嵐のあとで、もう一度

@6841

第1話 風が運んできたもの

風が、白紙の図面を揺らしていた。


相馬遼はアトリエの中央で、一本の線も引けないまま立ち尽くしていた。

技術の問題ではない。

――描く理由が、どこにも見つからない。


胸の奥に空いた穴には、かつて確かに温もりがあった。


澪。


笑った顔。

ふと遠くを見る横顔。

建築展で交わした最初の言葉。

そして、最後に見せた涙。


遼は目を閉じる。

痛みは、失った重さではなく、まだ知らない未来へ続く“入口”のようだった。


風に揺れる白紙の図面が問いかける。


――お前は、何を描くのか。

――誰のために、どんな未来をつくるのか。


遼は震える指で鉛筆を握り直した。


このときの彼はまだ知らない。

この白紙の図面が、やがて“未来”という名の少女へつながり、

三人の大人の人生を結び直すことになることを。


物語は、ここから始まる。


青年建築家・相馬遼は、愛した女性・澪を突然失った。

残されたのは、白紙の図面と、胸の奥に空いた穴だけ。


しかし、澪が去った理由は「裏切り」ではなく、

未来という名の少女へつながる、深い決断だった。


澪の罪悪感。

黒川の贖罪。

遼の再生。


血のつながらない三人の大人が、一人の少女を育てながら、

家族とは何か、愛とは何かを問い直していく。


これは、因縁と決意と愛が織りなす物語。

そして、未来が“未来をつくる”までの長い旅路である。



第2話 出会い


相馬遼が三枝澪と出会ったのは、都心の建築展だった。


白いシャツの袖を軽くまくり、図面の前で腕を組む彼女は、

光と影の境界に立つ彫刻のようだった。


「この構造、面白いですね」


澪が声をかけた瞬間、遼の胸に風が吹いた。

その風は、ただの偶然ではなかった。


二人の会話は、建築論から人生観へと自然に広がり、

気づけば夜明けまで続いていた。

互いの思考が絡み合い、ほどけ、また結び直されていく。


恋に落ちるのは、必然だった。


澪は美しく、キュートで、どこかアンニュイな影を持っていた。

何を考えているのか分からない瞬間があり、

それがまた遼にはたまらなく魅力的だった。


ある夜、二人で訪れたバーでのこと。

隣の席の外国人男性がメニューを見て困っていると、

澪はさりげなく英語で微笑んだ。


「ラストオーダーですよ」


その仕草は洗練されていて、

遼の胸に深く刻まれた。


――この人となら、どこまでも行ける。


遼はそう思った。

そして、その未来が永遠に続くと信じていた。


第3話 突然の告白


その日、澪はいつもより静かだった。


アトリエの窓から差し込む光の中で、

彼女は何度も言葉を飲み込み、また吐き出そうとしていた。

遼は胸の奥に小さな不安を覚えた。


「……遼」


澪が震える声で呼んだ。

その声だけで、遼の心臓は嫌な音を立てた。


「どうしたんだ、澪」


澪は唇を噛み、視線を落としたまま言った。


「……ごめん。

 あなたの子じゃないの」


世界が、音を失った。


遼は言葉を失い、ただ澪を見つめた。

怒りでも悲しみでもない。

何かもっと深い、形のない感情が胸をかき乱した。


「……どういうことだ」


ようやく絞り出した声は、自分のものとは思えなかった。


澪は震える指で腹部にそっと触れた。

まだ外からは分からない。

だが、彼女には分かっていたのだろう。


「相手は……黒川さん。

 仕事で関わっていた……あの人」


遼の胸に、鋭い痛みが走った。


黒川。

大手建築メーカーの顧問。

澪が尊敬していた中年の建築家。


遼は拳を握りしめた。

怒りなのか、悔しさなのか、自分でも分からなかった。


「どうして……俺に言ったんだ」


澪は涙をこぼしながら答えた。


「言わなきゃいけないと思ったの。

 でも……あなたを傷つけたくなかった。

 それでも……隠して生きることはできなかった」


遼は何も言えなかった。


澪の涙が床に落ちる音だけが、やけに大きく響いた。


その瞬間、遼は悟った。

この告白は、澪にとっても“終わり”だったのだと。


そして、二人の未来が静かに崩れ始めた。


第4話 彼女の本能


妊娠が分かった日の夜、澪は一人で泣いた。


嬉しさと恐怖が、同時に胸に押し寄せてきたからだ。

キャリアは順調だった。

だが、日本で女性が子どもを産み、建築の第一線に立ち続けることの困難さを、

澪は痛いほど知っていた。


「産んだら、終わりよ」


先輩女性建築家が吐き捨てるように言った言葉が、耳に残っていた。


それでも――。


澪は夜ごと、お腹に手を当てた。

まだ小さな、ほんのわずかな膨らみ。

だが、そこには確かに「誰か」がいた。


ある夜、澪はふと目を覚ました。

お腹の奥で、何かが“ふわり”と動いた。


「……え?」


息を呑んだ瞬間、もう一度、小さな泡が弾けるような感覚があった。


――動いた。


澪は震える手でお腹を包み込んだ。

涙が頬を伝う。


「あなた……生きてるのね」


その夜、澪は一睡もできなかった。

お腹の中の小さな命が、時折かすかに動くたびに、

胸が締めつけられた。


建築家として、数えきれないほどの建物を設計してきた。

だが、こんなにも精密で、こんなにも神秘的な“生命の構造”を、

自分の身体の中で育てているなんて――。


澪は初めて知った。


「創造」と「生命」が、同じ場所に宿るということを。


そしてその瞬間、澪の中で何かが静かに芽生えた。


――この子を守らなければ。


それは、母としての本能だった。


第5話 妊娠 ― 影の中で芽生える光


澪が妊娠に気づいたのは、遼と過ごした穏やかな夜の数週間後だった。


検査薬の線を見た瞬間、胸が震えた。

嬉しさと恐怖。そして、深い罪悪感。


――この子は、遼の子じゃない。


澪は夜ごと、お腹に手を当てた。

まだ小さな、ほんのわずかな膨らみ。

だが、そこには確かに「誰か」がいた。


ある夜、澪は初めて胎動を感じた。

小さな、小さな動き。

まるで「ここにいるよ」と伝えるように。


澪は涙をこぼした。


「……ごめんね。あなたを守れなくて」


キャリアは順調だった。

だが、日本で女性が子どもを産み、建築の第一線に立ち続けることの困難さを、

澪は痛いほど知っていた。


――産むことは、キャリアの死。


その言葉が頭をよぎるたびに、胸が締めつけられた。

それでも、澪は思った。


――でも、この命を消すことだけはできない。


胎動があるたびに、澪は自分の決意を確かめるように涙を流した。


遼の未来を壊すわけにはいかない。

自分の存在が、遼の人生を狂わせてはいけない。


そして、澪は悟った。


――愛しているからこそ、離れなければならない。


その決意は、母としての本能と、女としての痛みが混ざり合ったものだった。


澪は、ある日突然姿を消した。

理由も告げず、連絡も絶った。


それが、彼女にできる唯一の“守る”という選択だった。


第6話 静かに始まる変化


妊娠が分かった日の夜、澪はアトリエの片隅で椅子に座り込んだ。


胸の奥がじんわりと熱くなり、同時に冷たい恐怖が背筋を走った。


――私の中に、誰かがいる。


その事実は、あまりにも静かで、あまりにも大きかった。


澪はそっとお腹に手を当てた。

まだ平らなはずの腹部に、ほんのわずかな違和感があった。

それは身体の変化というより、心の奥で芽生えた“気配”のようだった。


「……どうしたらいいの」


誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


妊娠四ヶ月を過ぎた頃、澪は夜中にふと目を覚ました。

お腹の奥で、何かが“ふわり”と動いた。


「……え?」


息を呑んだ瞬間、もう一度、小さな泡が弾けるような感覚があった。


――動いた。


澪は震える手でお腹を包み込んだ。

涙が頬を伝う。


「あなた……生きてるのね」


その夜、澪は一睡もできなかった。

お腹の中の小さな命が、時折かすかに動くたびに、

胸が締めつけられた。


建築家として、数えきれないほどの建物を設計してきた。

だが、こんなにも精密で、こんなにも神秘的な“生命の構造”を、

自分の身体の中で育てているなんて――。


澪は初めて知った。


「創造」と「生命」が、同じ場所に宿るということを。


その気づきは、澪の心に静かな光を灯した。

だが同時に、その光は影を生んだ。


――私は、この子と一緒にいられないかもしれない。


その影は、日ごとに濃くなっていった。


第7話 蹴り返す小さな足 ― 母になる瞬間


妊娠六ヶ月。

澪はソファに横になりながら、ゆっくりとお腹を撫でていた。


そのときだった。


“トン”


内側から、小さく蹴られた。


「……!」


澪は驚いて手を止めた。

息を呑む間もなく、もう一度。


“コツン”


今度は、はっきりとした動きだった。


澪は思わず笑った。

そして、涙が溢れた。


「あなた……そんなに元気なの」


お腹の中の子は、まるで澪の手に応えるように、何度も蹴った。

そのたびに、澪の胸は温かい光で満たされた。


――この子を守りたい。

――絶対に。


その想いは、母としての本能だった。


だが同時に、胸の奥に黒い影が広がった。


――私は、この子と一緒にいられないかもしれない。


遼の未来を壊したくない。

黒川の立場を奪いたくない。

自分のキャリアも、もう戻らないかもしれない。


それでも、澪はお腹を抱きしめた。


「……大丈夫。

 あなたのことは、絶対に守るから」


その言葉は、誰に向けたものでもなく、

ただ、澪自身の決意を確かめるための祈りのようだった。


小さな足は、そっと蹴り返してきた。


まるで「信じてるよ」と言うように。


第8話 キャリアと現実 ― 崩れていく未来


澪は建築家として、ようやく世界に手が届き始めていた。


海外のプロジェクト。

大手メーカーとの共同案件。

名前が雑誌に載るようになり、未来が開けていくはずだった。


だが、妊娠を告げれば、すべてが消える。


現場に立てない建築家は、ただの“名前”になる。

プロジェクトは外され、海外の仕事もなくなる。

日本の建築業界は、母親に優しくなかった。


澪はそれを痛いほど知っていた。


「産んだら終わりよ」


先輩女性建築家の言葉が、何度も頭をよぎった。


澪はお腹を撫でながら、深く息を吐いた。


――終わってもいい。

――でも、この命を消すことだけはできない。


胎動があるたびに、澪の胸は締めつけられた。

その小さな動きが、彼女の決意を確かめるように響いた。


だが、現実は残酷だった。


黒川は既婚者であり、企業の重役。

妊娠が公になれば、澪のキャリアは破壊される。

遼の未来も巻き込まれる。


澪は夜ごと、お腹を抱きしめて泣いた。


「……どうしたらいいの。

 あなたを守りたいのに……」


涙が落ちるたびに、胎動が返ってきた。


まるで「大丈夫」と言うように。


その優しさが、澪をさらに苦しめた。


――私は、この子と一緒にいられないかもしれない。


その影は、日に日に濃くなっていった。


第9話 遼への罪悪感 ― 愛しているのに言えない


遼と過ごす時間は、澪にとって何よりの救いだった。


遼は優しく、真っ直ぐで、未来に向かって歩いている人間だった。

その背中を見るたびに、澪は胸が痛んだ。


――この人の未来を、私が壊してしまう。


その思いが、日ごとに重くなっていった。


遼はまだ若い。

才能に満ちている。

これから世界に羽ばたくべき人間だ。


そして何より――

この子が“スキャンダルの子”として生きることになる。


澪は夜ごと、お腹を抱きしめて泣いた。


「ごめんね……遼。

 でも、あなたの未来を壊したくないの」


胎動が返ってきた。

小さく、優しく。


まるで「大丈夫」と言っているように。


その優しさが、澪をさらに苦しめた。


遼はきっと、自分を責める。

黒川を憎む。

そして、澪を許そうとする。


その優しさが、遼の未来を奪う。


澪は知っていた。

遼は、誰よりも優しい人間だということを。


だからこそ、言えなかった。


「……遼。

 あなたを愛しているのに……言えないの」


澪は涙を拭い、静かに目を閉じた。


――私は、この人の未来から消えなければならない。


その決意は、愛よりも痛く、

母としての本能よりも苦しかった。


第10話 別れの決意 ― 母としての最初の犠牲


妊娠八ヶ月。

澪のお腹は大きくなり、歩くたびに重さを感じるようになっていた。


だが、その重さは苦ではなかった。

むしろ、愛おしかった。


――この子と離れたくない。


その想いは、日に日に強くなっていった。


しかし、現実は残酷だった。


黒川は既婚者であり、企業の重役。

妊娠が公になれば、澪のキャリアは破壊される。

遼の未来も巻き込まれる。


澪は、それだけは避けたかった。


ある夜、胎動が激しくなった。

澪はお腹を抱きしめ、涙を流した。


「ごめんね……ごめんね……

 あなたと一緒にいたい。

 でも、あなたの未来を守るためには……

 私は、いなくならなきゃいけないの」


お腹の中の子は、まるで澪の涙を感じ取るように、そっと動いた。


その優しい動きが、澪の心を決壊させた。


「愛してる……

 あなたを守るためなら……

 私は、どこへでも行く」


その夜、澪は決意した。


母としての最初の犠牲は、“別れ”だった。


第11話 失踪 ― 愛ゆえの逃避


遼に真実を告げた翌日、澪は姿を消した。


荷物は最小限。

スマートフォンは電源を切り、机の上に置いたまま。

遼の連絡先を開いた画面が、そのまま残っていた。


澪は最後にアトリエを振り返った。


「……ごめんね、遼」


その声は、風に溶けて消えた。


澪は遼の未来を守るために去った。

子どもの未来を守るために去った。

そして、自分の弱さに負けないために去った。


お腹をそっと撫でながら、澪は呟いた。


「あなたは、きっと幸せになる。

 私がそばにいなくても……

 あなたは光の中で生きていける」


胎動が返ってきた。

それは、澪がこの子から受け取った最後の“返事”だった。


澪は涙を拭い、静かに歩き出した。


その背中は震えていたが、

決意だけは揺らいでいなかった。


こうして、澪は二人の人生から消えた。


愛しているからこそ、

最も残酷な選択を選んだのだった。


第12話 黒川の告白 ― 贖罪の始まり


「澪は海外へ行く。

 すべての仕事を捨てて、ゼロからやり直すつもりだ」


黒川の言葉に、遼は息を呑んだ。


「……なぜですか」


黒川はしばらく黙り、深く息を吐いた。


「澪は、君を守ろうとしたんだ。

 そして……子どもをだ」


遼の胸が締めつけられた。


黒川は続けた。


「俺は、あの子を育てるつもりだ。

 地位も名誉も捨ててでもな」


遼は驚いた。

黒川は既婚者であり、企業の重役。

妊娠が公になれば、澪のキャリアも遼の未来も破壊される。


それでも黒川は、逃げなかった。


「澪は……君が子どもを育てることで成長できると、本能で分かっていたんだろう。

 だから産む決意をした。

 そして、君の未来を壊さないために去った」


黒川の声は震えていた。

それは、初めて見せる“弱さ”だった。


遼は拳を握りしめた。

怒りなのか、悲しみなのか、自分でも分からなかった。


だが、ひとつだけ確かだった。


――澪は、最後まで誰かを守ろうとしていた。


そして黒川もまた、何かを背負おうとしていた。


その重さが、遼の胸に静かに落ちていった。


第13話 黒川の過去 ― 失われた家族


黒川には、誰にも話していない過去があった。


若い頃、彼は仕事に没頭していた。

才能があり、野心があり、誰よりも早く成功を掴もうとしていた。


その代わりに、失ったものがあった。


家庭だ。


妻は孤独に耐えきれず、家を出た。

幼い息子は、黒川の顔を覚えていない。


黒川はその罪を、ずっと胸に抱えて生きてきた。


――俺は、父親として失格だった。


その言葉は、黒川の心に深く刻まれていた。


だからこそ、澪の妊娠を知ったとき、黒川は逃げなかった。

逃げれば、また同じ過ちを繰り返す。

今度こそ、責任を取らなければならない。


それは、黒川にとって“贖罪”だった。


そして同時に――

“再生”でもあった。


澪の子を守ることは、

かつて守れなかった家族への、遅すぎる償いだった。


黒川は静かに目を閉じた。


「……今度こそ、逃げない」


その決意は、誰に向けたものでもなく、

ただ、自分自身への誓いだった。


第14話 炎の夜 ― 二人の男の決意


黒川から連絡が来たのは、夕暮れが街を赤く染め始めた頃だった。


「遼くん……一緒に暮らして、その子を育てないか」


遼は言葉を失った。


裏切られた相手の子を育てる――

そんな選択が、自分にできるのか。


黒川は静かに続けた。


「澪は、君を信じている。

 君が父親になることで、もっと強くなると分かっているんだ」


遼の胸に、澪の涙が蘇った。

そして、彼女が最後に見せたあの表情も。


遼はゆっくりと頷いた。


「……俺にできることがあるなら、やります」


黒川は深く息を吐き、遠くを見るように言った。


「ありがとう。

 俺も……逃げない」


その頃、大手メーカーから黒川に電話があった。

キャンセルになった大型物件の資材を焼却処分するという。


「10トン車で30台分だと?

