失われた断片 ― 風の環 ―
半々月光
第1話―アカデミー・カップ――風が始まりを告げた日
世界の果て――風と海が交わる場所に、
そこは、俺の故郷であり――そして、運命が動き出す始まりの地だった。
今の俺は、古代アカデミーの三年生だ。
子供のころから古魔術に強い興味を持っていて、その流れで、最終的にエンおじさんにここへ送られることになったんだ。
俺の両親は、俺がまだ何も知らなかった頃に、謎の失踪を遂げた。
どれだけ問いかけても、エンおじさんは首を振るだけで、いつも同じ言葉しか言わなかった。
「二人は遠い旅に出たまま、戻ってこなかったんだ。」
あの頃の俺は、ただ単純に信じていた。
大人にはきっと、ちゃんとした理由があるんだって。
俺が十三歳になったその日、エンおじさんも姿を消した。
別れの言葉ひとつなく、机の上には一枚の書き置きと、奇妙な形をした物体だけが残されていた。
それは
銀色の鋼と
光を受けるたび、刻線は角度に応じて淡い青緑の光を返し、まるで呼吸しているかのように脈動して見えた。
各辺は驚くほど精密に噛み合っているのに、わずかに揺らめいていた。
まるで、「目覚め」の時を静かに待っているかのように。
「絶望を感じたときに、これを開けなさい。――叔父さんは、しばらく旅に出る。」
それが、彼の残した最後の言葉だった。
俺には、その箱が何なのかも、なぜあんなに穏やかな温もりを放つのかもわからなかった。
けれど、あの日から俺はそれを細い鎖で首から下げ、決して手放さなかった。
それがただの工芸品だという人もいれば、古代魔具の核が封じられていると疑う者もいた。
でも俺が知っているのは――風が静まったとき、そこから、かすかなうなりが聞こえるということだけだ。
その音は、ささやきのようでもあり……呼び声のようでもあった。
そして、あの日を境に、俺の世界には風の音だけが残った。
その記憶は、風の中の塵のように、時おり頭の中をふわりと舞っていく。
ぼんやりと回想に沈みかけた、その瞬間――
「
大会の司会者が、空中に浮かぶマイクに向かって楽しげに声を張り上げた。
その声は、会場中に響き渡った。
俺はまばたきをして、耳に入る喧騒が少しずつ輪郭を取り戻していく。
そして、その聞き慣れた名前がもう一度呼ばれた瞬間――ようやく理解した。
呼ばれたのは……俺だった。
思わず、感電したみたいに立ち上がった。
信じられなくて、口の中でつぶやく。
(俺……まさか、入賞したのか!?)
(さっき発表された三位は二人いたから、指導教官が再審査すると言ってたのに……まさか、本当に!?)
「さすがだな、
「次は優勝だぞ、がんばれ!」
周りのクラスメイトたちは、羨望と興奮の入り混じった視線をこちらに向け、次々に拍手を送ってきた。
「
司会者が、可愛らしい見た目に似合わぬ落ち着いた声で、クラスメイトに軽く会釈していた俺を促した。
拍手の中で、俺は気恥ずかしそうに頭をかきながら、人の波をかいくぐって表彰台へと急いだ。
その祝福の中には――もちろん、例外もあった。
「まぐれだろ!」
「次は絶対に勝つからな!」
「さっきのあの穴さえなけりゃ、お前みたいなやつに負けるわけねぇだろ!」
ジャス。クラスでずっと俺に突っかかってくるやつだ。
俺より頭一つ分は背が高く、濃くて荒っぽい焦げ茶のミディアムヘアはいつも跳ねていて、まるで言うことを聞かない。
敵意を宿したその目は、いつも細められ、まるで世界中が自分に敗北を押しつけたとでも言いたげだった。
そんな彼は今、腕を組み、いつものように軽く鼻で笑いながら、通り過ぎようとする俺にお決まりの皮肉を投げてきた。
正直なところ、どうしてあいつがいつもあんな言い方をしてくるのか、俺にもわからない。
別に俺のほうからちょっかいを出した覚えはない。――けど、あいつにとっては、ただ俺が「まだ立っている」ってだけで気に食わないらしい。
「ジャス、いい加減にしなさいよ! 百年練習したって同じでしょ。去年も同じこと言ってたじゃない!」
銀色の髪を揺らしながら、両腕を組んだ少女が、水色の大きな瞳でジャスを見下ろし、冷たく笑った。
