第十話 乱戦

──おかしい。

 神職の者が奏上する祝詞が、遠くで鳴っているように聞こえた。

 影刻の内側で、何かがずれた。身体が重い。息が、深く吸えない。

 だが──この時点で、薬を盛られたとは露ほども思っていない。

 椿に視線を走らせる。険しい表情。その奥にいる無明丸も同じだ。膝立ちの姿勢が、わずかに揺れている。さらにその奥。藤原定衡と吉田宗房がいた。

 定衡は、こちらを見ていた。哀れむような、逃げ場を失った者を見る目で。宗房は、影刻の視線に気づくと、すぐに目を逸らした。

──まだ、確信ではない。だが胸の奥で、何かが音もなく崩れ始めていた。気づけば祝詞は止み、場の空気が変わっている。南朝の兵が、いつの間にか周囲を囲んでいた。

「影刻ッ!」真四郎の声が、切り裂くように響く。「謀られたようだ!」

 頭はまだ追いついていない。だが、状況だけは否応なく理解できた。

「無明丸! 椿! 朧火! 皆の者!」

 影刻は声を張り上げる。

「敵の武器を奪え! 奪って戦え!」

 神衛衆は儀の場にあり、丸腰だ。相手の武器を奪うほか、生き残る術はない。

「包め! 一人も逃がすな!」

 橘綱重の号令が飛ぶ。

「……くっ、力が入らん」

 朧火が呻くように呟き、踏み出した。南朝兵の刀を奪い、そのまま蹴り倒す。痺れた身体を無理に反転させ、背後から迫る兵の喉を断った。

 他の四天、影刻も同様だった。奪い、斬り、倒す。足元には、すでに南朝兵の屍が転がり始めている。

(……あり得ぬ)

 綱重は狼狽した。毒は効いているはずだ。抵抗らしい抵抗もなく終わる──そう踏んでいた。

 隠番は、すでに半数が討たれている。

(たった半数……だと?)

 歯噛みする。持久戦は許されない。己の矜持が、それを拒んでいた。

 その時だ。

「南の棟梁はどこだ!」

 若武者が、儀場へ躍り出た。

「天羽統麻……」

 真四郎が低く名を呼ぶ。

「天羽……北朝の……」

 その瞬間、影刻は悟った。すべてが、繋がった。

(真四郎が案じた通りだった……)

 統麻は影刻を見据え、歩を進める。

「貴様らは北の盾ではないのか? それとも矛に成り下がったか!」

「関係ねぇ」

 統麻は嗤った。

「俺が、南の棟梁を殺る。それだけだ」

 影刻は、もはや敵ではないと見なされていた。毒に侵され、刀を杖のように地へ突き、辛うじて立つ姿──

 そこに、遅れなどあるはずがないと、統麻は信じ切っていた。

「冥土で語れ。己が誰に斬られたかをな」

 片手で刀を掲げる。

 唐竹。頭から叩き潰す気だ。

「俺の名は、天羽……」

 名乗り終わる前に、土埃が舞った。統麻の右腕が、宙を舞っていた。

「……っ!」

 一拍遅れて、痛みが襲う。統麻は尻餅をつき、地を転げ、喚いた。

「統麻様っ!」

 逆鱗が叫び、駆け寄る。

「名乗っている最中に斬るとは卑怯だろうが!」

 突きが来る。影刻は半身で躱し、刀を逆手に持ち替え、首を払った。

「毒を盛ったお前らは卑怯じゃないのか!」

 逆鱗は一太刀で崩れ落ちた。

(……何なのだ、こいつらは……)

 綱重は思わず声を失う。

「……数で押せ」

 綱重は更に控えの兵を投入した。

 最初の犠牲者は椿だった。三人を倒したところで、椿の足が止まっていた。

 息が、続かない。視界が白く滲む。刀を振ろうとしたが、刃は思うように上がらなかった。

 落ちた。それが、本人にも分かった。

 次の瞬間、刃が体を貫いた。前から。横から。痛みを感じる前に、椿は膝を折った。

「……棟梁……」

 それだけを残し、椿は崩れ落ちた。

「御支配殿ッ!」影刻は叫ぶ。「これは、どういうことだ!」

 定衡は、その声から逃げるように、幕の外へ姿を消した。

──見捨てられた。

 影刻は、はっきりと理解した。

(すまぬ……椿、皆……)

