第二章 異世界店舗——在庫確認から始めよ
翌朝、健太は日の出とともに目を覚ました。
事務所の床に毛布を敷いただけの簡易ベッド。硬い床が背中に食い込んでいる。しかし、不思議と身体は軽かった。
——八時間は眠った。
最後にこれだけ眠れたのはいつだったか。思い出せない。
健太は身体を起こし、窓の外を見た。
異世界の朝。橙色の光が草原を染めている。遠くに見える森が、朝靄に霞んでいる。
——夢じゃない。やっぱり、夢じゃなかった。
昨日の出来事を反芻する。心臓発作。転生。村人たちとの出会い。病気の子供。解熱剤の投与。
そして——。
健太は立ち上がり、店内へ出た。
蛍光灯が自動で点灯する。人感センサーはまだ生きているらしい。
レジカウンターの前で立ち止まり、深呼吸をした。
——さて、何から始める?
答えは明確だった。
「在庫確認だ」
声に出して言う。自分に言い聞かせるように。
ドラッグストアの店長として、最初にやるべきことは在庫の把握だ。何がどれだけあるのか。それを知らなければ、何もできない。
健太はバックヤードへ向かい、棚卸用のファイルを取り出した。本来なら、POSシステムと連動した電子データを使うところだが、本部との通信が切れている以上、紙ベースでやるしかない。
医薬品コーナーから始める。
棚の前に立ち、一つずつ商品を数えていく。
「解熱鎮痛剤、アセトアミノフェン系……成人用八十三箱、小児用四十七本。イブプロフェン系……六十二箱。アスピリン系……三十四箱」
ペンを走らせながら、頭の中で計算する。
一箱あたりの錠数。一回の服用量。一人の患者が使う日数。
——成人用解熱剤だけで、延べ千人分くらいか。
しかし、それは「延べ」の数字だ。同じ患者が何日も服用すれば、すぐに減っていく。
総合感冒薬。咳止め。鼻炎薬。胃腸薬。整腸剤。下痢止め。便秘薬。
外用薬。消炎鎮痛剤。虫刺され薬。皮膚炎用クリーム。消毒液。絆創膏。包帯。ガーゼ。
一時間かけて、医薬品コーナーの棚卸を終えた。
結果を見て、健太は唸った。
「……悪くない。いや、かなり多い」
閉店直前のタイミングで転生したおかげだ。夜間の来客が少なかったため、在庫は豊富に残っている。
しかし、問題もある。
「補充ができない」
当然だ。物流センターからの納品は来ない。メーカーからの直送もない。今ある在庫を使い切ったら、それで終わりだ。
——代替品を作るしかない。
その考えが浮かぶ。
異世界には異世界の薬草がある。昨日、自動発注システムが「未知の植物データ」を検知していた。それを活用できれば——。
しかし、それは後回しだ。まずは、現状の把握を完了させる。
食品コーナーへ移動する。
インスタント麺。レトルト食品。缶詰。菓子類。飲料。
こちらも意外と多い。数週間は食いつなげるだろう。
ただ、生鮮食品はほとんどない。サンドイッチや弁当は、すでに消費期限が切れている。
「廃棄か……いや、待てよ」
健太は冷蔵ケースの前で立ち止まった。
——この世界に、冷蔵技術はあるのか?
おそらく、ない。魔法で氷を作ることはできるかもしれないが、庶民には手が届かないだろう。
ということは——。
「冷蔵庫そのものが、価値を持つかもしれない」
保存技術。それは、食料問題を解決する鍵になりうる。
メモを取りながら、思考を整理する。
日用品コーナー。トイレットペーパー。ティッシュ。洗剤。シャンプー。石鹸。
——石鹸。
健太は石鹸の棚の前で足を止めた。
「手洗い」
その言葉が、頭の中で響く。
現代医学の基本。感染症予防の第一歩。しかし、中世レベルの世界では、手洗いの習慣すらないかもしれない。
——これだ。
健太は確信した。
薬を配るだけでは足りない。予防医学。衛生教育。それを広めることで、病気そのものを減らせる。
棚卸を続けながら、計画が頭の中で形を取り始める。
昼過ぎ、在庫確認がほぼ完了した。
健太は事務所に戻り、結果を整理した。
医薬品:約二千種類、総点数約五万点。
食品:約五百種類、総点数約一万点。
日用品:約千種類、総点数約三万点。
化粧品:約八百種類、総点数約二万点。
「これだけあれば、しばらくは戦える」
しかし、問題は「しばらく」の後だ。
補充ができない以上、いずれ在庫は尽きる。その前に、代替手段を確立しなければならない。
——異世界の薬草。異世界の原材料。それを使って、現代の薬に近いものを作る。
可能だろうか?
