不機嫌な龍神さまの甘恋予報
宮永レン@1/16捨てられ令嬢コミック2
不機嫌な龍神さまの恋予報
大正の世、帝都の娘たちは流行のショールや活動写真に浮き足立っていた。
でも私――
そんな私の嫁ぎ先が、帝都の端に居をかまえる
曰く、その地を治める皇家は、古の時代に天候を司る龍神の血を啜り、人ならざる力を継いだ異形の家系であるとか。
曰く、屋敷の周囲は常に怪しげな霧に閉ざされ、足を踏み入れた者は二度と戻れぬ『
そして何より、現在の当主は気性が荒く、彼が一度指を鳴らせば帝都に天災が降り注ぐ――そんな荒唐無稽な怪談話が跋扈していたからだ。
けれど、我が家は父が事業に失敗し、没落華族となってしまった。背に腹は代えられないというわけだ。それに、私は悲しみより好奇心が勝っていた。
不帰の森――そこは局地的な低気圧が停滞し、近代気象学の定石が一切通じない、私にとっての
※
「日向家より参りました、日向紬です。こちらのお屋敷では等圧線が歪んで見えると伺いましたが、本当ですの?」
濡れた新緑の匂いを胸いっぱいに吸い込み、私は周囲をきょろきょろと見回す。
出迎えた家令――(
上座に座る
堂々とした居住まいの晄臣様は、濡れ羽色の黒髪に、底知れぬ海のような瑠璃色の瞳をもつ美丈夫だった。そして、その顎の辺りから首筋にかけて、鈍く光る藍色の
「お初にお目にかかります、日向紬と申します。こちらは素敵な所ですね。空気がしっとりしていて、お肌によさそうですわ」
私は彼の正面に座ると、そう挨拶をした。
「日向の娘よ。漣が勝手な真似をしたようだが、この縁談は聞き届けられない」
晄臣さまの声が響くと同時に、部屋の湿度がさらに跳ね上がったように感じられる。露点湿度を超えた空気が結露し、障子にじわりと水滴が滲むほどに。
「悪いことは言わない。さっさと帰れ。そもそも、この森の奥まで入ってくる変わり者がいるとは思わなかったがな」
「一度は来てみたかったのです。それに、帰れと言われましても――」
「私を維持する『気』がもう底をついている。つまり、私に近づけば貴様は望まぬ形で私の生贄となり、ただ命を吸い取られるだけだ。そんな無意味な犠牲はいらない。無駄死にする前に、その得体の知れない機械を持って立ち去るがいい」
彼が言い終えると、パチッと、私の指先に静電気が走ったみたいな痛みが走る。
「いいえ、帰りませんわ。だって見てください、晄臣さま」
私は威圧感に怯むどころか、立ち上がって彼のそばまで行くと、彼の顎の鱗を凝視した。
「この鱗の輝き、まるで乱層雲から差し込む薄明光線のように美しいです。あなたという存在が、この森の異常気象を司っているのですね? なんて素晴らしいのかしら! ぜひ、私に継続的な観測を許してください!」
「……帰れと言ったはずだ。貴様、死にたいのか」
「死ぬつもりはありません。それに、すごくワクワクしてます!」
それを聞いた晄臣さまは、自身が雷に打たれたような顔をして、呆然と私を見つめていた。
※
皇家には「森の気が枯れた時、日向の娘を迎えよ」という古い盟約があるらしい。
漣さんの話によると、私の持つ陽の気とやらが、晄臣さまの衰えた霊力を補填するのだという。ただし、それは命そのものを吸収するらしく、彼に触れれば私の寿命は縮んでいくのだそうだ。
彼が私を遠ざけるのは、他人の命を消費してまで生き永らえる自分を
優しい方なのですね、と私は呟く。
「ですが、家のこともありますし、おいそれと帰るわけにはいかないのです」
「勝手にしろ。そのうち気が変わってもかまわん。だが、衰弱する前にここから立ち去れ」
