星の裏側で名を奪われた者
Forsaken Creations
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それが最初に異常として記録されたのは、
それは測定対象ですらなかった。センサーが正常に反応しても、結果だけが存在しない。まるで宇宙そのものが、その領域の存在を禁じているかのようだった。解析チームの誰もが困惑した。天体でも現象でもなく、理解の枠外にある「何か」。それを「対象」と呼ぶことすらおこがましかった。
名称を与える試みは失敗した。「欠損領域」「虚無泡」「観測不能点」――どれも、口にした瞬間に誤りになる。言葉で理解しようとすること自体が、誤謬であるかのようだった。私自身も違和感を覚えたが、その感覚が警告であるとは、この時はまだ理解できなかった。
空白は移動していた。しかし「移動」と呼ぶには無理があった。三日後に再観測すると位置が変わっている。しかし速度も軌道も定義できない。因果関係が狂っていた。まるで宇宙が意図的に、あの空白を避けるかのように位置をずらしていた。
異常が決定的になったのは、地上の観測記録に欠落が生じ始めてからだ。データが消えたのではない。最初から存在しなかったことになっている。ログ番号が飛び、署名が途中で終わり、観測者の存在履歴だけが曖昧になる。本人は生きており、勤務記録も残っている。ただ、その日に関する記憶だけが不自然に薄い。
「観測した、という感覚だけが残っているんです」
研究員の声は震えていた。
「見てはいけないものを見た気がする。でも何を見たのかは…どうしても思い出せない」
彼は翌週、研究棟の屋上から身を投げた。遺書はなく、個人端末には数式とも呪文ともつかない記号列と同じ文章が何百回も打ち込まれていた。
《名を与えるな。呼ばれた瞬間、それは内側へ来る》
私はその文を読んだ瞬間、説明のつかない既視感に襲われた。まるでずっと昔から知っていたかのような感覚だった。
その夜、自宅で解析ノートを見返していると、覚えのないページが挟まっていた。筆跡は私自身のものだ。
「我々は外宇宙を観測しているのではない。こちら側の膜に浮かび上がった“影”を、内側からなぞっているに過ぎない」
書いた記憶はない。それでも内容は腑に落ちた。直後、部屋の照明が一瞬暗転した。戻ったはずなのに、空間の寸法が微妙に狂っている。壁が遠く、天井が高い。あるいは私自身が縮んだのか。その瞬間、私は理解した。これは侵略でも接触でもない。太古の何かが、こちらを一瞥しただけなのだ。
国際合同調査委員会はついに有人探査を決定した。無人機はことごとく制御を失い、信号も意味を成さなくなったが、人間は違う。人間は意味が壊れても行動できる。私は志願した。正確には、志願したという記録が存在していた。
「ねえ、あなた…輪郭が二重に見えるわ」
「疲れてるだけだろう」
そう答えたが、彼女は首を振った。
「違う。影じゃない。時間が少し遅れてついてきてる」
レイも同意した。
「お前の返事、たまに“考える前”に出てるぞ」
その日から、自分の思考が一拍遅れて追いかけてくる感覚が消えなくなった。言葉を発した後で意味が追いついてくる。因果が微妙にずれている。
空白の縁に到達した瞬間、すべてのセンサーが沈黙した。そこは黒ですらなかった。黒という概念が成立するための背景そのものが欠け落ちていた。
「脳波が…私のじゃない」
マルタの声は恐慌していた。
「人数が合わない。ここに、私たち以外が…でも数えられない。数という概念が拒否されてる」
そのとき私は悟った。これは存在ではない。神ですらない。宇宙が、自分自身を理解し損ねた痕跡だ。時間が生まれる以前、因果が定義される前に取り残された、意味以前の何か。人類が外なる神々と呼び、名前を与えることで恐怖を飼い慣らそうとしてきたものの正体。
レイが消えた。音も光もなく、彼がいたという事実だけが抜け落ちた。私は彼の名前を思い出せなかった。思い出せないことに恐怖すら感じなかった。
「大丈夫よ」
マルタは穏やかに微笑んだ。
「私たちは、最初からここに来ていないの。来たと思わされただけ」
次の瞬間、彼女はいなかった。
私は帰還操作を行った。少なくとも、そうしたという記憶がある。計器は正常を示していたが、正常という概念が信用できなかった。視界の端で、自分の記憶が剥がれ落ちていく。幼少期、地球、空の色。それらは宇宙空間に浮かぶ抜け殻だった。空白が広がっているのではない。我々が、そこへ沈み込んでいるのだ。
地球に帰還したという記録は存在する。だが研究所の廊下の長さは日によって違い、同僚の人数も一定しない。鏡に映る私は、一瞬遅れてこちらを観察している。私は報告書を書き続けているが、読み返すたびに内容が変わり、最後には必ず同じ一文が現れる。
《観測は完了した。呼び声は、すでに届いている》
