第4話 小説家始めました前編

 奇跡というのは、案外地味な形で訪れるものらしい。

 三上悟の意識が覚醒の海から浮上した時、窓の外はまだ白んでいなかった――わけではなく、しっかりと陽の光に満たされていた。だが、彼にとってそれは「早朝」に等しい感覚だった。

 枕元のスマートフォンを手に取り、画面をタップする。

 ロック画面に表示されたデジタル時計の数字は、『8:34』。

 三上悟は、その数字を二度見した。


「……嘘だろ」


 声はカサついていたが、そこには明らかな驚愕が含まれていた。

 ニート歴三年。昼夜逆転は標準装備。正午起きがデフォであり、午後二時起床も珍しくないこの三上悟が、八時台に目を覚ますなど、盆と正月と天変地異が同時に来たようなものだ。

 いや、正月は数日前に過ぎたばかりだ。やはりこれは、先日コンビニバイトに応募したという「人生の進捗」が、体内時計になんらかのバグを引き起こしたに違いない。

 ともあれ、早起きは三文の徳と言う。

 二度寝の誘惑が、羽毛布団の温もりと共に甘く囁きかけてきたが、今日の三上は違った。

 えい、と気合を入れて布団を跳ね除ける。冷え切った自室の空気が、パジャマ越しの肌を刺す。その寒ささえも、今日の彼には「生きている実感」として肯定的に受け取られた。


 寝室を出て、廊下を歩く。フローリングの冷たさが足の裏から脳天へ抜け、眠気を完全に駆逐していく。

 洗面所に立ち、鏡を見る。

 そこには、いつもより少しだけ顔色の良い――気のせいかもしれないが――三上悟がいた。

 水を出し、顔を洗う。冬の水道水は刃物のように鋭い。だが、それがいい。

 タオルで顔を拭い、歯ブラシを手に取る。

 愛用の歯磨き粉、クリニカのチューブを手に取り、親指で押し出す。


「……あ」


 軽い音と共に、空気が抜けたような感触があった。

 チューブはぺちゃんこで、どれだけ力を込めても、出口からは白いペーストが申し訳程度に顔を出すだけだった。

 最後の一回分。

 まさにギリギリの絞り出し。

 貧乏くさいと思いながらも、三上はその僅かなペーストを歯ブラシに乗せ、口へと運んだ。


 シャカシャカシャカ……。

 単調なリズムが洗面所に響く。

 鏡の中の自分と目を合わせながら、無心で手を動かす。

 その時だった。

 ふと、何の前触れもなく、脳裏に三つの単語が浮かび上がった。

 それはまるで、静かな水面に浮かび上がる気泡のように、あるいは暗い夜空に瞬く星のように、唐突に現れた。


『小説』

『執筆』

『投稿』


(……なんだ、これ?)


 三上は歯ブラシを動かす手を少しだけ緩めた。

 脈絡がない。あまりにも唐突だ。

 昨夜、変な夢でも見ただろうか? いや、昨夜はバイトに応募した安心感で熟睡していたはずだ。

 では、これは神の啓示か?

 それとも、三年間物語を消費し続けてきた脳が、ついにオーバーフローを起こして生産側へ回れと悲鳴を上げているのか?