去年のアカデミー・カップでも、俺たちは同じ会場で相まみえた。
終盤でジャスは乱流に呑まれ、観客席の防護壁に叩きつけられたんだ。
もっとも、その年は俺も何も手にできなかった——結局、二人とも敗退だ。
あの轟音は、今思い出しても……少しだけ震える。(いや、ちょっと笑いそうにもなる。)
「ぐぬっ……!」
ジャスは急所を突かれたようにうめき、銀髪の少女を睨みつけた。
その睨みに対して、彼女はただ肩をすくめ、まるで気にも留めない様子で顔をこちらに向け、俺に軽く笑いかけてきた。
(まったく……相変わらずだな、こいつ。)
長い髪は整っていて、繊細で、まるで絹糸のように滑らかだった。
窓の隙間から差し込む陽の光が、その髪の先を淡い金色に染めていく。
彼女は小さく息を漏らし、口元をわずかに上げた。
その笑みには確かな自信が宿り、どこか悪戯っぽい。
銀髪の少女――
彼女は、俺が子供のころから一緒に育ってきた幼なじみだ。
運動神経は驚くほどよく、魔法の才能にいたってはクラスで一番。
学院の先生たちからも一目置かれる優等生で、理論でも実技でも、ほとんどミスをしたことがない。
ただ――彼女はどんな競技にも興味を示さない。
ましてや、今年のアカデミー・カップなんて、なおさらだ。
今回の「アカデミー・カップ」は、古代アカデミーで一年に一度行われる一大イベントだ。
全校生徒がチームまたは個人で参加でき、自分の実力や魔力の制御を試す絶好の機会でもある。
そして――優勝者には特別な賞、ミルバが与えられる。
俺はそのミルバを目指して、個人参加を選んだ。
試合はアカデミーの北側にある「
そこは山の内部をくり抜いて造られた巨大な円形の空洞で、観客席と
天井から吊るされた魔力結晶が空間全体を照らし、中央では気流が渦を巻いていた。
それはまるで、生きているかのように螺旋を描く魔法の旋風だった。
競技の内容は――「巨大な
その風球は数十メートル上空の気流の中心に浮かび、表面には古代の符文が刻まれている。
金と青の光が交差しながらゆっくりと回転し、周囲の空気をわずかに震わせていた。
参加者は自分の魔力のバランスと判断力だけを頼りに、浮遊する石の橋や気流の罠を突破し、最後にその風球を奪い取らなければならない。
ほんの少しでも判断を誤れば、気流に弾き飛ばされ、空洞の底へと叩き落とされる。
古の伝承によれば、風の神サフィールは天から堕ち、人の世界へと降り立ったという。
そのとき、彼は自らの翼を颶風へと変え、この海に孤立する島を守った。
墜落の瞬間、天は裂け、雷鳴が轟き、大地の中心は崩れて、底の見えない空洞となった。
そして――風神の息吹に呼応するように、島の内部ではひとつの気流が生まれた。
それは絶えず循環する螺旋の風帯であり、人々はそれを「
環風は島の中心から湧き上がり、地の底から天へと昇り、やがて山の斜面に沿ってゆるやかに降りていく。
それは海霧や花粉、微かな光の粒子さえも巻き込み、ビグトラス特有の気候と生態を育んでいる。
ある生き物はその気流に寄り添うように生き、またあるものは半空に漂い、この島でしか見られない幻想的な光景をつくり出していた。
やがて、古代アカデミーは風神が墜ちた場所――島の頂に築かれた。
風脈と古代魔術の研究を要に発展し、次第に今日の聖域としての姿を形づくっていった。
空から見下ろせば、ビグトラス島はまるで風に彫られた巨大な塔のようだ。
そして、島の内を貫き天と海を結ぶその螺旋の気流こそが、風神が今も眠り続けている証だとされている。
毎年アカデミー・カップが開催されるたびに、
そこでは、すべての生徒が風と呼吸の交わる空間で、神々の視線を感じ取るのだ。
俺はてのひらの
あの荒れ狂う気流、耳をつんざく風鳴り、そして符文の光を放ちながら回転する巨大な球体――。
そのとき、
観客席の
人々のざわめきが、そこかしこから湧き起こった。
「今年も風の聖殿でやるのか……あそこの気流は洒落にならないぞ」
「今回はコースの難度が三割上がったって聞いた。上級生でもきついらしい」
「ははっ、それは楽しみだな。伝説じゃ、風神の息吹がまだあの穴の底に残ってるって話だ」