 捨てるくらいなら、俺にくれ」


黒川は資材を引き取り、工場跡地に積み上げた。


夜。

遼と黒川は、その山に火をつけた。


炎は轟音を立てて燃え上がり、夜空を朱に染めた。

鉄骨が爆ぜ、木材が崩れ、火の粉が舞い上がる。


遼はその光景に圧倒された。

何かが終わり、何かが始まる――

そんな象徴のようだった。


黒川は炎を見つめながら言った。


「終わりじゃない。

 始まりだ」


その言葉は、遼だけでなく、黒川自身にも向けられていた。


この夜、黒川は初めて“父になる覚悟”を得たのだった。


第15話 未来の誕生 ― 光と喪失の瞬間


澪が病院に運ばれたのは、冬の夜だった。


雪が静かに降り始め、街灯の光に溶けていく。

その静けさとは裏腹に、澪の呼吸は荒く、額には汗が滲んでいた。


「大丈夫です。深呼吸して」


助産師の声が響く。

澪は必死に息を整えた。


――この子だけは、守らなきゃ。


その想いだけが、澪を支えていた。


陣痛は波のように押し寄せ、澪の身体を容赦なく締めつけた。

痛みで視界が滲む。

それでも、澪はお腹を抱きしめた。


「……大丈夫。

 あなたは、絶対に生きる」


その言葉は祈りだった。


そして――


「頭が見えてきましたよ!」


助産師の声と同時に、澪は最後の力を振り絞った。


次の瞬間。


産声が、静かな病室に響いた。


澪は涙を流した。

その声は、世界で一番美しい音だった。


「……未来」


澪は震える手で、赤ん坊の頬に触れた。

小さくて、温かくて、命そのものだった。


だが、その幸福は長く続かなかった。


出血が止まらない。

医師たちの声が慌ただしく飛び交う。


「輸血を急いで!」「血圧が下がっている!」


澪の意識が遠のいていく。


――ああ、よかった。

――あなたが生まれてきてくれて。


未来の小さな手が、澪の指を握った。


その温もりを最後に、澪の瞳は静かに閉じられた。


光の中で、未来は泣き続けていた。


その泣き声は、

澪が残した“最後の希望”だった。


第16話 初めて抱く未来 ― 遺された命


澪が亡くなった翌朝、遼は病院に呼び出された。


白い廊下は、いつもより長く感じた。

足音だけが虚しく響く。


「相馬遼さんですね。

 ……お子さんを、お連れします」


看護師の声は優しかったが、遼の胸には重く沈んだ。


――澪の子ども。


その言葉だけで、胸が締めつけられた。


やがて、小さな包みが遼の腕にそっと乗せられた。


温かい。

軽い。

そして、確かに生きている。


赤ん坊は、遼の胸の中で小さく息をしていた。

澪の面影があった。

目元の形も、口元の柔らかさも。


遼は震える声で呟いた。


「……未来」


その名前を口にした瞬間、涙が溢れた。


澪が命を懸けて守った子。

澪が最後に残した“希望”。


未来は、遼の指をぎゅっと握った。


その小さな力に、遼は息を呑んだ。


――生きている。

――澪の代わりに、俺が守らなきゃいけない。


胸の奥で、何かが静かに灯った。


看護師がそっと言った。


「お母さん……とても頑張っていましたよ。

 あなたに、この子を託したんです」


遼は未来を抱きしめた。


「……大丈夫だ。

 俺が守る。

 澪が守ったように、俺も守る」


その言葉は、遼自身への誓いだった。


澪が残した命を抱きしめながら、

遼は初めて“父になる”という現実を受け入れた。


第17話 二人の父 ― 不器用な始まり


未来を抱いたまま、遼は病院のロビーに立ち尽くしていた。


澪の死を告げられたときの衝撃は、まだ胸の奥で鈍く疼いている。

だが腕の中の小さな命は、そんな遼の痛みとは無関係に、静かに眠っていた。


「……遼くん」


背後から黒川が声をかけた。


振り返った遼の目は赤く腫れていた。

黒川もまた、同じだった。


二人はしばらく言葉を交わせなかった。

沈黙だけが、白いロビーに落ちていく。


やがて黒川がゆっくりと口を開いた。


「澪は……最後まで、この子のことを守ろうとしていた。

 君のことも、俺のことも」


遼は未来を見つめた。

小さな指が、遼の服をぎゅっと掴んでいる。


「……俺、どうすればいいんですか」


その声は震えていた。

父になる覚悟など、まだどこにもなかった。


黒川は深く息を吐いた。


「俺たちが……守るしかない。

 澪が命を懸けて残した、この子を」


遼は唇を噛んだ。

黒川の言葉は正しい。

だが、正しすぎて苦しかった。


「俺なんかに……できるんでしょうか」


黒川は首を横に振った。


「できるかどうかじゃない。

 やるしかないんだ。

 俺も……逃げない」


その言葉に、遼はゆっくりと頷いた。


未来が小さく身じろぎし、遼の胸に顔を埋めた。

その温もりが、遼の心に静かに染み込んでいく。


――守らなきゃいけない。

――澪の代わりに。


遼は未来を抱きしめた。


「……分かりました。

 俺、やります。

 この子の父親になります」


黒川は目を閉じ、深く頷いた。


こうして、

二人の男の不器用な“父としての人生”が始まった。


第18話 退院 ― 三人の新しい生活


澪が亡くなってから三日後。

未来は退院の日を迎えた。


冬の空は薄い灰色で、どこか澪の不在を映しているようだった。

遼は未来を抱きながら、病院の玄関に立ち尽くした。


「……寒いな」


未来は小さく身じろぎし、遼の胸に顔を埋めた。

その温もりが、遼の心に静かに染み込んでいく。


黒川が車を回してきた。

表情は硬いが、その目には決意が宿っていた。


「行こう。

 今日から……三人で生きていくんだ」


遼は小さく頷いた。


車に乗り込むと、未来はすぐに泣き出した。

小さな声なのに、車内に響くと胸が締めつけられるほど大きく感じた。


遼は慌ててあやしたが、うまくいかない。

黒川も不器用に手を伸ばした。


「……どうすればいいんだ」


「分かりません……」


二人の声は情けなく、どこか滑稽だった。

だが、その不器用さが未来には安心だったのか、

やがて泣き声は小さくなり、静かな寝息に変わった。


遼はそっと息を吐いた。


「……俺たち、本当にやっていけるんでしょうか」


黒川は前を見たまま答えた。


「やるしかない。

 澪が残した命だ。

 俺たちが守らなきゃいけない」


遼は未来の小さな手を握った。

その指は、遼の指をぎゅっと掴み返してきた。


――大丈夫だ。

――この子がいる限り、前に進める。


遼は静かに目を閉じた。


こうして、

澪のいない世界での“三人の生活”が始まった。


第19話 最初の夜 ― 澪のいない部屋で


未来を連れて帰ったその夜、

遼と黒川は、澪のいない部屋に立ち尽くしていた。


家具も、照明も、空気の匂いも、

すべてが澪のままだった。


だが、彼女だけがいない。


遼は未来を抱きながら、そっと部屋を見渡した。

澪が使っていたマグカップ。

読みかけの建築雑誌。

机の上に置かれたままのシャープペン。


どれもが、澪の時間を止めていた。


「……ここで、澪さんは暮らしていたんですね」


遼の声は震えていた。


黒川はゆっくりと頷いた。


「そうだ。

 ここで笑って、泣いて、仕事をして……

 そして、この子を守ろうとしていた」


未来が小さく泣き出した。

遼は慌ててあやすが、うまくいかない。


「どうしたら……」


黒川も不器用に手を伸ばした。


「ミルクかもしれない。

 いや、オムツか……?」


二人は右往左往した。

その姿は滑稽で、痛々しく、そしてどこか温かかった。


やがて未来は泣き止み、遼の胸に顔を埋めて眠った。


遼はその小さな寝息を聞きながら、静かに呟いた。


「……澪さん。

 俺、本当にやれるんでしょうか」


返事はない。

だが、澪の残した空気が、遼の背中をそっと押した。


黒川が静かに言った。


「やるしかない。

 俺たちが、この子の世界になるんだ」


遼は未来を抱きしめた。


澪のいない部屋で、

三人の最初の夜が、静かに始まった。


第20話 夜泣き ― 小さな命に振り回される二人


三人の生活が始まって三日目の夜。

未来は突然、大きな声で泣き出した。


「うわっ……!」


遼は飛び起きた。

黒川も寝室から慌てて出てくる。


「どうしたんだ……?

 ミルクか? オムツか? 寒いのか?」


二人は右往左往した。

未来の泣き声はどんどん大きくなり、

小さな部屋に響き渡る。


遼は抱き上げて揺らしてみたが、泣き止まない。

黒川がミルクを作ろうとしたが、手が震えて粉をこぼした。


「ちょ、ちょっと待て……!

 落ち着け、俺……!」


「黒川さんが落ち着いてください……!」


二人の声は情けなく、どこか滑稽だった。

だが、その必死さが未来には伝わったのか、

やがて泣き声は少しずつ弱まり、

遼の胸の中で小さく息を整え始めた。


遼は大きく息を吐いた。


「……よかった……」


黒川も壁にもたれかかり、深く息をついた。


「赤ん坊って……こんなに大変なのか」


「はい……でも、かわいいですね」


未来は遼の指をぎゅっと握った。

その小さな力に、遼の胸がじんわりと温かくなる。


黒川がぽつりと言った。


「澪は……一人で、これをやっていたんだな」


遼は黙って頷いた。

胸の奥が締めつけられる。


未来の寝息が静かに響く。

その音は、澪が残した“命のリズム”だった。


遼は未来を抱きしめた。


「……大丈夫だ。

 俺たちが守るからな」


その言葉に、黒川も静かに頷いた。


こうして、

三人の不器用な生活は、少しずつ形になり始めた。


第21話 朝の光 ― 小さな日常の始まり


未来が家に来て一週間。

遼と黒川の生活は、すっかり未来中心になっていた。


この日の朝も、未来の泣き声で始まった。


「う、うわっ……! もう朝か……」


遼は寝ぼけたまま布団から飛び起きた。

黒川はすでに起きており、キッチンでぎこちなくミルクを温めていた。


「温度……これでいいのか……?

 熱すぎてもダメだし、ぬるすぎても……」


「黒川さん、顔が真剣すぎます……」


二人のやり取りに、未来は泣きながらも小さく笑ったように見えた。


遼が抱き上げると、未来はすぐに泣き止んだ。

その小さな安心の仕草に、遼の胸がじんわりと温かくなる。


「……かわいいな」


黒川がミルクを持ってきた。


「ほら、飲ませてみろ」


遼は慎重に哺乳瓶を傾けた。

未来は小さな口で一生懸命に吸い始める。


その姿を見て、黒川はぽつりと言った。


「……澪も、こうして飲ませていたんだろうな」


遼は黙って頷いた。

胸の奥が少し痛む。

だが、その痛みはどこか優しかった。


ミルクを飲み終えた未来は、満足そうに遼の胸に顔を埋めた。

その温もりが、部屋の空気を柔らかくしていく。


黒川がコーヒーを淹れながら言った。


「……不思議だな。

 たった一人増えただけで、家の空気がこんなに変わるなんて」


遼は未来の小さな手を握りながら答えた。


「澪さんが残した“未来”ですから」


黒川は静かに頷いた。


朝の光がカーテンの隙間から差し込み、

三人の新しい生活を、そっと照らしていた。


第22話 父になる瞬間 ― 小さな背中を支える手


未来が家に来て十日ほど経った頃。

遼は、初めて一人で未来を風呂に入れることになった。


「……本当に俺がやるんですか」


黒川は腕を組んで頷いた。


「やれ。

 父親なんだから」


その言葉に、遼の胸が少しだけ熱くなった。


風呂場は湯気で白く曇っていた。

未来は裸になり、まだ頼りない身体を小さく丸めている。


遼はそっと抱き上げた。


「……軽いな」


未来の肌は温かく、柔らかかった。

その小さな命を支えているという実感が、遼の胸にじんわりと広がる。


湯に浸けると、未来は驚いたように目を丸くした。

だがすぐに安心したのか、遼の胸に寄り添ってくる。


「大丈夫だよ。

 俺がいるから」


その言葉は、自然に口からこぼれた。


未来は小さく笑ったように見えた。

その瞬間、遼の心に何かが灯った。


――守りたい。

――この子の未来を。


風呂から上がると、黒川がタオルを持って待っていた。


「どうだ、やってみて」


遼は未来を抱きながら答えた。


「……思ってたより、ずっと怖かったです。

 でも……悪くなかった」


黒川は小さく笑った。


「それでいい。

 父親なんて、最初はみんな怖いんだ」


未来はタオルに包まれ、安心したように眠り始めた。


遼はその小さな寝息を聞きながら、静かに思った。


――俺は、この子の父親なんだ。


その実感が、遼の胸にゆっくりと根を下ろしていった。


第23話 家族のかたち ― 小さな笑顔がつなぐもの


未来が家に来て二週間。

部屋の空気は、少しずつ柔らかくなっていた。


この日の午後、遼は未来を抱いてリビングのソファに座っていた。

未来は機嫌がよく、小さな手をぱたぱたと動かしている。


「……かわいいな」


遼が思わず笑うと、未来も笑った。

その笑顔は、澪の面影をほんの少しだけ宿していた。


黒川がキッチンから顔を出した。


「笑ってるのか?」


「はい。

 なんか……嬉しそうです」


黒川はゆっくりと近づき、未来の顔を覗き込んだ。

未来は黒川の指を掴み、ぎゅっと握った。


黒川は驚いたように目を見開いた。


「……おい。

 握ったぞ」


「未来、黒川さんのこと好きなんですよ」


未来はさらに笑った。

その笑顔に、黒川の表情が少しだけ緩む。


「……澪に似てるな」


遼は静かに頷いた。


「はい。

 でも……黒川さんにも似てます」


黒川は少しだけ目を伏せた。


「そうか……」


その声には、後悔と喜びが入り混じっていた。


未来が小さくあくびをした。

遼はそっと抱き直し、黒川が毛布をかけてやる。


二人の動きはぎこちないが、どこか自然だった。


「……なんか、家族みたいですね」


遼がぽつりと言うと、黒川は少し驚いたように遼を見た。


だが、すぐに静かに頷いた。


「そうだな。

 家族だ。

 澪が残した……俺たちの家族だ」


未来は二人の声を聞いているかのように、

安心した顔で眠り始めた。


その寝息は、

三人をそっとつなぐ“新しい家族の音”だった。


第24話 澪のノート ― 遺された言葉


未来が昼寝をしている間、

遼はふと、澪の部屋を片付けようと思い立った。


触れるのが怖かった。

けれど、いつか向き合わなければならないと分かっていた。


机の引き出しを開けると、

そこには一冊のノートがあった。


表紙は少し擦れていて、

角は丸くなっている。


遼はそっと開いた。


最初のページには、澪の文字でこう書かれていた。


――未来へ。


遼の胸が強く締めつけられた。


ページをめくると、

そこには未来へのメッセージが綴られていた。


「あなたが生まれる頃、

 私はたくさんの不安を抱えていました。

 でも、あなたが動くたびに、

 私は強くなれた気がします」


遼の視界が滲んだ。


澪は、未来のために書いていたのだ。

自分がそばにいられないかもしれない未来を、

どこかで覚悟していたのかもしれない。


さらにページをめくる。


「あなたが笑う日を見たかった。

 あなたの手を握りたかった。

 あなたの未来を、この目で見届けたかった」


遼はノートを胸に抱きしめた。


「……澪さん……」


声が震えた。


黒川が部屋の前に立っていた。

遼の肩越しにノートを見て、静かに言った。


「それは……澪が最後まで書いていたものだ」


遼は涙を拭い、ノートを閉じた。


「未来に……いつか渡します」


黒川はゆっくり頷いた。


「そうだな。

 あの子が大きくなったら……きっと喜ぶ」


未来の寝息が、隣の部屋から聞こえてくる。


その音は、

澪が残した“言葉”と重なり、

遼の胸に静かに染み込んでいった。


第25話 初めての笑顔 ― 小さな奇跡


未来が家に来て三週間。

季節はゆっくりと冬から春へ向かい始めていた。


この日の午後、遼は未来を抱いて窓辺に座っていた。

外では柔らかな陽が差し込み、部屋の空気を少しだけ温めている。


「ほら、光がきれいだぞ」


未来は眩しそうに目を細め、

そのあと――ふっと、口元を緩めた。


遼は息を呑んだ。


「……笑った?」


未来はもう一度、今度ははっきりと笑った。

小さくて、柔らかくて、世界で一番優しい笑顔だった。


遼の胸が一気に熱くなる。


「未来……笑ったんだな……」


その声に気づいたのか、黒川がリビングに入ってきた。


「どうした?」


「黒川さん……未来が、笑いました」


黒川は驚いたように目を見開き、未来の顔を覗き込んだ。


未来は黒川の顔を見て、また笑った。


その瞬間、黒川の表情が崩れた。


「……澪に似てる」


遼は静かに頷いた。


「はい。

 でも……黒川さんにも似てますよ」


黒川は目を伏せ、未来の小さな手をそっと握った。


「……ありがとう。

 生まれてきてくれて」


未来はその手をぎゅっと握り返した。


遼はその光景を見ながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。


――この子は、確かに生きている。

――澪の願いも、ここに生きている。


未来の笑顔は、

三人の心を静かに、しかし確かにつないでいった。


その小さな奇跡は、

家族としての新しい一歩だった。


第26話 首がすわる日 ― 小さな成長が教えてくれること


未来が家に来て一ヶ月が過ぎた。


まだ寒さの残る朝、

遼は未来を抱いてリビングに座っていた。


「ほら、今日もいい天気だぞ」


未来は遼の声に反応して、

小さく手足を動かした。


そのときだった。


未来の首が、ふっと持ち上がった。


「……え?」


遼は思わず息を呑んだ。

未来はまだ不安定ながらも、

自分の力で首を支えようとしている。


「黒川さん……!

 未来、首が……!」


黒川が慌てて駆け寄ってきた。


「本当か……? 見せてみろ」


遼がそっと支えると、

未来はまた、ゆっくりと首を上げた。


その小さな努力に、

二人はしばらく言葉を失った。


「……すごいな。

 こんなに早く……」


黒川の声は震えていた。


未来は誇らしげに見えるほど、

小さな顔を遼に向けている。


遼は胸が熱くなった。


「未来……すごいよ。

 ちゃんと、成長してるんだな」


未来は嬉しそうに声をあげた。

その声は、澪の面影をほんの少しだけ宿していた。


黒川がぽつりと言った。


「……澪が見たら、喜んだだろうな」


遼は静かに頷いた。


「はい。

 でも……俺たちが見届けます。

 澪さんの代わりに」


未来は二人の声を聞いているかのように、

また小さく首を持ち上げた。


その小さな成長は、

遼と黒川の胸に、確かな希望を灯した。


――この子は、生きていく。

――俺たちが支えていく。


未来の小さな背中は、

二人に“父としての覚悟”を教えてくれていた。


第27話 外の空気 ― 初めての散歩


未来が首を持ち上げるようになって数日後。

遼と黒川は、思い切って未来を連れて外へ出ることにした。


「……大丈夫でしょうか」


遼は抱っこ紐を何度も確認していた。

未来はその中で、きょとんとした顔をしている。


黒川はベビーカーを押しながら言った。


「大丈夫だ。

 外の空気を吸わせてやろう」


冬の名残がまだ少し残る風が、

三人の頬をそっと撫でた。


未来はその風に驚いたのか、

小さく声をあげた。


「未来、寒いか?」


遼が覗き込むと、

未来はふにゃりと笑った。


その笑顔に、遼の胸が一気に温かくなる。


「……笑ってますね」


黒川も未来を覗き込み、

ほんの少しだけ表情を緩めた。


「外が気に入ったのかもしれないな」


三人はゆっくりと歩き出した。

近所の公園には、まだ人影は少ない。

木々の枝には小さな芽がつき始めていた。


未来はその景色をじっと見つめている。

まるで世界のすべてが新しいものに見えるかのように。


遼はふと呟いた。


「……澪さんも、こうして未来に外の景色を見せたかったんでしょうね」


黒川は静かに頷いた。


「そうだろうな。

 でも……俺たちが見せてやればいい」


未来が小さく手を伸ばした。

その指先は、まだ何も掴めない。

けれど、その仕草は確かに“生きようとしている”証だった。


遼は未来の手をそっと握った。


「未来……これから、いろんな景色を見ような」


未来は嬉しそうに声をあげた。


その声は、

澪が残した“希望の音”のように聞こえた。


三人の影が、

朝の光の中でゆっくりと並んで伸びていく。


それは、

新しい家族の形が静かに形になり始めた瞬間だった。


第28話 声の芽生え ― 小さな世界が広がる音


未来を連れて初めて散歩に出た翌日。

遼はリビングで未来を抱きながら、ゆっくりと揺れていた。


未来は機嫌がよく、

「あー」「うー」と小さな声を出している。


その声は、まるで世界を確かめるようだった。


「……未来、声が増えてきたな」


遼が微笑むと、未来はさらに声をあげた。

その音は、澪の面影をほんの少しだけ宿している。


黒川がキッチンから顔を出した。


「何を話してるんだ?」


「分かりませんけど……楽しそうです」


黒川は未来の顔を覗き込み、

未来は黒川に向かって「あー」と声を伸ばした。


黒川は驚いたように目を見開いた。


「……呼んだのか?」


「呼んだんだと思いますよ」


未来はさらに声を重ねた。

その音は、家の空気を柔らかく震わせる。


遼はふと、澪のノートの言葉を思い出した。


――あなたの声を聞きたかった。


胸が少しだけ痛む。

けれど、その痛みはどこか優しかった。


黒川が未来の手を握りながら言った。


「……澪が聞いたら、泣いて喜んだだろうな」


遼は静かに頷いた。


「はい。

 でも……俺たちが聞いてあげればいいんです」


未来は二人の声に応えるように、

また「あー」と声をあげた。


その小さな音は、

三人の世界を少しずつ広げていく。


遼は未来を胸に抱きしめた。


――この子は、生きている。

――そして、世界を知ろうとしている。


未来の声は、

澪が残した“命の続き”そのものだった。


第29話 寝返り ― 小さな一歩が世界を変える


未来の声が増え始めて数日後。

遼はリビングの床に布団を敷き、未来を寝かせていた。


未来は機嫌がよく、

「あー」「うー」と声を出しながら手足をばたつかせている。


「今日も元気だな、未来」


遼が笑いかけると、未来は嬉しそうに声を返した。


そのときだった。


未来の身体が、ゆっくりと横へ傾いた。


「……え?」


遼が息を呑む間に、

未来は小さな力で身体をひねり、

ころん、と横向きになった。


寝返りだった。


「黒川さん……!

 未来、寝返りしました!」


黒川が慌ててキッチンから飛び出してきた。


「本当か……? 見せてみろ」


遼がそっと未来を仰向けに戻すと、

未来はまた、ゆっくりと身体をひねり、

ころん、と横向きになった。


その小さな動きに、

二人はしばらく言葉を失った。


「……すごいな。

 こんなに早く……」


黒川の声は震えていた。


未来は誇らしげに見えるほど、

小さな声をあげて笑った。


遼は胸が熱くなるのを感じた。


「未来……すごいよ。

 ちゃんと、自分の力で動いてるんだな」


未来はさらに声をあげ、

小さな手を空に伸ばした。


黒川がぽつりと言った。


「……澪が見たら、泣いて喜んだだろうな」


遼は静かに頷いた。


「はい。

 でも……俺たちが見届けます。

 澪さんの代わりに」


未来は二人の声に応えるように、

またころん、と寝返りをした。


その小さな一歩は、

三人の世界を確かに前へ進めていた。


――この子は、生きている。

――そして、成長している。


未来の寝返りは、

澪が残した“命の続き”そのものだった。


第30話 離乳食の一匙 ― 小さな口が開く瞬間


未来が寝返りを覚えてから数日後。

遼と黒川は、ついに離乳食を始める日を迎えた。


「……本当に食べるんでしょうか」


遼はスプーンを持ったまま固まっていた。

未来は椅子に座り、きょとんとした顔で二人を見ている。


黒川は小さく頷いた。


「やってみろ。

 最初は誰だってうまくいかない」


遼は緊張しながら、

小さなスプーンにすりつぶしたお粥をすくった。


「未来、いくぞ……」


未来の前にスプーンを差し出すと、

未来はしばらくじっと見つめ――


ぱくっ。


小さな口が開いた。


遼は思わず声をあげた。


「食べた……!

