南朝神衛衆の章
第一話 影刻と理周
──康暦元年(1379)十月初旬
緑と黄と赤が織りなす景色が、音無川のほとりに広がっていた。
修行者風体の壮年の男が、頭上を見上げながら歩いている。
(春は言わずもがなだが、吉野は秋も風情があるものだ)
この音無川の流れを遡れば、やがて大きな滝に行き当たる。
壮年の男は思わず立ち止まり、その場で体を回し、東西南北全てを見渡す。 何十、いや、何百回と見ても飽きの来ない景色だ。
「御坊、御坊。どうした、迷われたんか」
誰もおらぬと思っていたが、どうやら先客がいたらしい。声のする方を向くと、モミジの木より人が降ってきた。若い男だった。
「儂は坊主などではない」
「そうか、それはすまぬ。こんな人の寄りつかぬとこにおるから、迷ったのかと思ったんやが……」
「ここは、儂の庭も同然じゃ。お主こそこんなとこで何をしておる」
「ここに来ると心が洗われるんや。それと腹が減ったときにも」
「腹?」
「御坊は……えっと……」
「
「そうか、理周さん。一緒にアマゴ食わんか。こっちや」
理周は若い男の後をついて行く。
音無川の岩場に置いてあった槍を掴み、若い男は川に入っていった。頭の横で槍を手に構える。一撃で魚の頭を貫く。迷いがない。身を損なわないための、最短の動きだ。
「ほう、上手いもんだな」
たちまち四尾を獲り、火を焚き始めた。
すると若者は理周を振り返り、困った顔をした。
「もしかすると理周さん、生臭物はだめなのか?」
このときになって初めて気づいたようだ。 しかし、理周は首を横に振った。
「確かに儂は修行僧の風体だが、僧ではあるまいぞ。今儂の口はアマゴの口になっておる」
影刻は手に持つアマゴの口と理周の口を交互に見た。
「理周さんは面白い御仁じゃ」
屈託もなく笑った若者に理周は好感を持った。
「おお、そうじゃ」
何を思い出したのか若者は川に向かい、川面よりちょこんと突きだしている二本の竹筒を引き抜いてきた。
「理周さんの口に合うと良いのだが……」
封を解くと、ほのかに青い香りが立つ。
「これは……」
理周は一口含み、思わず唸った。
酒だ。冷たい。だが、喉を刺さぬ。竹の香が、酒の荒さを包み、川の水の気配が残っている。
「……これは、妙だな」
「妙、とは?」
影刻は首を傾げた。
「酒というより、山だ。山の恵を呑んでいるようだ」
理周は、もう一口含んだ。何百年と流れてきたが、この味は知らぬ。知ろうとしたことも、なかった。
「山に入るときにはいつも持ってきておるのだ。気に入ってくれたみたいで良かった」
若者が笑った。
「ときにお主、名前は」
今しがた焼けたばかりのアマゴを目の前に理周が訊いた。
「そうか、名乗っていなかったか。俺は雉裂
「雉裂……。神衛衆のか?」
「神衛衆の名を知っているのか? ってことは、帝に近しいご要人さんか?」
「いや、そうではないのだが……」
理周は言葉を濁し、焼けたアマゴの腹を箸代わりの枝で割った。白い身から湯気が立ちのぼり、川風に溶けていく。
影刻はそれを見て、妙に満足そうに頷いた。
「ならええ。帝のご要人やったら、こんなとこで魚を食っている場合やないやろ」
「そうかもしれぬな」
理周は笑い、身を一口含んだ。
香ばしさと脂の甘みが舌に広がる。なるほど、これは旨い。焼き方が良いのか格別である。この者には驚かされるばかりだ。
「しかし雉裂とは、珍しい名だ」
「そうか? 元は京の出であるから、そうかもしれん」
「ほう」
「里の名や。山の奥にある、小さな里やがな」
影刻はそう言って、何気ない調子で骨を吐き出した。
理周は、その仕草を横目で見ながら、心のどこかが僅かに引っかかるのを覚えた。
「修行の途中か」
「まあな」
影刻は曖昧に答え、火をつついた。
ぱちりと爆ぜた薪の音が、川のせせらぎに混じる。
「正直に言うと、嫌気がさしてな」
「ほう」
「朝から晩まで型だの掟だの。山に入れば気が紛れると思ったが、結局ここに来とる」
理周は何も言わず、次の一口を噛みしめた。
説く気も、諭す気もない。ただ聞くだけでいい。
「理周さんは、何しとる人なんや」
「流れ者だ」
「流れ者が、ここを庭みたいに言うか」
「長く生きておると、山の方が先に顔を覚えてくれる」
「……よう分からん」
影刻は歯を見せて笑った。
だが、その笑いに、からかいの色はなかった。
「でも不思議やな」
「何がだ」
「ここに来ると、誰と話しても、あんまり嘘をつく気にならん」
理周は、ゆっくりと顔を上げ、川向こうの紅葉を見た。
水面に映る赤と黄が、揺れている。
「それは、この川がよく聞くからだ」
「川が?」
「人の言葉も、心もな」
影刻は一瞬だけ黙り込み、やがて肩をすくめた。
「……やっぱり、変わった人や」
「そうかもしれぬ」
理周はそう言って、残った骨を火にくべた。ぱち、と小さな音がして、白い灰になる。
しばらく二人は黙って川を眺めていた。修行者と、修行に嫌気がさした若者。立場も、年も違うが、今は同じ流れの前に座っている。
「また来てもええか」
影刻が、ふと訊いた。
「この川にか」
「理周さんに、やな」
理周は少し考え、やがて頷いた。
「来るとよい。この山は、逃げてくる者を追い返したりはせぬ……また馳走してもらいたいしの」
影刻は、照れたように鼻を鳴らした。
「変な人やけど……悪くない」
「それは重畳」
紅葉が一葉、川に落ちた。
水に触れた瞬間、くるりと回り、流れていく。
影刻、このとき齢十八。
この出会いが、後にどれほどの血と因縁を引き寄せるかを、このとき二人は、まだ知る由もなかった。
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