透明なお守りが教えてくれた、本当の私の色 月読透花宮 ―涙を糸に変える、現代の神社―

ソコニ

第1話 泡沫の夜明け 推しが消えた夜は、私も一緒に消えたかった。


佐藤香織、二十八歳。広告代理店勤務、独身、趣味は推し活――だった。過去形になってしまったのは、今日の午後三時四十二分。スマホの画面に流れた「活動休止のお知らせ」という五文字が、私の心臓を握り潰したからだ。


オフィスの自分のデスクで、私は息を止めた。周りの同僚たちがキーボードを叩く音、電話の呼び出し音、上司の寺島が誰かを怒鳴る声――すべてが遠く、水の中にいるみたいに歪んでいた。


「佐藤さん、例の企画書、まだ?」


振り返ると、寺島が私のデスクの前に立っていた。五十代、薄くなった頭髪を必死に横に流している。彼の目は、いつも誰かを責める相手を探している。


「あ、はい。今すぐ」


私は慌ててファイルを探したが、指が震えて思うように動かない。寺島は舌打ちをした。


「使えないな。これだから最近の若い奴は」


彼はそう言い残して去っていった。私は画面を見つめた。企画書のデータ、確かに昨夜完成させて、寺島にメールで送っていたはずなのに。


午後七時を過ぎても、私は席を立てなかった。寺島が「お前のミスで取引先に迷惑をかけた」と怒鳴り込んできたのは、定時を二時間過ぎた頃だった。


「俺が送ったデータ、間違いだらけじゃないか!」


私が作った企画書だ。でも、寺島の名前で送信されている。そして、本来なかったはずのミスが、そこには確かに存在していた。


「すみません」


謝罪の言葉が、喉から自動的に出てきた。寺島の怒鳴り声が続く。周りの同僚たちは、誰も助けてくれない。それどころか、目を逸らしている。


私は、空気を読むのが得意だった。誰にも嫌われないように、いつも周りに合わせてきた。でも、今この瞬間、私は自分が何色なのか、何が好きなのか、何のために生きているのか、まったく分からなくなっていた。


推しがいなくなり、仕事でも自分を失った。


午前零時を回った頃、私はやっとオフィスを出た。終電はとっくに終わっている。タクシーに乗る気力もなく、私はただ歩いた。


渋谷の夜は、いつも通り賑やかだった。ネオンが瞬き、人々が笑っている。でも、その光も音も、私には届かない。透明なガラスの向こう側の世界を見ているみたいに、すべてが遠い。


気づけば、見知らぬ路地に入り込んでいた。細い道、古びた壁、誰もいない静寂。都会の喧騒が嘘のように消えて、空気が冷たく澄んでいる。


そして、見えた。


白く光る、ガラスの鳥居。


最初は幻覚だと思った。疲れて、頭がおかしくなったのだと。でも、鳥居は確かにそこにあり、その向こうに続く石段が、淡く発光している。


足が勝手に動いた。石段を上がっていく。一段、また一段。冷たい空気が頬を撫でる。どこか遠くから、香りが漂ってくる。


それは、嗅いだことのない香りだった。サーバー室の冷たい機械の匂いと、朝の森に降りた霧の匂いを混ぜたような、どこか清潔で、でも有機的でもある不思議な香り。お香でもアロマでもない。まるで「未来の神聖さ」とでも言うべき、新しい清浄の匂い。


石段の先には、小さな神社があった。


いや、神社というよりは、ガラスと光でできた小さな建築物。境内には、透明な床が敷かれていて、その下に無数の光ファイバーが脈打っている。伝統的な社殿の形をしているのに、どこか近未来的で、まるで裏原宿のコンセプトショップみたいだ。


「営業時間外だけど」


低い声が、静寂を破った。


社殿の前に、白い衣を着た男が立っていた。いや、座っていた。石段の上に、タブレットを片手に持って。


銀色の髪を無造作に束ねている。白衣の上に、テックウェア風の羽織を羽織って、手首には何かのウェアラブル端末。二十代後半か、三十代前半か。神社の宮司には見えない。どこかのIT企業のCEOみたいだ。


「あの……」


私が声を出そうとすると、彼は立ち上がって、まっすぐこちらを見た。


その瞳は、透き通っていた。水晶みたいに、何もかもを映し出す目。


「君、中身が透けてるよ」


彼は、タブレットを私に向けた。画面には、私の姿が映っている――いや、私の「何か」が映っている。人の形をした輪郭の中が、ぼんやりと霞んでいる。


「空っぽだ。完全に」


心臓が、ぎゅっと締め付けられた。


「誰……ですか」


「ハク。この神社の、しがない雇われ店長」


彼――ハクは、ポケットに手を突っ込んだまま、私の周りをゆっくりと歩いた。


「君の背中、SNSの通知音みたいなノイズで真っ黒だよ。推しが消えたの? それとも、仕事でミスった? どっちも?」


「なんで……」


「見えるんだよ、感情の糸(コード)が」


ハクは、私の背中の、見えない何かを指差した。


「君の場合は、『誰からも嫌われたくないけれど、誰とも繋がりたくない』っていう、矛盾した糸がグチャグチャに絡まってる。で、それを解こうとしないまま、推しっていう他人の光で誤魔化してた。そしたら、その光が消えて、残ったのは真っ暗な自分だけ」