 未来、食べました!」


黒川も驚いたように目を見開いた。


「本当に……食べたな」


未来はもぐもぐと口を動かし、

そのあと嬉しそうに声をあげた。


「あー!」


その声は、

まるで「もっとちょうだい」と言っているようだった。


遼は胸が熱くなるのを感じた。


「未来……すごいよ。

 ちゃんと食べてる」


黒川もスプーンを手に取り、

未来の口元にそっと差し出した。


未来はまた、ぱくっと食べた。


その小さな動きに、

二人はしばらく言葉を失った。


「……澪が見たら、喜んだだろうな」


黒川の声は少し震えていた。


遼は静かに頷いた。


「はい。

 でも……俺たちが見届けます。

 澪さんの代わりに」


未来は二人の声に応えるように、

また嬉しそうに声をあげた。


その小さな一匙は、

三人の世界をまた一歩前へ進めていた。


――この子は、生きている。

――そして、未来へ向かって進んでいる。


離乳食の一匙は、

澪が残した“命の続き”そのものだった。


第31話 つかまり立ち ― 小さな足が踏み出す世界


未来が離乳食を食べ始めてから数週間。

季節はゆっくりと春へ向かい、

部屋の空気もどこか柔らかくなっていた。


この日の午後、遼はリビングで未来を遊ばせていた。

未来はお気に入りのぬいぐるみを握りしめ、

「あー」「うー」と楽しそうに声をあげている。


「未来、今日も元気だな」


遼が笑いかけると、未来はさらに声を返した。


そのときだった。


未来が、テーブルの脚に手を伸ばした。

そして――


ぐっ、と小さな手で掴み、

ゆっくりと身体を持ち上げ始めた。


「……え?」


遼は息を呑んだ。


未来はふらふらとしながらも、

自分の足で立とうとしている。


「黒川さん……!

 未来、立ってます!」


黒川が慌てて部屋に飛び込んできた。


「本当か……? 見せてみろ」


未来はテーブルにつかまりながら、

小さな足でしっかりと床を踏みしめていた。


その姿に、二人はしばらく言葉を失った。


「……すごいな。

 こんなに早く……」


黒川の声は震えていた。


未来は誇らしげに見えるほど、

小さく声をあげて笑った。


遼は胸が熱くなるのを感じた。


「未来……すごいよ。

 ちゃんと、自分の力で立ってる」


未来はさらに声をあげ、

小さな足を踏みしめるように揺れた。


黒川がぽつりと言った。


「……澪が見たら、泣いて喜んだだろうな」


遼は静かに頷いた。


「はい。

 でも……俺たちが見届けます。

 澪さんの代わりに」


未来は二人の声に応えるように、

また小さく声をあげた。


その小さな一歩は、

三人の世界をまた確かに前へ進めていた。


――この子は、生きている。

――そして、未来へ向かって進んでいる。


つかまり立ちのその瞬間は、

澪が残した“命の続き”そのものだった。


第32話 初めての一歩 ― 世界が動き出す音


未来がつかまり立ちを覚えてから数日後。

遼と黒川は、未来の成長を見守る日々を過ごしていた。


この日の夕方、

遼はリビングで未来と遊んでいた。

未来はテーブルにつかまりながら、

「あー」「うー」と楽しそうに声をあげている。


「未来、今日も元気だな」


遼が笑いかけると、未来は嬉しそうに声を返した。


そのときだった。


未来が、テーブルから手を離した。


「……え?」


遼が息を呑む間に、

未来はふらりと身体を揺らしながら――


とん。


小さな足で、一歩を踏み出した。


「黒川さん……!

 未来、歩きました!」


黒川が慌てて部屋に飛び込んできた。


「本当か……? 見せてみろ」


遼が未来をそっと立たせると、

未来はまた、ふらふらとしながらも――


とん。

とん。


二歩、三歩と歩いた。


その小さな足音に、

二人はしばらく言葉を失った。


「……すごいな。

 本当に……歩いたんだな」


黒川の声は震えていた。


未来は誇らしげに見えるほど、

小さく声をあげて笑った。


遼は胸が熱くなるのを感じた。


「未来……すごいよ。

 ちゃんと、自分の力で前に進んでる」


未来はさらに声をあげ、

小さな足でとん、と床を踏みしめた。


黒川がぽつりと言った。


「……澪が見たら、泣いて喜んだだろうな」


遼は静かに頷いた。


「はい。

 でも……俺たちが見届けます。

 澪さんの代わりに」


未来は二人の声に応えるように、

また小さく一歩を踏み出した。


その小さな一歩は、

三人の世界を確かに前へ進めていた。


――この子は、生きている。

――そして、未来へ向かって歩き始めた。


未来の初めての一歩は、

澪が残した“命の続き”そのものだった。


第33話 初めての言葉 ― 小さな声が呼ぶ名前


未来が歩き始めてから数日後。

遼と黒川は、未来の成長に驚かされる日々を過ごしていた。


この日の夜、

遼は未来を膝に乗せて絵本を読んでいた。

未来は絵本の色鮮やかなページをじっと見つめ、

「あー」「うー」と小さな声を出している。


「未来、この動物はね……」


遼が指をさすと、未来はその指を掴んだ。

その仕草があまりに可愛くて、遼は思わず笑った。


黒川がキッチンからコップを持ってやってきた。


「寝る前に水を飲ませておけ」


「はい。未来、飲むか?」


未来はコップを見て、嬉しそうに声をあげた。


「あー!」


その声は、どこか意味を持ち始めているように聞こえた。


遼が水を飲ませようとしたときだった。


未来が、遼の顔をじっと見つめ――


「……たぁ」


小さな声が、空気を震わせた。


遼は一瞬、呼吸を忘れた。


「……今、何て……?」


黒川も驚いたように未来を見つめる。


未来はもう一度、遼の顔を見て――


「たぁ……」


遼の胸が一気に熱くなった。


「……俺のこと、呼んだのか……?」


未来は嬉しそうに笑った。


黒川が小さく息を呑んだ。


「……“たぁ”って……遼の“りょう”の“りょ”が難しいんだろうな。

 でも……呼んでるんだよ」


遼の目に涙が滲んだ。


「未来……ありがとう……」


未来は遼の頬に手を伸ばし、

その小さな手で遼の涙を触れた。


黒川が静かに言った。


「澪が聞いたら……きっと泣いて喜んだだろうな」


遼は頷いた。


「はい。

 でも……俺たちが聞きます。

 澪さんの代わりに」


未来は二人の声に応えるように、

もう一度、小さく言った。


「……たぁ」


その小さな言葉は、

三人の世界を優しく照らす光のようだった。


――この子は、生きている。

――そして、誰かを呼び、誰かに応えて生きている。


未来の初めての言葉は、

澪が残した“命の続き”そのものだった。


第34話 名前の記憶 ― 呼ばれなかった人の名


未来が「たぁ」と遼を呼ぶようになってから数日後。

遼と黒川は、未来の成長に胸を熱くしながらも、

どこか言葉にできない感情を抱えていた。


この日の朝、

未来はリビングで元気に歩き回っていた。

小さな足音が、部屋の空気を軽やかに揺らす。


「未来、こっちおいで」


遼が呼ぶと、未来は嬉しそうに駆け寄ってくる。


「たぁ!」


その声があまりに可愛くて、遼は思わず笑った。


黒川もその様子を見て、少しだけ表情を緩めた。


「……よく懐いてるな」


「はい。

 でも……黒川さんのことも好きですよ」


未来は黒川の方を向き、

小さく手を伸ばした。


黒川はその手をそっと握り、

未来は嬉しそうに声をあげた。


「あー!」


その声は、どこか意味を持ち始めているようだった。


遼はふと、胸の奥が少しだけ痛むのを感じた。


――未来は、澪の名前を呼ぶことはない。


当たり前のことなのに、

その事実が急に胸を締めつけた。


黒川も同じことを思ったのか、

未来の頭を撫でながら小さく呟いた。


「……澪の名前を呼ぶ日は、来ないんだな」


遼は静かに頷いた。


「はい……

 でも、未来の中に澪さんは生きてます。

 名前を呼ばなくても……ちゃんと」


未来は二人の声に反応して、

また「あー」と声をあげた。


その声は、

澪が残した“命の続き”そのものだった。


黒川が未来を抱き上げながら言った。


「……澪の分まで、ちゃんと聞いてやろう。

 この子が呼ぶ名前を」


遼は未来の小さな背中をそっと撫でた。


「はい。

 未来が呼ぶ声は……全部、俺たちが受け止めます」


未来は嬉しそうに笑い、

小さな声でまた言った。


「たぁ!」


その声は、

三人の世界を優しく照らす光のようだった。


第35話 保育園の話 ― 小さな未来を託す場所


未来が「たぁ」と遼を呼ぶようになってから数日後。

遼と黒川は、未来の成長を喜びながらも、

これからの生活について考える時間が増えていた。


この日の夜、

未来は遼の膝の上で眠っていた。

小さな寝息が、部屋の空気を柔らかく揺らす。


黒川はテーブルに書類を広げながら言った。


「……そろそろ、保育園のことを考えないとな」


遼は驚いたように顔を上げた。


「保育園……ですか?」


「ああ。

 俺も仕事があるし、遼くんもずっと家にいるわけにはいかないだろう」


遼は未来の寝顔を見つめた。

小さな手、小さなまつげ。

この子を他人に預けるという現実が、急に胸を締めつけた。


「……未来を、誰かに預けるんですか」


黒川は静かに頷いた。


「預けるんじゃない。

 この子の世界を広げるんだ」


その言葉に、遼の胸が少しだけ軽くなった。


黒川は書類を遼に渡した。


「ここが近所の保育園だ。

 見学もできるらしい」


遼は書類を見つめた。

そこには、子どもたちが笑って遊ぶ写真が載っていた。


未来も、いつかこんなふうに笑うのだろうか。


遼は未来の頬にそっと触れた。


「……未来、どう思う?