夜空を見ると、星の配置がわずかに違う。誰も気づかない。あるいは、気づいたという事実がすでに回収されたのかもしれない。私はもう、自分が人間であることに確信が持てない。だが、これだけは理解している。我々は宇宙を見上げているのではない。宇宙の古い夢の中で、たまたま思考しているだけだ。そして夢は、いずれ目覚める。
帰還したはずの私は、もはや元の私ではなかった。解析チームの廊下を歩くたび、壁が微妙に傾いているように感じられ、天井は高くなるか低くなるか予測できない。誰もその違和感に言及しない。まるで私の観測そのものが、既に消去された事実になっているかのようだった。
観測記録を精査しようと端末を開くと、画面には私の知らない文字列が浮かんでいた。まるで見えない何者かが、時間を遡って打ち込んだような錯覚。数式でも呪文でもない。読むと意識が微かに歪む。私は思わず背筋に鳥肌が立つのを感じた。
《覚醒するな。見たことを忘れろ》
それは、解析装置が吐き出した文字列だったのか、私の脳内の幻覚だったのか判別できない。もはや外界と内界の境界は溶けていた。
数日後、国際合同調査委員会は、空白領域の更なる探査を計画した。無人機は全て制御不能に陥ったため、人間の精神を盾にするほかない。志願者は私を含めてわずか三名。私は再び《ペルセポネ》に搭乗した。今度は記録装置もつけられない。残すと消去されるからだ。
「前回の航行で、記憶の齟齬が起きたわね」
マルタが淡々と話す。彼女の目は以前よりも深く、暗黒の奥を覗き込んでいるようだった。
「ええ。あの空白に接触した瞬間、私たちは人間でなくなったのだ」
私はうなずく。言語化できる現実は、ほんの一部にすぎない。残りは、存在の裂け目に吸い込まれていた。
航行が始まると、船内の空間が次第に不定形に変化していった。壁が軋み、床の角度が瞬間的に変わる。マルタの声も、私の耳に遅れて届く。レイは口を開けたまま、消えた。
「レイ!」
叫んでも、声は反響せず、空間に吸い込まれた。私は彼の痕跡を探したが、そこにあったのは消失の空白だけだった。存在が削除された痕跡。記録も、思い出も、時間も、全て取り去られていた。
私は気づいた。あの空白は存在を「消す」のではない。存在の定義そのものを回収するのだ。宇宙の秩序が、存在という概念にすら及ばない場所。私たちは観測されるのではなく、観測される側の枠から除外されている。
船の中で私はマルタの声を聞いた。
「もうすぐ…会える」
「会う?誰に?」
「名を奪われた者に。空白の内側にいるもの」
それを聞いた瞬間、船内の時間がひしゃげた。私は過去の航行、未来の航行、そして存在しないはずの記憶を一度に体験した。意識は微細に分裂し、私の一部はすでに空白の中に消えていた。残された部分は、微かに世界を観測するだけの幽霊になっていた。
やがて、私の視界に無数の幾何学的形状が浮かび上がった。球体、角錐、六面体…それらは規則性を持たず、しかし秩序もなく、宇宙の根源に触れるような恐怖を孕んでいた。形状は動くのではなく、存在することそのものを拒むかのように漂っていた。
「これは…」
言葉が私の口から出る前に、形状は私の記憶に侵入し、過去の名前や顔、色彩の感覚を奪っていった。私は完全に理解した。空白は神ではない。外なる神々でもない。宇宙が、自らの存在の一部を整理している痕跡なのだ。人間は、ほんの一瞬だけその整理の影に触れることができるだけ。
時間の感覚も失われた。分裂した意識は、船内の物理法則に従わず、思考は自分自身に遅れて追いつく。外側の世界は観測不能で、内側の世界もまた私の制御を離れていた。
「ここから、帰れるのか?」
マルタの声がかすかに響いた。私の口から出る言葉は、彼女が発した未来の声と同時だった。
「帰れない…でも、私たちはまだ観測している」
その瞬間、私は理解した。帰還は幻想だった。私たちは観測されることによって、存在を保持しているに過ぎない。一歩でも空白に踏み込めば、記憶も名前も、完全に回収される。
船は静かに空白に接近した。触れられぬものを前に、私は意識を極限まで研ぎ澄ます。すると、かすかに気配があった。意志も意思もない、ただ存在の欠片としての気配。
「…来るな」
念じるように呟いたが、気配は私の思考すら越えて内側に侵入してきた。記憶の壁が崩れ、幼少期、地球、空の色さえも剥ぎ取られる。私は既にここにいない。残っているのは、観測するという形式だけだった。
次に目を開けたとき、船は地球軌道に戻っていた。だが、観測機器の表示は異常に満ちており、過去の航行のログはすべて消えていた。マルタもレイも存在しない。存在したかどうかすら、思い出せない。
机の上に残された端末の画面には、ひとつの文字列だけが表示されていた。
《観測は完了した。呼び声は、すでに届いている》
その瞬間、私は理解した。空白は宇宙の中だけにあるのではない。我々の中に、記憶の奥底に、心の中に浸透している。名前も意味も、因果も、すべてが回収され、我々はその抜け殻の上で思考を続けているに過ぎないのだ。
夜空を見上げる。星々は微かに歪み、遠くの銀河は微妙に欠落している。しかし、誰も気づかない。あるいは、気づいたという事実がすでに回収されたのかもしれない。