言葉が、胸に突き刺さる。


「違う……私は……」


「違わないよ」


ハクは、冷たく言い放った。


「君、自分の好きな色も分からないでしょ。何が食べたいかも、どこに行きたいかも、全部『誰かに合わせる』ことで埋めてきた。で、今、空っぽになって困ってる」


涙が、溢れた。


止められなかった。推しが消えた時も、寺島に怒鳴られた時も、我慢していた涙が、堰を切ったように流れ出した。


ハクは、溜息をついた。


「泣くなよ。掃除したばっかりなのに」


「すみま……せん……」


「謝るな。君は悪くない」


ハクは、私の頭に手を置いた。その手は、驚くほど冷たくて、でも、優しかった。


「願い事とか、聞かないの?」


私は、震える声で聞いた。神社なのに、お賽銭箱もないし、鈴もない。


「願い事? やめなよ、そんな重たいもの。神様もパンクしちゃうから」


ハクは、私の涙を、指先で掬った。


不思議なことが起きた。


ハクの指先に触れた涙が、光の糸に変わった。透明で、キラキラと輝く、細い細い糸。


「代わりに、君が明日を少しだけ『マシ』だと思えるような、光の屈折率を変えるお守りを編んであげるよ」


ハクは、その糸を、次々と空中から引き出していった。私の涙が、次から次へと、糸に変わっていく。彼の指先が、信じられない速さで動く。糸を掴み、捻り、編み込んでいく。


シャリシャリという、氷の結晶が擦れ合うような音が響く。いや、それだけじゃない。微かに、ガラスの風鈴が揺れるような高い音色も混ざっている。


見ると、ハクの指先から引き出される光の糸の密度が、リアルタイムで変化していた。私の感情の起伏――悲しみ、怒り、諦め、そしてかすかな希望――その波形と完全に同期して、糸は太くなったり細くなったりしながら、緻密な曼荼羅を描いていく。


「代金は、君が明日笑った時に出る『いい波長』でいい」


ハクの指先が、最後の一編みを完成させた瞬間、私の手のひらに、何かが乗せられた。


軽い。驚くほど軽い。まるで、光の重さしかないみたいだ。


それは、お守りだった。


いや、お守りという概念を完全に覆すものだった。


手のひらに載せると、シルクのような滑らかさがありながら、触れるとわずかにひんやりとしている。まるで朝露に触れたような感覚。繊細な雪の結晶を編み繋げたようなレースの縁取り。その縁の糸だけが、見る角度によって真珠色から深い瑠璃色へと変化する。


そして、中央は完全に透き通っていた。


ハクの指先が、向こう側にくっきりと見える。


「……これ、中身が入っていないんじゃ?」


「中身は君がこれから入れるんだよ」


ハクが、不敵に笑った。


彼は私の手を取り、窓の外――東の空へとかざさせた。


夜が、少しずつ明けようとしていた。空が、紫色から、淡い金色へと変わり始めている。


その瞬間、透明だったお守りの中心に、夜明けの淡い紫と金色の光がスッと吸い込まれた。


レースの糸一本一本が、まるで神経が通ったように発光した。私の震える指先を、優しく照らし出す。お守りの内側に封じ込められた液状の光が、ゆっくりと揺れて、小さな宇宙が生まれたみたいだった。


「綺麗……」


私は、初めて、自分のために言葉を発した。


「それが、今の君に必要な『色』だ。忘れないように、そこに閉じ込めておいたよ」


ハクは、私の手からお守りを受け取り、小さな透明な紐を通した。


「これはまだ、半分しか完成していない。君が見た美しい景色や、誰かに言われて嬉しかった言葉を、この透過部分に『記憶』させて。そうすれば、世界に一つだけの君の色に染まるから」


お守りを首にかけてくれた。しっとりとした重みが、胸に伝わる。


「あと、使い方」


ハクは、真面目な顔で言った。


「君が『この世界は醜い』って思った時、このお守りを通して、もう一回見てみて。光の屈折率が変わってるから、世界の見え方も変わってる。それだけ」


「それだけ……?」


「それだけ。魔法じゃない。君の視点を、ちょっとだけチューニングするだけ」


翌朝、私は出社した。


いつもと同じオフィス。いつもと同じデスク。でも、胸には、あのお守りがある。


午前十時。寺島が、またやってきた。


「佐藤! お前、昨日の件、どう責任取るんだ!」


彼の怒鳴り声が、オフィスに響く。周りの同僚たちが、また目を逸らす。


いつもなら、私は「すみません」と頭を下げていた。


でも、今日は違った。


私は、ポケットからお守りを取り出した。


そして、それを「レンズ」のようにして、寺島に向けてかざした。


透明なレースを通して見た瞬間――世界が変わった。


寺島の醜悪な怒鳴り顔が、まるで必死に虚勢を張っている小型犬みたいに見えた。いや、ノイズだらけのバグったホログラムみたいだ。彼の声は、ドブ水が流れるような濁った音。でも、お守りを握りしめると、微かにクリスタルのような清らかな鈴の音が響いて、その濁った音を打ち消してくれる。