 お友達、できるかな」


未来は眠ったまま、小さく指を動かした。

その仕草が、まるで「だいじょうぶ」と言っているように見えた。


黒川が静かに言った。


「澪も……きっと、そうしてほしかったと思う」


遼はゆっくりと頷いた。


「はい。

 未来の世界を……広げてあげたいです」


未来はその声に反応したのか、

小さく「ん……」と寝返りを打った。


その小さな動きが、

三人の未来をそっと押し出していく。


――この子は、生きている。

――そして、世界へ向かって歩き始めている。


保育園の話は、

澪が残した“命の続き”を、さらに前へ進めるための第一歩だった。


第36話 見学の日 ― 小さな手が触れた世界


保育園の話をしてから数日後。

遼と黒川は、未来を連れて近所の保育園へ見学に行くことにした。


「……緊張しますね」


遼は抱っこ紐の未来を何度も確認していた。

未来はきょとんとした顔で、外の景色を見つめている。


黒川は書類の入ったバッグを肩にかけながら言った。


「大丈夫だ。

 未来なら、きっとすぐに馴染む」


保育園の門をくぐると、

子どもたちの笑い声が風に乗って聞こえてきた。


未来はその声に反応して、

「あー」と小さく声をあげた。


遼は胸が少しだけ軽くなるのを感じた。


職員の女性が笑顔で迎えてくれた。


「こんにちは。未来ちゃんですね。

 今日はゆっくり見ていってください」


未来は女性の顔をじっと見つめ、

小さな手を伸ばした。


女性は驚きながらも、その手をそっと握った。


「わあ……人見知りしないんですね」


遼は思わず笑った。


「はい。

 好奇心が強いみたいで」


黒川も未来の頭を撫でながら言った。


「この子は……強い子ですから」


園内を案内される間、

未来はずっと周りを見回していた。

子どもたちの声、カラフルなおもちゃ、

窓から差し込む光――

すべてが新しい世界だった。


遼はふと、胸が締めつけられるのを感じた。


――未来は、ここで成長していくのか。


嬉しさと寂しさが同時に押し寄せる。


黒川も同じ気持ちなのか、

未来の背中にそっと手を添えた。


「……澪が見たら、安心しただろうな」


遼は静かに頷いた。


「はい。

 未来の世界が……ちゃんと広がっていくから」


見学が終わり、外に出ると、

未来は小さく手を叩いて笑った。


その笑顔は、

新しい世界を受け入れた証のようだった。


遼は未来を抱きしめた。


「未来……大丈夫だよ。

 ここから、もっといろんな景色を見ような」


未来は嬉しそうに声をあげた。


その小さな声は、

三人の未来をそっと押し出す“希望の音”だった。


第37話 初めての友達 ― 小さな手が触れたぬくもり


保育園の見学から数日後。

遼と黒川は、未来の様子を見ながら入園の準備を進めていた。


この日の午後、

遼は未来を連れて公園へ散歩に出かけた。

春の風が柔らかく吹き、

木々の芽が少しずつ膨らみ始めている。


未来は歩きながら「あー」と声をあげ、

小さな足で地面を確かめるように進んでいく。


「未来、ゆっくりな」


遼が声をかけると、未来は振り返って笑った。


そのときだった。


公園の砂場で遊んでいた小さな男の子が、

未来の方へと近づいてきた。


「……あの子、未来に興味があるみたいだな」


黒川が呟いた。


男の子は未来の前に立ち、

手に持っていた赤いスコップを差し出した。


未来はそのスコップをじっと見つめ――

小さな手を伸ばして触れた。


遼は息を呑んだ。


「……未来、友達……?」


男の子はにこっと笑い、

未来も嬉しそうに声をあげた。


「あー!」


二人は言葉もなく、

ただスコップを触り合いながら笑っていた。


その光景に、遼の胸がじんわりと温かくなる。


「……すごいな。

 もう、誰かと関われるんだな」


黒川も静かに頷いた。


「未来は強い子だ。

 澪の分まで……ちゃんと前に進んでる」


未来は男の子の手をそっと握った。

その小さな手と手が触れ合う瞬間、

遼は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。


――この子は、世界とつながろうとしている。


男の子の母親が呼ぶ声がして、

男の子は手を振って走っていった。


未来はその背中を見つめ、

小さく手を振った。


遼は未来を抱き上げた。


「未来……すごいよ。

 ちゃんと、自分の世界を広げてる」


未来は遼の胸に顔を埋め、

嬉しそうに声をあげた。


その小さな声は、

三人の未来をそっと押し出す“希望の音”だった。


第38話 先生の手 ― 初めて触れた優しさ


公園で初めて友達と触れ合った翌週。

遼と黒川は、未来の入園手続きを進めながら、

再び保育園を訪れることになった。


「……未来、大丈夫かな」


遼は抱っこ紐の未来を何度も確認していた。

未来は外の景色を見つめながら、

「あー」と小さく声をあげている。


黒川は書類の入ったバッグを肩にかけながら言った。


「大丈夫だ。

 未来は強い子だ」


保育園の門をくぐると、

前回と同じように子どもたちの笑い声が響いていた。


未来はその声に反応して、

嬉しそうに手を伸ばした。


職員室の前で待っていると、

前回案内してくれた女性が笑顔で出てきた。


「こんにちは、未来ちゃん。

 また来てくれたのね」


未来は女性の顔をじっと見つめ、

小さな手を伸ばした。


女性はその手をそっと握り、

優しく微笑んだ。


「わあ……覚えてくれたのかな」


遼は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。


「未来、人見知りしないんです」


黒川も未来の頭を撫でながら言った。


「この子は……人の優しさをよく感じ取るんです」


女性は未来を抱っこしてみてもいいかと尋ねた。


遼は少し迷ったが、

未来の表情を見て、そっと頷いた。


女性が未来を抱き上げると、

未来は驚いたように目を丸くしたが――


すぐに、ふにゃりと笑った。


「あー!」


その声は、

まるで「大丈夫」と言っているようだった。


遼は胸が締めつけられるのを感じた。


――未来は、もう家族以外の人にも笑えるんだ。


嬉しさと寂しさが同時に押し寄せる。


女性は未来を優しく揺らしながら言った。


「未来ちゃん、きっとすぐにお友達もできますよ」


黒川が静かに頷いた。


「……そうだといいですね」


未来は女性の胸に顔を埋め、

安心したように小さく声をあげた。


その姿を見て、遼はそっと呟いた。


「未来……すごいよ。

 ちゃんと、自分の世界を広げてる」


未来は遼の声に気づいたのか、

女性の腕の中から遼の方を見て、

小さく手を伸ばした。


その仕草は、

「ちゃんとここにいるよ」と伝えているようだった。


――この子は、生きている。

――そして、世界とつながり始めている。


未来が初めて触れた“先生の手”は、

澪が残した命を、また一歩前へ進めていた。


第39話 帰り道 ― 小さな背中が教えてくれたこと


保育園の見学を終えた帰り道。

遼は未来を抱っこしながら、ゆっくりと歩いていた。


未来は疲れたのか、

遼の胸に顔を埋めて静かにしている。


「未来、眠いのか?」


遼が声をかけると、

未来は小さく「ん……」と返事をした。


黒川が横を歩きながら言った。


「今日は刺激が多かったんだろうな」


「はい……

 でも、未来……すごく頑張ってました」


遼は未来の背中をそっと撫でた。

その小さな身体は、

外の世界を受け止めたばかりの温もりを宿している。


家に着くと、未来は遼の腕の中で眠ってしまった。


遼はそっと布団に寝かせ、

その寝顔を見つめた。


「……未来、すごいな。

 ちゃんと、知らない人にも笑えるんだ」


黒川も未来の寝顔を見ながら静かに言った。


「澪が見たら……安心しただろうな」


遼は頷いた。


「はい。

 未来は……ちゃんと前に進んでます」


未来は眠ったまま、

小さく手を動かした。


その仕草が、

まるで「だいじょうぶ」と言っているように見えた。


黒川はふと、遼の方を見た。


「……遼くんも、よくやってるよ」


遼は驚いて黒川を見た。


「え……?」


「未来が安心して外に出られるのは、

 遼くんが毎日そばにいてやったからだ」


遼は言葉を失った。


胸の奥がじんわりと熱くなる。


「……ありがとうございます」


黒川は照れくさそうに視線をそらした。


「俺一人じゃ……こうはならなかった」


未来の寝息が、

静かな部屋に優しく響く。


遼はその音を聞きながら、

そっと呟いた。


「未来……

 これからも一緒に、いろんな景色を見ような」


未来は眠ったまま、

小さく笑ったように見えた。


その小さな背中は、

三人の未来をそっと押し出す“希望の形”だった。


第40話 夜泣き ― 小さな不安と寄り添う手


保育園の見学を終えた日の夜。

遼は未来を寝かしつけ、静かな部屋で本を読んでいた。


未来はぐっすり眠っている――

そう思っていた。


「……っ、あ……あぁ……!」


突然、未来の泣き声が響いた。


遼は慌てて布団のそばに駆け寄った。


「未来……どうした?」


未来は涙をぽろぽろ流しながら、

小さな手を伸ばして遼にしがみついた。


その震える指先に、

遼の胸がぎゅっと締めつけられる。


黒川も寝室から飛び出してきた。


「どうした……?」


「分かりません……

 でも、すごく不安そうで……」


未来は遼の胸に顔を埋め、

「たぁ……」と弱々しく呼んだ。


遼は未来を抱きしめ、

背中をゆっくりと撫でた。


「大丈夫だよ。

 ここにいるから」


未来の泣き声はしばらく続いたが、

遼の胸の中で少しずつ落ち着いていった。


黒川が静かに言った。


「……今日、いろいろあったからな。

 外の世界に触れて、疲れたんだろう」


遼は頷いた。


「はい……

 未来、頑張ってましたから」


未来は泣き疲れたのか、

遼の腕の中で眠り始めた。


その寝息はまだ少し不安定で、

小さな胸が上下するたびに、

遼の心も揺れた。


黒川がそっと言った。


「……遼くん。

 未来は、外の世界に出たんだ。

 不安になるのは当たり前だ」


遼は未来の頬をそっと撫でた。


「はい……

 でも、ちゃんと支えてあげたいです。

 未来がどんな気持ちでも」


未来は眠ったまま、

遼の服をぎゅっと掴んだ。


その小さな手が、

「離れないで」と言っているようだった。


黒川はその姿を見て、

静かに微笑んだ。


「……大丈夫だ。

 俺たちがいる」


遼は未来を抱きしめたまま、

小さく呟いた。


「未来……

 どんな夜でも、そばにいるからな」


未来の寝息は、

ようやく穏やかになっていった。


その小さな不安は、

三人の絆をまたひとつ強くしていた。


第41話 朝の光 ― 小さな涙のあとに残るもの


夜泣きのあった翌朝。

遼はほとんど眠れないまま、未来を抱いてリビングに座っていた。


未来は遼の胸に寄り添い、

まだ少し不安そうに指を握っている。


「未来……もう大丈夫だよ」


遼が優しく声をかけると、

未来は小さく「ん……」と返事をした。


黒川がキッチンからコーヒーを持ってきた。


「……眠れなかっただろう」


「はい……

 でも、未来が落ち着いてくれたので」


黒川は未来の頭をそっと撫でた。


「昨日は外の世界に触れたからな。

 不安になるのは当然だ」


未来は黒川の手の温もりを感じたのか、

少しだけ表情を緩めた。


遼はその様子を見て、胸がじんわりと温かくなる。


「……未来、黒川さんのこと好きですね」


黒川は照れくさそうに視線をそらした。


「まあ……嫌われてはないだろうな」


未来はその言葉に反応したのか、

黒川の服を小さく掴んだ。


黒川は驚いたように目を見開いた。


「……おい。

 掴んでるぞ」


遼は笑った。


「安心したんですよ。

 黒川さんがそばにいるから」


黒川はしばらく未来の手を見つめ、

ゆっくりとその小さな手を握り返した。


「……大丈夫だ。

 俺たちがいる」


未来はその声に安心したのか、

ようやく遼の腕の中で眠り始めた。


朝の光がカーテンの隙間から差し込み、

三人の影を柔らかく照らす。


遼は小さく呟いた。


「未来……

 昨日も今日も、よく頑張ったな」


黒川も静かに頷いた。


「遼くんもだ。

 未来が安心できるのは……お前がそばにいるからだ」


遼は言葉を失った。


胸の奥がじんわりと熱くなる。


未来の寝息が、

静かな朝の空気に溶けていく。


その小さな呼吸は、

三人の絆をまたひとつ強くしていた。


第42話 決意 ― 小さな命を守るために


夜泣きの翌日。

遼は未来を抱きながら、ゆっくりと朝の光を浴びていた。


未来はまだ少し不安そうに遼の服を握っている。

その小さな指先が、遼の胸をそっと締めつけた。


「未来……昨日は怖かったな」


遼が優しく声をかけると、

未来は小さく「ん……」と返事をした。


黒川がコーヒーを二つ持ってきて、

遼の隣に腰を下ろした。


「……昨夜は大変だったな」


「はい……

 でも、未来が落ち着いてくれてよかったです」


黒川は未来の頭をそっと撫でた。

未来はその手の温もりに安心したのか、

少しだけ表情を緩めた。


しばらく三人で静かに過ごしたあと、

黒川がふと口を開いた。


「……遼くん。

 これからのことを、少し話しておきたい」


遼は黒川の横顔を見つめた。


「これから……?」


黒川は未来の寝顔を見つめながら続けた。


「未来が外の世界に触れ始めた。

 これからもっと、いろんなことが起きる。

 嬉しいことも、不安なことも」


遼は静かに頷いた。


「はい……

 昨日の夜泣きも、きっとその一つですよね」


黒川はコーヒーを置き、

未来の小さな手をそっと握った。


「……だからこそ、俺たちがしっかりしないといけない。

 未来が安心して眠れるように。

 どんな夜でも、どんな日でも」


遼の胸に、じんわりと熱いものが広がった。


「黒川さん……」


黒川は遼の方を見た。


「遼くん一人に背負わせるつもりはない。

 俺も……ちゃんと父親として、この子を守る」


その言葉は、

静かに、しかし確かに遼の心に届いた。


遼は未来を抱きしめながら、

ゆっくりと頷いた。


「……はい。

 俺も、未来を守ります。

 澪さんの代わりに……じゃなくて。

 俺自身の意思で」


黒川の目がわずかに揺れた。


未来は二人の声に反応したのか、

眠ったまま小さく手を動かした。


その小さな仕草が、

「二人で守って」と言っているように見えた。


遼は未来の頬にそっと触れた。


「未来……

 これからも一緒に生きていこうな」


黒川も静かに言った。


「俺たちがいる。

 どんな夜でも、どんな未来でも」


朝の光が三人を包み込み、

新しい一日の始まりを優しく告げていた。


第43話 小さな笑顔 ― 不安のあとに咲くもの


夜泣きから一日が経った午後。

遼は未来を連れて、近所の公園へ散歩に出かけた。


昨日の不安が嘘のように、

未来は「あー」「うー」と声をあげながら、

小さな足で地面を踏みしめている。


「未来、元気になったな」


遼が笑いかけると、

未来は嬉しそうに振り返って笑った。


その笑顔に、遼の胸がじんわりと温かくなる。


黒川も横で歩きながら言った。


「昨日は大変だったが……

 今日はもう大丈夫そうだな」


「はい。

 未来、頑張りましたから」


未来は小さな石を拾って遼に見せた。

誇らしげな表情に、遼は思わず笑ってしまう。


「すごいな、未来。

 ちゃんと見つけたんだな」


未来は嬉しそうに声をあげた。


そのとき、

公園のベンチに座っていた年配の女性が声をかけてきた。


「まあ、かわいい子ねえ。

 いくつなの?」


遼は少し緊張しながら答えた。


「一歳になったばかりです」


未来は女性の顔をじっと見つめ、

小さな手を伸ばした。


女性は驚きながらも、その手をそっと握った。


「人懐っこいのねえ。

 いい子に育ってるわ」


遼は胸がじんわりと熱くなるのを感じた。


――未来は、ちゃんと外の世界とつながっている。


黒川も静かに微笑んだ。


「未来は……強い子ですから」


未来は女性に向かって笑い、

「あー!」と声をあげた。


その声は、

昨日の涙をすっかり忘れたように明るかった。


女性が去ったあと、

遼は未来を抱き上げた。


「未来……

 昨日は怖かったけど、今日は笑えてよかったな」


未来は遼の頬に手を伸ばし、

小さく触れた。


その仕草が、

「もう大丈夫」と言っているようだった。


黒川が隣で言った。


「……遼くん。

 未来はちゃんと前に進んでる。

 俺たちも、だな」


遼は未来を抱きしめながら頷いた。


「はい。

 これからも……三人で進んでいきましょう」


未来は嬉しそうに声をあげた。


その小さな笑顔は、

三人の未来をそっと照らす“希望の光”だった。


第44話 抱っこ ― 小さな腕が求めた温もり


夜泣きから数日が経ち、

未来の様子はすっかり落ち着いていた。


この日の夕方、

遼は夕食の準備をしながら、

リビングで遊ぶ未来の声を聞いていた。


「あー! うー!」


未来はお気に入りのぬいぐるみを抱え、

小さな足でとことこ歩き回っている。


黒川が帰ってくると、

未来はぱっと顔を上げた。


「……あ!」


その声は、

まるで「おかえり」と言っているようだった。


黒川は驚いたように目を見開いた。


「……今、俺に向かって言ったのか?」


遼は笑いながら頷いた。


「はい。

 最近、黒川さんが帰ってくると嬉しそうなんです」


未来は黒川の足元まで歩き、

小さな手を伸ばした。


「……抱っこ、してほしいのか?」


黒川がしゃがむと、

未来は迷いなく黒川の胸に飛び込んだ。


その瞬間、

黒川の表情がわずかに揺れた。


「……重くなったな」


未来は黒川の胸に顔を埋め、

安心したように小さく声をあげた。


遼はその光景を見つめながら、

胸がじんわりと温かくなるのを感じた。


「未来……

 黒川さんのこと、本当に好きなんですね」


黒川は未来を抱きながら、

少し照れたように言った。


「……まあ、嫌われてはないみたいだな」


未来は黒川の服をぎゅっと掴み、

離れようとしない。


その小さな手に、

黒川の目がほんの少しだけ潤んだ。


「……澪が見たら、どう思っただろうな」


遼は静かに答えた。


「きっと……安心したと思います。

 未来が、ちゃんと誰かを信じて甘えられるって」


未来は二人の声に反応したのか、

黒川の胸の中で小さく笑った。


その笑顔は、

夜泣きの不安をすっかり溶かしてしまうほど温かかった。


遼はそっと呟いた。


「未来……

 これからも、いっぱい甘えていいんだぞ」


黒川も静かに言った。


「俺たちがいる。

 どんなときでも」


未来はその言葉に応えるように、

黒川の胸にぎゅっとしがみついた。


その小さな腕が求めた温もりは、

三人の絆をまたひとつ強くしていた。


第45話 寄り添う夜 ― 小さな体温が教えてくれたこと


未来が黒川に抱っこを求めるようになってから数日後。

その夜、遼は未来を寝かしつけようとしていた。


未来は布団の上でごろごろ転がりながら、

「あー」「うー」と楽しそうに声をあげている。


「未来、そろそろ寝る時間だぞ」


遼が優しく声をかけると、

未来は遼の方へと小さく手を伸ばした。


遼はその手を握り、

未来を胸に抱き寄せた。


「……今日は甘えん坊だな」


未来は遼の胸に顔を埋め、

安心したように小さく息を吐いた。


そのとき、

部屋のドアが静かに開いた。


黒川が顔をのぞかせる。


「寝かしつけ、うまくいってるか?」


「はい。

 今日は……特に甘えてきます」


黒川は未来の様子を見て、

少しだけ表情を緩めた。


「……安心してるんだろうな」


未来は黒川の声に反応したのか、

遼の胸の中から顔を上げ、

黒川の方へ手を伸ばした。


「……あ」


黒川は驚いたように目を見開いた。


「……俺にも、か?」


遼は笑った。


「はい。

 黒川さんにも甘えたいみたいです」


黒川はゆっくりと未来を抱き上げた。

未来は黒川の胸に顔を埋め、

小さく「ん……」と声を漏らした。


その仕草に、黒川の表情がわずかに揺れた。


「……あったかいな」


遼はその言葉を聞きながら、

胸がじんわりと温かくなるのを感じた。


「未来……

 黒川さんのこと、本当に信頼してるんですね」


黒川は未来の背中をそっと撫でながら言った。


「……俺も、この子に救われてるよ」


遼は驚いて黒川を見た。


「救われてる……?」


黒川は未来の寝息を聞きながら、

静かに続けた。


「澪を失って……

 何もかもが空っぽになったと思ってた。

 でも……未来が泣いたり笑ったりするたびに、

 少しずつ……心が戻ってくる」


遼の胸に、熱いものが広がった。


「黒川さん……」


未来は二人の声に反応したのか、

黒川の胸の中で小さく笑った。


その笑顔は、

まるで「大丈夫」と言っているようだった。


遼は未来の頭をそっと撫でた。


「未来……

 これからも、三人で生きていこうな」


黒川も静かに頷いた。


「どんな夜でも……

 俺たちがそばにいる」


未来の小さな体温が、

二人の心をそっとつなぎ合わせていた。


第46話 ことばの芽 ― 小さな声が増えていく


未来が黒川に甘えるようになってから数日後。

遼はリビングで未来と遊んでいた。


未来は積み木を手に取り、

「あー」「うー」と声を出しながら積み上げていく。


「未来、上手だな」


遼が笑いかけると、

未来は嬉しそうに振り返った。


「……たぁ!」


その声は、

遼を呼んでいるのだとすぐに分かった。


遼は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。


「はい、未来。ここにいるよ」


未来は積み木を遼に差し出し、

「ん!」と小さく声をあげた。


「これ、渡したいのか?」


未来はこくんと頷くように身体を揺らした。


――未来は、もう“伝えよう”としている。


そのとき、玄関のドアが開いた。


黒川が帰ってきたのだ。


未来はぱっと顔を上げ、

小さな足でとことこ駆け寄っていく。


「……あ!」


黒川は驚いたように目を見開いた。


「おい……今の、“あ”じゃなくて……」


未来は黒川の足にしがみつき、

もう一度、小さく言った。


「……かぁ」


遼は息を呑んだ。


「黒川さんの“か”……ですかね」


黒川はしばらく言葉を失っていたが、

ゆっくりと未来を抱き上げた。


未来は黒川の胸に顔を埋め、

安心したように小さく笑った。


「……呼んだのか。

 俺のことを」


遼は静かに頷いた。


「はい。

 未来……黒川さんのこと、ちゃんと覚えてます」


黒川の目がわずかに揺れた。


「……澪が聞いたら、どう思っただろうな」


遼は未来の頭を撫でながら答えた。


「きっと……喜んだと思います。

 未来が、誰かを呼べるようになったって」


未来は二人の声に反応したのか、

黒川の胸の中で小さく手を伸ばした。


その仕草は、

「ここにいるよ」と伝えているようだった。


遼はそっと呟いた。


「未来……

 これからもっと、いろんな言葉を覚えていこうな」


黒川も静かに言った。


「俺たちが聞いてやる。

 どんな小さな声でも」


未来の小さな声は、

三人の世界をまたひとつ広げていった。


第47話 まねっこ ― 小さな声が真似したもの


未来が「たぁ」「かぁ」と言うようになってから数日後。

遼はリビングで未来と遊んでいた。


未来は積み木を並べながら、

「あー」「んー」と声を出している。


遼が積み木を一つ持ち上げて言った。


「これ、赤だよ。あ・か」


未来はその動きをじっと見つめ――

小さく口を動かした。


「……あ」


遼は息を呑んだ。


「未来……今、“あ”って……」


未来は嬉しそうに笑い、

もう一度、積み木を指さして言った。


「……あ!」


遼の胸がじんわりと熱くなる。


「すごいな……

 未来、真似してるんだな」


そのとき、玄関のドアが開いた。


黒川が帰ってきたのだ。


未来はぱっと顔を上げ、

小さな足でとことこ駆け寄っていく。


「……か!」


黒川は驚いたように目を見開いた。


「……また呼んだのか、俺のことを」


遼は笑いながら頷いた。


「はい。

 未来、最近“まねっこ”が上手なんです」


未来は黒川の足にしがみつき、

小さく声をあげた。


「かぁ!」


黒川は未来を抱き上げ、

その小さな顔を見つめた。


「……お前、本当に……」


言葉の続きを飲み込み、

黒川は未来をそっと抱きしめた。


未来は黒川の胸に顔を埋め、

安心したように小さく笑った。


遼はその光景を見つめながら、

胸がじんわりと温かくなるのを感じた。


「未来……

 黒川さんの声も、ちゃんと覚えてるんですね」


黒川は未来の背中を撫でながら言った。


「……遼くんの声もだろう。

 この子は、俺たちの言葉を聞いて育ってる」


未来は二人の声に反応したのか、

黒川の胸の中で手を伸ばし、

遼の方を指さした。


「……た!」


遼は思わず笑った。


「はい、未来。ここにいるよ」


未来は嬉しそうに笑い、

二人の顔を交互に見つめた。


その小さな瞳は、

“家族”という世界を確かに映していた。


遼はそっと呟いた。


「未来……

 これからもっと、いろんな言葉を覚えていこうな」


黒川も静かに言った。


「俺たちが聞いてやる。

 どんな小さな声でも」


未来の小さな“まねっこ”は、

三人の世界をまたひとつ広げていった。


第48話 はじめての「ない」 ― 小さな拒否が教えてくれたこと


未来が「た」「か」と言えるようになってから数日後。

遼は夕食の準備をしながら、

リビングで遊ぶ未来の声を聞いていた。


「あー! んー!」


未来はお気に入りのぬいぐるみを抱え、

小さな足でとことこ歩き回っている。


「未来、ごはんだぞー」


遼が声をかけると、

未来はぬいぐるみを抱きしめたまま振り返った。


そして――


「……な」


遼は一瞬、耳を疑った。


「未来……今、“な”って……?」


未来は首を横に振り、

もう一度、小さく言った。


「……なぁい」


遼は思わず笑ってしまった。


「ごはん、食べたくないのか?」


未来はぷいっと顔をそむけ、

ぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。


――未来が、初めて“拒否”をした。


その小さな成長に、遼の胸がじんわりと温かくなる。


そのとき、玄関のドアが開いた。


黒川が帰ってきたのだ。


未来はぱっと顔を上げ、

小さな足でとことこ駆け寄っていく。


「……か!」


黒川は驚いたように目を見開いた。


「また呼んだのか、俺のことを」


遼は笑いながら言った。


「はい。

 でも今日は……“ない”も言えるようになりました」


黒川は未来を抱き上げ、

その小さな顔を覗き込んだ。


「未来、“ない”って言ったのか?」


未来は黒川の胸に顔を埋め、

小さく「ん……」と声を漏らした。


黒川は少しだけ表情を緩めた。


「……成長してるんだな。

 嫌なものを嫌って言えるようになった」


遼は頷いた。


「はい。

 未来……ちゃんと自分の気持ちを伝えようとしてます」


未来は二人の声に反応したのか、

黒川の胸の中で手を伸ばし、

遼の方を指さした。


「……た!」


遼は笑った。


「はいはい、未来。分かったよ」


未来は嬉しそうに笑い、

黒川の胸の中で小さく身体を揺らした。


その小さな仕草は、

“家族”という世界の中で安心している証のようだった。


遼はそっと呟いた。


「未来……

 これからもっと、いろんな気持ちを言っていいんだぞ」


黒川も静かに言った。


「俺たちが聞いてやる。

 どんな言葉でも」


未来の小さな「ない」は、

三人の世界をまたひとつ広げていった。


第49話 えらぶ ― 小さな指が示したもの


未来が「ない」と言えるようになってから数日後。

遼は未来のために、いくつかのおもちゃを並べていた。


「未来、今日はどれで遊ぶ?」


積み木、ぬいぐるみ、絵本。

いつもなら全部に手を伸ばす未来が――


今日はじっと見つめている。


遼は少し不思議に思いながら、

未来の視線を追った。


未来はしばらく考えるように首をかしげ、

小さな指を一本、そっと伸ばした。


「……こ」


遼は息を呑んだ。


「これ……選んだのか?」


未来が指さしたのは、

最近あまり触っていなかった絵本だった。


未来はもう一度、はっきりと指を伸ばした。


「……こ!」


遼の胸がじんわりと熱くなる。


――未来は、もう“選ぶ”ことができる。


遼は絵本を手に取り、未来の前に置いた。


「未来、これがいいんだな」


未来は嬉しそうに笑い、

絵本を抱きしめた。


そのとき、玄関のドアが開いた。


黒川が帰ってきたのだ。


未来はぱっと顔を上げ、

絵本を抱えたまま小さな足で駆け寄っていく。


「……か!」


黒川は驚いたように目を見開いた。


「おい……絵本持って走るな、危ないだろ」


未来は黒川の足元で立ち止まり、

絵本を差し出した。


「……こ!」


黒川は絵本を受け取り、

未来の顔を覗き込んだ。


「これを選んだのか?」


未来はこくんと頷くように身体を揺らした。


遼は笑いながら言った。


「未来、今日は“選ぶ”ってことを覚えたみたいです」


黒川は絵本を開きながら、

少しだけ表情を緩めた。


「……すごいな。

 自分の意思で選べるようになったのか」


未来は黒川の膝に座り、

絵本のページを小さな指でめくった。


その仕草は、

まるで「これが好き」と伝えているようだった。


遼はその光景を見つめながら、

胸がじんわりと温かくなるのを感じた。


「未来……

 これからもっと、いろんなものを選んでいくんだろうな」


黒川も静かに言った。


「そのたびに……俺たちが見守ってやればいい」


未来は二人の声に反応したのか、

絵本を抱えたまま小さく笑った。


その小さな指が示した選択は、

三人の未来をまたひとつ広げていった。


第50話 じぶんで ― 小さな手が求めた自由


未来が「これ」と指さして選べるようになってから数日後。

遼は夕食の準備をしながら、

未来にスプーンを渡そうとしていた。


「未来、ごはん食べような。

 はい、スプーン」


未来はスプーンを見つめ――

小さな手で、遼の手を押し返した。


「……ん」


遼は驚いて未来の顔を見た。


「未来……いらないのか?」


未来は首を横に振り、

自分の前に置かれたスプーンをじっと見つめた。


そして――


「……じゅん」


遼は一瞬、意味が分からなかった。


「じゅん……?」


未来はもう一度、はっきりと言った。


「……じぶん、で」


遼は息を呑んだ。


――“自分で”やりたい。


未来はスプーンを自分の手で掴み、

ぎこちない動きでごはんをすくおうとした。


もちろん、うまくいかない。

ごはんはぽとりと落ちてしまう。


それでも未来は諦めず、

何度も何度もスプーンを動かした。


遼の胸がじんわりと熱くなる。


「未来……すごいよ。

 自分でやりたいんだな」


そのとき、玄関のドアが開いた。


黒川が帰ってきたのだ。


未来はスプーンを握ったまま、

ぱっと顔を上げた。


「……か!」


黒川は驚いたように目を見開いた。


「おい……スプーン持ったまま動くな、危ないだろ」


未来は黒川の足元で立ち止まり、

スプーンを見せつけるように掲げた。


「……じぶん!」


黒川はしばらく言葉を失っていたが、

ゆっくりと未来の頭を撫でた。


「……自分で、か。

 すごいじゃないか」


遼は笑いながら言った。


「未来、今日は“自分でやりたい”って言ったんです」


黒川は未来の小さな手を見つめ、

少しだけ表情を緩めた。


「……澪が聞いたら、泣いて喜んだだろうな」


遼は静かに頷いた。


「はい。

 未来……ちゃんと成長してます」


未来は二人の声に反応したのか、

スプーンを握りしめたまま小さく笑った。


その笑顔は、

“自分で生きていく力”の芽生えそのものだった。


遼はそっと呟いた。


「未来……

 これからも、自分でやりたいことが増えていくんだろうな」


黒川も静かに言った。


「そのたびに……俺たちが見守ってやればいい」


未来の小さな「じぶんで」は、

三人の未来をまたひとつ広げていった。


第51話 くつ ― 小さな足が求めた一歩


未来が「じぶんで」と言えるようになってから数日後。

遼は散歩に出かけようと、未来の靴を用意していた。


「未来、靴はこうやって履くんだぞ。

 足を入れて……」


遼が靴を持ち上げた瞬間、

未来は小さな手で遼の手を押し返した。


「……ん」


遼は驚いて未来の顔を見た。


「未来……履きたくないのか?」


未来は首を横に振り、

靴をじっと見つめた。


そして――


「……じゅん」


遼は息を呑んだ。


「じゅん……?

