第十六章 瘴気の真実——世界の病

その日は、朝から嫌な空気が漂っていた。


 鋭い冬の風が、王都の石畳を吹き抜けていく。空は鉛色で、今にも雪が降り出しそうだった。


 健太が店を開けようとした時、門前に黒い人影が立っていた。


 ヴァルター。


 そして——その背後には、聖教会の紋章を掲げた衛兵たちが控えていた。


「薬師寺健太」


 ヴァルターの声が、朝の静寂を切り裂いた。


「聖教会は、あなたを異端の嫌疑で告発します。ただちに、審問所への出頭を命じます」


 健太の心臓が、大きく跳ねた。


 ——ついに、来たか。


「拒否した場合は?」


「強制連行となります」


 衛兵たちが、一歩前に出た。


 逃げることはできない。抵抗しても、状況は悪くなるだけだ。


「……分かりました。行きましょう」


 健太は、店の鍵をリーネに渡した。


「店を頼む」


「店長さん——!」


 リーネの悲痛な声が、背中に届いた。


 しかし、健太は振り返らなかった。


 審問所は、聖教会の本部——大聖堂の地下にあった。


 石造りの冷たい通路。松明の揺らめく光。湿った空気には、カビと古い石の匂いが混じっている。


 健太は、狭い独房に入れられた。


 木製の長椅子が一つ。窓はない。


「審問は、明日行われます」


 看守がそれだけ言って、扉を閉めた。


 重い金属音が響き、沈黙が落ちた。


 独房で過ごす夜は、長かった。


 健太は、暗闇の中で考え続けた。


 ——どうすればいい? 何を言えばいい?


 異端審問。その結末は、有罪か無罪かのどちらかだ。


 有罪なら——財産没収、投獄、あるいは処刑。


 無罪を勝ち取るには、彼らを納得させる必要がある。


 しかし、相手は宗教的な狂信者だ。論理や証拠で説得できる相手ではない。


 ——いや、待て。


 健太は、別の可能性を考えた。


 ヴァルターは狂信者かもしれない。しかし、審問官は彼一人ではないはずだ。


 聖教会には、穏健派もいるはずだ。彼らを味方につければ——。


 それに、セラフィーナ姫がいる。彼女は、宮廷に影響力を持っている。


 ——まだ、終わっていない。


 健太は、そう自分に言い聞かせた。


 翌日。


 審問は、大聖堂の一室で行われた。


 半円形に並んだ椅子に、十人ほどの審問官が座っている。白い法衣を纏った老人たちだ。


 その中央に、ヴァルターがいた。


 そして——傍聴席には、意外な人物の姿があった。


 セラフィーナ姫。


 彼女は、健太に小さく頷いた。


「審問を開始します」


 議長役の老人が宣言した。


「被告、薬師寺健太。あなたは、魔法を使わずに病気を治療し、神の秩序に反する行為を行った嫌疑がかけられています。弁明があれば、述べなさい」


 健太は、一歩前に出た。


「まず、一つ確認させてください。私がしていることは、本当に神の秩序に反するのでしょうか」


「何?」


「私は、薬草を使って病気の症状を和らげています。薬草は、神が創造された自然の一部です。それを活用することが、なぜ神に反するのでしょうか」


 審問官たちの間に、ざわめきが起こった。


 ヴァルターが、鋭い声を上げた。


「詭弁だ! 魔法を通さない治療は、神の恩寵を迂回する行為だ!」


「しかし、聖典には——」


 健太は、事前に調べておいた知識を使った。


「——聖典には、『汝、自らを助けよ』という教えがあると聞いています。神は、人間が自ら努力することを望まれている。薬草の知識を使って健康を守ることは、その教えに沿っているのではありませんか」