「馬鹿言うなよ、『
笑い声と驚きの声が入り混じり、殿内の気流に乗って反響する。
まるで古の伝承が、風の中でそっとめくられていくかのようだった。
「聖殿の中で風を操れる者こそ、自らの力を証明できる――それこそがアカデミー・カップの意義だ!」
指導教官の声が
俺は視線を巨大な渦の中心へと向けた。
そこには、金と青の光を交差させながら輝く
まるで風神の瞳のように、静かに俺たちを見つめている。
そのとき、俺は他の参加者たちと共に渦の縁に立っていた。
激しい風圧に、目も開けていられないほどだった。
足元の浮石は、魔力の流れに合わせて揺れ続けていた。
俺は深く息を吸い込み、意識と魔力をひとつに合わせた。
足元には淡い風紋が浮かび上がる――それはエンおじさんに教わった「
乱れた
「見てろよ、イラン! 俺がその
ジャスが叫び、獣のような笑みを浮かべた。
濃く荒れた髪は烈風に舞い、両腕はすでに風の魔力に包まれている。
全身が、渦を突き破らんとする一本の矢のようだった。
負けず嫌いのその気迫に、周囲の気流さえ震えて見えた。
だが、中心に近づけば近づくほど、風圧は恐ろしく強くなる。
唸りを上げる気流が刃のように吹き荒れ、空気には耳を裂くような振動音が混じっていた。
「なっ――!」
俺の視界の端で、ジャスの身体が上昇気流に持ち上げられ、そのまま逆流に弾かれて宙へと翻った。
「くそっ――!」
「うっ……うわあああああっ!」
怒号は風に呑まれ、彼の身体は気流の中でバランスを失った。
魔力のシールドが一瞬で砕け、そのまま真下の風穴へと落ちていく。
もっとも、「落下」といっても、下層の気流は参加者の魔力の流れに沿って動いているため、命の危険はない。
ただ――無重力めいた浮遊と翻転の感覚だけは、きっと忘れられないだろう。
気流と魔力が交じり合って生じた微かな爆風が塵を巻き上げ、観客席からどよめきが走った。
その瞬間、やけに大きく自分の鼓動が響いた。
深く息を吸い、呼吸を整える。
周囲の参加者たちもまた、荒ぶる風の流れの中でもがいていた。
乱流に巻き上げられて空中へ跳ね上がる者、シールドの光を保てずに揺らめく者、無理に気流を突破しようとして弾き返され外周へ吹き飛ばされる者。
魔力の波動が空間で交錯し、唸りと風鳴りが重なって――
方向感覚すら奪われていった。
俺は他の連中のように無理に突っ込むことはせず、気流のリズムに合わせて、一歩ずつ力を借りながら前へ進んでいった。
「これは――っ!?」
狂ったように渦巻く風の中、身体の制御すら難しくなりかけた俺は、気流の中心に一本の太い柱――まるで水脈のような気流を見つけた。
ほんの一瞬、息を呑んだそのとき、二つの影が俺の脇をすり抜け、風球へと一気に駆け抜けていった。
「先を越された……のか?」
「おめでとうございます、優賞は――」
司会者の声が風圧に引き裂かれ、耳に届いたのはその「優賞」という言葉だけだった。
指先からこぼれ落ちていくような感覚とともに、胸の奥にかすかな悔しさが残った。
だが、思考が追いつく前に、十五秒も経たないうちに広場へ再び司会者の声が響いた。
「おめでとうございます、銀賞は――」
その一言は、再び叩きつけられた衝撃のようで、胸を締めつけた。
一瞬、胸の奥に込み上げたのは嫉妬ではなく、悔しさだった。――ほんの一歩、届かなかったのだ。
激しい気流が頬を打ちつけ、意識が風に攫われそうになる。
俺は目を閉じ、呼吸を整え、魔力を風脈に合わせるように集中した。
――まだ終わっていない。
自分にそう言い聞かせる。足元の風紋が、再び光を帯びるはずだ。
(風は、敵じゃない。――きっと、俺を運んでくれる。)
その瞬間、気流がふっと穏やかになった。
まるで俺の意思に応えるように、柔らかな流れが生まれる。
俺は手を伸ばし、その巨大な
低くうなる音と微かな震えが走り、気流が呼吸のように俺を包み込んだ。
掌には規則正しい脈動が伝わり、俺のリズムに合わせて微調整しているみたいだ。
風と俺の律動が、ひとつになったのがわかる。
それはまるで、生きているかのように螺旋を描く魔法の旋風だった。
(やった……!)