 ああ、“じぶんで”か」


未来はこくんと頷くように身体を揺らし、

靴を自分の手で掴んだ。


もちろん、うまく履けない。

靴は逆向きになり、足は途中で止まってしまう。


それでも未来は諦めず、

何度も何度も靴を押し込もうとした。


遼の胸がじんわりと熱くなる。


「未来……すごいよ。

 自分で履きたいんだな」


そのとき、玄関のドアが開いた。


黒川が帰ってきたのだ。


未来は靴を握ったまま、

ぱっと顔を上げた。


「……か!」


黒川は驚いたように目を見開いた。


「おい……靴持ったまま走るな、危ないだろ」


未来は黒川の足元で立ち止まり、

靴を掲げるように見せつけた。


「……じぶん!」


黒川はしばらく言葉を失っていたが、

ゆっくりと未来の頭を撫でた。


「……自分で履きたいのか。

 すごいじゃないか」


遼は笑いながら言った。


「未来、今日は靴も“自分で”って言ってるんです」


黒川は未来の小さな足を見つめ、

少しだけ表情を緩めた。


「……澪が見たら、泣いて喜んだだろうな」


遼は未来の足にそっと触れながら答えた。


「はい。

 未来……ちゃんと前に進んでます」


未来は二人の声に反応したのか、

靴を握りしめたまま小さく笑った。


その笑顔は、

“自分の力で歩きたい”という気持ちそのものだった。


遼はそっと呟いた。


「未来……

 これからもっと、自分の足で歩いていくんだろうな」


黒川も静かに言った。


「そのたびに……俺たちがそばにいる」


未来の小さな足が求めた一歩は、

三人の未来をまたひとつ広げていった。


第52話 てをつなぐ ― 小さな意思が示した方向


未来が靴を「じぶんで」履こうとするようになってから数日後。

遼と黒川は、未来を連れて近所の公園へ向かっていた。


未来は小さなリュックを背負い、

とことこ歩きながら「あー」「んー」と声をあげている。


遼は未来の横を歩きながら言った。


「未来、手つなぐか?

 車も来るし、危ないからな」


未来は遼の手をちらりと見たが、

すぐに視線をそらして歩き続けた。


――“じぶんで歩きたい”のだろう。


遼は苦笑しながら黒川に言った。


「最近、なんでも自分でやりたいみたいで……」


黒川は頷いた。


「成長してる証拠だ。

 でも、危ないときはちゃんと守らないとな」


そのときだった。


未来が少し先の道で立ち止まり、

振り返って二人を見た。


そして――


小さな手を、そっと差し出した。


遼は息を呑んだ。


「未来……?」


未来はもう一度、はっきりと手を伸ばした。


「……て」


遼の胸がじんわりと熱くなる。


――“自分で歩きたいけど、手はつなぎたい”。


未来の中に芽生えた、小さな折り合い。


遼はしゃがみ込み、

未来の手をそっと握った。


「未来……ありがとう。

 手、つないでくれるんだな」


未来は嬉しそうに笑い、

遼の手をぎゅっと握り返した。


黒川もその様子を見て、

少しだけ表情を緩めた。


「……いいな。

 未来、今日は遼くんと手をつなぎたいのか」


未来は黒川の方を見て、

もう片方の手を差し出した。


「……か」


黒川は驚いたように目を見開いた。


「……俺とも、か?」


未来はこくんと頷くように身体を揺らした。


黒川はゆっくりと未来の手を握った。


その瞬間、

三人の影が夕陽の中でひとつにつながった。


遼は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。


「未来……

 自分で歩きたいけど、二人と一緒がいいんだな」


未来は嬉しそうに声をあげた。


「んー!」


黒川も静かに言った。


「……いい歩き方だ。

 自分で進んで、必要なときは手を伸ばす。

 大人でも難しいことだ」


未来は二人の手を握ったまま、

とことこ歩き出した。


その小さな手が示した方向は、

三人の未来をまたひとつ広げていった。


第53話 だっこして ― 小さな選択が示した安心


未来が二人と手をつなぐようになってから数日後。

その日の帰り道、空は少し曇っていた。


公園でたくさん遊んだ未来は、

とことこ歩きながら「あー」「んー」と声をあげている。


遼は未来の横を歩きながら言った。


「未来、疲れてないか?

