な彫像を並べて忙しそうにしていた。

中には隣よりも大きな声で、客を呼び込もうとする者までいる。


「見てって!うちの店の秘宝、焼きたてだよ!」

「祭り期間中、大安売りだ――!」


風が人混みと看板のあいだをすり抜け、季節外れの震えるような音を立てた。


風が人混みと看板のあいだをすり抜け、

季節外れの震えるような音を立てた。


――そのときの俺は、まだ知らなかった。

この風が、俺を次の運命へと押し出していたことを。






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