やさしい休日

紙の妖精さん

A Gentle Holiday

「『香菜八佳奈芭(かなや かなは)と松樺杷菜葉(まつかは はなか)は友達だった。しかし現在は、いわゆる恋愛という関係性の中で緩やかな愛情を育むはずであると思っていたが、その関係性はなかなか進まないという、直進性を持って彼女に襲いかかるのだった』」


香菜八佳奈芭はノートパソコンに次々と 文章を打ち込んでいく。


「『午前中の図書室は、世界がまだ言葉を持たない場所。

本棚に並ぶ背表紙が、それぞれが異なる年月を背負い、革や布の装丁に刻まれた擦り傷や色褪せを差し出し、金箔の文字は、角度が変わるたびにかすかに輝き、古い百科事典の背は、外光を受けて静かに色を変える。棚と棚の間から立ち上るのは、古い紙とインク、革と埃が混ざり合った匂いで、少し甘く、懐かしく、胸の奥にまで染み込むその匂いは、過去の誰かの時間を含んだまま部屋全体に広がっている。机の列は規則正しく並び、丸い、四角い椅子が、朝光を溜め込んでいた。一つの机には、昨日の誰かが読みかけのまま残した本が開かれており、ページの端が光に透けて、薄い紙の繊維が細かな網のように浮かび上がる。そばに置かれた鉛筆は先が少し削れていて、木と芯の境目が朝の光を受け、小さな銀色の線を描いている。窓辺の植木鉢、観葉植物の葉に残った朝露が、静かに一滴落ちる。

その音はほとんど聞こえないほど小さく、木製の床に触れた瞬間、吸い込まれて消える。校庭からは、風が木の葉を揺らす音がかすかに届き、それは世界がこの場所に遠慮しながら存在している証のようだった。」』


「『小説が悲しいのではなく

悲しいのは自分」』


とノートパソコンに打ち込むとマウスでスクロールして『初稿としては普通だなっ』とボソッとつぶやいて、静かに、ため息をついた。


夕方から夜へと移り変わる、その境目の時間は、輪郭が曖昧だ。

香菜八佳奈芭は、机の前で伸びをしてから、ゆっくりと椅子を引いた。二時間ほど小説を書き続けたせいで、肩の奥がじんわりと重い。画面にはまだ書きかけの文章が残っていて、カーソルが規則正しく瞬いている。その点滅を見つめる香菜八佳奈芭の目は赤い。


軽く目薬をさした後に、小学校の課題をまとめて片づけた。算数のプリント、国語の音読カード、提出用のノート。文字はきれいに書いたつもりなのに、どこか現実感が薄い。机に向かう自分と、頭の中で物語を彷徨っている自分が、まだ完全には重なっていない気がした。


一息ついてから、女子だけの秘密のネット友達と、短い雑談を交わす。画面越しの言葉は、絵文字も多くて、深く踏み込まない安心感があった。楽しいはずなのに、どこかで「つまらないな」という感覚が拭えない。