 抱っこするか?」


未来は遼の顔をちらりと見たが、

すぐに視線をそらして歩き続けた。


――“じぶんで歩きたい”のだろう。


黒川が後ろから声をかけた。


「無理させるなよ。

 転んだら危ない」


遼は頷いた。


「はい。でも……未来、最近本当に頑張ってて」


そのときだった。


未来が急に立ち止まり、

振り返って二人を見た。


そして――


小さな腕を、そっと上に伸ばした。


遼は息を呑んだ。


「未来……?」


未来はもう一度、はっきりと腕を伸ばした。


「……だっ」


遼の胸がじんわりと熱くなる。


――“抱っこして”。


未来は自分で歩きたいけれど、

疲れたときは甘えたい。

その小さな意思が、たしかにそこにあった。


遼はしゃがみ込み、

未来をそっと抱き上げた。


「未来……よく頑張ったな。

 抱っこ、してほしかったんだな」


未来は遼の胸に顔を埋め、

安心したように小さく息を吐いた。


黒川もその様子を見て、

少しだけ表情を緩めた。


「……いい甘え方だな。

 必要なときに、ちゃんと頼れる」


未来は遼の胸の中から黒川を見上げ、

小さく手を伸ばした。


「……か」


黒川は驚いたように目を見開いた。


「……俺にも、抱っこしてほしいのか?」


未来はこくんと頷くように身体を揺らした。


遼は笑いながら未来を黒川に渡した。


「未来、今日は黒川さんにも甘えたいみたいです」


黒川は未来を受け取り、

その小さな身体をしっかりと抱きしめた。


未来は黒川の胸に顔を埋め、

安心したように小さく笑った。


その笑顔は、

“ここが安心できる場所”だと伝えているようだった。


遼はその光景を見つめながら、

胸がじんわりと温かくなるのを感じた。


「未来……

 自分で歩いて、甘えたいときは甘えて。

 すごいな、本当に」


黒川も静かに言った。


「この子は……ちゃんと成長してる。

 俺たちが思ってる以上に」


未来は二人の声に反応したのか、

黒川の胸の中で小さく手を伸ばした。


その小さな仕草は、

三人の未来をまたひとつ優しくつないでいた。


第54話 よりかかる ― 小さな体が選んだぬくもり


未来が「だっこして」と言えるようになってから数日後。

その日の夜、遼は未来を寝かしつけようとしていた。


未来は布団の上でごろごろ転がりながら、

「あー」「んー」と楽しそうに声をあげている。


「未来、そろそろ寝る時間だぞ」


遼が声をかけると、

未来は遼の方をちらりと見たが――

すぐに視線をそらしてしまった。


――まだ寝たくないのだろう。


黒川が部屋に入ってきた。


「寝かしつけ、苦戦してるな」


「はい……今日は元気みたいで」


未来は黒川の声に反応し、

ぱっと顔を上げた。


そして――

小さな手を、そっと伸ばした。


「……か」


黒川は驚いたように目を見開いた。


「……俺に、来たいのか?」


未来はこくんと頷くように身体を揺らした。


遼は笑いながら言った。


「未来、今日は黒川さんに甘えたいみたいですね」


黒川はゆっくりと未来を抱き上げた。

未来は黒川の胸に顔を埋め、

安心したように小さく息を吐いた。


その仕草は、

“ここが落ち着く”と伝えているようだった。


黒川は未来の背中をそっと撫でながら言った。


「……重くなったな。

 でも、こうして寄りかかってくれるのは……悪くない」


遼はその言葉に胸がじんわりと温かくなる。


「未来……

 誰に甘えたいか、ちゃんと選んでるんですね」


未来は黒川の胸の中で小さく身体を揺らし、

さらに深く寄りかかった。


黒川はその重みを確かめるように抱きしめた。


「……澪が見たら、どう思っただろうな」


遼は静かに答えた。


「きっと……安心したと思います。

 未来が、ちゃんと誰かを信じて寄りかかれるって」


未来は二人の声に反応したのか、

黒川の胸の中から遼の方を見て、

小さく手を伸ばした。


「……た」


遼は笑った。


「はいはい、未来。ここにいるよ」


未来は黒川に寄りかかったまま、

遼の手をぎゅっと掴んだ。


その小さな手は、

“二人とも必要”と伝えているようだった。


黒川はその様子を見て、

静かに言った。


「……いい家族だな。

 未来がそう思ってくれてるなら」


遼は未来の手を握り返しながら呟いた。


「未来……

 これからも、甘えたいときは甘えていいんだぞ」


未来は安心したように目を閉じ、

黒川の胸にそっと寄りかかった。


その小さな体が選んだぬくもりは、

三人の未来をまたひとつ優しくつないでいた。


第55話 ねむる場所 ― 小さな体が選んだぬくもり


未来が黒川に寄りかかって眠るようになってから数日後。

その夜、遼は未来を寝かしつけようとしていた。


布団の上でごろごろ転がる未来は、

「あー」「んー」と楽しそうに声をあげている。


「未来、そろそろ寝る時間だぞ」


遼が声をかけると、

未来は遼の顔をちらりと見たが――

すぐに視線をそらしてしまった。


――まだ寝たくないらしい。


黒川が部屋に入ってきた。


「今日も元気だな。

 寝かしつけ、苦戦してるみたいだ」


「はい……でも、そろそろ眠いはずなんですけどね」


未来は黒川の声に反応し、

ぱっと顔を上げた。


そして――

小さな手で布団をぽんぽん叩いた。


遼は首をかしげた。


「未来……ここに座れってことか?」


未来はこくんと頷くように身体を揺らした。


黒川が布団のそばに腰を下ろすと、

未来はとことこ歩いてきて――

黒川の膝の上に、ぽすんと座った。


遼は思わず笑ってしまった。


「未来……今日は黒川さんのそばで寝たいんですね」


黒川は驚いたように目を見開いたが、

すぐに表情を緩めた。


「……そうか。

 ここがいいのか」


未来は黒川の胸に寄りかかり、

小さく息を吐いた。


その仕草は、

“ここが安心できる場所”だと伝えているようだった。


遼はその光景を見つめながら、

胸がじんわりと温かくなるのを感じた。


「未来……

 寝る場所まで自分で選べるようになったんだな」


未来は黒川の胸の中で小さく身体を揺らし、

さらに深く寄りかかった。


黒川は未来の背中をそっと撫でながら言った。


「……澪が見たら、どう思っただろうな」


遼は静かに答えた。


「きっと……安心したと思います。

 未来が、ちゃんと“安心できる場所”を見つけてるって」


未来は二人の声に反応したのか、

黒川の胸の中から遼の方を見て、

小さく手を伸ばした。


「……た」


遼は笑った。


「はいはい、未来。ここにいるよ」


未来は黒川に寄りかかったまま、

遼の手をぎゅっと掴んだ。


その小さな手は、

“二人ともそばにいてほしい”と伝えているようだった。


黒川はその様子を見て、

静かに言った。


「……いい家族だな。

 未来がそう思ってくれてるなら」


遼は未来の手を握り返しながら呟いた。


「未来……

 これからも、眠りたい場所を自分で選んでいいんだぞ」


未来は安心したように目を閉じ、

黒川の胸にそっと寄りかかった。


その小さな体が選んだぬくもりは、

三人の未来をまたひとつ優しくつないでいた。


第56話 こえ ― 小さな耳が選んだ安心


未来が黒川のそばで眠るようになってから数日後。

その夜、遼は未来を寝かしつけようと絵本を開いていた。


未来は布団の上でごろごろしながら、

「あー」「んー」と小さく声をあげている。


「未来、今日はこの絵本読むぞ」


遼が優しく声をかけると、

未来は遼の顔を見つめ――

しかし、すぐに視線をそらしてしまった。


――どうやら、違うらしい。


黒川が部屋に入ってきた。


「寝かしつけ、まだか?」


「はい……今日はちょっと難しいみたいで」


未来は黒川の声に反応し、

ぱっと顔を上げた。


そして――

小さな手で絵本をぽんぽん叩いた。


遼は首をかしげた。


「未来……読んでほしいのか?」


未来はこくんと頷くように身体を揺らした。


遼は絵本を開き、読み始めようとした。


その瞬間――

未来が遼の手をそっと押し返した。


「……ん」


遼は驚いて未来の顔を見た。


「未来……読んでほしくないのか?」


未来は首を横に振り、

黒川の方を指さした。


「……か」


黒川は目を見開いた。


「……俺に読んでほしいのか?」


未来はこくんと頷いた。


遼は思わず笑ってしまった。


「未来……今日は黒川さんの声がいいんですね」


黒川は絵本を受け取り、

少し照れたように咳払いした。


「……じゃあ、読むぞ」


未来は黒川の膝に座り、

絵本に顔を近づけた。


黒川がゆっくりと読み始めると、

未来はその声に合わせるように小さく身体を揺らした。


遼はその光景を見つめながら、

胸がじんわりと温かくなるのを感じた。


「未来……

 声まで選べるようになったんだな」


黒川は読みながら、

未来の頭をそっと撫でた。


「……澪が聞いたら、どう思っただろうな」


遼は静かに答えた。


「きっと……嬉しかったと思います。

 未来が、安心できる声を自分で選んでるって」


未来は黒川の声に包まれながら、

ゆっくりと目を閉じた。


その小さな呼吸は、

まるで「ここがいい」と伝えているようだった。


黒川は読み終えると、

未来の背中をそっと撫でた。


「……寝たな」


遼は微笑んだ。


「未来……

 これからも、好きな声を選んでいいんだぞ」


未来は眠ったまま、

黒川の服をぎゅっと掴んだ。


その小さな手が選んだ安心は、

三人の未来をまたひとつ優しくつないでいた。


第57話 ぬくもり ― 小さな鼻が覚えた安心


未来が黒川の声で眠るようになってから数日後。

その日の朝、遼は未来を抱き上げながら、

ゆっくりとリビングへ向かっていた。


未来はまだ眠たそうに目をこすり、

「あー……」と小さく声を漏らしている。


「未来、起きたばかりで眠いよな。

 朝ごはん食べたら、また少し休もうか」


遼が優しく声をかけると、

未来は遼の胸に顔を埋めた。


その仕草は、

“まだ離れたくない”と伝えているようだった。


黒川がキッチンから顔を出した。


「おはよう。

 未来、まだ眠そうだな」


未来は黒川の声に反応し、

遼の胸の中から顔を上げた。


そして――

黒川の方へ小さく手を伸ばした。


遼は笑いながら言った。


「未来、黒川さんのところ行きたいのか?」


未来はこくんと頷くように身体を揺らした。


黒川は手を差し出し、

未来をそっと受け取った。


未来は黒川の胸に顔を埋め、

深く息を吸い込んだ。


その瞬間――

未来の表情がふにゃりと緩んだ。


遼は驚いたように目を見開いた。


「未来……今、匂いを確かめたんですかね」


黒川は未来の背中を撫でながら言った。


「赤ん坊は匂いで安心するって聞いたことがある。

 ……俺の匂い、そんなに落ち着くのか?」


未来は黒川の胸にぎゅっとしがみつき、

小さく「ん……」と声を漏らした。


その仕草は、

“ここがいい”と伝えているようだった。


遼は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。


「未来……

 声だけじゃなくて、匂いも覚えてるんですね」


黒川は少し照れたように笑った。


「……悪い気はしないな。

 こんなふうに頼られるのは」


未来は黒川の胸の中で小さく身体を揺らし、

さらに深く寄りかかった。


遼はその姿を見つめながら呟いた。


「未来……

 安心できる場所を、自分で選んでるんだな」


黒川も静かに言った。


「この子は……ちゃんと成長してる。

 俺たちが思ってる以上に」


未来は二人の声に反応したのか、

黒川の服をぎゅっと掴んだ。


その小さな手が選んだぬくもりは、

三人の未来をまたひとつ優しくつないでいた。


第58話 そばにいたい ― 小さな足が向かった先


未来が黒川のぬくもりで安心するようになってから数日後。

その日の午後、遼はリビングで未来と遊んでいた。


未来は積み木を並べながら、

「あー」「んー」と楽しそうに声をあげている。


遼は笑いながら言った。


「未来、今日は積み木が好きなんだな」


未来は積み木をひとつ持ち上げ、

遼に見せるように掲げた。


「……た」


「はいはい、見てるよ」


未来は嬉しそうに笑い、

積み木をまた並べ始めた。


そのとき、玄関のドアが開いた。


黒川が帰ってきたのだ。


未来はぱっと顔を上げ、

積み木を持ったまま立ち上がった。


「……か!」


黒川は驚いたように目を見開いた。


「おい、積み木持ったまま走るな。危ないだろ」


未来はとことこ駆け寄り、

黒川の足元で立ち止まった。


そして――

積み木を黒川に差し出した。


「……こ」


遼は息を呑んだ。


「未来……黒川さんと遊びたいんですかね」


黒川は積み木を受け取り、

未来の顔を覗き込んだ。


「これで遊びたいのか?」


未来はこくんと頷くように身体を揺らした。


黒川は少しだけ表情を緩めた。


「……そうか。

 じゃあ、一緒に積むか」


未来は黒川の膝の上にちょこんと座り、

積み木をひとつずつ渡していく。


遼はその光景を見つめながら、

胸がじんわりと温かくなるのを感じた。


「未来……

 遊ぶ相手まで自分で選べるようになったんだな」


黒川は積み木を積みながら言った。


「この子は……ちゃんと見てるんだよ。

 誰がどう接してくれるか、全部」


未来は黒川の胸に軽く寄りかかりながら、

積み木をもうひとつ差し出した。


「……か」


黒川は笑った。


「はいはい、次はこれだな」


遼はその様子を見て、

静かに呟いた。


「未来……

 そばにいたい人を、自分で選んでるんですね」


未来は二人の声に反応したのか、

黒川の服をぎゅっと掴んだ。


その小さな手は、

“ここがいい”と伝えているようだった。


黒川は未来の頭をそっと撫でた。


「……いい家族だな。

 未来がそう思ってくれてるなら」


未来は嬉しそうに声をあげ、

積み木をまたひとつ黒川に渡した。


その小さな足が向かった先は、

三人の未来をまたひとつ優しくつないでいた。


第59話 よぶ ― 小さな声が求めた人


未来が黒川と遊ぶ時間を自分で選ぶようになってから数日後。

その日の夕方、遼は夕食の準備をしていた。


リビングでは未来が一人で積み木を並べている。

「あー」「んー」と楽しそうな声が聞こえてくる。


「未来、いい子にしてるな。

 もうすぐごはんできるからな」


遼が声をかけると、未来はちらりと遼を見たが、

すぐに積み木に視線を戻した。


――夢中になっているらしい。


そのとき、玄関のドアが開いた。


黒川が帰ってきたのだ。


未来はぴたりと動きを止めた。


そして――

積み木を手に持ったまま立ち上がり、

小さな声で言った。


「……か」


遼は息を呑んだ。


「未来……今、呼んだのか?」


未来はこくんと頷くように身体を揺らし、

とことこ黒川の方へ歩いていく。


黒川は驚いたように目を見開いた。


「……おい。

 今の、“か”って……俺のことか?」


未来は黒川の足元で立ち止まり、

積み木を差し出した。


「……か!」


黒川はしばらく言葉を失っていたが、

ゆっくりと未来を抱き上げた。


未来は黒川の胸に顔を埋め、

安心したように小さく息を吐いた。


遼はその光景を見つめながら、

胸がじんわりと温かくなるのを感じた。


「未来……

 黒川さんを“呼んだ”んですね」


黒川は未来を抱きしめたまま、

少しだけ表情を緩めた。


「……呼ばれるって、こんなに嬉しいものなんだな」


未来は黒川の胸の中で小さく身体を揺らし、

さらに深く寄りかかった。


遼は微笑んだ。


「未来……

 誰に来てほしいか、ちゃんと分かってるんだな」


黒川は未来の背中をそっと撫でながら言った。


「……澪が聞いたら、どう思っただろうな」


遼は静かに答えた。


「きっと……喜んだと思います。

 未来が、自分の気持ちを言葉にできるようになったって」


未来は二人の声に反応したのか、

黒川の胸の中から遼の方を見て、

小さく手を伸ばした。


「……た」


遼は笑った。


「はいはい、未来。ここにいるよ」


未来は黒川に寄りかかったまま、

遼の手をぎゅっと掴んだ。


その小さな声が呼んだのは、

“安心できる人”だった。


その選択は、

三人の未来をまたひとつ優しくつないでいった。


第60話 さがす ― 小さな足が求めた姿


未来が黒川を呼ぶようになってから数日後。

その日の午前、遼は洗濯物を干すためにベランダへ出ていた。


リビングでは未来が一人で遊んでいる。

「あー」「んー」と楽しそうな声が聞こえてくる。


遼は洗濯物を干しながら声をかけた。


「未来、すぐ戻るからな。

 いい子にしててくれよ」


未来はちらりと遼を見たが、

特に気にする様子もなく積み木を並べ続けていた。


――ほんの数分のこと。


遼が部屋に戻ると、

未来の姿が見えなかった。


「未来……?」


遼はすぐにキッチンへ向かった。

そこにもいない。


リビングの隅にもいない。


胸が少しざわつく。


「未来、どこ行ったんだ……?」


そのとき――

廊下の奥から、小さな足音が聞こえた。


とことこ、とことこ。


未来が、遼の部屋の前で立ち止まっていた。


そして、遼の姿を見つけた瞬間――

ぱっと顔を輝かせた。


「……た!」


遼は息を呑んだ。


「未来……探してたのか?」


未来はこくんと頷くように身体を揺らし、

遼の足にしがみついた。


その小さな手は、

“いなくて寂しかった”と伝えているようだった。


遼はしゃがみ込み、未来を抱き上げた。


「未来……ごめんな。

 すぐ戻るつもりだったんだけど、寂しかったんだな」


未来は遼の胸に顔を埋め、

小さく「ん……」と声を漏らした。


そのとき、玄関のドアが開いた。


黒川が帰ってきたのだ。


未来は遼の胸の中から顔を上げ、

黒川の姿を見た瞬間――

小さく手を伸ばした。


「……か!」


黒川は驚いたように目を見開いた。


「……俺も探してたのか?」


未来は遼の胸の中で身体を揺らし、

黒川の方へ手を伸ばし続けた。


遼は笑いながら未来を黒川に渡した。


「未来、今日は二人とも探してたみたいですね」


黒川は未来を受け取り、

その小さな身体をしっかり抱きしめた。


未来は黒川の胸に顔を埋め、

安心したように息を吐いた。


黒川は静かに言った。


「……澪が見たら、どう思っただろうな」


遼は答えた。


「きっと……嬉しかったと思います。

 未来が、ちゃんと“会いたい人”を探せるようになったって」


未来は二人の声に反応したのか、

黒川の服をぎゅっと掴んだ。


その小さな足が向かった先は、

“安心できる人”だった。


未来の「探す」という行動は、

三人の未来をまたひとつ優しくつないでいった。


第61話 まつ ― 小さな心が信じた帰り道


未来が遼や黒川を探すようになってから数日後。

その日の夕方、遼は近所のスーパーへ買い物に出ていた。


「未来、すぐ戻るからな。

 黒川さんと一緒に待っててくれよ」


未来は遼の顔をじっと見つめ、

小さく「ん……」と声を漏らした。


黒川が未来を抱き上げて言った。


「大丈夫だ。

 遼くんはすぐ帰ってくる」


未来は黒川の胸に寄りかかりながら、

遼の背中をじっと見送った。


――そして、遼が見えなくなった瞬間。


未来は黒川の腕の中でもぞもぞ動き、

床に降りたがった。


黒川は不思議そうに未来を下ろした。


「どうした?」


未来はとことこ歩き、

玄関の前で立ち止まった。


そして――

じっとドアを見つめた。


黒川は息を呑んだ。


「……遼くんを、待ってるのか?」


未来はこくんと頷くように身体を揺らし、

小さく「た……」と呟いた。


黒川は胸がじんわりと熱くなるのを感じた。


「未来……

 遼くんが帰ってくるって、分かってるんだな」


未来はドアの前に座り込み、

小さな手で床をぽんぽん叩きながら待ち続けた。


その姿は、

“ここで待っていれば、会える”と信じているようだった。


しばらくして、鍵の回る音がした。


カチャリ。


未来はぱっと顔を上げ、

小さな足で立ち上がった。


そして――

ドアが開くと同時に叫んだ。


「……た!!」


遼は驚きながらも笑顔になった。


「未来……待っててくれたのか?」


未来は遼の足にしがみつき、

小さく「ん……」と声を漏らした。


黒川が後ろから言った。


「ずっと玄関で待ってたんだ。

 遼くんが帰ってくるって信じて」


遼は胸が熱くなり、

未来を抱き上げた。


「未来……ありがとう。

 待っててくれたんだな」


未来は遼の胸に顔を埋め、

安心したように息を吐いた。


その小さな心が信じた帰り道は、

三人の未来をまたひとつ優しくつないでいた。


第62話 むかえにいく ― 小さな足が動かした気持ち


未来が遼を玄関で待つようになってから数日後。

その日の昼下がり、遼は洗濯物を畳みながら未来を見守っていた。


未来はお気に入りのぬいぐるみを抱え、

「あー」「んー」と小さく声をあげている。


遼は微笑んだ。


「未来、今日はご機嫌だな」


未来は遼の方をちらりと見たが、

すぐにぬいぐるみに顔を埋めた。


そのとき、黒川が外出のために玄関へ向かった。


「未来、ちょっと買い物に行ってくる。

 遼くんと待っててくれ」


未来は黒川の声に反応し、

ぱっと顔を上げた。


そして――

黒川の後を追うように、とことこ歩き出した。


遼は驚いた。


「未来……黒川さんについて行くのか?」


未来は玄関の前で立ち止まり、

黒川を見上げた。


黒川はしゃがみ込み、未来の頭を撫でた。


「すぐ戻る。

 未来は遼くんと一緒に……」


しかし未来は首を横に振り、

小さな手を伸ばした。


「……か」


黒川は息を呑んだ。


「……俺を、迎えに行きたいのか?」


未来はこくんと頷くように身体を揺らした。


遼は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。


「未来……

 黒川さんがいなくなるの、寂しいんですね」


黒川は少しだけ表情を緩めた。


「……困ったな。

 こんなふうに求められたら、行きづらいじゃないか」


未来は黒川のズボンをぎゅっと掴み、

小さく「ん……」と声を漏らした。


その仕草は、

“行かないで”と伝えているようだった。


黒川は未来をそっと抱き上げた。


「……じゃあ、一緒に玄関まで見送ってくれるか?」


未来は黒川の胸に顔を埋め、

小さく頷いた。


黒川が靴を履く間、

未来はずっと黒川の胸にしがみついていた。


そして黒川が外に出ようとすると――

未来は黒川の服をぎゅっと掴んだまま離れなかった。


「……か」


黒川は苦笑した。


「……分かったよ。

 すぐ戻るからな」


未来は黒川が見えなくなるまで、

玄関の前でじっと立っていた。


遼はその姿を見つめながら呟いた。


「未来……

 迎えに行きたいくらい、黒川さんのことが好きなんだな」


しばらくして、鍵の音がした。


カチャリ。


未来はぱっと顔を上げ、

小さな足でとことこ駆け寄った。


「……か!!」


黒川は驚きながらも笑った。


「ただいま。

 迎えに来てくれたのか」


未来は黒川の足にしがみつき、

安心したように息を吐いた。


その小さな足が動かした気持ちは、

三人の未来をまたひとつ優しくつないでいた。


第63話 まねる ― 小さな手が覚えた仕草


未来が遼や黒川を探したり、待ったりするようになってから数日後。

その日の朝、遼はリビングでコーヒーを飲みながら未来を見守っていた。


未来は床に座り、

お気に入りのぬいぐるみを抱えながら「あー」「んー」と声をあげている。


遼は笑いながら言った。


「未来、今日も元気だな」


そのときだった。


遼がコーヒーを飲むためにカップを持ち上げると――

未来がぬいぐるみを持ち上げ、

まったく同じ動きをした。


遼は思わず目を見開いた。


「……未来、今の……真似したのか?」


未来は遼の顔をじっと見つめ、

もう一度ぬいぐるみを持ち上げた。


まるで「これ?」と確認するように。


遼は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。


「未来……すごいな。

 真似できるようになったんだな」


未来は嬉しそうに声をあげ、

今度は遼の座り方を真似して足を投げ出した。


その姿があまりにも可愛くて、

遼は思わず笑ってしまった。


「未来、それはちょっと偉そうだぞ」


未来は遼の笑い声に反応し、

さらに得意げに胸を張った。


そのとき、黒川が部屋に入ってきた。


「何をしてるんだ?」


遼が答える前に――

未来が黒川の歩き方を真似して、

とことこ歩き始めた。


黒川は驚いたように目を見開いた。


「……俺の真似か?」


未来はこくんと頷くように身体を揺らし、

黒川の前で立ち止まった。


そして、黒川がよくやる仕草――

胸の前で腕を組む動きを、

小さな腕でぎこちなく再現した。


黒川は思わず吹き出した。


「おい、それはやめろ。

 そんなに偉そうに見えるか?」


遼は笑いながら言った。


「未来、黒川さんのことよく見てるんですね」


未来は二人の笑顔に反応し、

嬉しそうに声をあげた。


その小さな手が覚えた仕草は、

未来が二人を“自分の世界の中心”として見ている証だった。


遼は未来の頭をそっと撫でながら呟いた。


「未来……

 これからも、いっぱい真似していいんだぞ」


黒川も静かに言った。


「真似されるってのは……悪くないな」


未来は二人の言葉に応えるように、

またぬいぐるみを持ち上げた。


その小さな動きは、

三人の未来をまたひとつ優しくつないでいた。


第64話 わらう ― 二人の前でだけ見せる笑顔


未来が遼や黒川の仕草を真似するようになってから数日後。

その日の昼下がり、遼はリビングで洗濯物を畳んでいた。


未来は床に座り、

お気に入りのぬいぐるみを抱えながら「あー」「んー」と声をあげている。


遼は微笑んだ。


「未来、今日もご機嫌だな」


そのときだった。


未来がぬいぐるみを高く持ち上げ、

遼の方をちらりと見た。


そして――

ふにゃり、と口元を大きくゆるめた。


遼は息を呑んだ。


「……未来、今……笑った?」


未来は遼の反応が嬉しいのか、

もう一度、今度はもっと大きく笑った。


「あー!」


その声は、

これまでの泣き声や呼び声とは違う、

はっきりとした“喜び”の響きだった。


遼は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。


「未来……そんな顔、できるんだな」


未来は遼の笑顔を見て、

さらに笑い声をあげた。


そのとき、黒川が部屋に入ってきた。


「何をして――」


黒川の言葉が途中で止まった。


未来が黒川の姿を見た瞬間、

ぱっと顔を輝かせたのだ。


「……か!」


そして、

黒川に向かって両手を伸ばしながら――

また笑った。


黒川は驚いたように目を見開いた。


「……俺にも笑うのか?」


未来はこくんと頷くように身体を揺らし、

黒川の胸に飛び込むように抱きついた。


黒川は未来を抱き上げながら、

少しだけ表情を緩めた。


「……悪くないな。

 こんなふうに笑われるのは」


遼はその光景を見つめながら呟いた。


「未来……

 笑顔まで、ちゃんと二人に向けてくれるんですね」


未来は黒川の胸の中で、

遼の方を見てまた笑った。


その笑顔は、

“ここが安心できる場所”だと伝えているようだった。


黒川は未来の頭をそっと撫でた。


「……澪が見たら、どう思っただろうな」


遼は静かに答えた。


「きっと……嬉しかったと思います。

 未来が、こんなに笑えるようになったって」


未来は二人の声に反応したのか、

小さく「あー」と笑い声をあげた。


その小さな笑顔は、

三人の未来をまたひとつ優しくつないでいた。


第65話 おこる ― 初めての自己主張


未来が二人の仕草を真似して笑うようになってから数日後。

その日の夕方、遼はリビングで未来に離乳食を食べさせていた。


未来はスプーンをじっと見つめ、

「あー」「んー」と小さく声をあげている。


遼は笑いながら言った。


「未来、今日はよく食べるな。

 もう一口いくぞ」


スプーンを口元に近づけた、その瞬間――


未来が顔をそむけた。


遼は目を瞬いた。


「……未来? もういらないのか?」


未来はさらに顔をそむけ、

小さな手で遼の腕を押し返した。


「んっ……!」


その仕草は、

はっきりとした“拒否”だった。


遼は驚きながらも、胸がじんわりと温かくなるのを感じた。


「未来……今の、“嫌”ってことか?」


未来は遼の顔をちらりと見て、

むすっとした表情をした。


その顔があまりにも可愛くて、

遼は思わず笑ってしまった。


「怒ってるのか?

 未来、そんな顔もできるんだな」


未来はさらにぷいっと顔をそむけ、

小さな足で床を蹴った。


そのとき、黒川が部屋に入ってきた。


「何をしてるんだ?」


遼が答える前に――

未来が黒川の方を見て、

むすっとしたまま両手を伸ばした。


「……か」


黒川は驚いたように目を見開いた。


「……俺のところに来たいのか?」


未来はこくんと頷くように身体を揺らした。


遼は苦笑しながら未来を黒川に渡した。


「未来、今日は黒川さんの方がいいみたいですね」


黒川は未来を抱き上げ、

その小さな背中をそっと撫でた。


「……怒ってるのか?

 そんな顔もするんだな」


未来は黒川の胸に顔を埋め、

まだ少しむすっとしたまま小さく息を吐いた。


遼はその様子を見つめながら呟いた。


「未来……

 “嫌”って言えるようになったんですね」


黒川も静かに言った。


「自己主張できるってのは、成長の証だ」


未来は黒川の胸の中で、

遼の方をちらりと見た。


そして――

小さく手を伸ばした。


「……た」


遼は笑った。


「はいはい、未来。怒ってても可愛いぞ」


未来はその言葉に反応したのか、

むすっとした顔のまま、ほんの少しだけ口元がゆるんだ。


その小さな“怒り”は、

三人の未来をまたひとつ優しくつないでいた。


第66話 あげる ― 小さな贈り物


未来が「嫌」を示すようになってから数日後。

その日の朝、遼はリビングで洗濯物を畳んでいた。


未来はお気に入りのぬいぐるみを抱え、

「あー」「んー」と小さく声をあげている。


遼は微笑んだ。


「未来、そのぬいぐるみ本当に好きだな」


未来はぬいぐるみをぎゅっと抱きしめ、

遼の方をちらりと見た。


そのときだった。


未来がぬいぐるみを持ったまま立ち上がり、

とことこ遼の方へ歩いてきた。


そして――

その大事なぬいぐるみを、

遼の膝の上にぽすんと置いた。


遼は息を呑んだ。


「……未来? これ、くれるのか?」


未来はこくんと頷くように身体を揺らし、

小さく「あー」と声を漏らした。


遼は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。


「未来……

 こんな大事なもの、俺にくれるのか」


未来は遼の顔をじっと見つめ、

もう一度ぬいぐるみを押しつけるように差し出した。


その仕草は、

“これ、あげる”と伝えているようだった。


遼はそっとぬいぐるみを受け取り、

未来の頭を撫でた。


「ありがとう。

 未来の気持ち、ちゃんと受け取ったよ」


そのとき、黒川が部屋に入ってきた。


「何をしてるんだ?」


遼が答える前に――

未来が黒川の方を向き、

今度は床に置いてあった積み木をひとつ拾った。


そして、黒川の前まで歩いていき、

その積み木を差し出した。


「……か」


黒川は驚いたように目を見開いた。


「……俺にも、くれるのか?」


未来はこくんと頷いた。


黒川は積み木を受け取り、

未来の頭をそっと撫でた。


「……ありがとう。

 大事にする」


未来は嬉しそうに声をあげ、

二人の顔を交互に見た。


遼はその光景を見つめながら呟いた。


「未来……

 自分の大事なものを“誰かにあげたい”って思えるんですね」


黒川も静かに言った。


「信頼してる相手にしか、こんなことはしない」


未来は二人の言葉に反応したのか、

小さく「あー」と笑い声をあげた。


その小さな贈り物は、

三人の未来をまたひとつ優しくつないでいた。


第67話 よる ― 夜泣きの理由


未来が大事なものを「あげる」ようになってから数日後。

その日の夜、遼と黒川はリビングで静かに話をしていた。


未来は寝室で眠っている。

小さな寝息が聞こえるほど、穏やかな夜だった。


遼はコーヒーを飲みながら言った。


「未来、最近よく笑うようになりましたね」


黒川は頷いた。


「表情が豊かになった。

 成長してる証拠だ」


そのときだった。


――ふぇ……

――ふぇぇ……


寝室から小さな泣き声が聞こえた。


遼はすぐに立ち上がった。


「未来……?」


黒川も後を追う。


寝室のドアを開けると、

未来が布団の中で身体を丸め、

涙を浮かべながら手を伸ばしていた。


「……た……」


遼は息を呑んだ。


「未来……俺を呼んでるのか?」


未来は泣きながら遼の方へ手を伸ばし、

小さく「ん……」と声を漏らした。


遼は急いで未来を抱き上げ、

その小さな背中を優しく撫でた。


「大丈夫だ。

 ここにいるよ。

 未来、怖かったのか?」


未来は遼の胸に顔を埋め、

しゃくりあげながら小さく息を吐いた。


黒川はその様子を見つめながら言った。


「……遼くんを求めてるな」


遼は未来を抱きしめたまま、

黒川の方を見た。


「未来……

 夜は特に不安になるんでしょうね」


未来は遼の胸にしがみつき、

まだ涙を浮かべたまま小さく呟いた。


「……た……」


遼は胸が締めつけられるような、

でも温かい気持ちになった。


「はいはい、未来。

 ここにいるよ。

 ずっとそばにいるからな」


黒川がそっと近づき、

未来の頭を優しく撫でた。


「……未来。

 遼くんがいるから大丈夫だ」


未来は黒川の手の温もりに反応し、

少しだけ泣き声が弱まった。


遼は未来を抱いたまま、

ゆっくりと揺らしながら言った。


「未来……

 夜に誰を求めるかって、

 きっと本能なんでしょうね」


黒川は静かに頷いた。


「安心できる相手を選んでるんだ」


未来は遼の胸の中で、

ようやく泣き止み、

小さく「ん……」と息を吐いた。


その小さな夜泣きの理由は、

“安心できる人を求めた”ただそれだけだった。


そしてその選択は、

三人の未来をまたひとつ優しくつないでいった。


第68話 ことば ― はじめての二語文


未来が夜に遼を求めるようになってから数日後。

その日の朝、遼はキッチンで朝食の準備をしていた。


リビングでは未来が積み木を並べながら、

「あー」「んー」と小さく声をあげている。


遼は微笑んだ。


「未来、今日も元気だな。

 もうすぐごはんできるからな」


未来は遼の声に反応し、

積み木を持ったまま遼の方を見た。


そのときだった。


未来が積み木を握りしめ、

とことこ遼の方へ歩いてきた。


そして――

遼の服をぎゅっと掴み、

小さな声で言った。


「……た、いく」


遼は息を呑んだ。


「……未来?