晄臣さまには、そう言い捨てられた。
「そうおっしゃっても……私がいなければ晄臣さまが弱ってしまうのでしょう? そんなの放っておけませんわ」
私は、彼がいなくなった後に残った冷たい空気に、くすっと笑う。
それからの毎日、晄臣さまは徹底して私のことを無視しようとした。でもそれくらいで私はめげない。
彼が読書中に難解な箇所に当たれば、室内でも霧が立ち込める。そんな時は、台所を借りて甘いプディングを作り、彼に持っていった。
「霧の中のお茶会も風情があっていいですわよね」
私が笑うと、ふわりと霧が和らぐ。
プディングを口にした晄臣さまは、目線を合わせてくれなかったけれど、その瞳がキラキラと虹色に輝いたのを私は見逃さなかった。
どうやら晄臣さまは甘いものがお好きなようで、漣さんにも協力してもらって、洋菓子も和菓子も、作れるものはなんでも試してみる。
天気の観察もすごく夢中になれるものだけど、お菓子作りも同じくらい楽しい時間で、晄臣さまと一緒に過ごす時間は、もっと心が満たされた。
「晄臣さま、本日は高層湿数が高いようです。少しお心が沈んでいらっしゃいますか?」
「知らない。向こうへ行け」
書斎に籠もる彼の周囲には、いつも薄い霧が漂っている。それが今日は一段と濃くなっていた。
私は気にせず、彼が読んでいる難解な古文書の隣に、自作の『日次気象グラフ』を広げる。
「霧は、冷たい空気と温かい空気が混ざり合う場所に生まれます。あなたの孤独と、私への戸惑いが混ざり合って、こんなに綺麗な霧が出ているのでしょう? でも、こんな濃霧では手元が見えないではありませんか」
私はそう言って、彼の手をぎゅっと握りしめた。
私の体温が彼に伝わった瞬間、霧が霧散し、彼の瑠璃色の瞳が大きく揺れる。
「君は怖くないのか? 私に触れれば、霊力は吸い取られ、最後には枯れ果てるのだぞ。先代に嫁いだ娘たちは、皆そうやって死んでいったと聞いている」
「枯れませんわ。私は毎日、太陽の光を浴びて、おいしいご飯を三食いただいておりますもの。むしろ、晄臣さまのその冷たい霊力が、私の過剰な熱を冷ましてくれて丁度いいくらいです」
私は彼の揺れる瞳を真っ直ぐに見つめた。
「私は生贄ではありません。私は、あなたという空の、最初の『観測者』になりたいんです」
そう言って顔を綻ばせ、彼の手を自分の頬に寄せる。
晄臣さまは一瞬、泣きそうな顔をして、それから私の髪にそっと触れた。
「ありがとう……紬」
囁くような声と、優しい口づけが髪に落ちる。
「……っ」
初めて名前を呼ばれた私は、一気に体温が上がったような気がした。
逸る鼓動が鎮まらないまま、晄臣さまの方をそろそろと見やると、穏やかな笑みを浮かべている彼と目が合う。
その日、不帰の森には季節外れの、けれど最高に温かな小春日和が訪れた。
※
そんな平穏を壊したのは、私の実家を盾に皇家の力を軍事利用にと目論む、帝国軍の人間たちだった。
彼らは皇家の結界が弱まった隙を突き、屋敷を最新式の歩兵銃で包囲した。
「皇晄臣! 日向家の者たちを殺されたくなければ、帝都を覆う絶対防空の嵐を展開せよ! 龍の力は、帝国の勝利のためにある!」
雨の中、大声を張り上げ、今にもこちらに向かって突入してきそうな勢いだ。
それを受けた晄臣さまの怒りは、瞬く間に森の均衡を破壊した。空は墨を流したように暗転し、巨大な積乱雲が屋敷を押し潰さんばかりに発達する。
「やはり、人間は私を道具としか見ていない。ならば、望み通りにしてやろう。この帝都ごと、すべてを洗い流してやる!」