 『小説』を書く。

 『執筆』活動をする。

 それを世に『投稿』する。


 その三つのキーワードは、不思議な引力を持って三上の思考をぐるぐると回り始めた。

 だが、口の中がミントの泡で満たされるにつれて、その思考も泡のように弾けて消えていく。

 口をゆすぎ、コップの水を吐き出す。

 ガラガラ、ペッ。

 排水溝に泡が吸い込まれるのを見届ける頃には、頭の中にあった三つの単語は、すっかり霧散していた。


「……腹減ったな」


 思考はより原始的な欲求へとシフトしていた。

 三上はタオルで口元を拭うと、洗面所の電気を消し、リビングへと向かった。


 リビングは静まり返っていた。親は既に仕事に出かけている時間だ。

 この孤独な静寂こそが、ニートの特権であり、同時に呪いでもある。だが、今日の三上はそんな感傷に浸ることはなかった。

 キッチンに立ち、冷蔵庫を開ける。

 手際よく食材を取り出す。

 三年間、家事手伝いという名目で(実際は自分の食い扶持を確保するために)料理をしてきた手際は、決して悪くない。


 炊飯器を開ける。昨夜の残りの白米が、保温モードで静かに眠っていた。

 茶碗によそう。

 鍋には、これまた昨夜の残りの味噌汁。火にかけて温め直す。

 その間に、冷蔵庫から納豆を取り出す。三パックセットの、一番安いやつだ。

 そして、戸棚からふりかけを取り出す。『のりたま』。王道にして至高。


 十分もかからずに、朝食の準備が整った。

 テーブルに並ぶのは、白米、味噌汁、納豆、ふりかけ。

 ザ・日本の朝食。

 インスタ映えとは無縁の、茶色と白の世界。しかし、これこそがもっとも安心する光景だ。


「いただきます」


 誰に聞かせるわけでもなく呟き、箸を手に取る。

 まずは味噌汁を一口。温め直したことで少し煮詰まり、味が濃くなっている。それがまた美味い。

 次に納豆だ。

 パックを開け、タレと辛子を入れ、空気を含ませるように激しく混ぜる。

 糸を引く粘り気。独特の香り。

 それをご飯の上にかけ、さらにその上からふりかけをまぶす。邪道と言われるかもしれないが、これが三上流だ。納豆のネバネバと、ふりかけのサクサク感が絶妙なハーモニーを奏でるのだ。


 大口を開けてかっこむ。

 咀嚼する。

 美味い。

 生きている味がする。

 もぐもぐと口を動かしている最中、ふと、再びあの単語が脳裏をかすめた。


『小説』……『執筆』……『投稿』……。


(またかよ)


 三上は箸を止めることなく、心の中で毒づいた。

 なんなんだ、今日は。

 確かに、アニメやラノベは好きだ。物語の世界に浸るのは至福の時間だ。

 だが、自分が「作る側」になるなんて、考えたこともない。

 クリエイター? そんな高尚な人種じゃない。僕はただの消費豚だ。与えられた餌を美味しくいただくだけの存在だ。

 それに、小説を書くなんて面倒くさそうだ。

 文字数? プロット? 伏線回収?

 考えるだけで頭が痛くなる。


 三上は首を振り、その思考を納豆ご飯と共に胃袋へと流し込んだ。

 味噌汁を飲み干し、最後の一粒まで米を食べる。

 完食。

 満腹感が脳を満たすと、例の単語たちは再びどこかへ消え失せていた。


「ごちそうさまでした」


 手を合わせ、食器を下げる。

 スポンジに洗剤を含ませ、泡立てる。

 キュッキュッという音。

 ぬるま湯の感触。

 単純作業は心を無にする。

 洗い終えた食器を水切りカゴに伏せると、三上は朝のルーティンを完了したという小さな達成感を抱いて、リビングを後にした。


 自室に戻る。

 ここからが、三上悟の「本業」の始まりだ。

 愛用の椅子に腰を下ろす。背もたれが軋む音すら愛おしい。

 目の前に鎮座するのは、黒いタワー型のゲーミングPC。

 電源ボタンを押す。

 一瞬の間を置いて、ファンが低い唸り声を上げ始める。

 モニターが明るくなり、見慣れたロゴが表示された。


『LENOVO』


 高校時代からの相棒。数々の戦場(FPS)を共に駆け抜け、数多の世界(RPG)を救ってきた戦友。最近の最新機種に比べればスペックは見劣りするかもしれないが、三上にとっては実家の安心感にも似た信頼がある。