 今、“た いく”って……俺のところに行くって意味か?」


未来はこくんと頷くように身体を揺らし、

遼の胸にしがみついた。


遼は胸が熱くなるのを感じた。


「未来……

 二つの言葉をつなげたんだな。

 すごいよ、本当に……」


未来は遼の胸の中で小さく声を漏らした。


「……た、いく」


その声は、

“あなたのところに行きたい”という

はっきりとした意思だった。


そのとき、黒川が部屋に入ってきた。


「何をして――」


黒川の言葉が途中で止まった。


未来が遼の胸の中から顔を上げ、

黒川に向かって小さく手を伸ばした。


「……か、だっこ」


黒川は目を見開いた。


「……今、俺に“抱っこ”って言ったのか?」


未来はこくんと頷いた。


遼は笑いながら未来を黒川に渡した。


「未来……

 黒川さんにも二語文を使うんですね」


黒川は未来を抱き上げ、

その小さな背中をそっと撫でた。


「……すごいな。

 こんなに早く言葉をつなげるなんて」


未来は黒川の胸に顔を埋め、

小さく「ん……」と息を吐いた。


遼はその様子を見つめながら呟いた。


「未来……

 言葉で気持ちを伝えられるようになったんですね」


黒川も静かに言った。


「この子は……

 ちゃんと自分の意思を持ってる」


未来は二人の声に反応したのか、

黒川の胸の中から遼の方を見て、

もう一度言った。


「……た、いく」


遼は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。


その小さな二語文は、

三人の未来をまたひとつ優しくつないでいった。


第69話 おもいで ― 澪の写真に触れる未来


未来が二語文を話すようになってから数日後。

その日の午後、遼は部屋の片付けをしていた。


棚の奥から、

澪が未来を抱いて笑っている写真が出てきた。


遼はその写真を見つめ、

胸が少しだけ締めつけられるような感覚を覚えた。


「……澪さん、未来はこんなに大きくなりましたよ」


そのとき、

とことこ、とことこ。


未来が遼の足元まで歩いてきた。


遼は微笑んだ。


「未来、これ見てみるか?」


未来は遼の手元の写真に気づき、

じっと見つめた。


そして――

遼の膝に手を置き、

写真にそっと触れた。


小さな指が、

澪の笑顔の部分をなぞる。


遼は息を呑んだ。


「未来……?」


未来は写真を見つめたまま、

小さく口を開いた。


「……ま……」


遼の胸が大きく揺れた。


「未来……今、“ま”って……?」


未来は写真を見つめ続け、

もう一度、少しだけはっきりと呟いた。


「……ま……」


その声は、

“誰かを思い出そうとしている”ようにも、

“心が反応している”ようにも聞こえた。


そのとき、黒川が部屋に入ってきた。


「どうした?」


遼は写真を見つめる未来を指差した。


「未来が……澪さんの写真を見て、“ま”って……」


黒川は未来の横にしゃがみ込み、

写真を覗き込んだ。


未来は黒川の存在に気づくと、

写真を黒川の方へ差し出した。


「……か……ま……」


黒川は目を見開いた。


「……俺に見せて、“ま”って言ったのか?」


未来はこくんと頷くように身体を揺らした。


遼は胸が熱くなるのを感じた。


「未来……

 澪さんのこと、覚えてるわけじゃないと思うけど……

 でも、何か感じたんでしょうね」


黒川は静かに言った。


「血のつながりってのは……

 言葉じゃ説明できないものがある」


未来は写真を抱きしめるように胸に当て、

小さく「ん……」と息を吐いた。


遼はその姿を見つめながら呟いた。


「未来……

 いつか澪さんに会える日が来たら……

 きっと、ちゃんと分かるんだろうな」


未来は写真を抱いたまま、

遼と黒川を交互に見た。


その小さな仕草は、

“この人は大事な人だ”と伝えているようだった。


そしてその瞬間、

三人の未来は静かに、

次の物語へとつながり始めていた。


第70話 てをつなぐ ― 三人で歩く未来


未来が澪の写真に触れ、「ま」と呟いた日から数日後。

その日の午後、遼と黒川は未来を連れて近所の公園へ散歩に出かけた。


空は晴れていて、

風はやわらかく、

未来の頬をそっと撫でていく。


未来はとことこ歩きながら、

「あー」「んー」と小さく声をあげていた。


遼は微笑んだ。


「未来、歩くの上手になったな」


黒川も頷いた。


「転ばなくなった。

 成長してる証拠だ」


未来は二人の声に反応し、

振り返ってにこっと笑った。


その笑顔は、

最近よく見せるようになった“特別な笑顔”だった。


公園の入り口に着いたとき、

未来がふいに立ち止まった。


遼は首をかしげた。


「未来、どうした?」


未来は遼の方へとことこ歩き、

小さな手を伸ばした。


「……た、て」


遼は息を呑んだ。


「……手、つなぎたいのか?」


未来はこくんと頷いた。


遼はその小さな手をそっと握った。


未来の手は温かくて、

柔らかくて、

まるで“信じてるよ”と言っているようだった。


そのとき――

未来がもう片方の手を黒川の方へ伸ばした。


「……か、て」


黒川は驚いたように目を見開いた。


「……俺とも、つなぎたいのか?」


未来は身体を揺らしながら、

はっきりと頷いた。


遼は笑った。


「未来……

 二人と一緒に歩きたいんですね」


黒川は未来の手をそっと握った。


その瞬間、

未来は満足そうに小さく声をあげた。


「あー」


三人はゆっくりと歩き出した。


未来は真ん中で、

遼と黒川の手をしっかり握りしめている。


小さな足が、

二人の歩幅に合わせて一生懸命動いていた。


遼は未来の横顔を見つめながら呟いた。


「未来……

 こんな日が来るなんて思わなかったな」


黒川も静かに言った。


「家族ってのは……

 こういう瞬間に形になるんだな」


未来は二人の言葉に反応したのか、

ぎゅっと手を握り返した。


その小さな力は、

“ここがいい”と伝えているようだった。


三人の影が並んで伸びていく。


未来の影は、

二人の影に守られるように寄り添っていた。


その光景は、

三人の未来が確かにひとつになった証だった。


そして――

未来の成長編は静かに幕を閉じ、

新しい物語の扉がゆっくりと開き始めていた。


第71話 しるし ― 小さな違和感


三人で手をつないで歩いた日の翌朝。

遼は未来を保育園に送り届けたあと、職場へ向かっていた。


春の風が少し冷たく、

遼はコートの襟を立てながら歩く。


そのとき、スマートフォンが震えた。


――病院からの着信。


遼は足を止めた。


「……病院? なんで今さら」


澪が亡くなったときの病院だ。

もう連絡が来る理由などないはずだった。


胸の奥がざわつく。


遼は深呼吸して電話に出た。


「はい、遼です」


受話器の向こうから、

落ち着いた女性の声が聞こえた。


『突然のご連絡で申し訳ありません。

 澪さんの件で、少し確認したいことがありまして』


遼は思わず息を呑んだ。


「……澪の?」


『ええ。

 当時の記録を整理していたところ、

 一部の書類に不備が見つかりまして。

 ご家族に確認が必要な点がありまして』


遼は眉をひそめた。


「不備……?

 澪は……亡くなったんですよね」


『もちろん、その認識で間違いありません。

 ただ、当時の処置に関する記録の一部が、

 別の患者さんのものと混在していた可能性がありまして』


遼の胸がざわつく。


「……どういうことですか」


『詳しいことは、直接お話ししたいのですが……

 お時間をいただけますか?』


遼は迷った。

仕事もある。

未来の迎えもある。


だが――

胸の奥に、説明できない“違和感”が残った。


「……分かりました。

 今日の夕方、伺います」


電話を切ったあと、

遼はしばらくその場に立ち尽くした。


「書類の不備……?

 今さら……なんで……」


そのとき、

ポケットの中でスマートフォンがもう一度震えた。


今度は黒川からだ。


『遼くん、今日の未来の迎え、俺が行く。

 仕事、何かあったんだろう?』


遼は驚いた。


「なんで分かったんですか」


『声が硬い。

 何かあったんだろうと思った』


遼は少しだけ笑った。


「……さすがですね。

 じゃあ、お願いします」


『任せろ』


電話を切ると、

遼は空を見上げた。


雲がゆっくりと流れていく。


胸の奥に残る違和感は、

風に消えるどころか、

むしろ強くなっていく。


「……澪……」


その名前を口にした瞬間、

遼の胸に、

言葉にできないざわめきが広がった。


それはまだ、

“予感”にもならないほど小さな揺らぎ。


だが確かに、

三人の未来は静かに動き始めていた。


第72話 ゆらぎ ― 病院の説明


夕方、遼は病院の面談室に通された。


澪が出産後に運ばれた、あの病院。

白い壁も、消毒液の匂いも、

あの日の記憶を呼び起こす。


遼は深く息を吸い、椅子に座った。


ほどなくして、担当医が資料を抱えて入ってきた。


「遼さん、お忙しいところありがとうございます」


遼は軽く頭を下げた。


「書類の不備というのは……どういうことですか」


医師は慎重に言葉を選びながら資料を開いた。


「澪さんが出産直後に大量出血で心停止し、

 緊急処置を受けたことはご存じの通りです」


遼は静かに頷いた。


「はい……」


医師は続けた。


「その時間帯に、

 交通事故で重傷を負った“身元不明の女性”が

 同時に搬送されてきていました」


遼は眉をひそめた。


「……事故の女性?」


「はい。

 処置室が混み合い、複数の患者さんが同時に運ばれ……

 その結果、記録の一部が混在した可能性があります」


遼の胸がざわつく。


「混在……?」


医師は深く頷いた。


「澪さんの処置記録の一部に、

 事故の女性のデータが紛れ込んでいた可能性があるのです」


遼は息を呑んだ。


「……それは……

 澪が本当に亡くなったのかどうか、

 分からないということですか」


医師は首を横に振った。


「死亡確認そのものは、間違いありません。

 ただ……」


医師は資料を閉じた。


「身元不明の女性の“所持品”の中に、

 澪さんのものと思われる品が混ざっていました」


遼は目を見開いた。


「……澪の……?」


「はい。

 逆に、澪さんの所持品の中に、

 事故の女性のものが紛れていた可能性もあります」


遼の胸に、説明できない震えが走る。


「……その身元不明の女性は……今、どうしているんですか」


医師は静かに答えた。


「心停止後に蘇生され、

 しばらく意識不明でしたが……

 その後、回復されました」


遼は息を呑んだ。


「……回復……?」


「ただし、記憶障害が残り、

 身元を名乗ることができませんでした。

 ご家族も見つからず……

 支援施設へ移られています」


遼の心臓が強く脈打つ。


「……名前は?」


医師は首を横に振った。


「分かりません。

 ご本人も覚えていないのです」


遼は拳を握りしめた。


「……そうですか」


医師は深く頭を下げた。


「混乱を招くような話で申し訳ありません。

 ただ、当時の状況を正確にお伝えしたかったのです」


遼は立ち上がり、

礼を言って病院を後にした。


外に出ると、

夕暮れの空が赤く染まっていた。


胸の奥に残るざわめきは、

風に消えるどころか、

むしろ強くなっていく。


「……澪……」


その名を呟いた瞬間、

遼の胸に、説明できない痛みが広がった。


――そして場面は、静かに切り替わる。


第73話 めざめ ― 澪の視点


目を開けると、

白い天井が見えた。


ここは……どこだろう。


胸の奥がざわつく。

何かを忘れている気がする。


でも、それが何なのか分からない。


私はゆっくりと身体を起こした。


窓の外では、

夕日が沈みかけている。


オレンジ色の光が、

部屋の壁を静かに染めていた。


――私は、誰だろう。


名前は……澪。

それだけは覚えている。


でも、それ以外が霧の中だ。


誰かの声がする。

遠くで、私を呼ぶ声。


「……ま……」


その声を思い出そうとすると、

胸が痛くなる。


涙がこぼれた。


理由は分からない。

でも、

“誰かが私を呼んでいた”

その感覚だけが、胸に残っている。


私は胸に手を当てた。


「……ごめんね……」


誰に向けた言葉なのか分からない。

でも、

謝らなければいけない気がした。


そのとき、

枕元に置かれた小さな紙袋が目に入った。


支援員さんが

「あなたの所持品です」

と言って置いていったもの。


私は震える手で袋を開けた。


中には――


小さな、

赤ちゃん用の靴下が一足。


私は息を呑んだ。


胸が、

締めつけられるように痛い。


「……だれ……?」


誰のもの?

どうして私が持っているの?


靴下を握りしめた瞬間、

胸の奥から、

かすかな声が響いた。


――ま。


私は涙をこぼしながら、

その靴下を抱きしめた。


「……ごめんね……

 ごめんね……」


理由は分からない。

でも、

謝らなければいけない気がした。


夕日が沈む。


澪の世界は、

静かに、

しかし確実に動き始めていた。


第74話 かけら ― 思い出せない記憶


支援施設の静かな部屋。

澪は窓辺の椅子に座り、

膝の上に小さな靴下を置いていた。


赤ちゃん用の、

手のひらに収まるほどの小さな靴下。


それを見つめるたびに、

胸の奥がざわつく。


「……どうして、私が……」


支援員の女性がそっと声をかけた。


「澪さん、その靴下……

 事故のとき、あなたが握っていたそうですよ」


澪は目を瞬いた。


「……私が?」


「ええ。

 救急隊の方が言っていました。

 ずっと離さなかったって」


澪は靴下をそっと握りしめた。


その瞬間――

胸の奥が、

ぎゅっと締めつけられるように痛んだ。


「……誰の……?」


問いかけても、答えは出ない。


でも、

涙だけがこぼれた。


支援員は静かに言った。


「澪さん……

 あなたには、出産の記録があります」


澪は息を呑んだ。


「……私……子どもが……?」


支援員は頷いた。


「はい。

 事故の直前に出産されています。

 ただ……その後の記録が、少し複雑で……」


澪は震える声で言った。


「……私……母親だったんですか」


その言葉を口にした瞬間、

胸の奥が熱くなった。


支援員は優しく続けた。


「記憶が戻らないのは、

 あなたのせいではありません。

 心停止の影響で、

 “母であった実感”だけが抜け落ちてしまったんです」


澪は靴下を胸に抱きしめた。


「……でも……

 思い出せないんです……

 その子の顔も……声も……

 何も……」


支援員はそっと澪の肩に手を置いた。


「思い出せなくてもいいんです。

 でも……

 あなたがその靴下を離さなかったのは、

 きっと理由があります」


澪は涙をこぼしながら呟いた。


「……会いたい……

 でも……

 会っていいのか分からない……

 私なんかが……」


支援員は静かに言った。


「澪さん。

 “会いたい”と思ったなら……

 それは、あなたの中にまだ残っている“母の気持ち”です」


澪は顔を上げた。


胸の奥で、

小さな声が響いた気がした。


――ま。


あの日、

病室で聞こえたあの声。


「……あの声……

 あれは……」


澪は靴下を握りしめた。


「……私を……呼んでいた……?」


支援員は微笑んだ。


「その可能性は、あります」


澪の胸に、

小さな光が灯った。


まだ弱く、

今にも消えてしまいそうな光。


でも確かに、

そこに“何か”がある。


「……私……

 知りたい……

 あの子のこと……」


その言葉は、

澪が初めて自分の意思で踏み出した一歩だった。


夕日が差し込み、

靴下の影が澪の膝の上に落ちる。


その影は、

まるで小さな手のように見えた。


第75話 よびごえ ― 胸の奥の声


支援施設の静かな廊下を歩きながら、

澪は胸に手を当てていた。


小さな靴下を握りしめたあの日から、

胸の奥で何かがざわついている。


「……あの声……」


――ま。


あの一音が、

耳ではなく、胸の奥で響いている。


思い出せない。

でも、忘れられない。


澪は支援員の部屋の前で立ち止まり、

そっとノックした。


「どうぞ」


中に入ると、

支援員の女性が書類を整理していた。


「澪さん、どうしました?」


澪は靴下を胸に抱きしめたまま、

震える声で言った。


「……私……

 あの子のこと……

 知りたいです」


支援員は優しく微笑んだ。


「そう言ってくれるのを待っていました」


澪は椅子に座り、

深呼吸をした。


支援員は一枚のファイルを取り出した。


「澪さんが出産したのは、

 ちょうど一年前です」


澪は息を呑んだ。


「……一年前……」


「はい。

 出産直後に大量出血で心停止し、

 緊急処置が行われました」


澪は胸を押さえた。


その言葉を聞いた瞬間、

身体が反応した。


痛みではない。

でも、

“その瞬間を知っている”ような感覚。


支援員は続けた。


「その後、あなたは意識を失い……

 目を覚ましたときには、

 “母であった記憶”だけが抜け落ちていました」


澪は唇を噛んだ。


「……どうして……

 その部分だけ……」


支援員は静かに言った。


「心停止の影響で、

 “感情と結びついた記憶”が

 部分的に失われることがあります」


澪は靴下を見つめた。


「……でも……

 この靴下を見ると……

 胸が痛くなるんです」


支援員は頷いた。


「それは、

 “身体が覚えている”からです」


澪は目を見開いた。


「身体が……?」


「はい。

 記憶はなくても、

 あなたは確かにその子を抱き、

 その子の声を聞き、

 その子の温もりを知っていた」


澪の目から涙がこぼれた。


「……思い出せないのに……

 こんなに……苦しい……」


支援員はそっと澪の手を包んだ。


「苦しいのは、

 あなたがその子を愛していた証拠です」


澪は震える声で言った。


「……会いたい……

 でも……

 会っていいのか分からない……

 私なんかが……」


支援員は首を横に振った。


「澪さん。

 “会いたい”と思ったその気持ちこそ、

 あなたの中に残っていた“母の声”です」


澪は胸に手を当てた。


その瞬間――

胸の奥で、

またあの声が響いた。


――ま。


澪は涙をこぼしながら呟いた。


「……あなた……

 私を……呼んでるの……?」


支援員は静かに頷いた。


「その子は、

 あなたのことを忘れていません」


澪は靴下を抱きしめた。


「……知りたい……

 あの子の名前……

 どんな顔をしているのか……

 今、どこにいるのか……」


支援員はファイルを閉じた。


「では、

 少しずつお話ししましょう。

 あなたの娘さんのことを」


澪は涙を拭い、

まっすぐ前を見た。


その瞳には、

弱いけれど確かな光が宿っていた。


「……お願いします」


その言葉は、

澪が“母としての自分”を取り戻すための

最初の一歩だった。


第76話 なまえ ― 失われたもの


支援施設の談話室。

澪はテーブルの上に置かれたファイルを見つめていた。


そこには、

「身元不明女性 保護記録」

と書かれている。


支援員が静かに言った。


「澪さん……

 あなたが保護されたとき、

 “身元不明”として扱われていました」


澪は息を呑んだ。


「……私が……?」


支援員は頷いた。


「はい。

 意識が戻ったとき、

 あなたは自分の名前を言えませんでした」


澪は胸に手を当てた。


「……覚えていなかったんです……

 自分の名前すら……?」


「ええ。

 でも、ある日突然、

 “澪”という名前だけが口から出たんです」


澪は目を伏せた。


「……どうして、その名前だけ……」


支援員は優しく言った。


「きっと、あなたにとって大切な名前だったんでしょう」


澪は小さく頷いた。


胸の奥が、

じんわりと熱くなる。


――ま。


あの声が、また響いた。


支援員はファイルをめくりながら続けた。


「あなたが保護されたとき、

 所持品はほとんどありませんでした。

 でも……」


支援員は小さなビニール袋を取り出した。


中には――

澪が握っていた、あの小さな靴下。


「これだけは、

 あなたが離さなかったそうです」


澪は震える手で靴下を握りしめた。


「……この子……

 私の……」


支援員は静かに頷いた。


「ええ。

 あなたの娘さんのものです」


澪の目から涙がこぼれた。


「……どうして……

 どうして私は……

 この子のことを……

 忘れてしまったんですか……」


支援員は澪の手を包んだ。


「忘れたんじゃありません。

 “守るために閉じた”んです。

 心停止の影響で、

 最も強い感情と結びついた記憶が

 深いところに沈んでしまった」


澪は靴下を胸に抱きしめた。


「……でも……

 胸が痛いんです……

 この靴下を見ると……

 あの声を思い出すと……」


支援員は微笑んだ。


「それは、

 あなたの中にまだ“母の記憶”が残っている証拠です」


澪は涙を拭い、

震える声で言った。


「……私……

 あの子の名前を……

 知りたいです」


支援員はファイルを閉じ、

澪の目をまっすぐ見た。


「分かりました。

 少しずつお話ししましょう。

 あなたの娘さん――

 “未来ちゃん”のことを」


澪は息を呑んだ。


胸の奥で、

何かが強く脈打った。


――みらい。


その名前が、

澪の心に静かに落ちていった。


「……未来……

 私の……娘……」


その瞬間、

澪の世界は確かに動き始めた。


第77話 てがかり ― 遼の追跡


病院を出たあとも、

遼の胸のざわめきは消えなかった。


夕暮れの風が冷たい。

だが、その冷たさよりも、

胸の奥の不安のほうが強かった。


「……身元不明の女性……」


澪が亡くなったとき、

そんな話は聞いていない。


だが、

“記録の混在”

“所持品の入れ替わり”

“心停止からの蘇生”

“記憶障害”


