責任
富澤宏
第1話
重松健一は、商社で二十年近く働いてきた。
資源部門に籍を置き、海外の鉱山や森林資源の数字を追い続けていた。平日は部下の失敗の帳尻を合わせ、取引先の怒鳴り声を電話越しに受け流す。それが、彼に割り当てられた役割だった。
健一はコーヒーが好きだった。
自宅には最新式のコーヒーマシンもあったが、仕事が終わると、結局は自分で豆を挽いた。厳選した豆を、量り取った湯温で、ハンドドリップする。それは、数少ない「結果が裏切らない行為」だった。同じ手順を踏めば、同じ味になる。
ただ、豆を選ぶ段階でだけは、わずかな冒険を自分に許した。産地も精製方法も異なる未知の豆を、あえて選ぶ。完璧なルーティンの中で、その不確定要素だけが、彼の内側に眠る開拓者精神を僅かに昂ぶらせた。予測できない味を、自らの技術で御する。それが健一にとっての、ささやかな「未開の地」だった。
休日に山へ入るときは、普段よりも濃いコーヒーを水筒に詰めた。疲れた体を起こすためではない。立ち止まり、判断するための時間をつくるためだった。
若い頃から、自然が嫌いではなかった。理由もなく山に入り、ブナ林を歩いた。何かを得ようとしたわけではない。木々の間に身を置くと、仕事で擦り減った感覚が、少しだけ戻る気がした。
三十代が終わるころ、彼は山の変化に気づいた。下草が消え、幼木が育たず、森が痩せていた。原因は明白だった。増えすぎたシカ。だが、それをどうするかという判断は、どこにも置かれていなかった。
「誰も、向き合わないのか」
その言葉は、森に向けたものではなかった。目を逸らし続けてきた、自分自身への問いだった。
健一は、狩猟免許について調べ始めた。すぐに動いたわけではない。仕事は忙しく、生活はすでに埋まっていた。それでも数年かけて準備を重ね、四十代半ば、彼は銃を手にした。家族の視線は冷たかった。
会社を辞めたわけではない。平日は商社マンとして働き、週末だけ山に入った。
帳簿の責任と、引き金の責任。
全く違うようで似ている。しかし、決定的に異なる重さがあった。
数年後、息子の拓海が、その背中を見るようになった。
拓海が二十歳を過ぎた頃、その日は、前触れもなく訪れた。
「父さん、真ん中が折れる変な銃、俺にくれよ。一緒に撃ってみたいんだ」
健一は、しばらく何も言わなかった。
その沈黙ごと、拓海の言葉を受け取った。
健一は一挺の散弾銃を手渡した。自分が使い込み、手入れを欠かさなかった銃だった。
「道具だと思うな」
そう言ってから、少し間を置いた。
「判断を引き受けるためのものだ」
拓海は軽く頷いただけだった。その言葉が、別の意味に育っていくことを、健一は知らなかった。
「父さんは、山では迷わないんだな」
健一は答えなかった。迷わないのではない。迷った末に、引き返さないと決めているだけだった。
拓海は父の「管理する猟」を理解しつつも、より過酷な、より原始的な生命のやり取りに惹かれていった。
「俺、アメリカへ行くよ。ワイオミングで、本当のビッグゲームに挑戦したい」
商社マンの父が一生かけても手に入れられない「自由」を、息子は掴もうとしていた。
拓海が最初に学んだのは、ビッグゲームを撃つ栄光ではなかった。
境界線を守る地味な忍耐と、その傍らで命を切り捨てる、退屈な残酷さだった。
渡米してすぐに狩りが始まったわけではない。
最初の半年は、土地を知る時間だった。
風の癖、距離の錯覚、標高による弾道の変化。
銃を持たずに歩き、撃たずに観察する日々が続いた。
生活は、広大な放牧地の境界線を巡り、冬の嵐で引きちぎられたワイヤーを繋ぎ直す「フェンス・ライナー」の仕事で成り立っていた。
古びたダットサンの荷台には、ボロボロの工具箱と予備のワイヤー、そして、拓海が自分の金で最初に購入した、モスグリーンのプラスチック製の小口径ライフルが積まれている。
高級感など微塵もない、実用性だけを突き詰めた安価な一挺だった。
だが、安くて丈夫で、何よりそこから放たれる弾丸は、ワイオミングの強風を切り裂き、驚くほど真っ直ぐに飛んだ。
拓海はそれに、身の丈に合わないほど高価なスコープと、岩場に固定するための二脚を強引に載せた。
フェンスの点検が一段落すると、牧場主から頼まれるのがコヨーテの駆除だった。
氷点下の平原に伏せ、プラスチックの銃床に頬を寄せる。
凍てつくような冷たさが、骨まで伝わる。
誘い出された一頭の眉間を、正確に撃ち抜く。
仕留めた獲物に駆け寄っても、そこに祈りはない。
あるのは、役目を終えた無価値な死体だけだった。
