第二話 兄と弟

──明徳元年(1390)春


 朝の稽古場は、静かだった。

 霧がまだ地を離れきらず、踏み固められた土は湿り気を帯びている。

 天羽静麻は、槍を構えたまま動かなかった。

 呼吸は整い、構えも崩れていない。ただ、次の一手を出さずにいる。

「若」

 背後から隻眼の剣士が声をかける。暗丞だった。

「そこまででよろしいでしょう。これ以上は、型を乱します」

 静麻は一拍遅れて槍を下ろした。汗はかいていない。身体はまだ余力を残している。それでも暗丞は止めた。

「……ああ」

 短く答え、槍を立てる。

 暗丞は何も言わず、静麻の手元と足運びを一度だけ見てから、踵を返した。

 この稽古場で、静麻が全力を出すことはない。それを許されていないわけではない。

 だが、暗丞は決して求めなかった。

 帝の盾は、盾としてのみ血を求める。私情のために刃を濡らすことは、許されていなかった。

 それが、北朝神衛衆の不文律だった。血を降らす者は、配下の者だけで十分であると。

 稽古場の外で、足音がした。わざと隠す気のない、荒い歩調。

「兄者」

 統麻だった。

 長巻を肩に担ぎ、すでに稽古を終えた者の顔ではない。どこか昂りを残した目をしている。

「もう終わりか。相変わらず、早いな」

「暗丞が止めた」

「止めた、か」

 統麻は鼻で笑った。

「兄者は、いつまで守られている」

 静麻は答えなかった。代わりに、長巻へと一瞬だけ視線を落とす。長巻はよく整えられている。だが、鞘に収まったままの時間が長いことも、見て取れた。

「……剣を振るう場がないと思っているのか」

「あるのか?」

 静麻の問い返しに、統麻は一歩、距離を詰めた。

「俺にはない。別式は前に出る。暗丞も、うるうも、ほかの者も。だが俺たちは、後ろだ」

「だから何だ? それでいいだろう」

「いいわけがない!」

 声が、稽古場に響いた。

 霧の向こうで、隠番が一瞬だけ気配を殺す。

 統麻は拳を握りしめた。

「剣は、振るわねば鈍る。兄者は知らぬだろう。刃が人に触れたときの感触を」

 静麻の指が、わずかに動いた。

「……統麻」

「俺は知っている」

 言い切りだった。

 誇りとも、焦りともつかぬ声音。

 静麻は何も言えなかった。それが事実かどうかを、確かめる術を持たないからだ。

 その沈黙が、統麻には答えに見えた。

「兄者は盾だ。俺は刃だ」そう言って、統麻は踵を返す。

「だが、刃を持たぬ盾が、何を守れる」

 残された稽古場に、霧が流れ込む。

 静麻は、しばらくその場から動けなかった。

 この日、兄弟は剣を交えなかった。だが、すでに立つ場所は違っていた。

 そして、陰から見ていた暗丞の左目に険しい光が灯っていたことを、二人は知る由もなかった。


 夜は、稽古場よりも正直だった。

 灯は落とされ、道の影が深くなる。人の声は遠く、代わりに足音が響く。

 統麻は、長巻を背に、闇へ溶けるように歩いていた。隣には逆鱗。少し後ろに、閏。

「今日は、運がいい」

 閏が言った。感情のない声だった。

 辻に出ると、人影があった。男だ。帰路を急ぐ者。警戒は薄い。剣に触れたことのない歩き方。

 統麻は、呼吸を整えた。頭が冴える。迷いはない。

 最初の一歩は、教えられた通りではなかった。だが、届いた。人は、思ったほど重くない。

 刃が入る感触は、稽古と違う。温かく、短い。倒れた影を、逆鱗が見下ろした。

「……やりましたな」

 統麻は頷いた。胸の奥で、何かがほどける。

 次も、同じだった。

 閏は口を挟まない。ただ、興味が続く間だけ、立っている。

 そのとき、気配が変わった。

「やめろ」

 低い声。暗丞だった。闇の中に、隻眼がある。抜いてはいない。だが、そこにいるだけで、空気が締まる。

「私情だ。ここは引け」

 閏が言う。

「辻斬りなど我々のすることではない」

「まだそんなことを言うのか。今度は左目をやられたいのか」

 閏が笑った。

 逆鱗が一歩前に出る。

 統麻は、息を呑んだ。

 暗丞は、剣に手を掛けない。

「……帰れ」

 短い言葉だった。

 閏は肩をすくめた。

「興が削がれた」

 それだけ言って、背を向ける。 逆鱗も続いた。

 統麻は、暗丞を見た。言いたいことは山ほどあった。だが、どれも形にならない。

「覚えておけ」暗丞は、統麻にだけ告げた。「盾として流す血と、衝動で流す血は、同じではない」

 夜が戻る。辻には、風だけが残った。

 統麻は歩き出す。胸の奥に残った熱を、確かめるように。

 このとき、静麻、二十四歳。統麻、二十二歳であった。

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