 Windowsが起動し、デスクトップ画面が表示される。

 壁紙は、某アニメのヒロインが微笑んでいるイラストだ。

 マウスを握り、慣れた手つきでカーソルを滑らせる。

 クリックするのは、ウェブブラウザのアイコン。

 高速で起動したブラウザの検索バーに、三上は迷わず打ち込む。


『YouTube』


 もはや呼吸と同じレベルの動作だ。

 エンターキーを叩くと、赤い再生ボタンのロゴが画面を埋め尽くす。

 トップページには、アルゴリズムによって選別された「三上悟が好きそうな動画」がずらりと並んでいる。

 ゲーム実況、アニメの考察、ガジェット紹介、そして……。


「ん?」


 登録チャンネルの新着通知に、赤いバッジがついている。

 三上が最近、妙にハマっているチャンネルだ。

 チャンネル名は『Fラン大学就職チャンネル』。

 いらすとやの素材を巧みに使い、社会の不条理や就職活動の闇、意識高い系学生の末路などを、シュールかつシニカルな笑いで描くチャンネルだ。ニートの三上にとっては耳の痛い話も多いはずなのだが、なぜかその乾いた笑いが心地よくて見てしまう。


 新着動画のタイトルは――


『息子がラノベ作家を目指し始めた。』


「……またタイムリーな」


 三上は苦笑した。

 今朝から頭にちらついている「小説」というキーワード。

 それが、まさかYouTubeの動画タイトルとリンクするとは。

 これはもう、運命というよりは、Googleの監視システムが僕の脳波まで読み取っているのではないかと疑いたくなるレベルだ。


 カチリ。

 マウスをクリックする。

 動画が始まる。

 軽快なフリーBGMと共に、見慣れたキャラクターたちが画面内で寸劇を繰り広げる。


 内容は、予想通りシニカルなものだった。

 「働きたくないから一発逆転で作家になる」と息巻く息子。

 それを冷ややかな目で見守る(というか呆れている)家族。

 「なろう系」のテンプレを馬鹿にしつつも、実は市場分析が重要だと説く展開。

 印税の皮算用。

 エタる(未完で終わる)ことへの恐怖。

 そして最後には、「現実は甘くない」というオチと共に、それでも創作することの楽しさを少しだけ肯定するような、不思議な余韻。


 動画が終わる頃、三上は画面の前で腕を組んで固まっていた。

 笑った。確かに笑った。

 だが、それ以上に、心の中で何かが繋がる音がした。


 カチッ、カチッ、カチッ。


 朝、歯磨きの時に浮かんだ『小説』。

 食事中に浮かんだ『執筆』。

 そして今、動画で見た『投稿』。

 

 点と点が、一本の太い線になった。

 それは雷撃のように、三上の脳髄を貫いた。


「……そっか」


 三上は独り言を漏らした。

 

「小説投稿サイトで、小説を公開しよう」


 その言葉は、疑問形ではなく、確定事項として口から出た。

 なぜ今まで気づかなかったのだろう。

 自分は物語が好きだ。

 ゲームが好きだ。アニメが好きだ。

 三年間、浴びるようにそれらを摂取してきた。

 その蓄積(インプット)は、もしかしたら、外に出たがっているのかもしれない(アウトプット)。

 動画の中の息子のように、「一発逆転」なんて大それたことは考えない。

 ただ、この有り余る時間と、妄想力を、形にしてみたい。

 バイトの合否待ちという宙ぶらりんなこの期間に、何か新しいことを始めたい。

 それが、たまたま「小説」だったのだ。


 直感が告げていた。

 「やれ」と。

 珍しく、三上の怠惰な精神が、この直感には「NO」と言わなかった。


 となれば、善は急げだ。

 三上はブラウザの新しいタブを開いた。

 検索ワードは「小説投稿サイト」。

 

 画面には無数のサイト名が並ぶ。

 だが、三上のようなラノベ好きなら、選択肢は実質三つに絞られる。


 一つ目は『カクヨム』。

 大手出版社KADOKAWAが運営するサイト。見やすいUI、収益化プログラム、そして何より書籍化へのパイプが太い。

 