毛皮は冬の盛りでなければ値がつかず、牧場主から受け取るわずかな報酬も、消費した弾代とガソリン代でほとんど消えてなくなる。
拓海は仕留めたものの後ろ脚を掴み、泥に汚れたダットサンの荷台へ無造作に放り込む。
通りがかった地元のハンターが、足を止めて荷台を覗き込んだ。
「いいシュートだ。……だが、そんなもののために、わざわざ海を越えてきたのか?」
男の言葉には、値踏みするような響きがあった。
「誰かが、やるべき判断だと思っただけだ」
男は鼻を鳴らして去った。
だが翌日、その男が馴染みの店で、「あの日本人は、引き際の判断をわかっている」
と話したことを、拓海は後で知ることになる。
拓海は、水筒に入れた現地の酷く苦いコーヒーを喉に流し込んだ。
沈殿に近いその重さが、ようやくこの土地の現実として、拓海の喉を焼いた。
手に残るのは、硝煙の匂いと、張り詰めたワイヤーが指に刻んだ赤い線だけ
渡米から三年が過ぎた頃、拓海はビッグゲームの抽選に申し込むようになった。
結果は、落選だった。
それが当たり前だった。
経験を積み、待つ。
また申し込み、また外れる。
結果よりも、待つ時間のほうが長い世界だった。
それでも拓海は、撃つ数より、撃たずに帰る判断のほうが、確実に増えていくのを感じていた。
それから数年後の冬、拓海の名前が、ようやく一つの許可証に載った。
今回はエルクだ。
山と天候、距離と判断を、すべて要求される。
健一は、仕事で渡米するたび、拓海に会った。
狩猟に関する現地の講習を受け、法的な手続きを一つずつ確認していった。
知らないままでいることだけは、避けたかった。
やがて健一は、現地の狩猟ライセンスを取得した。
撃つためではない。
息子が踏み込んでいる場所を、言葉だけで済ませないためだった。
拓海がエルク狩猟の参加権を得た年、二人はワイオミングで落ち合った。
向かったのは、健一の行きつけのガンショップだった。
ライセンスの相談も、講習の紹介も、拓海と会うのも、いつもここだった。
以前来たときには、すでに拓海の体格測定も済ませてあった。
「注文の品だ」
店主がケースを開くと、中には新品の猟銃が収まっていた。
最新式ではない。だが、長年使われ、改良され、実績を積み上げてきた設計の一挺だった。
艶を抑えた金属と、美しいウォルナットの木製ストック。
「いい選択だ」
店主は拓海を見て言った。
「流行りじゃないが、ちゃんと撃つ人間のための銃だ」
さらに店主は、配達されたまま開封もされていない段ボールをカウンターに置いた。
店主が健一の方を見る。健一が頷く。
箱を開けると、中にあったのは、
拓海の体格と射撃姿勢に合わせて調整された、カーボン製のストックだった。
「……本当に、交換するのか?」
店主が、拓海ではなく健一の方を見た。
そして、付け加えるように言った。
「もったいないな。外すなら、もっと安いモデルでも良かっただろう」
健一は静かに言った。
「木は、生きている。直に湿気と寒さで歪む。
その小さな誤差が、獲物に余計な苦しみを与えることがある。
今のお前には、必要ない。
まずは、道具が常に同じ答えを返す場所で撃て」
拓海は黙って木製ストックを外し、カーボンに付け替えた。
健一は外された木製ストックを受け取り、指先でなぞった。
まだ、誰の癖も刻まれていない。
「いつか、お前が――」
健一は一度だけ、言葉を切った。
「その指先で、この木の僅かな歪みを感じ取れるようになったら、その時、返す」
健一は日本へ持ち帰るために、それを丁寧に包んだ。
約束だった。未来にしか存在しない約束。
健一は銃を渡す前に、はっきりと言った。
「拓海。これは、お前の人生を変える道具だ。
変えていいと判断したのは、俺だ」
「……俺は、自分で選んだと思ってた」
「違う。選ばせたのは、俺だ」
拓海がフォーム4473にペンを走らせる。
連邦法で定められた、銃の購入者が自ら記入すべき書類だ。
今回はビッグゲーム参加へのプレゼントとして健一が費用を出すため、代理購入を禁じる「ストローパーチェス」の確認は、必然的に厳しくなる。
馴染みの店とはいえ、手続きに一切の妥協は許されない。
それがこの土地の、そして健一の流儀でもあった。
バックグラウンドチェック(NICS)の回答を待つ間、店主が奥から紙コップを持ってきた。
「飲むか」
健一は一口含み、思わず眉をひそめた。
苦い。酸味も甘みもなく、ただ、濃い。
抽出というより、沈殿に近い味だった。
「……これは?」
「コーヒーだ。朝からこれを飲まないと、山に入れない」
「シゲマツ、お前の息子じゃなきゃ、日本からの予約なんて面倒は引き受けなかったぜ」