夕ご飯を食べ終え、食器を流しに置いたあと、部屋に戻ると、空気が冷えていて、香菜八佳奈芭は、ベッドの端に腰掛け、スマートフォンを手に取る。

一瞬だけ迷ってから、松樺杷菜葉の名前をタップした。


呼び出し音が、やけに長く感じられる。


「……こんばんは。香菜八佳奈芭です」


自分でも少し硬い声だと思った。名乗る必要なんてないのに、わざわざフルネームで言ってしまったことを、言い終えてから自覚する。


「こんばんは、松樺杷菜葉です。てか、何言ってるの。声聞けば誰だかわかるよ。なんでいきなり全名前とか?」


電話口の向こうから、少し笑いを含んだ声が返ってきて、胸の奥が緩んだ。


「たまにはいいかなと思ったから」香菜八佳奈芭。


「たまにはいいけど。びっくりするよね、いきなりフルネームで言われると」


「……ね?」


間が空く。

その沈黙のあいだに、言葉を選んでいる自分がいるのがわかる。


「私、小説、やめようかと思うんだけど。どう思う?」


言ってしまったあと、心臓が一拍遅れて強く鳴る。電話を持つ手に、じんわりと汗がにじんだ。


「??、あなた、小説なんか書いてたの?」


拍子抜けするほど、あっさりした返事だった。


「思いっきり書いてる。この前だって見せたよね、小学校のクラスの目の前で、あなたが声出して読もうとして、私が『やめよ』って言って、大喧嘩になったの、もう忘れた?」


声が少しだけ強くなる。


「あー……そういえば、そういうことあったあった」


「あの事件以来、私、小学校で『女流バカ小説家』って呼ばれてるんだけど」

香菜八佳奈芭。


言葉にすると、喉の奥が少し痛んだ。


「確かに悪口だけど、バカは必要ないよね」


松樺杷菜葉の声は、真面目なのか冗談なのか、判断がつかない温度だった。


「お前のせいだよ」


半分冗談、半分本気。

香菜八佳奈芭は、指先でスマートフォンの縁をなぞる。


「確かに私のせいだけど。でも、小学生で小説書くとか、生意気だって言いたかったんじゃないの、その人は」


「なんで生意気なの」


即座に返すと、電話の向こうで小さく笑う気配がした。


「女子小学生だからじゃない? あなたが、たぶん(笑)」


その笑いに、香菜八佳奈芭は返事ができなかった。

否定したいのに、どこかで納得してしまう自分がいる。それが一番、悔しい。


しばらく沈黙が続き、夜の部屋は静かで、遠くからテレビの音がかすかに聞こえるだけだった。


「……ね?」


香菜八佳奈芭は、思い切るように口を開く。


「今から、そっちに行ってもいいかな?」


その一言を口にした瞬間、香菜八佳奈芭は、胸の奥がわずかに震えるのを感じていた。

電話口の向こうにいる松樺杷菜葉の顔は見えない。それでも、沈黙の重さや、返事を待つあいだの微妙な間の取り方で、相手の表情を想像してしまう癖が、彼女にはあった。


本当は、もっとはっきり言ったほうがいいのかもしれない。

――私、あなたのことをちゃんと彼女だと思ってる。

――それを確かめに行きたい。


そんな言葉が、喉の奥まで上がってきては、結局、曖昧なまま引っ込んでいく。


「……迷惑じゃないけど」


少し間を置いて、松樺杷菜葉の声が返ってくる。いつもよりも、ほんのわずかに温度が低い。


「正直、めんどくさいなって思ってる。どういうことしにきたいのか、はっきり。メモとか書いて送ってくれたら、それ確認してから了解を出そうかな、って感じ」


その言い方が、香菜八佳奈芭の神経を逆なでした。

心臓が、どくん、と一度強く鳴る。


「……お前のほうがめんどくさいよ。なんだよ、その、メモ確認してから、って。バカなんじゃないの」


言ったあとで、少しだけ後悔する。けれど、もう止まらなかった。


「その、バカ、って」


松樺杷菜葉の声は、少しだけ低くなる。


「褒め言葉? それとも罵倒? 褒め言葉ならいいけど、罵倒ならちょっと腹立つ。――、どっちにしても、今からそっち行くけど」


電話の向こうで、短く笑う気配がした。


「来てもいいけど。返り討ちにしてやる」香菜八佳奈芭。


その言葉に、松樺杷菜葉は眉をひそめる。

今日は、やけに棘が多い。


「……なんでそんなに今日は荒れてるの?」


問いかける声は、思ったよりも静かだった。


「それは」


香菜八佳奈芭は、あっさり言う。


「小説がうまくいかないから、恋人に八つ当たりするっていうシチュエーションを、思いっきり、現在形、で進行してるわけだよ」香菜八佳奈芭。


まるで冗談のように言いながら、その実、どこか本音が混じっているのが分かる。

香菜八佳奈芭は、少し、ため息を吐いた。


「……めんど」


そう前置きしてから、松樺杷菜葉は続ける。


「でも、そのシチュエーション、面白いから。ちょっと見に行こうかな。で、小説、どのくらい書いたの?」


「まだ最初のところだけ」


画面に残る数ページ分の文章が、急に心細く感じられる。


「それ見たいから今から行く」


一拍置いて、条件が足される。


「その代わり、夜遅くなったら泊めてくれるよね」


「……今、思いっきり夕方だけど」


「ううん」


松樺杷菜葉は、どこか当然のように言う。


「夜中の二時とかに、一人で夜道歩くの嫌。だから、泊まりだったら行く」


香菜八佳奈芭は、少し考えてから答えた。


「……分かった」


その代わり、と言わんばかりに、すぐ言葉を重ねる。


「小説の感想、当然褒めるでしょ。私のことだし。褒めないなら、それもう私の彼女じゃないよね?