 二つ目は『アルファポリス』。

 投稿インセンティブがあり、出版申請もできる。異世界ファンタジーや女性向け作品に強いイメージがある。


 そして、三つ目は――。


『小説家になろう』。


 言わずと知れた最大手。

 「なろう系」というジャンル名を生み出した始祖にして、頂点。

 膨大な作品数。膨大な読者数。

 三上自身、読み専(読む専門)として、このサイトには数え切れないほどお世話になっている。

 『転生したらスライムだった件』も、『無職転生』も、ここから始まった。


「……やっぱり、ここだよな」


 迷いは少なかった。

 実家のような安心感。

 使い慣れた(読む側としてだが)インターフェース。

 何より、「小説家になろう」という直球なサイト名が、今の三上の心境に一番フィットしていた。

 ここから始めて、あわよくば……なんて夢も見られるかもしれない。


 よし、決まりだ。

 三上は『小説家になろう』のトップページを開いた。

 「ユーザ登録」のボタンを探す。

 マウスカーソルを合わせる。


 グゥゥゥゥ……。


 その時、腹の虫が盛大なファンファーレを鳴らした。

 

「……あ」


 時計を見る。

 12時30分。

 朝食を食べてから四時間が経過している。

 人間の燃費とは、かくも悪いものなのか。それとも、脳を使って「決意」しただけで、カロリーを消費したのか。

 途端に、空腹感が津波のように押し寄せてきた。


「……飯、食うか」


 小説を書くにはエネルギーがいる。

 腹が減っては戦はできぬ。これは古来よりの真理だ。

 三上はPCをそのままにして、リビングへと退却した。


 昼食のメニューは決まっている。

 冷蔵庫を開けると、鍋ごと入れておいた昨日の残り――正確には一昨日の残りのお雑煮があった。

 味が染み込みすぎて、餅がドロドロに溶けかけている。

 だが、それがいい。

 温め直すと、香ばしい醤油の香りが漂う。

 三上はそれをどんぶりに移し、一気にかき込んだ。

 溶けた餅が喉を通り過ぎる快感。胃袋が熱を持つ。

 ついでに、賞味期限ギリギリの卵を落として半熟にしたのも正解だった。


 満腹。

 圧倒的な充足感。

 三上は食器をシンクに運び、洗剤で洗う。

 水仕事の冷たさが心地よい。

 皿を拭き、棚に戻す。


 そして、自室に戻る頃には。

 

(……あれ? 何しようとしてたんだっけ?)


 きれいさっぱり、消えていた。

 先程までの情熱は、お雑煮の餅と一緒に消化されてしまったらしい。

 人間の記憶力とは、ニワトリ並みなのか。いや、三上悟という個体が、都合の悪いことや努力が必要なことを忘却するスキルに特化しているだけかもしれない。


 部屋に戻った三上は、PCの前に座る……のではなく、ベッドに寝転がった。

 食後のリラックスタイムだ。

 スマホを手に取る。

 パスコード『0000』を入力。(セキュリティ意識など皆無だ)。

 ホーム画面を右から左へスワイプ。

 ページをめくる。

 指が止まったのは、あるゲームアプリのアイコンの上だった。


『にゃんこ大戦争』。


 シュールでキモかわな猫たちが戦う、タワーディフェンスゲーム。

 三上にとっては、中学生の頃から断続的に続けている、もはや生活の一部のようなゲームだ。

 

「ログボだけ、貰っとくか」


 それが、地獄(あるいは天国)への入り口だった。

 アプリが起動する。

 「にゃんこ大戦争~!」という脱力系のボイス。

 ログインボーナスの猫缶を受け取る。

 よし、これで終わり……のはずだった。


 画面に『レジェンドステージ』の未クリアマークが表示されているのが目に入った。

 