登録販売者として、健太は基礎的な薬学知識を持っている。しかし、製薬そのものは専門外だ。
——誰かの助けが要る。
その時、自動ドアが開く音がした。
健太は事務所を出て、売場へ向かった。
入口に、一人の人影が立っていた。
若い女性だった。
亜麻色の髪を肩まで伸ばし、質素だが清潔な服を着ている。年齢は——十代後半だろうか。
しかし、その顔には深い疲労の色が浮かんでいた。目の下には隈があり、頬はこけている。
そして、その目。
どこか、諦めたような。しかし、微かな意志の光を宿した目。
「あの……」
女性が口を開いた。
「ここが、薬を売っているお店……ですか?」
健太は頷いた。
「はい。お身体の具合が悪いのですか?」
「いえ、私は……」
女性は言いよどんだ。視線が泳ぐ。何かを言おうとして、言葉が出てこないようだった。
健太は待った。急かさず、ただ待った。
やがて、女性は意を決したように顔を上げた。
「私に、薬のことを教えていただけませんか」
その言葉に、健太は少し驚いた。
「薬のこと、ですか」
「はい。私は——」
女性は深呼吸をした。
「私はリーネ・フォン・ハイルブルクと申します。元は……宮廷薬師の見習いでした」
宮廷薬師。
その言葉に、健太の興味が引かれた。
「宮廷薬師、というと?」
「王宮に仕える薬師です。魔法薬の調合や、貴族の方々の健康管理を行う……行っていました」
過去形。
健太はそれを聞き逃さなかった。
「今は、違うのですね」
リーネの顔が曇った。
「はい。私は……追放されました」
「追放」
「魔法の才能がなかったのです。薬師は魔力を使って調合を行います。でも、私には……その力がありませんでした」
淡々と語るリーネ。しかし、その声には押し殺した悔しさが滲んでいた。
「薬草の知識だけは、誰にも負けないと思っていました。でも、魔法が使えなければ薬師にはなれない。それがこの世界の……常識です」
健太は黙って聞いていた。
「婚約も破棄されました。役立たずの娘など要らない、と。家も追い出されて……この村に流れ着いたんです」
リーネは俯いた。
「昨日、村の人たちから聞きました。魔法も使わずに、子供の熱を下げた人がいる、と。最初は信じられませんでした。でも、見に行ったら……本当だった」
顔を上げる。その目には、微かな光が宿っていた。
「あなたの薬は、魔法を使っていないのですよね?」
「はい」
「なら、私にも——私のような、魔法が使えない者にも、薬を作ることができるのでしょうか?」
その問いに、健太は少し考えた。
——この子は、薬草の知識がある。魔法は使えないが、それは逆に好都合かもしれない。
現代の製薬は、魔法を使わない。化学反応と、物理的なプロセスで行う。魔法に頼らない薬作りを学ぶなら、魔法を使えない人間の方が適している。
「教えることはできます」
健太は答えた。
「ただし、簡単ではありません。長い時間がかかりますし、覚えることも多い。それでも、学ぶ覚悟はありますか?」
リーネの目が、輝いた。
「はい。何でもします」
健太は頷いた。
「分かりました。では——」
そう言いかけた時、自動ドアがまた開いた。
村人たちが、続々と入ってくる。
昨日、子供を助けた母親。村長。その他の村人たち。
そして、彼らの多くが——病人を連れていた。
「お願いします、この人を……」
「うちの婆さんが、もう三日も熱が下がらなくて……」
「足の傷が膿んでしまって……」
健太は一瞬、圧倒された。
しかし、すぐに気を取り直す。
——これが、俺の仕事だ。
「分かりました。順番に診ますので、列を作ってください」
そう言って、健太は医薬品コーナーへ向かった。
リーネが、その後に続く。
「私に、何かできることはありますか」
健太は振り返り、微笑んだ。
「では、リーネさん。研修初日です。まずは、私のやることをよく見ていてください」
リーネが、力強く頷いた。
蛍光灯の光の下で、異世界の「ドラッグストア」が動き出す。
在庫確認は終わった。
次は——営業だ。
転生薬局、本日も営業中。
薬師寺健太の新しい一日が、始まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます