終わらない依頼
琴坂伊織
第1話
「また、あなたですか」
殺し屋は溜息をついた。老婆は今月だけで三度目の訪問だ。いつも同じ依頼、同じ写真、同じ言葉を持ってくる。
「あの女が生きている限り、私は眠れない」
殺し屋は老婆の顔をじっと見つめた。深い皺に刻まれた後悔。落ち窪んだ目に宿る執念。そして、どこか諦めたような虚ろさ。
「前回もお伝えしましたが、その女性は既に死んでいます」
老婆は首を横に振った。
「いいえ。生きている。今も笑っている。子供を殺したのに」
殺し屋は写真を手に取った。若い女性の顔。この顔には見覚えがある。当たり前だ。
「この女性の名前は?」
老婆は唇を震わせた。
「……名前なんて、もう思い出せない。覚えているのは、あの日のことだけ」
「あの日?」
「子供が泣き止まなかった日」
老婆の声が掠れる。
「男は逃げた。仕事も失った。誰も助けてくれなかった。あの女は……あの女は……疲れ果てて、気づいたら……」
言葉が切れる。
殺し屋は静かに立ち上がり、部屋の奥へと歩いた。本棚の前で立ち止まり、古い写真の入ったアルバムを探す。
埃を払うと、写真の中の若い女性が微笑んでいた。老婆が持ってきた写真と、同じ顔をしている。
「二十五年前」
殺し屋は呟いた。
「この女を殺した時、私は何を感じたのだろう」
殺し屋は写真を手に、ゆっくりと振り返った。
「だが殺しても殺しても、あなたは彼女を連れて戻ってくる」
「彼女が笑っているから」
老婆の声に怒りはなかった。ただ、深い疲労だけがあった。
「罪を犯したのに、あの笑顔のまま凍りついている。許せない」
殺し屋は、写真を老婆の前に置いた。
「では、もう一度殺しましょう。何度でも」
老婆は震える手で財布を開いた。
中には、数枚の千円札だけ。殺し屋はそれを見つめ、受け取らなかった。
「代金は結構です。これは仕事ではありませんから」
殺し屋は鏡の前に立った。
映るのは深い皺が刻まれた老いた顔。老婆と同じ、落ち窪んだ目。同じ、諦めたような虚ろさ。
「私が最初にこの仕事を始めたのは、二十五年前でした」
殺し屋は独白するように語った。
「ある女性を殺してほしいという依頼。依頼主は、中年の女性でした」
老婆の瞳が、僅かに見開かれる。
「その女性は言いました。『あの女が子供を殺した。許せない』と。私は何も聞かず、依頼を受けた。当時の私は若く、金が必要で、躊躇いもなかった」
殺し屋は古いナイフを取り出した。刃は錆び、柄は擦り切れている。
「ターゲットを追いました。若い女性でした。荒れたアパートに一人で住んでいた。部屋は散らかり、彼女は何日も風呂に入っていないようでした。夜、彼女の部屋に忍び込んだとき」
殺し屋の手が止まった。
「彼女は鏡の前で、自分の首に手をかけていました。『ごめんなさい、ごめんなさい』と繰り返しながら」
老婆が小さく震えた。
「私は彼女を殺しました。しかし奇妙なことに、依頼主は翌月も現れました。同じ依頼、同じ写真、同じ言葉。『あの女を殺してほしい』と。私は言いました。『既に殺しました』と。すると依頼主は言ったのです。『いいえ、まだ生きている』」
部屋に沈黙が降りた。
「それから毎月、依頼主は現れました。私は毎回、同じように『殺した』と答えました。しかし依頼主は決して納得しなかった。そして十年が過ぎた頃」
殺し屋は老婆を見た。
「依頼主の顔を見て、気づいたのです。依頼主が写真の女性と、同じ顔だということに。年老いて、やつれていましたが」
老婆は動かなかった。
「私は理解しました。依頼主が殺してほしいのは、写真の女性。写真の女性は、依頼主自身。つまり、私が殺すべきは――」
「あなた自身」
老婆が初めて、殺し屋の目を真っ直ぐ見た。
「そうです」
殺し屋は頷いた。
「あなたは自分を殺してほしかった。罪を犯した過去の自分を。しかし人は自分自身を殺すことはできない。だから私という存在を作り出した」
殺し屋は鏡を見つめた。
「私はあなたが生み出した幻。罪を裁く者として。しかし、いくら過去の自分を殺しても、記憶は消えない。だからあなたは何度も何度も、同じ依頼を繰り返す」
殺し屋はナイフを老婆に差し出した。
「これで最後の依頼です。あなたが本当に殺すべきは、若い女性でも、殺し屋でも、子供でもない」
老婆は震える手でナイフを受け取った。
「では、誰を?」
「誰も」
殺し屋は微笑んだ。
「このナイフを、捨ててください。許してあげてください」
老婆の目から、初めて涙が零れた。
「許せない」
「許せなくていい。ただ、殺すのをやめてください。何度殺しても、あなたは救われない」
ナイフが床に落ちた。乾いた音が部屋に響く。
老婆は崩れるように座り込んだ。
「でも、毎日あの日を思い出すの。あの子の泣き声が聞こえるの」
「聞こえるでしょう。一生、聞こえ続けます」
殺し屋は老婆の隣に座った。
「しかし、それはあなたの罰であり、同時に証でもある」
「証?」
「あなたがあの子を愛していた証です。忘れられないほどに」
翌朝、殺し屋は目を覚ました。いや、老婆は目を覚ました。
鏡を見る。深い皺、落ち窪んだ目。しかし今日は、殺し屋の事務所を訪れることはない。
テーブルの上には、古い写真が置かれていた。釘の刺された若い女性の笑顔。その横には、小さな子供の写真。色褪せて、ほとんど見えない。
老婆は写真を手に取り、初めて声に出して言った。
「ごめんなさい」
部屋は静かだった。応答はない。許しの言葉も、救いの言葉も。
それでも老婆は、もう一度言った。
「ごめんなさい」
窓の外から、朝の光が差し込んでいた。老婆は立ち上がり、カーテンを開けた。街は相変わらず騒々しく、人々は相変わらず忙しく歩いている。
殺し屋の事務所は、もうそこにはなかった。老婆の部屋があるだけだ。古いアパートの一室。散らかった部屋。何年も、何十年も、ここで一人、罪と向き合ってきた。
老婆は写真立てを抱きしめた。
「あなたを殺すのは、もうやめます」
若い女性も、殺し屋も、答えない。ただ、老婆の中で静かに息をしている。
――きっと、また依頼人はやって来る。
若い女を殺してほしいと、同じ言葉を繰り返すだろう。
それでいい、と老婆は思った。
終わらない依頼 琴坂伊織 @iori_k20
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