晄臣さまの背後に巨大な龍の影が立ち昇る。それは美しくも恐ろしい、絶対的な死の気配だった。
突風が私のアネロイド気圧計を吹き飛ばし、ガラスが粉々に砕ける。
「やめてください、晄臣さま! あなたがそんな『業雨』を降らせれば、二度と空に虹は架かりませんよ!」
「離れろ、紬! 私を止めれば、君が死ぬぞ!」
「私も、晄臣さまも、ずっと一緒に生きていくんです!」
私は暴風に身を投げ出し、彼の胸に飛び込んだ。
雷鳴が鼓膜を震わせる。けれど、私は知っている。どんなに荒れ狂う嵐の中にも、必ず静寂の目が存在することを。
「 私は、あなたの隣で明日も空を見上げるって決めたんです! 晄臣さま、あなたの心は、本当はこんなに冷たい雨を望んでいない!」
私は彼の胸に耳を当てた。激しい鼓動。それは、生きたいと願う命の音だ。
私の内側から、かつてないほどの陽の気が、光となって溢れ出した。それは異能というより、執着に近い情熱だ。この人を、この景色を、誰にも汚させないという、私の観測者としての矜持だ。
「……暖かい。紬、君は……」
晄臣さまの荒れ狂う霊力が、私の光と混ざり合い、急速に収束していく。
空を覆っていた黒雲が、まるで魔法のように、輝く銀色の「細雪」へと姿を変えた。
屋敷を包囲していた男たちは、その幻想的な美しさに戦意を失い、夢遊病者のように森の外へと押し流されていった。
※
雲ひとつない青空が戻ってきた。
砕けた気圧計の破片が、庭の草むらでキラキラと宝石のように光っている。
空には大きな七色の虹が、幸福の架け橋のように帝都を彩っていた。
「紬、すまない。君の宝物を壊してしまったな」
晄臣さまが、私の手を取って申し訳なそうに言った。
顎の鱗は、以前よりも鮮やかな藍色に輝いている。どうやら、私という強力な「陽の気」を得たことで、彼の霊力は新しい安定期に入ったらしい。
「いいえ。それなら新しいのを買ってくださいますか? それに、気圧計がなくてもわかります。今の晄臣さまの心は、快晴。雲量ゼロですわね?」
「ああ。これ以上ないほどの、日本晴れだ」
晄臣さまは、照れ隠しのように私を強く抱き寄せた。
漣さんが遠くで「記録的な熱波ですね」と、目を逸らしながら呟くのが聞こえる。
しかし、その幸福を切り裂くように、屋敷の門が再び開いた。
軍服を着た男が凝りもせずに冷徹な足音を響かせて再びやってくる。もう帽子も吹き飛ばされ、上着はびしょ濡れ、散々な格好だったが、目にはやたらと生気が
しつこい人だと私は呆れてしまう。
「皇晄臣、そして紬。先程の『銀の雪』……あれは気象兵器としての完成形だ。帝国軍は、君たちを『国家重要戦略資産』として登録したぞ」
男は、私の天気観察日記を拾い上げ、嘲笑うようにページをめくった。
晄臣さまの周りの空気が、再びピリリと帯電する。
私は、彼の袖をぎゅっと掴み、軍人の男の視線を真っ向から跳ね返した。
「勝手に登録しないでいただけます? 私は、このお方の専属観測者なんです。晄臣さま……次の嵐は、少し骨が折れそうですね」
「ふん。どんな悪天候だろうと、紬の隣なら、私は龍として誇り高く在れるだろう」
私は、不敵に笑う晄臣さまの横顔を見上げ、ワクワクする気持ちを抑えきれなかった。
大正の空は、いつだってドラマチックだ。
この人と一緒なら、たとえ世界が嵐に吹かれようとも、最高の観測日記を書き続けることができるだろう。
―了―
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