で、お菓子とかも買ってきて。私にお菓子食べさせるわけでしょ」


要求が、次々と積み上がっていく。


「……てか……」


松樺杷菜葉は呆れたように言う。


「要求過大なんだけど」


「当然である」


香菜八佳奈芭は、少し誇らしげに言った。


「吾輩は女流小説家である。バカ小説家じゃないけどね(笑)」


笑声が、電話越しに重なった。

苛立ちも、不安も、全部混ざったままだった。



*****



松樺杷菜葉は、きっかり二時間後に香菜八佳奈榮の部屋にいた。

約束の時間を一分も過ぎていない。その正確さが、かえって彼女らしかった。


二人とも小学校の制服のまま、ブレザーの袖口は少し擦れていて、スカートのひだは椅子に座るたびに中途半端に崩れる。それでも着替える気にはならなかった。放課後の延長線上にいるような気分で、わざわざ私服に切り替える行為が、妙に現実を引き寄せすぎる気がしたからだ。


香菜八佳奈芭の部屋は、夕方から夜に移り変わる途中の光に満ちていた。

カーテンは半分だけ閉められ、窓の隙間から入り込む薄橙色の光が、床と机の角をなぞっている。机の上にはノートパソコン、散らかったメモ用紙、削りかけの鉛筆。ベッドの上には、くたびれたクッションと、いつからそこにあるのか分からない熊のぬいぐるみが横たわっていた。