私は、気づいた。


この人は、私の心を壊せるほど強い存在じゃない。ただの、色の濁った哀れな人間だ。


お守りを握りしめた時、私の体温に反応して、あの香りが微かに漂った。サーバー室と朝の森を混ぜたような、清潔で神聖な香り。深呼吸すると、心が落ち着いていく。


「寺島さん」


私は、震える声ではなく、透き通るような静かな声で言った。


「その怒鳴り声の周波数は、このオフィスの生産性を二十パーセント低下させています」


寺島が、目を見開いた。


「それと、私が作成した昨日のデータ、あなたが修正した部分にミスがあります。ログに残っていますが、今ここで共有しましょうか?」


私は、自分のPCを操作した。画面に、データの編集履歴が表示される。


寺島の名前。彼が勝手に数字を変えて、それがミスになっていた証拠。


「これ……」


「私は、あなたの手柄を奪うつもりはありません。でも、私のミスにされるのも困ります」


周りの同僚たちが、ざわついた。


「佐藤さん、あんなにハッキリ言う人だった?」


「すごい……」


寺島は、何も言えずに立ち尽くしていた。彼の顔が、真っ赤になり、そして青ざめていく。


私は、お守りをもう一度握りしめた。中の液状の光が、ゆっくりと揺れる。小さな宇宙が、私を応援してくれているみたいだった。


「私、定時で帰ります」


私は、そう宣言して、席に座った。


その日の夕方、定時ぴったりに、私は席を立った。


寺島は何も言わなかった。同僚たちが、「お疲れ様です」と声をかけてくれた。


オフィスを出て、夜の街を歩く。お守りを空にかざした。


夕焼けの茜色が、お守りの中に吸い込まれていく。朝の紫と金色に、今度は茜色が混ざって、もっと鮮やかな色になった。


私は、笑った。


自分のために、笑った。


胸のお守りが、微かに温かくなった。ハクが言っていた「いい波長」が、今、出ているのかもしれない。


スマホを取り出して、お守りの写真を撮った。空を背景に、透明なレースを通して見える茜色の世界。


これを、インスタに上げたい――そう思った瞬間、やめた。


これは、私だけの色だ。誰かに見せるためじゃない。私が、私のために集めた色。


でも、いつか、この色を誰かと分かち合える日が来るかもしれない。


私は、もう一度神社に行きたくなった。ハクに、お礼を言いたい。


裏路地に入り、昨日の石段を探した。でも、見つからない。何度も何度も探したけれど、あの白く光る鳥居は、どこにもなかった。


「また、困った時に来いってことかな」


私は、笑って、家路についた。


胸のお守りが、静かに光っている。


これは、私の色。私だけの、透明な御守。


そして、私はまだ知らない。


この神社が、これから私の人生を、どれだけ変えていくのか。


その頃、月読透花宮の境内では。


ハクは、タブレットの画面を眺めていた。


そこには、無数の名前が並んでいる。


「佐藤香織……ステータス、グリーンに変更、と」


彼は、指で画面をスワイプした。


リストには、様々な名前が並んでいる。現代の会社員、学生、主婦――そして、その中に、明らかに場違いな名前も混ざっていた。


「紫式部」

「マリー・アントワネット」

「スティーブ・ジョブズ」


既に亡くなっているはずの歴史上の人物たち。


そして、さらにスクロールすると、まだ何も成し遂げていないはずの、見知らぬ名前も並んでいる。その横には、「未来参拝予定」という文字。


「2027年、ノーベル平和賞受賞予定者」

「2028年、世界的パンデミックを防ぐ医師」

「2029年、第三次世界大戦を回避する外交官」


ハクは、小さく溜息をついた。


「オーナー、あんた本当に無茶振りするよね。過去も未来も現在も、全部面倒見ろって? しかも、残り九十九万九千九百九十九人」


誰もいない境内に、彼の声が響く。


返事はない。


でも、社殿の奥から、微かに光が漏れている。そこに、誰かがいる――いや、何かがいる。


「次は誰が来るかな」


ハクは、タブレットを閉じて、夜空を見上げた。


月が、透き通るように美しく輝いていた。


その光を浴びて、ハクの銀髪が、一瞬だけ、透明に見えた。


まるで、彼自身も「透明な存在」であるかのように。


境内の床に敷かれた光ファイバーが、規則正しく脈打っている。それは、心臓の鼓動のようであり、世界中の人々の「願い」が集まってくる音のようでもあった。


ハクは、ポケットから小さな透明な破片を取り出した。


それは、香織のために編んだお守りの、余った糸だった。


「頑張れよ、佐藤香織。君の色が、どこまで広がるか、楽しみにしてる」


彼は、その破片を空に向けてかざした。


月の光が、破片の中に吸い込まれていく。


そして、その光は、遠く離れた香織の胸元にあるお守りに、静かに届いていた。


香織は、それに気づかない。


でも、彼女のお守りは、また少しだけ、鮮やかな色を増していた。


――第1話・了――

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