 そして──雉裂の里を制圧した北朝神衛衆が到着した。

 北朝神衛衆が踏み入った瞬間、戦場の色が変わった。

 南朝兵の死体ばかりが、折り重なるように転がっている。血の匂いは濃く、まだ温かい。倒れている者の多くが、儀場の外へ逃れようとした兵だった。

「……何だ、これは」

 静麻は息を詰めた。死に方が異様だった。正面からの斬撃ではない。背、脇、喉。逃げる途中で刈り取られた痕跡ばかりだ。

「若、指揮はこちらが引き継ぐ」

 暗丞の声が背後から届く。いつの間にか、静麻の横に立っていた。

「敵は南朝神衛衆のみ。闇任は周囲を制圧。若は──」

「統麻を探す」

 短く言い切り、静麻は走った。

(まさか、この死体の中に……)

 血に濡れた地を踏み越え、屍を跳び越える。吐きそうになる己を抑え探した。

 屍の山の陰で、何かが動いた。

「……?」

 近づいた瞬間、静麻は目を見開いた。

 片腕で、地を這っている。血に濡れ、息も絶え絶えで、それでも前へ進もうとしている影。

「……統麻!」

 駆け寄る。右腕はない。切断面は粗く、血が止まり切っていない。

「兄……者……」

 静麻は即座に腰布を引き裂き、切断部を縛った。歯を食いしばり、強く締め上げる。

「統麻、しっかりしろ!」

「……すまぬ……」

「何を謝る」

「勝手ばかり言って……この、ザマだ……」

「そうだ、勝手ばかり、お前は馬鹿者だ」

 統麻はかすかに笑った。

「兄者は……容赦がない……」

「当然だ」静麻は結び目を確かめ、顔を近づける。「利き腕を失ったからといって、生きる意味がなくなるわけではない」

「……左腕一本で、何ができる……」

「できる」即答だった。「失った分だけ、人は強くなる」

「…………」

「暗丞の受け売りだ」

「……暗丞……」

「お前は剣の素質がある。左腕でも、必ず強くなれる」

 静麻は統麻の肩を掴んだ。

「そして──俺の右腕になってほしい」

「右腕……」

 統麻が己の右腕を見た。無かった。

「す、すまぬ。そういう意味では……」

 静麻が慌てて弁解した。

「分かっている」

 二人は暫し見つめ合った。血を分けた兄弟、口にせずとも伝わるものもある。

「ここにいろ。お前の敵は、俺が討つ」

 静麻はあとを闇任に託し、再び戦場へ戻った。

 一方、儀場の中央。椿の亡骸は、もう踏み荒らされていた。

 その光景を見た瞬間、朧火の足が止まった。

「……椿……」

 胸の奥が、空洞になる。理解より先に、感情が崩れ落ちた。

 その背後、殺気を感じる。

 刹那、蛟の斬撃が奔る。

 朧火は身を捻り、躱す。反撃に出る。が、届かない。

「……さすが四天よ」

 蛟は笑わない。ただ、確実に距離を詰める。

 毒の影響で朧火の足に力が入らない。踏み出そうとしても、地面が遠い。間合いは蛟の思うがままであった。

 蛟が走った。来る。

 朧火は渾身の力で何かを投げた。足元の石を拾っておいたのだ。石が蛟の右目を穿つ。

 蛟が朧火を通り過ぎた。

 二人とも倒れた。お互いの刃がお互いを斬り裂いていた。二人はそのまま動くことはなかった。朧火の火が消えた。

 別の場所では、暗丞と真四郎が向かい合っていた。

 それまで真四郎は、体の痺れや異常な発汗に耐え、南朝兵を六人斬り捨てていた。

「……久しいな、暗丞」

「こうして刃を交えるとは、思わなかった」互いに間合いを測る。呼吸が合ってしまう。「影之殿を……斬った」

 その一言で真四郎は理解した。雉裂の里は落ちたのだと。

「出来れば正々堂々と勝負をしたかった。影之殿も、お前とも」

「出直せばいいだけなのでは?」

「本心からそうしたい」

「出来ぬか」

「……ああ」

「ならば仕方ない。殺り合おうぞ」

 真四郎は下段に構えた。即座に地を舐めるように刃が迫り上がる。本当に毒の影響があるのか、凄まじい刃風だ。

 しかし、暗丞は下がらない。半歩ずらし、刃の線を外す。その瞬間、躱した勢いのまま袈裟に一太刀。

 真四郎は体を開き、紙一重でかわす。

 だが、そこで終わらせない。暗丞の刃は止まらず、そのまま斬り上げに転じた。

 火花。

 汗が目に入る。受けた真四郎の体勢が、わずかに浮く。

 その隙を、暗丞は見逃さなかった。返す刀。間を置かず、斬り返し。

 真四郎の腹が裂けた。それでも真四郎は踏みとどまり、最後の返しで暗丞の肩を削る。

「……やはり、正々堂々とやりたかったな」暗丞は呟いた。「病の影之殿。毒に侵された貴様と……」

 最後の踏み込み。真四郎の胸を貫く。

「すまぬな……」

 真四郎は、崩れ落ちた。

 暗丞は血霞の中、しばらくその場を動けなかった。

 影刻は、すでに限界に近かった。

 黒泉が迫る。一度刀を交えたが、黒泉が右に飛ぶ。と同時に矢が飛んできた。弦鬼の矢だ。

 躱せぬと判断した影刻は身を捻り、左肩で受けた。重い衝撃。

 少しの余裕も与えない。再び黒泉が襲いかかる。弦鬼が次の矢をつがえる。

 もとより毒のせいで次の対応が遅れる。

 二方向からの圧迫。避けきれない。刃が体を貫こうとする。

「……これまでか……」

 膝が折れた瞬間、巨影が割り込んだ。

「棟梁ッ!!」

 無明丸だった。身を盾に刃を受け、そのまま力の限り刀を振り下ろす。黒泉の頭が、砕けた。

 だが、無明丸もまたその後に飛来した矢を首に受け崩れた。

 影刻の中で、何かが切れた。己の刀を弦鬼に投げつけた。

 弦鬼はまさか刀が飛んでくるとは思っていない。胸に受け倒れた。

 影刻は無明丸が手にしていた刀を拾い、次に備えた。

 隠番も、すでに倒れている。

 戦場にただ中に立つのは、影刻ひとり。それを取り巻く闇任たち。

 そこへ、ゆっくりと足音が近づいた。若い男。静麻だった。

 そのときだった。

 影刻が静麻と対峙する直前、理周が到着した。

 理周は息を呑んだ。地獄と呼ぶには余りにも軽々しい、おぞましい光景だったからである。

 死の海の中に立つ影刻、彼もまた死の海の一部になろうとしていた。

 理周が呼びかける。影刻の心に。

「棟梁殿……」

「理周さんか。理周さんを巻き込んでしまったか」

「すまぬ。私には止められなかった」

「なんの。理周さんが謝ることはあれへん。我らは所詮、帝の影。光があれば消え、光が失せれば残る。それだけの存在や」

「違う。お前は……」

「なぁ、理周さん。俺は……間違とったみたいや。もっと真四郎らの話を聞いて、疑うべきやった。やのに、皆死なせることになって……」

「棟梁殿……」

「俺は取り返しのつかんことをしてしまった。このまま俺もむざむざ殺されるんは嫌や」

 あの気高き棟梁殿が泣き言を……理周が衝撃を受けた。

「すまん、理周さん、こんなこと言われても困るわな……ちょっと言ってみたかっただけや……」

「お主も所詮人の子。鬼なんかではない。儂に心を許してくれた証だ。ときに棟梁殿、これだけは伝えたい。お主の子は生きておる」

「……なに?」

「奥方ともども里から逃がした。必ず守る。雉裂の血は、絶やさぬ」

「……そうか。ならば、もう思い残すことはないな。ありがとう、理周さん」

「……。それと、棟梁殿、いや、影刻殿。私に……お前の魂を預けてはくれぬか」

「魂を?」

「この悲劇から、お前だけは救いたい。例え術が未完であろうと。もしかしたら失敗するかも知れん。成功したとしてそれがどういう意味を持つか儂も知らぬが……」

「……理周さん。そなたは泣いているんか」

「......」

「数百年生きた仙人が、死に際の男に泣いてどうする」

「すまぬ……すまぬ……」

「謝らんでくれ。魂がとか、何がどうなのかさっぱり分からんが、そなたに任せる。俺は良き友を得た」

 静麻が影刻の前まで歩を進めた。

 永く話したようだが、ほんの刹那の間だったようだ。

 ふたりは、言葉を交わさず、ただ向き合った。

 静麻が影刻を見た。

 左肩に矢が刺さり、体中の衣服が破れそこから血が滲み出ている。薬も盛られている今、なぜこれで立っていられるのか不思議でならない。

「あなたが、弟を……?」

「天羽の子か。俺を討ちに来たか」

 答になってはいなかったが、統麻の腕を飛ばしたのは影刻だと確信した。

「帝の勅命です」

「……ならば、見事討ち果たしてみよ」

 影刻は刀を構えているが、見るからに瀕死の状態だ。であるのに、静麻の手は震え、汗が噴き出す。

 同じだ……影之と対峙したときと同じだった。

 いつの間にか暗丞が側に来ていた。

 暗丞は静麻の様子を見て悟った。ここで静麻に斬らせれば、彼は一生その刃に縛られる。

「許せ」

 暗丞が刀を振り下ろした。瞬間、影刻の首が転がった。呆気ない幕切れ。

 その時、夥しい桜の花が舞った。理周には血に染まった花弁に見えた。

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