香菜八佳奈芭は椅子に腰かけ、ノートパソコンを軽く回転させて、松樺杷菜葉のほうへ画面を向ける。

その動作に、ほんの少し緊張が滲んだ。


「この小説ね、自伝的小説なんだ」


言い切る声は、強がっているようで、どこか不安定だった。

画面には、午前中の図書室の描写と、そこに立つ、書く少女の姿がある。文字の行間に、彼女自身の呼吸が残っているような文章だった。


松樺杷菜葉は、画面を覗き込みながら首を傾げる。


「なにが自転してるの。自転車? それとも惑星?」


その言い方が、あまりにも素直で、少し可笑しい。


「……自伝的、ね。自分の人生の、自、に、伝える、で」


「あ、そういうことか」


理解した瞬間、松樺杷菜葉は笑った。


「無名の人の自伝的小説って、珍しくない?」


その一言が、胸の奥に小さく刺さる。

香菜八佳奈芭は一瞬、言葉に詰まり、それから肩をすくめた。


「珍しいかどうかは分かんないけど」


画面から目を離さずに続ける。


「この小説が売れたら、あなたは有名人の彼女ってことで有名になるわけじゃ。だから、思いっきり悪く書いてもいいんだぞ、今から」


冗談めかした口調だったが、その裏には、書くことへの覚悟と、少しの怖さが混ざっていた。


松樺杷菜葉は、即座に首を振る。


「そういう脅しにいく感じはしないでほしいなあ」


声は柔らかいが、意外と真剣だ。


今彼女イマカノ、最適最高っていう風に書いてくれると嬉しい」


その言葉を聞いた瞬間、香菜八佳奈芭の指先が、キーボードの縁で止まった。


「……、一応」


視線を逸らしながら、ぼそりと言う。


「そういう風に書くよ」


窓の外では、空がゆっくりと暗さを増し、街の音が遠くで重なり始めている。

制服のままの二人は、その変化に気づきながらも、しばらく言葉を交わさず、ただ同じ画面を見つめていた。

書かれる物語と、書かれない現実が、静かに重なり合う夜。


松樺杷菜葉は、無言のまま指先でタッチパッドをなぞり、画面をゆっくりと下へ送っていた。

スクロールするたびに、文章が流れ、行間がずれて、言葉が連なっていく。その動きを追いながら、彼女は思ったよりも長い時間、真剣な表情を崩さなかった。


「……意外と、ちゃんと書いてるよね」


ぽつりと溢れたその言葉に、香菜八佳奈芭は一瞬だけ肩を強張らせた。

だが、続く言葉は少し残酷だった。


「スクロールしてると真面目に書いてる小説って感じはするんだけど」


松樺杷菜葉は、そこで指を止める。画面の動きがぴたりと止まり、文章が一つの塊として視界に収まった瞬間、彼女は眉をひそめた。


「止めて読むと……一気に???な文章だなって思う」


部屋の空気が、一段冷える。

香菜八佳奈芭は、反射的にポテトチップスを一枚口に放り込み、バリ、とわざと音を立てて噛んだ。塩の味がやけに強い。


「一生スクロールしとけ」


低く、ぶっきらぼうに言う。


松樺杷菜葉は苦笑いを浮かべながら、もう一度スクロールする。


「スクロール小説じゃないんだから。もうちょっと描写とか、工夫したほうがいいんじゃない?」


香菜八佳奈芭は椅子の背にもたれ、袋から次のポテトチップスを探しながら答える。


「どう工夫するの?描写とか、工夫しようがないでしょ」


言いながら、自分でも少し弱気だと分かっていた。

工夫できない、という言葉は、分からない、と同じ意味だったから。


松樺杷菜葉は画面から目を離し、天井を見上げる。


「例えば、他人が絶対書かないような描写とか。思いっきり嘘でもいいから」


「小説なんて、みんな嘘じゃん。今さら何言ってんの」


即座に返したものの、胸の奥がざわつく。


「どうせ嘘なら、もっとスケールのでかい嘘を書けばいいんじゃない?」


松樺杷菜葉の声は、責めるというより、提案に近かった。


香菜八佳奈芭は眉をひそめる。


「それで悪いのは、描写なの?」


「うーん……」


松樺杷菜葉は再び画面を見つめ、指を止めたり動かしたりしながら言う。


「スクロールしてると、それなりの小説なんだろうな、って思うんだけど。止めると……」


香菜八佳奈芭は、ポテトチップスの袋を机に置き、少し身を乗り出した。


「それってスクロールの問題なの? それとも小説の問題? それとも私に喧嘩売ってる?」


冗談めかした言い方の裏で、内心はかなり本気だった。


松樺杷菜葉は肩をすくめる。


「だって、本じゃなくてネットに出すんでしょ。読む人はページめくらないで、スクロールするわけデス」


窓の外がすっかり暗くなり、街灯の光がカーテンの隙間から差し込む。


「縦スクロールか横スクロールかは分かんないけど。本で読むのと全然違うに決まってる。ページめくるのとスクロールは、違う」


香菜八佳奈芭は、少し考えてから言った。


「確かにそうだけど……小説の中身を色々言われるのかと思ったら、スクロール問題?」


松樺杷菜葉は、画面を閉じずに言った。


「まずそこ以前の問題なんだけどね」


一瞬、間が空く。


「分量が、圧倒的に足りない」


その一言は、妙に静かで、だからこそ重かった。


香菜八佳奈芭は、無意識にキーボードの端を指で叩く。


「分量が足りないって……足りてたら、スクロール問題は解決するの?」


松樺杷菜葉は少し考え、首を傾げてから答える。


「多分ね」


その、多分に、希望と突き放しが同時に含まれている気がして、香菜八佳奈芭は何も言えなくなった。

画面には、まだ、書きかけの文章が残っている。スクロールすれば続きはある。だが、止めて読めば、まだ世界は薄い。


部屋の静けさの中で、ノートパソコンの小さな光だけが、二人の間に浮かんでいた。


部屋窓の外では、どこかの家の換気扇が低く唸り、遠くの踏切の音が、時間差でゆっくりと届いていた。机の上にはノートパソコン、開きっぱなしのスナック菓子、買ってきたばかりの飲み物が無秩序に並んでいる。生活と創作が、まだうまく仕切られていない空間だった。


香菜八佳奈芭は椅子に座ったまま、画面を見つめていた。書き始めたばかりの原稿は、まだ短く、スクロールバーも申し訳程度にしか動かない。その短さが、内容以上に彼女の神経を逆なでしていた。