「……一回だけ」


 そう呟いて、出撃ボタンを押す。

 戦闘開始。

 壁キャラを生産する。

 金が貯まるのを待つ。

 大型キャラ『ネコムート』を出撃させる。

 敵の『カバちゃん』が吹っ飛ぶ。

 城を落とす。

 『完全勝利!』の文字。


 脳汁が出る。

 やはり、勝つのは気持ちいい。

 昨日のApexや城ドラでの敗北のストレスが、にゃんこたちの単純明快な暴力によって浄化されていく。


「次は……このステージか」


 気づけば、三上は次のステージを選択していた。

 編成を見直す。

 『かさじぞう』を入れるか? いや、ここは『アフロディーテ』の射程が必要だ。

 戦略を練る。

 出撃する。

 勝つ。

 

 その繰り返し。

 単純作業のようでいて、絶妙なバランス。

 積み重ねてきたプレイ時間と、集めてきたキャラクター資産が、三上を「強者」にしてくれる。

 ここでは、彼は無職の三上悟ではない。にゃんこ軍団を率いる総司令官なのだ。


 時が加速する。

 窓の外で太陽が傾き、影が伸びていくことに、三上は気づかない。

 部屋が徐々に薄暗くなり、スマホの画面の輝度が相対的に増していくことにさえ、気づかない。


 ……ピロリン♪


 静寂を破ったのは、別のアプリの通知音だった。

 画面の上部に、バナー通知が表示される。


『城とドラゴン:キーンが溜まりました!回収してください!』


 その無機質な通知が、三上の意識を現実へと引き戻した。

 ハッとして、画面から目を離す。

 部屋は真っ暗だった。

 モニターの電源ランプだけが青く光っている。


「……え?」


 慌てて時計を見る。

 そこには、信じがたい数字が表示されていた。


『19:48』


「はあ!?」


 三上は素っ頓狂な声を上げた。

 昼食を食べ終えたのが、確か13時過ぎ。

 今は、もうすぐ20時。

 つまり、6時間以上。

 6時間以上も、ただひたすらに画面の中の猫を出撃させ続けていたことになる。

 

「嘘だろ……俺の半日が……」


 愕然とする。

 貴重な時間が。

 やる気に満ちていたはずの午後が。

 すべて、にゃんこたちの進軍に消えた。

 だが、後悔と同時に、猛烈な焦りが蘇る。


「そうだ、小説!」


 思い出した。

 忘れていた『小説家になろう』への登録。

 お雑煮の彼方に消えていた決意が、にゃんこ大戦争の中断と共に帰ってきた。


 三上はスマホを放り出し、PCに向き直った。

 マウスを動かし、スリープ状態を解除する。

 画面には、昼間に開いたままの『小説家になろう』のトップページが表示されていた。

 まるで、「遅かったな、待ちくたびれたぞ」と語りかけてくるようだ。


「……やるぞ。今すぐやる」


 自分への戒めのように呟き、三上は『新規ユーザー登録』をクリックした。

 メールアドレスを入力。

 IDを決める。

 パスワードを設定する。

 確認メールが届く。URLをクリックする。

 登録完了。

 ここまではスムーズだった。ネットリテラシーのある現代っ子なら造作もないことだ。


 そして、『執筆』ボタンを押す。

 真っ白なテキストボックスが表示される。


 ――さあ、書け。

 世界がお前を待っている。


 ……はずだった。


「…………」


 手が止まった。

 キーボードの上に置かれた指が、石化したように動かない。


 書くことがない。

 いや、書きたいという衝動はあるのだ。

 だが、具体的な「中身」がない。

 

 ジャンルはどうする?

 異世界転生? 現代ファンタジー? ラブコメ?

 主人公の名前は? 三上悟でいいか? いや、それはリアリティがありすぎる。

 ヒロインは? チート能力は? ラスボスは?

 そして何より、タイトルは?