 沈黙が落ちた。


 審問官たちが、顔を見合わせている。


 一人の老人が口を開いた。


「確かに、被告の言葉には一理ある。聖典の解釈は、単純ではない」


「しかし、教義では——」


「教義の解釈は、審問の場で決めることではない」


 老人はヴァルターを制した。


「問題は、被告の行為が実際に害をなしたかどうかだ」


 審問は、思わぬ方向に進んだ。


 ヴァルターは、健太を有罪にしようと必死だった。しかし、穏健派の審問官たちは、慎重だった。


 そして——傍聴席のセラフィーナ姫が、発言を求めた。


「発言を許可します」


 議長が言った。


 セラフィーナは立ち上がり、審問官たちに向き直った。


「私は、この男の治療を受けた者の一人です。正確には、私の弟——アルベルト王子が、彼に命を救われました」


 会場が、ざわめいた。


「王子が瘴気病に倒れた時、王宮の魔法使いたちは手をこまねいていました。彼だけが、効果のある治療を施しました」


「しかし、姫様——」


 ヴァルターが割り込もうとした。


「発言中です」


 セラフィーナは、冷たく遮った。


「この男が異端であるならば、弟を救った行為も異端ということになります。それは、神が許されたことではないでしょうか」


 審問官たちの表情が、複雑に変わった。


 王族の発言。それは、無視できない重みを持っている。


「さらに——」


 セラフィーナは続けた。


「——私は、王都の庶民たちからも話を聞きました。彼らの多くが、この男の店に助けられたと証言しています」


 彼女は、一束の書類を取り出した。


「これは、彼の店で治療を受けた人々の嘆願書です。五百人以上の署名があります」


 会場が、どよめいた。


 五百人。それは、庶民街の住民のかなりの割合だ。


 セラフィーナは、書類を議長に渡した。


「彼らは、薬師寺健太の釈放を求めています。神の名において、人々を救う行為を罰するのは、正しいことでしょうか」


 審問は、一時中断された。


 審問官たちは、別室で協議を行った。


 健太は、待合室で待たされた。


 ——五百人の署名。姫様が、ここまでしてくれたのか。


 感謝と、そして——責任を感じた。


 これだけの人々が、自分を信じてくれている。


 その信頼を、裏切るわけにはいかない。


 一時間後、審問が再開された。


 議長が、判決を読み上げた。


「薬師寺健太。審問の結果、異端の嫌疑については、証拠不十分として棄却します」


 健太の全身から、力が抜けた。


「ただし——」


 議長の声が続いた。


「——条件があります。あなたの行う治療は、今後、聖教会の監督下に置かれます。定期的な報告と、問題が発生した場合の即座の停止。これを受け入れますか」


「受け入れます」


 健太は、迷わず答えた。


「よろしい。以上をもって、審問を終了します」


 大聖堂を出ると、外は雪が降っていた。


 白い雪片が、灰色の空から舞い降りてくる。


 セラフィーナ姫が、待っていた。


「ありがとうございました」


 健太は、深々と頭を下げた。


「いえ。弟を救っていただいた恩を、少しでも返せたのなら幸いです」


「でも、五百人の署名……どうやって——」


「私一人ではありません」


 セラフィーナは、微笑んだ。


「リーネさんが、店の常連客に呼びかけてくれました。マルコくんが、各地を回って署名を集めてくれました。あなたの仲間たちが、動いてくれたのです」


 健太は、胸が熱くなった。


 ——俺は、一人じゃない。


「さあ、店に戻りましょう」


 セラフィーナが言った。


「皆さんが、待っています」


 店に戻ると、仲間たちが集まっていた。


 リーネ。エルフィナ。ゴルド。マルコ。そして、トーマス。


「店長さん!」


 リーネが、駆け寄ってきた。


「無事でよかった……!」


「ああ。みんなのおかげだ」


 健太は、仲間たちの顔を見回した。


「本当に、ありがとう」


「礼なんていらないよ、店長」


 マルコが、にかりと笑った。


「俺たちは、チームだろ?」


「そうだな」


 健太は頷いた。


「チームだ」


 しかし、戦いは終わっていなかった。


 異端審問は切り抜けた。だが、ロッソはまだ動いている。


 そして——瘴気病の脅威は、日に日に増している。


「店長」


 エルフィナが、深刻な顔で言った。


「話がある」


「何だ?」


「瘴気病の研究を進める中で、気づいたことがある」


 彼女は、分厚いノートを取り出した。


「瘴気の発生源を追跡した。その結果——」


 エルフィナの目が、鋭くなった。


「——古代の遺跡に行き着いた」


「遺跡?」


「王都の北、三日の距離にある廃墟だ。かつて、魔法文明の中心地だったと言われている」


 健太の表情が、引き締まった。


「そこに、瘴気の発生源がある?」


「確証はない。だが、可能性は高い」


 エルフィナはノートを開いた。


「私が古い文献を調べたところ、その遺跡には——」


 彼女の声が、低くなった。


「——かつて『災厄』が封印されたという記録がある」


「災厄?」


「詳細は不明だ。しかし、瘴気病がその封印の綻びから生じているとすれば——」


 エルフィナは、健太の目を見つめた。


「——我々が対処すべきは、病気だけではないかもしれない」


 健太は、窓の外を見た。


 雪は、まだ降り続いている。


 白い世界の向こうに、何が待っているのか。


 それは、まだ分からない。


 しかし、一つだけ確かなことがあった。


 ——逃げるわけにはいかない。


 前に進むしかない。


 どんな敵が待っていようとも。第十五章 異端審問——信仰との対立

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