店主の言葉に、健一は苦く真っ黒なコーヒーをすすりながら、不敵に笑う。
「手間をかけた分、最高の『責任』を息子に渡せる。
ほら、いつもの土産だ」
彼は、日本製のウイスキーをカウンターに置いた。
健一はもう一口、コーヒーを飲んだ。
舌に残る重さを、確かめるように。
この土地では、味も、銃も、判断も、人に合わせてくれない。
そう理解した。
エルク狩猟は成功した。
健一は、その場面を詳しく聞いていない。
拓海はその後も、実績を積み上げた。
健一は、日本で働き続けていた。
その日も健一は、完璧に管理された仕事の中にいた。
ワイオミングからの電話だと、同僚がとりつぐ。
緻密に練り上げた価格交渉案を指先でなぞりながら、電話を代わった。
それが彼の役割であり、日常だった。
しかし、受話器から流れてきたのは、
管理不能な野生が、日常を食い破る音だった。
拓海が、行方不明になったという。
日本の自宅で、健一は木製ストックを包みから取り出した。
窓辺に置き、指先でなぞる。
そのまま、無意識にコーヒーを淹れていた。
豆を挽き、湯を落とす。
いつもと同じ手順だった。
だが、その日は、味が分からなかった。
制御できない土地。
制御できない結果。
それでも、自分は順番を間違えなかった。
そう言い聞かせるように、もう一杯、コーヒーを淹れた。
健一は、仕事の調整もせず、現地へ飛んだ。
雪原での捜索に加わり、数週間が過ぎた頃、
一挺のライフルが見つかった。
銃身は歪み、カーボンは無残に砕かれ、持ち主の姿は、どこにもなかった。
健一はその銃を抱え、声を出さなかった。
判断したのは自分だ。
道を示したのは、自分だ。
彼は震える指で、日本の直属の上司へ国際電話をかけた。
「一身上の都合により、本日付で退職させていただきます。
引き継ぎはすべてサーバーに残した通りです。
……ご迷惑をおかけしました」
相手が声を荒らげる前に、彼は通話を切った。
定年を目前に控え、これまで積み上げてきた功績も、約束された安穏な老後も、すべてをこの雪原に捨て去る。
それが、三十年余り数字を積み上げてきた男が、
組織に対して果たした、最後の義務だった。
彼はスマートフォンのSIMカードを抜き、雪の中に落とした。
会社も、日本の自宅も、完璧に管理された、かつての日常も。
彼はそのすべてを一度に捨て、ワイオミングの土を踏みしめ続けた。
自ら戻る場所を焼き払うことで、彼は「父」という名の孤独な責任に、その余生を捧げる道を選んだ。
それから後、ワイオミングの国立公園には、
一人の老いた男がいる。
捜しているのか、と聞かれることがある。
彼は答えない。
名を名乗ることは少ない。
遭難者には、大した説教もせず、事実だけを突きつける。
還暦を過ぎた彼は、正規のレンジャーとしての門戸は閉ざされていたが、資源管理アドバイザーとして、今も山を歩いている。
山小屋の錆びついたストーブで湯を沸かし、粗末な粉でコーヒーを淹れた。
かつて日本で拘っていた、ハンドドリップの繊細な作法など、そこにはない。
出来上がったのは、泥のように黒く、底に粉が溜まった苦い液体だった。
熱い苦みが喉を焼き、腹の底に重く沈む。
美味いと思ったことは、一度もない。
だが、この泥のような苦さを飲み下すたび、彼は自分が、この土地の循環の一部であることを思い知る。
息子が独りで引き受けていた、あの乾いた時間の感触を、ようやく今、共有している気がした。
かつて鉱山資源の数字を管理した、その冷徹な眼差しで、今は山の命の増減を数えていた。
緻密な管理能力のすべてを、生態系の調査と、遭難防止のパトロールに注いでいた。
彼の胸の奥には、一つの小さな「期待」が眠っている。
あいつはこの山のどこかで、あの曲がった銃身の代わりに鋭い牙を研ぎ、今も生きているのではないか。
しかし、彼はそれを決して言葉にしない。
彼がここで生き、登山者を見守り、大自然の営みを次の世代へ繋ぐこと。
それが、息子をこの道へ引き込んだ、一人の父親としての、最後で最大の誓いだった。
彼はもう、探しているのではなかった。
山に残された判断の痕跡を、毎日なぞっているだけだった。
引き金を引かせたのも、道具を選ばせたのも、その先へ進ませたのも、自分だ。
誰にも引き受けさせず、自分がここに立ち続ける。
それが、父として選んだ、最後の責任だった。
責任 富澤宏 @Paradich-lorobenzene
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