気がついたときには、風球の光はゆっくりと淡くなり、俺の身体も静かに台座へ降り立っていた。
観客席から歓声が湧き上がるなか、俺の脳裏には、風穴から這い上がってきたジャスの悔しげな表情が焼きついていた。
――彼のほうが、きっと俺より強い。
けれど、この競技で問われているのは力じゃない。心の均衡だ。
今回、三位の賞品として渡されたのは一つの「
競技中のものよりは小さいが、それでも名誉と技量の証として十分だった。
優賞――ミルバは手に入らなかった。
けれど今日、この風球はきっと、これから始まる新しい冒険の鍵になるだろう。
ルキの視線が、表彰台で
表彰台に立つ俺の手の中には、淡い翠色の光を放つ球体があった。
外殻は
表面には精緻な
それは環状路専用の
俺はその精密な構造を見つめ、掌からそっと風が滲み出るのを感じた。
微かな震動が脈のように伝わり――「これが始まりにすぎない」と告げているかのようだ。
視界の端に、
彼女の瞳はすべてを見透かすみたいに、今の俺がこの表彰台を飛び出して自由へ駆け出したがっていることさえ見抜いている。
(あいつの洞察力には、ほんと敵わない……尊敬するけど、ちょっと怖い)
表彰式が終わると、俺はもう留まるつもりはなかった。
学院を出た瞬間、外の空気が妙に新鮮に感じられた。
大きく背伸びをして、張りつめていた緊張を風といっしょに吐き出す。
――少しくらいは、休んでもいいだろう。
街の景色は、まるで命を宿したように活気づいていた。
風力と魔力の補助で走行する車両が道を滑り、車体の側面には微かな浮光がきらめく。
こうした装置の多くはアカデミーの工房で作られ、その職人たちは皆、同校の卒業生だ。
魔法理論を極める者もいれば、魔導工芸の開発や設計に進む者もいる。
彼らの作品はいまや島じゅうに行き渡り、人々の暮らしに溶け込んでいた。
通りを行き交う人々の顔には笑みが絶えない。
とくに子どもたちとその親たちは、期待と興奮で目を輝かせていた。
ビグトラス島の街路にはいつも風の音と人々のざわめきが混ざり合い、そのやわらかな躍動が、見ているだけで思わず笑みを誘う。
今日は彼らにとって、特別な一日――
願いが叶う日だ。
「ママ、これが欲しい!」
古魔具店――「風語工房(ウィンド・スミス)」――のショーウィンドウの前で、子どもが中の
「いいわよ、一つだけね」
母親は微笑みながらその頭を撫でた。
子どもの顔にぱっと幸せの笑みが咲き、小さな足で嬉しそうに跳ねる。
そのとき、若いカップルが空港の背後から現れた。
そこは島でいちばん雲に近い区域で、貴族や学院の来賓が利用する
淡い魔力の光霧が地面を流れ、風脈に合わせてほのかに明滅する。
遠くで飛行艇が離着し、短い気痕と低い唸りを残していった。
風が女性の髪と男性の外套を撫でる。
二人は肩を寄せ合いながら、夕食の予定を楽しげに語り合っていた。
「ねぇ、今夜はガイモ食堂でスペシャルディナーにしよう?」
女性が微笑み、男性の肩に軽くもたれかかる。
彼は優しい笑みを返し、静かにうなずいた。
空港上空の
その夕食は、ただの食事ではなく――小さな願いの成就そのものだった。
今日の祝祭が、その幸福をいっそう確かなものにしていた。
そして、この待ち望んだ一日は、俺にとってもまた特別な意味を持っていた。
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