COLD ーー僕の全てが凍るまで
@_NEG
第1話 Cold
Cold
頭が痛い。息を吸っているのに、空気が足りない。立ち止まると、終わる気がした。
足が重い。踏み出す度に、背中の重さがぐらりと揺れる。
――誰だ。背中が、氷のように冷たい。
すぐ後ろで、もう一つの足音と、乱れた呼吸が重なっている。
――僕は何も思い出せない。
でも、止まることはできなかった。
何も思い出せないまま、身体だけが走り続けていた。
ただ、何かを失った感覚だけが確かに残っていた。
空と地の境目が分からないほど、永遠のように続く銀世界。
足跡が、雪色から紅に染まっていく。喉には鉄の味が広がっていた。
何度か口を開いたが、声にはならなかった。
ぼやけた境界線に小さな灯火と人影が見えた。
その瞬間、張り詰めていた糸が切れる。
レイは前のめりに崩れ落ち、動かなくなった。
――意識が途切れる、少し前のことだった。
三人の幼子は二つの雪玉を重ねていた。
「ねえ、レイ…私さ、見ちゃった。」
小さな手で人参を握りしめながらリョウは言った。
「ふーん、なにを見たんだよ。」
レイは適当に返した。今は腕用の細い枯れ枝を探すのに夢中だったのだ。
「みて、バケツはっけーん!」
ヒナタは誇らしげにそれを両手で掲げている。
「あのね、あの壁に……穴があいてたの。」
「……リョウ、声落とせ。その話は言っちゃダメだ。」
「かべ?なんのはなしだ?」
話に着いていけないヒナタは首を傾げて二人を見た。
「ちょっとだけ、見に行こうよ。レイも気になるでしょ?」
リョウが潤みを帯びた目で彼を見上げる。
彼女の長い髪が、冷たい風に揺れた。
「はぁ……俺が帰ると言ったらすぐ帰ること。」
「うん!」
「森から帰ったら、雪だるま完成させようぜ!」
明るい声でそう言って、ヒナタが立ち上がった。
三人は、薄暗い森の中の奥へと足を踏み入れた。
僕たちはもう戻れない気がした。風の音が消えていた。
目の前に、赤い線がどこまでも長く走っている。この先に足跡は、一つもない。
ここから先には行くな。そう言われている気がして、鼓動が早くなる。
――三人の目の先、どこまでも続く暗い壁が、そびえ立っていた。
「ははっ……きれいだな、これ。」
ヒナタは笑っている。
その目は、一度も瞬きをしていなかった。
(もう、引き返すべきだ。行っちゃだめだ。)
心では、そう思っているのに。
(目が離せない。足を後ろに引けない。
影を作らない、その光に吸い寄せられていく。
リョウは何も言わず、ただ壁を見続けている。
その一部――影を作ることのない光が、壁の裂け目から溢れていた。
雪を踏む、音がした。無意識だった。レイの右足は赤を跨いでいた。
「おい、レイ……」
ヒナタの声が聞こえたが、振り返れなかった。
空気がひどく変わった気がした。僕の足は止まれなかった。
後ろから、雪を踏む音が聞こえた。それが誰のものか、もう分からなかった。
それでも、僕は振り返らなかった。
地面から少し高さのある裂け目の縁に手を置く。
指先から伝わる岩の冷たさに、身体が震える。
眩しくて奥は見えなかった。手探りで周囲を探る。
壁は分厚く、穴は僕の身長の半分くらい続いていた。
頭をかがめる。手は壁にこすれて、肩がぶつかる。中は思ったより狭かった。
必死に這い進んで頭が空洞を抜けた。それから両手。それでも身体が動かなかった。
胸がつかえて、息ができない。僕は足をバタバタした。
片足が何かを蹴ったあと、身体がふわっと軽くなった。
ドン、と地面に打ち付けられた。
僕は無数の硬い粒の上にいた。雪じゃない。動く度にじゃりじゃりと音がする。
後ろで、衣服が擦れる音と、短い息が二つ続いた。
目が、光に慣れる。
――空が、あかい。
白じゃない。青でもない。燃えているような、あか。
空にも色があるのだと、初めて知った。
瞬きを、忘れる。
このゆれているのは水…かな。ずっと先まで続いている。もし落ちたら……考えたくない。
大きな黒い塊が、水の上に浮いている。ゆっくりと動いていて、怖い。
息が、止まる。
「なんだ……あれ。」
たぶん、僕も、ヒナタも、リョウも、みんな同じ顔をしていたと思う。
遠くに灰色の巨大な長方形が見えて、そこから灰色の雲が出ている。
その雲が空に向かって、ゆっくりと広がって赤を汚している。
(なんだ、これ。なんなんだ。)
誰も声を出さなかった。ただ、ずっとその異様な光景を見ていた。
長い沈黙を破ったのはレイだった。
「……戻ろう。」
そう言いかけた、その瞬間だった。
世界から音が消えた。
自分の鼓動だけが、耳の奥で鐘のように鳴り響く。
「…おい。」
「…何をしている。」
背後から冷ややかな声がした。思わず振り返ってしまった。
知らない声。知らない顔。
――"知らない人"が後ろに立っていた。
誰も動かなかった。先に、僕たちを見ていた。
男は無表情のまま、手に持った黒い塊を僕たちに向ける。
(何かが変だ、ここにいるべきじゃない。)
脳が叫んでいるのに、身体が凍りついたように動かなかった。
――乾いた音が、鼓膜を弾いた。鼻をつくような焦げた匂い 。
何が起きたのか、わからなかった。
次の瞬間、リョウは糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
地面に赤が広がっていく。
「外したか。」
男の顔が歪んで、再びあれが向けられる。
先には、呆然とその場に立ち尽くすヒナタがいた。
考えるより先に、身体が動いていた。なんて叫んだのかは覚えてない。
前に立ち塞がり、両手を突き出す。
指が震える。痛いほどの冷気が、手のひらを覆った。
男の目線が僕の手に移る。
そこには、光を歪ませる「透明な何か」があった。
手の感覚が消えて、削り取られるような感覚だった。
――何かがなくなった、そんな気がした。
ばき。
手の中で、何かが割れる音がした。
――だけではなかった。
砕けた氷のような鋭いものが広がり、止まらなかった。
それは恐ろしい速度で男へと襲いかかる。
「――っ、おい、やめろ」
視界が白くなって、意識が遠のいていく。
口が開いた。たぶん、名前を呼ぼうとした。
――……誰だっけ。
大切なはずのその名が、雪に溶けるように消えていった。
レイには、何も聞こえなかった。何も感じなかった。
自分の呼吸さえも。
COLD ーー僕の全てが凍るまで @_NEG
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