第11話:真のFIRE、そして伝説へ
水平線の彼方から昇る朝日が、世界を鮮やかなオレンジ色に染め上げていく。 視界を遮るものは何もない。あるのは、巨大な豪華客船のデッキを吹き抜ける、塩気を孕んだ爽やかな風だけだ。
「……いい風だ」
俺は、手にしたシャンパングラスを軽く傾けた。立ち上る繊細な泡が、朝の光を反射してダイヤモンドのように煌めく。 かつて銀行の地下駐車場で、排気ガスにまみれながら重い足取りで出勤していた頃の俺に、この光景を見せてやりたい。
「佐藤さん、あちらに見えるのが横浜のベイエリアです」
隣に立つのは、俺の「愛弟子」となった二十代の青年、北川だ。かつて俺の事務所に、ボロボロの企画書一枚を携えて飛び込んできた、志だけは人一倍熱い若者。
「ああ。……あそこには、俺の『過去』が沈んでいるよ」
俺は、南青山のコンサルティング事務所を昨日、彼に譲った。 一円の譲渡金も受け取っていない。代わりに、「俺が救った企業たちを、生涯かけて守り抜くこと」という約束だけを交わして。
「本当に、譲ってしまって良かったんですか? あの事務所は今や、業界でも伝説の存在なのに」 「いいんだよ、北川。俺はもう、十分に遊ばせてもらった。これからは、君たちの世代が作る新しいインターネット——Web3の世界を、影から支えるのが俺の仕事だ」
俺は、手元のタブレットを開いた。そこには、俺が投資している次世代スタートアップたちの活動ログが並んでいる。 銀行という名の「中央集権」に抗い、個人の力をエンパワーメントする若き天才たち。かつての俺が、ビットコインという一粒の種に希望を託したように、俺は今、彼らの情熱に「四十億」の残りを注ぎ込んでいる。
「佐藤さんは、もう働かなくても一生遊んで暮らせるのに……。なぜ、まだ投資を続けるんですか?」
北川の問いに、俺は不敵な笑みを浮かべた。 「投資は、俺にとっての『対話』なんだよ。世界をどう変えたいか、という若者たちの問いに対する、俺なりの答えだ。それに……」
俺はグラスを置き、遠くに見えるビル群に目を細めた。 そこには、かつて俺を「無能」と切り捨てた銀行の支店ビルが、マッチ箱のように小さく、ひび割れた墓標のように立っている。
「……世の中は甘くない。それを一番知っているのは、一度すべてを失った俺だ。だからこそ、俺が関わる世界は、もっと甘くない。志のない奴、嘘をつく奴、看板に縋るだけの奴……そんな連中が生き残れるほど、俺の選んだ未来は優しくないぞ」
その時、船内アナウンスと共に、デッキに華やかな音楽が流れ始めた。 妻の恵子が、白いワンピースの裾を揺らしながら、俺の元へ歩いてくる。 「あなた、そろそろ朝食の時間よ。今日は、海を眺めながらテラスで頂きましょう」
恵子の顔色は、銀行員時代とは比べものにならないほど艶やかだ。 俺は彼女の肩を抱き寄せ、その温もりを確かめた。
「ああ、今行くよ。……北川、君も来い。これからの世界の話をしよう」
俺たちは、輝く海を背にして歩き出した。 振り返れば、かつての俺を縛り付けていた組織も、怨嗟も、復讐心も、すべては白い波紋の中に消えていく。
かつて「無能な働き者」と蔑まれた男は、もうどこにもいない。 ここにいるのは、時代の波を乗りこなし、自らの手で運命を掴み取った、一人の自由な投資家だ。
俺は最後にもう一度だけ、遠ざかる陸地を眺め、口角を上げた。
「……あばよ、看板だけの世界。俺は俺の、新しい伝説を始めさせてもらう」
豪華客船の汽笛が、高く、誇らしげに空へ響き渡った。 四十億の含み益よりも、銀行支店長の肩書きよりも、今、俺の胸を満たしているのは、何にも縛られない「自由」という名の、何物にも代えがたい高揚感だった。
俺の人生の「第2章」は、今、始まったばかりだ。
完結
全10話(+エピローグ)の物語を、最後まで共に描けて光栄でした。 佐藤が手に入れたのは富だけでなく、真の自由と信頼できる仲間でしたね。
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