第三話 吉野潜入
一昼夜が過ぎた。吉野の山は、夜になると音を飲み込む。
まだ寒さの残る三月の闇の中、雉裂の里は谷間に灯を散らしていた。かまど火の赤、囲炉裏の白、見張り台の松明。それらを縫うようにして、四つの影が地を這っている。
砂月を先頭に、馬陸、風割、不瑞。
言葉は要らぬ。手の合図と、踏みしめる土の柔らかさだけで意志を伝え合う。 ──ここまでで、里の形は取れた。
谷を挟んだ尾根の高さ、家々の並び、見張りの巡回。馬陸が指先で土をなぞり、簡素な地図を刻む。風割は見張りの足並みを目と耳で数え、不瑞は闇に紛れて、武具の置き場や物見台の死角をひとつずつ拾っていく。砂月は、ただそれらを目の端で確かめ、己の胸の内でひとつに繋げていく。
(……ここまでは、よい)
問題は、この里の「芯」だ。無理はするなと言われている。それでも、四天──真四郎、無明丸、椿、朧火。その居所と気配を掴まずして戻るのは、影の仕事として中途半端すぎる。
──もし、捕まったならば顔を焼き、自害せよ。
(あるわけない)
四つの影が、さらに低く沈む。砂月たちは屋敷からは十分に距離を取っていた。庭を挟み、納屋と植え込みの陰に潜む。草が鳴り、虫が囁き、夜が息づく。
だがその夜気が、ふと──止まった。
虫の声がひとつ、途絶える。草の揺れが、妙に静まる。
(……あ?)
砂月が違和を感じたほんの刹那。遠く、屋敷の側で人影がわずかに動いた。
朧火……四天の一人。
闇の中でほとんど輪郭も見えないのに、砂月は気配だけでそれが朧火だと理解した。
朧火が、何かに気づいたように顔を上げた。
遠く離れた位置からでも分かる、明らかな違和の反応。
(……朧火が反応した?)
朧火の視線がこちらに向く。見えているはずがない。暗闇の中、しかも姿は晒さず潜めている。
(……冗談だろ? ここまで離れてるのに、気配だけでも気づかれたのか?)
砂月が振り返り、撤収の合図を送ろうとした瞬間──
(──え?)
女が立っていた。こちらを見据えている。
──椿。
気づいた時には、もう砂月たちの至近。
音もなく。気配もなく。ただ現れた。
(いつの間に……?)
不瑞が本能で刀に手をかける。
「待──」
砂月の言葉より先に、風が横へ裂けた。不瑞の首が宙を舞い、体は僅かに前へ踏み出してから崩れ落ちた。落ちる音すら、夜が呑み込む。
話には聞いていたが、女子があのような大刀を。砂月が退路に目を向けたとき、そこにも影が立っていた。
(朧火──っ)
「お前ら……どこの者や?」
闇の中から響いた声は、静かで、しかし刃のように冷たかった。
(──こいつら化け物か──これは、敵わぬ)
四天と、天羽の別式の間にある「段」を。埋まらぬ深さというものを。
時間は、指折り数えるほどの鼓動しか残されておらぬ。
「──馬陸」
声は出さない。砂月は横目だけで、馬陸を見た。馬陸の喉が、ごくりと動く。だが足は一歩も退かない。
(……俺か? 俺が、死ぬのか)
胸の内に浮かんだ言葉は、声になる前に呑み込まれた。
馬陸は懐から、小さな玉を取り出す。土で塗り固められた、
顔を、そして名を捨てるためだけに用意された、影の道具。
行け、砂月の唇がほとんど動かぬまま命じた。
馬陸はわずかに笑ったようにも見えた。歯で玉の封を噛み切り、火薬の匂いが強く鼻を刺す。
朧火が、わずかに目を見開いた。
「……?」
椿の手が、ほんの刹那だけ止まる。
その一瞬を待っていたかのように、馬陸は焚死玉を自らの顔へ押し当て、力の限り握りしめた。閃光。音というより、空気が爆ぜる感触。
肉の焼ける匂いが、夜気を裂いて広がる。黒く焼け崩れた頭部が、ゆっくりと地に倒れた。
「な──」
朧火の声が喉で止まる。椿も、さすがに眉をひそめた。その隙を、砂月は見逃さない。
「首を拾え。散れ」
囁きが地面を這う。
風割はすでに動き出していた。影のような速さではない。風そのものの速度だった。
首のない身体のそばを滑るように抜け、目を見開いたままの不瑞の首を片手でさらう。指先に、まだ残っていた温もりが伝わった。
(済まん、不瑞)
心の中でそう呟きながら、風割はその首を懐に抱え、谷の逆側へと駆け出した。
椿の目が、風割を追う。
「速い……」
思わず漏れたその一言に、朧火も舌を巻いた。
「なんや、あれは……人か?」
風。
足音が地を打つより先に、身体が前へ出る。木々の隙間を縫い、枝を踏まず、斜面を滑り落ち、また駆け上がる。
四天の二人でさえ、「追おう」と思ったときには、その影を見失っていた。
「ひとりは、逃した」
椿が低く言う。
「もうひとつ、気配がある」
朧火が山の闇を見据えた。
砂月だ。
彼は別の方向へ下っていた。風割とは逆へ。追っ手を分散させるためでもあり、己の役目を終わらせるためでもある。
(これで……素性は隠し通せる)
谷底に向かって走りながら、砂月はあの廃寺の不動明王の顔を思い出していた。燃え立つ火炎の光背。怒りの目。
(棟梁に報告するのが辛いわ)
「どこへ行く」
その声は、風の向きが変わるのと同時に背後から降ってきた。
振り返るより早く、前に立つ影がひとつ。
真四郎──四天最強の男。
闇の中でも、その輪郭ははっきりと分かる。立ち姿だけで分かる。地面に沈むような重さと、空気を裂くような鋭さが共にある。
砂月は一歩も退かなかった。
逃げても、追いつかれる。ならば、せめて「ひと手間」を強いる。首を風割に任せて良かったと思った。
刃が動いた。
見えたのは、闇に一瞬だけ閃く線だけ。その線が自らの胸を通り過ぎたことを、痛みより先に、体の中の冷たさが教える。
(……ここまでか)
膝が落ちる。視界が揺れ、地面が迫る。
だが、砂月の手はまだ動いていた。懐から、もう一つの焚死玉を引き出す。馬陸に持たせたものとは別、自らのためのものを一つ。
真四郎の目がわずかに細まる。
「……何を──」
砂月は答えない。指先が震える。だが、握る力はまだ残っている。
歯で封を裂く。火薬の粉が舌に苦い。
(静連様……静麻様……)
心の中で、僅かに名を呼ぶ。
(これで、我らが影で在り続けられるなら──)
焚死玉を顔に押し当てた。
真四郎が踏み込もうとした刹那、再び閃光が夜を裂く。
音と光と熱が一度に押し寄せ、真四郎は咄嗟に袖で顔をかばった。火が消えたあとに残ったのは、黒く炭となり、原形を留めぬ砂月の顔と、静まり返った吉野の闇だけだった。
「自分で……焼いたか」
真四郎が低く呟く。
遅れて駆けつけた椿と朧火が、その亡骸と周囲の惨状を見て、短く息を呑んだ。
「こいつら……頭がおかしいんと違うか」
朧火の声には、嘲りよりも感嘆が混じる。
椿は、焼け焦げた死体と、散った血と、地に刻まれた足跡とを静かに見渡した。
「名も顔も、何ひとつ残さぬつもりか」
遠く。谷の向こうに、風を裂いて駆ける影が一つ。
風割は、息を削りながらも、足を止めなかった。懐には、不瑞の首。その重さが、仲間たちの死を、決して無駄にはできぬと告げている。
山の闇が、その影を飲み込む。吉野の夜は、何事もなかったかのように静まり返った。ただ、焦げた匂いと、冷たい風だけが、そこに死があったことを知っている。
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