「まだ書き始めた最初のところだからなの」


独り言のように言いながらも、その声は自然と松樺杷菜葉の方を向いていた。


「……分量で決めるの? 小説の価値って。お肉とか?お米とか?何キロとか何グラムとか、いくらとか、そういう世界なの?」


言い終わったあと、自分でも少し笑ってしまう。極端な例えだとは分かっている。でも、量で測られる感覚への反発はあった。


松樺杷菜葉は、机にもたれながら腕を組み、少し首を傾げた。その仕草には、考える前の癖のような間があった。


「結局、そういうことじゃないの」


あっさりとした声だった。


「お得感ある。たくさん書いてあれば、それだけ暇をつぶせるわけだし」


その言葉を聞いた瞬間、香菜八佳奈芭の胸の奥で、何かが小さく軋んだ。理解できる部分と、どうしても納得できない部分が、同時に存在している感覚。


「……なんか」


彼女は椅子の背に体重を預け、天井を見上げた。


「あなたに評論されてる私の気持ちに、かわいそうな自分っていうステータスをあげたくなっちゃった」


冗談めかした言い方だったが、その裏には確かな疲れが滲んでいた。評価される側に立つことへの、慣れない居心地の悪さ。


松樺杷菜葉は一瞬目を丸くしてから、楽しそうに口角を上げた。


「それ、面白い。それ、いいかも?」


軽く笑いながら続ける。


「小説に書いたらいいんじゃない?」


そして、少しだけ間を置いてから、わざとらしく念を押す。


「あ、でも私、主人公だから。主人公は変なキャラにしないでね」


その言い方が妙に真剣で、香菜八佳奈芭は話題を切り替えたくなったのか、机の端に置かれた買い物袋に目がいく。


「てか」


彼女は指でジュースを示した。


「なんでこのジュース、オレンジジュースと炭酸、二つに分けて買ってきたの? 普通に炭酸オレンジ買ってくればよくない?」


袋の中から取り出された二本のボトルは、どちらも中途半端に冷えていて、触れると指先がひんやりした。


「だって」


松樺杷菜葉は、少しだけ得意げに言った。


「あなた、普通って嫌いでしょ。だから、いつも工夫してるんだけど」


その言葉に、香菜八佳奈芭は一拍遅れて頷いた。


「あ、そうだったんだ。ごめん。知らなかった」


謝りながらも、胸の奥、自分の好みが、誰かの行動に影響しているという事実が、少しだけくすぐったかった。


松樺杷菜葉は、ボトルを並べながら続ける。


「小説を工夫するのも、そういうことじゃないかな?」


彼女の声は、先ほどより少し落ち着いていた。


「炭酸オレンジを最初から買うんじゃなくて、炭酸とオレンジジュースを別々に買ってきて。それをミックスする、工程を入れる。そういう遠回りとか、手間とか」


「……例え、だよね」


香菜八佳奈芭はそう言いながらも、その例えが妙に腑に落ちてしまう自分に気づいていた。


「よく分かんないけど、言いくるめられてる気がする」


そう言って立ち上がり、グラスを二人つ取り出す。


「とりあえず、ジュース飲もうよ。グラス二個でいいよね」


炭酸を注ぐと、泡が勢いよく立ち上がり、続けてオレンジジュースを足すと、色がゆっくり混ざっていく。その様子を二人で黙って見つめていると、部屋の空気まで少し変わった気がした。


「……オレンジジュースに炭酸入れて、美味しいのかな」


不安そうに呟く香菜八佳奈芭に、松樺杷菜葉は即座に返す。


「最初から分かってたら、買う必要ないでしょ」


グラスを受け取り、一口飲む。舌に広がる甘さと刺激は、想像より悪くなかった。


香菜八佳奈芭はグラスを見つめながら言う。


「実験的ってこと? 私に実験的な小説、書けってこと?」


松樺杷菜葉は、少しだけ真面目な表情になった。


「それも一つのやり方だと思うよ」


そして、どこか優しい声音で続ける。


「どうせ読まれないなら、実験的なこと書いて、盛大に読まれないのが、かっこいいじゃん。それが私の彼女だったら、最高」


その言葉は、冗談とも本気ともつかない曖昧さを持って、香菜八佳奈芭の中に沈んでいった。彼女はもう一口ジュースを飲み、炭酸が喉を抜ける感覚に小さく目を閉じる。


「……なるほど」


短くそう呟き、再び椅子に座る。画面の前で、指がキーボードに触れた。分量も、スクロールも、評価も、まだ何一つ解決していない。それでも、書き足す理由だけは、今、確かにそこにあった。


部屋の照明はいつの間にか昼間より一段落とされ、白い光が少しだけ黄みを帯びて、壁紙の細かな模様を浮かび上がらせていた。外はもう完全に夜で、窓ガラスには室内の二人の姿がぼんやりと映り込んでいる。遠くで車が通り過ぎる音がして、その振動が床を通して、かすかに椅子の脚に伝わってきた。