私はもはや、人間ではない。観測者でもない。ただ、宇宙の古い夢の中で、たまたま思考している破片にすぎない。そして夢は、いずれ目覚める。
その夜、眠りは訪れなかった。意識の境界は溶け、夢と現実の区別すら無意味になった。私は記録を手に取り、そこに書かれていないページを読み進める。文字は生き物のように形を変え、内容も毎回微妙に異なる。読めば読むほど、私自身の存在が揺らぐ感覚に襲われた。
「お前は…誰だ?」
かすかな声が部屋の奥から聞こえた。振り返ると、マルタの姿が微かに浮かぶ。だが、次の瞬間には消え、代わりに床の一部が微かに波打った。物理的な説明は存在しない。記憶に残る姿は、もう名前を失った何かだった。
日々、現実の輪郭は薄れていった。廊下の長さも、壁の色も、窓の位置さえも変わる。私は端末に観測データを入力するが、入力する前に文字列が既に存在していた。未来の自分が書いたものを、過去の自分が追いかけるような感覚。時間は直線ではなく、無数の層に分裂していた。
「これは…?」
マルタの声ではなく、私の内側から響いた問いかけ。答えを探す必要はなかった。問いかけそのものが、観測の痕跡であり、記録の残滓だった。存在の確認は無意味で、確認すること自体が消去されるプロセスに組み込まれていた。
ある日、窓の外を見た瞬間、宇宙が揺れた。銀河の配置が微かに異なり、星々の輝きが揺らぐ。空間そのものが歪み、遠くの星々が「消えた」。だが地球上の誰も、何も気づかない。観測者としての私だけが、存在の抜け殻を覗き込むことができた。
その時、理解した。あの空白は、単なる「欠落」ではない。観測する者の内部に侵入し、名前、記憶、存在の証拠を回収する現象なのだ。人間の言葉や思考は、宇宙の秩序にとって微細なノイズに過ぎず、空白はそのノイズを吸収する。
船に再び搭乗する夢を見た。夢なのか現実なのか判別できない。内部には無数の空白が漂い、船員は誰も存在しない。声も音もなく、時間の概念だけが微かに残っていた。私は空白の中心に近づき、手を伸ばす。しかし、触れる前に手が消え、体の一部が分解される感覚に襲われた。
その瞬間、私の意識は幾重にも分裂した。過去の私、未来の私、存在してはいけない私が同時に観測者となり、互いの観測を食い合う。どの意識も完全ではなく、すべてが半透明に揺れる。私は理解する。宇宙は我々を観測するためにではなく、観測される存在を整理するために空白を作るのだと。
目覚めると、再び地球にいた。だが、観測者としての役割を持つ私以外は消えていた。建物も街も、微細に異なる。通りの角、標識、空の色…すべてが微妙に歪み、現実の輪郭は揺れる。誰かが「修正」したわけではない。宇宙そのものが、観測者を通して再構築されていた。
私は日記をつける。文字を残すことは無意味だと知りながら、書かずにはいられない。文字列は微かに変化し、書き終わると同時に意味が剥ぎ取られる。読むたびに内容が異なり、最後には常に同じ文が残る。
《観測は完了した。呼び声は、すでに届いている》
それから数週間、夜空を見上げるたびに、星々が微かに欠落しているのを感じた。銀河の配置は毎日変わり、光はかすかに遅れて届く。誰もそれに気づかない。気づいたとしても、すぐに消去される。観測すること自体が、空白の一部となるからだ。
私の思考もまた、空白の影響を受ける。名前も過去の記憶も微細にずれ、色彩の感覚も部分的に消えた。自分の存在を「私」と認識するたびに、半分はすでに空白に吸収されているのを感じる。
ある夜、鏡を覗くと、映る自分の輪郭が微かに遅れて動いた。瞬きのたびに顔の一部が欠落し、目の位置がずれた。私は理解した。これまでの観測も、航行も、存在の確認も、すべて空白の中の記憶の残滓でしかなかったのだ。
存在の証明は、思考の連鎖の中でのみ可能で、破綻すると記憶ごと消去される。私は恐怖したが、恐怖そのものもまた吸収され、残らなかった。私はただ、空白を観測し続ける破片となった。
最終的に、私は夜空の中心に向かって立ち尽くす。無数の星が欠落し、銀河の縁は波打ち、光さえ不定形に漂う。理解する。宇宙は観測者を必要としていない。必要なのは、観測される存在を回収すること。名前も記憶も、時間も因果も、すべては吸収され、空白は拡張する。
私は何者でもない。ただ、宇宙の古い夢の中で、破片として思考しているだけ。呼び声はすでに届き、私はそれに答えることも、否定することもできない。
夜空を見上げる。星の位置はわずかに違う。誰も気づかない。存在の意味は失われ、私は空白の中で微かに揺れる意識のひとつとなった。
宇宙は静かに笑い、観測者も存在も、すべてが波のように回収される私は気づく。観測は完了したのだ、と。
星の裏側で名を奪われた者 Forsaken Creations @heliosphere
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