幸せってね、探さなくても、毎日の中にちゃんとあるのよ
@Rsiteisunnna
第1話 雨音
雨音は高校二年生。
名前が雨音だから、雨の日は少しだけ心が軽くなる。
朝、目が覚めるとまずシーツの温もりが体を優しく包んでいる。
まだ眠い目をこすりながら起き上がり、キッチンから漂うトーストの匂いにほっとする。
母がコーヒーを淹れる音が、静かな朝のBGMのように響く。
「行ってきます」
小さく呟いて玄関を出る瞬間が、雨音にとって一日の中で一番穏やかな時間だった。
通学路の途中で、いつものベンチの下に野良猫がいる。
灰色の毛並みが少し湿って、瞳だけがキラキラ光っている。
雨音はカバンからちぎったパンを取り出し、そっと置く。
猫はすぐに逃げてしまうけれど、数分後には戻ってきて、黙々と食べ始める。
その小さな背中を見ているだけで、胸の奥がじんわり温かくなる。
教室では窓際の席に座る。
授業中も、時々外の空を見上げる。
隣の陽菜がノートを寄せてくる。
「今日のお弁当、何?」
「卵焼きと鮭」
「いいな、分けてよ」
そんな他愛もないやりとりが続く。
昼休みは二人で屋上へ。
コンビニのおにぎりを頬張りながら、陽菜がぽつりと言う。
「こういう普通の日って、結構幸せだよね」
雨音は頷く。
確かに、風が少し冷たくても、隣に誰かがいるだけで、世界が少しだけ明るくなる。
放課後、雨音は一人で帰る道を選ぶ。
商店街の古本屋の前を通ると、店主のおじいさんがいつものように軽く会釈してくれる。
今日は少し立ち寄ってみた。
奥の棚に、薄い表紙の詩集を見つける。
タイトルは『夜に溶ける言葉』。
作者の名前は知らないけれど、ページをパラパラめくると、短い詩が静かに並んでいた。
どれも、夜の静けさや小さな想いを切り取ったようなものばかり。
埃が薄く積もっていたけれど、なぜか手に取ったら離せなくなった。
買って、そっとカバンにしまう。
家に帰ると、母が夕飯の支度をしている。
今日はカレー。
じゃがいもが少し崩れて、母らしい優しい味がする。
父は今日は早く帰っていた。
三人で食卓を囲む。
テレビのニュースが小さく流れている。
特別な話はない。
でも、その静かな時間が、雨音にはとても心地よかった。
食事が終わって自分の部屋に戻ると、机の上に祖母の写真がある。
一年前に亡くなった祖母。
最後に会った日、祖母は弱々しい声で言った。
「幸せってね、探さなくても、毎日の中にちゃんとあるのよ」
そのときはまだわからなかった。
喪失の痛みが大きすぎて、日常の光が遠く感じた。
でも今、少しずつわかる気がする。
夜、ベッドに入る前に陽菜からLINEが届く。
「明日一緒に帰ろうね」
「うん、楽しみ」
短い返事なのに、胸の奥がふわっと温かくなる。
窓の外では雨が降り始めた。
静かな雨音が、まるで自分の名前を優しく呼んでいるみたいだ。
雨音は電気を消す。
暗闇の中で、今日一日のことをゆっくり思い返す。
朝のトーストの香り。
猫の小さな背中。
陽菜の笑い声。
古本屋の埃っぽい匂い。
カレーの温かさ。
家族の気配。
そして今、聞こえる雨の音。
どれも本当に小さなこと。
でもそれらが重なって、ちゃんと一つの「今日」になる。
明日もきっと、似たような一日が待っている。
特別な出来事なんてないかもしれない。
それでもいい。
むしろ、それがいい。
雨音は目を閉じた。
雨の音に包まれながら、ゆっくりと眠りについた。
心のどこかに、小さな灯りが灯ったまま。
幸せってね、探さなくても、毎日の中にちゃんとあるのよ @Rsiteisunnna
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