香菜八佳奈芭は、ノートパソコンの前に座ったまま、画面ではなくキーボードの縁を見つめていた。言葉はもう頭の中にあるのに、それをどう置けばいいのか分からず、少しだけ呼吸が浅くなる。炭酸の抜け始めたグラスを両手で包み込むと、冷たさが指先からじわじわと伝わってきた。


「私には超能力ないから」


ぽつりと、独り言のように言葉を落とす。けれど、それは確実に松樺杷菜葉に向けられていた。


「この小説が読まれるかどうかなんて、分からないけど……」


一度言葉を切り、喉を鳴らす。考えを整理するように、ゆっくりと続けた。


「私たちがいなければ、この小説は成立しないわけで、そう考えると、不思議な能力みたいだなって思う」


松樺杷菜葉は、ベッドの端に腰掛け、膝の上でスマートフォンをいじりながらも、耳は完全にこちらに向いていた。


「あなたが小説を書くことで、私たちの関係が、このネットの中に残るとするなら」


香菜八佳奈の声は少しだけ震い、けれど止まらなかった。


「永遠に存在し続ける、みたいで。そういうのって……愛の形なんじゃないかな、って」


言い終えた瞬間、彼女は胸の奥がすっと軽くなると同時に、少しだけ恥ずかしさが込み上げる。言い過ぎたかもしれない、という自覚が遅れてやってきた。


松樺杷菜葉は一瞬、天井を見上げた。蛍光灯の縁が視界に入り、そこから視線を戻して、香菜八佳奈芭の方を見る。考えるときの癖なのか、口元に指を当てたまま、少し間を置いた。


「私が主人公だったらね」


落ち着いた声で、ゆっくりと言う。


「多分、こう言うと思うな」


彼女は軽く肩をすくめる。


「愛の本質は超能力じゃなくて。もっと普通のことだよ」


視線を合わせ、はっきりと言った。


「相手を大事にするとか、ちゃんと話を聞くとか、そういう普通の能力。特別じゃないけど、意外と難しいやつ」


香菜八佳奈芭は黙って聞いていた。否定されている気がしないのが、不思議だった。


松樺杷菜葉は立ち上がり、机の上のボトルを指で弾く。


「というわけで」


少しだけ冗談めいた口調に戻る。


「私が買ってきたオレンジジュースと炭酸水なんだけど」


ボトル同士が軽く触れ合い、乾いた音がした。


「当然あなたは、その代価として……」


わざとらしく間を置いてから、にやりと笑う。


「私は愛されるよね?」


一瞬、香菜八佳奈芭は目を瞬かせた。


「……、それ」


言葉を探しながら、眉を寄せる。


「等価交換みたいじゃない?」


松樺杷菜葉は首を横に振った。


「等価交換っていうより」


少し考えてから、言い直す。


「トレード、かな」


その言葉が空気の中に残り、二人の間に小さな沈黙が落ちた。


「うーん」


香菜八佳奈芭は苦笑しながら言う。


「愛の本質がどうとかって話はいいんだけど……」


グラスを机に置き、身を乗り出す。


「なんで急にトレードになるの?」


松樺杷菜葉は、どこか得意そうに言った。


「物語って、そういう風にできてる」


指で空中に線を引くような仕草をしながら。


「いわゆるテンプレートってやつ。多分、なろう、とかでよくあるでしょ。愛をトレードするやつ」


その瞬間、香菜八佳奈芭の顔が一気に険しくなった。


「ないです、そんなの」


即座に言い返す。


「というか、なろう、って名前出すな」


言い切ったあと、二人の視線がぶつかり、次の瞬間、どちらからともなく笑いがこぼれた。最初は小さく、堪えるように肩を揺らし、それが次第に大きくなっていく。


部屋の中に笑い声が反響し、夜の静けさに溶けていく。時計の針は気づかれないまま進み、外の風の音も、どこか遠くに感じられた。


香菜八佳奈芭は、笑いながらふと思う。ランキングがどうとか?読まれるか?どうか?とか?それは分からない。でも、この瞬間を書き留めたいという衝動だけは、確かにここにある。


松樺杷菜葉は笑いを収め、少しだけ柔らかい表情で言った。


「ね?」


「今はそれでいいんじゃない?」


夜は静かに更けていき、二人の時間も、画面の中と現実の境目を曖昧にしながら、ゆっくりと積み重なっていくのだった。





(了)

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