 「怠惰なニートが異世界に行ったら本気出す」……既視感がある。

 「レベル1だけどユニークスキルで最強」……ありふれている。


 決めなければならない要素が多すぎる。

 自由すぎるキャンバスの前で、三上は途方に暮れた。

 無限の可能性があるということは、無限の迷いがあるということだ。

 脳みそが沸騰しそうだ。

 にゃんこ大戦争で酷使した脳には、ゼロからイチを生み出す創造的作業は負荷が高すぎる。


「……だめだ、詰んだ」


 三上は椅子から立ち上がった。

 このままPCの前で唸っていても、何も出てこない。

 環境を変えよう。

 脳に酸素を送ろう。


 三上は上着を羽織り、財布とスマホだけを持って部屋を出た。

 玄関を開ける。

 夜の冷気が顔を叩く。

 19時50分過ぎ。

 住宅街は静まり返り、夕食の匂いがどこからか漂ってくる。


 三上はあてもなく歩き出した。

 目指すのは、近所の公園だ。

 街灯に照らされたアスファルトを踏みしめる。

 カツ、カツ、とサンダルの音が響く。


 公園に到着する。

 子供たちの姿はない。

 あるのは、静寂と、街灯に照らされた木々だけだ。

 三上はベンチには座らず、花壇のそばに立った。


 人工的な白い光に照らされて、葉の緑色が妙に鮮やかに見える。

 昼間の自然光とは違う、コントラストの強い緑。

 そして、季節外れに咲いている花――パンジーだろうか――が、闇の中でひっそりと、しかし主張するように色を放っている。


 三上は目を閉じた。

 冷たい風が頬を撫でる。

 葉擦れの音が聞こえる。

 ザワザワ、ザワザワ……。


 脳内のノイズが消えていく。

 にゃんこ大戦争のボイスも、城ドラの通知音も、YouTubeの笑い声も。

 静寂の中で、三上は問いかけた。


 ――俺は、何が見たい?

 ――俺は、何になりたい?


 その時だった。

 闇の中で、一筋の光が走ったような気がした。


 映像が浮かんだ。

 キャラクターが動いた。

 タイトルが、文字となって落ちてきた。


「……これだ」


 三上は目を見開いた。

 アイディアの神様が、気まぐれに舞い降りたのだ。

 それは、今までの自分の人生と、願望と、妄想が混ざり合った、最高に「三上悟らしい」物語。


 忘れてはいけない。

 この感覚が消えないうちに。

 お雑煮の二の舞にしてはいけない。


 三上は踵を返した。

 最初は早足で。

 やがて、小走りに。

 そして最後は、全力疾走になった。


 ドタドタドタッ!

 運動不足の体が悲鳴を上げる。

 息が切れる。

 心臓が破裂しそうだ。

 だが、足は止まらない。

 ポケットの中のスマホが暴れる。


 アパートが見えた。

 階段を駆け上がる。

 鍵を取り出す手が震える。

 ガチャリ。

 ドアを開け、靴を脱ぎ捨て、廊下を走る。


「はぁ、はぁ、はぁ……!」


 自室に飛び込む。

 PCはスリープにならずに待っていた。

 椅子に飛び乗るように座る。

 マウスを握る。


 ブラウザを立ち上げる。

 いや、いつものChromeではない。

 三上が「ここぞ」という時に使う、カスタマイズされた高速ブラウザ『Perplexity Comet』だ。

 紫色の彗星のアイコンをクリックする。

 爆速でウィンドウが開く。

 アドレスバーには、デフォルトでGoogle検索が設定されている。


 検索ワードは不要だ。

 ブックマークバーから『小説家になろう』の執筆ページを一発で開く。


 白い画面。

 点滅するカーソル。

 もう、迷いはない。


 三上の指がキーボードの上を走った。

 カタカタカタカタッ!

 心地よい打鍵音が部屋に響く。

 文字が、言葉が、物語が、次々と画面に刻まれていく。


 タイトルを入力する。

 あらすじを入力する。

 第1話の本文を書き始める。


 ニートの夜は長い。

 だが、今夜の三上悟にとって、夜は明けるためにあるものではなく、創造するためにあるものだった。

 彼の作家としての人生が、今、静かに、しかし熱く幕を開けたのである。


(次回に続く)

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