どれも、

遼の心を落ち着かせるどころか、

逆にざわつかせる。


遼はスマートフォンを取り出し、

黒川に電話をかけた。


『どうした?』


「黒川さん……

 澪の件で、少し調べたいことがあるんです」


『……何があった』


遼は病院で聞いたことを簡潔に伝えた。


黒川はしばらく黙ったあと、

低い声で言った。


『遼くん。

 その“身元不明の女性”……

 調べてみる価値はある』


「……そう思いますか」


『ああ。

 記録の混在なんて、普通は起きない。

 何かがあったと考えるほうが自然だ』


遼は深く息を吸った。


「……調べます。

 澪のこと……

 本当にあれでよかったのか……

 確かめたいんです」


黒川は静かに言った。


『分かった。

 俺も協力する』


遼は電話を切り、

病院の受付に戻った。


「すみません。

 先ほどの“身元不明の女性”について……

 もう少し詳しい情報を教えていただけませんか」


受付の女性は驚いたように目を瞬いた。


「え……あの方の情報は……

 基本的に非公開で……」


遼は深く頭を下げた。


「お願いします。

 澪の記録と混ざっていた可能性があるんです。

 少しでも手がかりが欲しい」


受付の女性は迷ったように視線を落とし、

やがて小さく頷いた。


「……分かりました。

 ただ、名前は分かりません。

 記憶障害で名乗れなかったので……」


遼の胸が強く脈打つ。


「……では、何が分かるんですか」


受付の女性は一枚の紙を差し出した。


「この方が退院された支援施設の名前です。

 そこなら、何か分かるかもしれません」


遼は紙を受け取り、

その施設名を見つめた。


胸の奥が、

ざわりと揺れた。


「……ここに……

 澪と関係のある人が……?」


遼は紙を握りしめた。


そのとき、

風が吹き、

夕暮れの空が赤く染まった。


遼は歩き出した。


まだ何も分からない。

ただ、

胸の奥のざわめきだけが、

彼を前へと押し出していた。


――そして、

澪もまた、

同じ真実へ向かって歩き始めていた。



第78話 しるべ ― 支援施設へ


翌日。

遼は仕事を早めに切り上げ、

病院から渡された紙を握りしめていた。


そこには、

“身元不明女性が退院後に移った支援施設”

の名前が書かれている。


遼は深呼吸をした。


「……澪の緊急連絡先は、俺だった」


出産前、澪は遼の名前を書いた。

婚姻届は出していなかったが、

二人は同じ家に住み、

未来を迎える準備をしていた。


だから病院は、

遼を“家族相当”として扱った。


それは当然のことだった。


だが――

その当然の中に、

“混乱”が紛れ込んでいた。


遼は歩きながら、

昨日の医師の言葉を思い返す。


――記録の混在

――所持品の入れ替わり

――身元不明の女性

――心停止からの蘇生

――記憶障害


胸の奥がざわつく。


「……澪のことを、

 もう一度ちゃんと知りたい」


遼は駅に向かい、

電車に乗った。


窓の外を流れる景色を見ながら、

胸の奥のざわめきは強くなるばかりだった。


支援施設の最寄り駅に着くと、

遼は地図を頼りに歩き出した。


夕暮れの光が街を染める。


施設の前に立つと、

遼は深呼吸をした。


「……ここに、

 澪と関係のある人がいるかもしれない」


インターホンを押すと、

優しげな女性の声が返ってきた。


『はい、支援センターです』


「すみません……

 病院から紹介されて来ました。

 “身元不明の女性”について……

 お話を伺いたくて」


少しの沈黙。


『……どちら様でしょうか』


「遼と申します。

 澪という女性の……

 緊急連絡先でした」


また沈黙。


だが、

その沈黙は拒絶ではなく、

“確認”のための静けさだった。


やがて、女性の声が柔らかくなった。


『……お入りください。

 お話できる範囲で、お伝えします』


遼は扉が開く音を聞きながら、

胸の奥が強く脈打つのを感じた。


「……澪……

 俺は、真実を知りたい」


遼は施設の中へと足を踏み入れた。


その頃――

澪もまた、

同じ施設の別の部屋で、

未来の名前を胸に抱きしめていた。


二人はまだ互いの存在を知らない。


だが確かに、

同じ真実へ向かって歩き始めていた。


第79話 かさなる影 ― 職員の証言


支援施設の応接室に通された遼は、

落ち着かない気持ちで椅子に座っていた。


部屋の外からは、

誰かの話し声や、

子どもが笑う声が微かに聞こえる。


そのどれもが、

胸の奥をざわつかせた。


ほどなくして、

施設の職員が入ってきた。


「お待たせしました。

 澪さんの……緊急連絡先の方ですね」


遼は頷いた。


「はい。

 澪のことで……

 どうしても知りたいことがあって」


職員は資料を開きながら、

慎重に言葉を選んだ。


「病院からも聞いていると思いますが……

 当施設には、

 “身元不明の女性”が一年前に保護されました」


遼の胸が強く脈打つ。


「……その方は、

 どんな状態だったんですか」


職員は静かに答えた。


「出産直後に心停止し、

 蘇生されたあと……

 記憶を失っていました」


遼は息を呑んだ。


――出産直後

――心停止

――記憶障害


すべて、

澪と同じ。


職員は続けた。


「名前を聞いても答えられず……

 自分が誰なのかも分からない状態でした」


遼は拳を握りしめた。


「……その方は、

 何か持っていましたか。

 所持品とか……」


職員は頷き、

小さなビニール袋を取り出した。


「これが、

 保護されたときに握っていたものです」


遼は袋を見つめた。


中には――

小さな、赤ちゃん用の靴下。


遼の呼吸が止まった。


「……これ……」


職員は言った。


「この靴下だけは、

 どんなに手を開かせても離さなかったそうです。

 まるで……

 命綱のように」


遼の視界が揺れた。


未来が生まれたとき、

澪が選んだ靴下。


「……澪……なのか……?」


声にならない声が漏れた。


職員は続けた。


「最近になって、

 その女性は“娘さんの名前”を聞いて涙を流しました」


遼は顔を上げた。


「……娘の……名前……?」


職員は頷いた。


「“未来ちゃん”と聞いたときです。

 まるで……

 胸の奥に触れられたように、

 泣き崩れていました」


遼の心臓が跳ねた。


未来の名前を聞いて泣く女性。

赤ちゃんの靴下を離さなかった女性。

出産直後に心停止した女性。


――澪。


遼は震える声で言った。


「……その女性は……

 今、どこに……?」


職員は静かに答えた。


「この施設の……

 すぐ近くの部屋にいます」


遼の胸が大きく脈打つ。


「……会わせてください」


職員は首を横に振った。


「申し訳ありません。

 ご本人の精神状態を考えると、

 急な面会は難しいのです」


遼は唇を噛んだ。


「……そうですか……」


職員は続けた。


「ただ……

 その方は、

 “未来ちゃん”の写真を見たいと

 今日初めて言いました」


遼は息を呑んだ。


未来の名前を聞いて泣いた女性が、

未来の写真を求めた。


それは――

澪が“母としての記憶”を取り戻し始めている証。


遼は胸に手を当てた。


「……澪……

 生きてるのか……?」


そのとき――

廊下の向こうから、

小さな声が聞こえた。


――ま。


遼は顔を上げた。


未来の声だ。


そしてその声に反応するように、

廊下の奥で誰かが立ち止まる気配がした。


遼はゆっくりと立ち上がった。


「……今の声……」


職員が慌てて言った。


「遼さん、まだ――」


だが遼は、

胸の奥のざわめきに突き動かされるように、

廊下へと歩き出した。


その先に――

澪がいる。


まだ見えない。

でも確かに、

そこに“影”が重なり始めていた。


未来――その名前を聞いた瞬間、

胸の奥が震えた。


思い出したわけじゃない。

顔も、声も、抱いた感触も、何ひとつ浮かばない。


なのに涙がこぼれる。


理由は分からない。

でも、確かに“知っている”と感じた。


その名前は、

私の心のどこか深い場所に触れた。


忘れたはずの何かが、

静かに目を覚ましたように。


第80話 ひかり ― 写真の中の娘


支援施設の静かな相談室。

澪は椅子に座り、

膝の上で小さな靴下を握りしめていた。


支援員がそっと声をかける。


「澪さん……

 未来ちゃんの写真、見てみますか?」


澪は息を呑んだ。


胸の奥が、

理由もなく強く脈打つ。


「……見たいです」


その言葉は震えていた。

でも、確かに澪自身の意思だった。


支援員はタブレットを開き、

一枚の写真を表示した。


そこには――

小さな女の子が笑っていた。


澪は息を止めた。


「……あ……」


胸の奥が、

一瞬で熱くなる。


涙がこぼれた。


理由は分からない。

でも、止まらない。


支援員が静かに言う。


「この子が……

 澪さんの娘さん、未来ちゃんです」


澪は震える声で呟いた。


「……かわいい……

 どうして……

 こんなに……胸が痛いの……?」


写真の中の未来は、

遼に抱かれて笑っていた。


その笑顔を見た瞬間、

澪の心の奥で何かが弾けた。


――この子を抱いたことがある。

――この子の匂いを知っている。

――この子の泣き声を聞いたことがある。


記憶ではない。

映像でもない。


ただ、

**身体が覚えている。**


澪は写真に手を伸ばした。


指先が画面に触れた瞬間、

胸の奥であの声が響いた。


――ま。


澪は涙をこぼしながら呟いた。


「……あなた……

 私を呼んでたの……?」


支援員は頷いた。


「未来ちゃんは、

 澪さんの写真を見て“ま”と呟いたそうです」


澪は口元を押さえた。


「……そんな……

 そんなこと……

 あるんですか……」


支援員は優しく言った。


「記憶は失われても、

 母と子のつながりは消えません。

 深いところで、

 お互いを覚えているんです」


澪は写真を胸に抱きしめた。


「……未来……

 ごめんね……

 ごめんね……

 ずっと……

 会いに行けなくて……」


涙が止まらない。


でもその涙は、

悲しみだけではなかった。


胸の奥に、

小さな光が灯っていた。


「……会いたい……

 未来に……

 会いたい……」


その言葉は、

澪が“母としての自分”を取り戻す

決定的な一歩だった。


その頃――

廊下の向こうで、

遼は未来を抱きしめながら

同じ写真を見ていた。


二人はまだ会わない。

でも確かに、

同じ光に向かって歩き始めていた。


第81話 すれちがい ― 触れられない距離


遼は職員に案内され、

施設の廊下を歩いていた。


「その女性は、

 この先の部屋で生活されています」


遼は頷きながらも、

胸の奥がざわついていた。


――澪が生きているかもしれない。


その可能性が、

遼の心を強く揺らしていた。


廊下の奥から、

誰かの足音が近づいてくる。


遼はふと顔を上げた。


その瞬間――

胸が強く脈打った。


白いカーディガン。

細い肩。

ゆっくりと歩く女性の影。


遼は思わず足を止めた。


「……澪……?」


声にならない声が漏れた。


だがその女性は、

職員に呼ばれて立ち止まり、

ゆっくりと背を向けた。


顔は見えない。

髪が頬を隠している。


遼は一歩踏み出しかけた。


だが――

職員が言った。


「遼さん、こちらです。

 面会はまだできませんので……」


遼は足を止めた。


女性は職員に連れられ、

別の部屋へと消えていった。


遼は胸を押さえた。


「……今の……

 澪じゃないのか……?」


分からない。

でも、

胸の奥が痛いほど反応していた。


遼は深く息を吸い、

案内された応接室へ入った。


その頃――


澪は別室で、

未来の写真を胸に抱きしめていた。


「……未来……

 会いたい……」


涙が頬を伝う。


そのとき、

廊下の向こうから

小さな子どもの声が聞こえた。


――ま。


澪は顔を上げた。


胸の奥が、

強く、強く脈打つ。


「……この声……」


立ち上がり、

扉へと歩き出す。


だが、

支援員が慌てて止めた。


「澪さん、まだ外には……」


澪は立ち止まった。


扉の向こうで、

未来の声がもう一度響いた。


――ま。


澪の目から涙がこぼれた。


「……未来……?」


扉一枚隔てた向こう側で、

遼は未来を抱きしめていた。


未来は遼の肩越しに、

扉の方を指差している。


「……ま……」


遼は未来の指先を追った。


扉の向こうに、

誰かの影が揺れている。


遼は息を呑んだ。


「……誰かいる……?」


未来は泣きそうな声で呟いた。


「……ま……」


遼は胸が締めつけられた。


「……澪……なのか……?」


だが、

扉は開かない。


澪も遼も、

互いの存在を感じながら、

あと一歩のところで触れられない。


すれ違いが、

二人の距離を残酷に隔てていた。


その夜――

遼は施設を後にし、

澪は未来の写真を抱いて眠った。


二人はまだ会えない。


でも確かに、

同じ場所で、

同じ声を聞いていた。


そして、

次の一歩が、

劇的再会へとつながっていく。


第82話 めぐりあう ― 声が導く場所


翌日。

遼は未来を連れて、再び支援施設を訪れた。


昨夜の“声”が忘れられなかった。


――ま。


未来が扉の向こうを指差したあの瞬間。

遼の胸は、説明できないほど強く揺れた。


「……今日こそ、確かめたい」


遼は未来を抱きしめながら、

受付で面会の許可を求めた。


職員は少し迷ったあと、

静かに頷いた。


「……澪さんの状態が落ち着いています。

 短時間なら、お会いできます」


遼の心臓が跳ねた。


「……澪……」


その名前を口にしただけで、

胸が熱くなる。


職員に案内され、

遼は未来を抱いたまま廊下を歩いた。


その頃――


澪は自室で、

未来の写真を胸に抱きしめていた。


「……未来……

 会いたい……」


胸の奥が、

昨日よりもずっと強く脈打っている。


そのとき、

廊下の向こうから小さな声が聞こえた。


――ま。


澪は息を呑んだ。


「……この声……」


立ち上がり、

扉へと歩き出す。


支援員が慌てて言った。


「澪さん、まだ――」


だが澪は首を振った。


「……行かなきゃ……

 あの子が……呼んでる……」


扉に手をかけた。


同じ瞬間――

廊下の反対側で、

遼もまた扉の前に立っていた。


未来が遼の腕の中で、

扉の向こうを指差している。


「……ま……」


遼は胸が締めつけられた。


「……澪……いるのか……?」


職員が扉を開けた。


ゆっくりと、

静かに。


その瞬間――

二つの影が重なった。


澪が立っていた。


遼が立っていた。


未来が二人の間で手を伸ばした。


時間が止まったようだった。


澪は震える声で呟いた。


「……あなた……

 知ってる……

 でも……思い出せない……

 ごめんなさい……」


遼は首を振った。


涙がこぼれた。


「謝らなくていい……

 生きててくれた……

 それだけで……」


澪の目からも涙が溢れた。


未来が小さな手を伸ばし、

澪の服を掴んだ。


「……ま……」


澪はその声を聞いた瞬間、

膝から崩れ落ちた。


「……未来……

 未来……!」


遼は未来をそっと澪の腕に預けた。


澪は震える手で未来を抱きしめた。


その瞬間――

胸の奥で、

失われていたはずの何かが

一気に溢れ出した。


匂い。

温度。

重さ。

小さな指の感触。


すべてが、

澪の身体の奥に刻まれていた。


「……覚えてる……

 覚えてる……

 未来……

 私の……娘……」


遼は涙を拭いながら言った。


「……おかえり、澪」


澪は未来を抱いたまま、

遼を見上げた。


「……ただいま……」


三人の影が重なった。


長いすれ違いの果てに、

ようやく巡り合った家族の形。


その瞬間、

世界が静かに、

優しく満ちていった。


第83話 あいだ ― それぞれの時間


劇的な再会から、数日が過ぎた。


澪は支援施設の一室で、

未来の写真を何度も見返していた。


あの日、未来を抱きしめたときの温度。

遼の涙。

自分の胸の奥で弾けた“何か”。


それらはまだ、

言葉にも記憶にもならない。


でも、

確かに“本物”だった。


澪は窓の外を見つめながら呟いた。


「……もう一度……会いたい……」


その声は、

以前よりもずっと強く、

迷いがなかった。


――


一方、遼は未来を寝かしつけながら、

静かに天井を見つめていた。


澪が生きていた。

それだけで胸がいっぱいになる。


でも、

焦ってはいけない。


澪はまだ記憶を取り戻していない。

未来の母としての実感も、

少しずつ育てていく必要がある。


遼は未来の髪を撫でながら呟いた。


「……ゆっくりでいい。

 澪が望む形で……

 また家族になれたら、それでいい」


未来は寝息を立てながら、

小さく「ま……」と呟いた。


遼は微笑んだ。


――


そして黒川は、

遼から再会の報告を受けたあと、

ひとりベランダで夜風に当たっていた。


「……よかったな、遼くん……」


胸の奥がじんわりと温かくなる。


だが同時に、

これから三人が歩む道の難しさも理解していた。


「焦るなよ……

 澪さんも、未来ちゃんも……

 そして遼くんも……

 みんな、ゆっくりでいいんだ」


黒川は夜空を見上げた。


星が静かに瞬いている。


――


三人はまだ、

完全に“家族”に戻ったわけではない。


でも、

確かに同じ方向を向き始めていた。


時間が、

それぞれの心を整えていく。


そして、

次に会うとき――

三人の関係は、

また一歩前へ進むことになる。


第84話 よみがえる ― 澪のリハビリ


再会から一週間が過ぎた。


澪は支援施設のリハビリ室にいた。

窓から差し込む朝の光が、

白い床に柔らかく広がっている。


担当の作業療法士が微笑んだ。


「澪さん、今日は“日常動作の練習”をしましょう。

 未来ちゃんと過ごすための準備です」


澪は小さく頷いた。


「……はい。

 未来と……ちゃんと向き合いたいから」


その声には、

再会前にはなかった“意志”が宿っていた。


――


最初の課題は、

小さなボタンを留める練習だった。


澪は指先を震わせながら、

ゆっくりとボタンに触れた。


「……難しい……」


「焦らなくて大丈夫です。

 未来ちゃんの服を着せるときに必要になりますからね」


未来の名前を聞いた瞬間、

澪の胸が温かくなった。


「……未来のためなら……頑張れます」


澪は深呼吸し、

もう一度ボタンに指をかけた。


カチッ。


小さな音が響いた。


「……できた……」


その瞬間、

澪の目に涙が浮かんだ。


「すごいですよ、澪さん。

 これは大きな一歩です」


澪は涙を拭いながら微笑んだ。


「未来の服……

 私が着せてあげたいんです……

 もう一度……」


――


次の課題は、

赤ちゃん用の人形を抱き上げる練習だった。


澪は人形を見つめた。


その小さな身体を抱き上げた瞬間、

胸の奥が強く脈打った。


――未来。


あの日、

再会の瞬間に抱きしめた温度が蘇る。


澪はそっと人形を胸に寄せた。


「……こうやって……

 未来を抱いていた気がする……」


療法士は静かに頷いた。


「身体が覚えているんですね。

 記憶よりも深いところで」


澪は目を閉じた。


「……未来……

 また抱きたい……

 ちゃんと……

 母親として……」


その声は震えていたが、

確かな強さがあった。


――


最後の課題は、

“未来への手紙を書く”ことだった。


療法士が言った。


「言葉にすることで、

 澪さんの中の“母としての感情”が整理されます」


澪はペンを握り、

白い紙を見つめた。


しばらくして、

ゆっくりと書き始めた。


――未来へ

――会えてうれしかった

――あなたの声を聞いたとき

――胸が痛くて

――でもあたたかくて

――あなたは私の光です


書きながら、

澪の涙が紙に落ちた。


「……未来……

 ごめんね……

 でも……

 ありがとう……」


療法士はそっと言った。


「澪さん。

 あなたは、もう“母”に戻り始めていますよ」


澪は涙を拭き、

まっすぐ前を見た。


「……次は……

 未来に会いたいです」


その瞳には、

迷いのない光が宿っていた。


――


その頃、

遼は未来を抱きながら、

支援施設の庭を歩いていた。


未来は空を見上げて呟いた。


「……ま……」


遼は微笑んだ。


「もうすぐ会えるよ。

 ママは今、頑張ってる」


未来は嬉しそうに笑った。


その笑顔は、

澪の笑顔にそっくりだった。


第85話 ふたたび ― 母の腕へ


面会室の前で、澪は深呼吸をしていた。


手は少し震えている。

でも、逃げたいわけじゃない。


「……大丈夫。

 未来に……会いたい」


その言葉は、

澪自身を支えるように静かに響いた。


支援員が優しく微笑む。


「準備ができたら、入りましょう」


澪は小さく頷いた。


――


一方、面会室の中では、

遼が未来を抱きながら待っていた。


未来は落ち着かない様子で、

扉の方をじっと見つめている。


「……ま……」


遼は未来の髪を撫でた。


「もうすぐだよ。

 ママ、頑張ってるから」


未来は嬉しそうに笑った。


――


扉がゆっくりと開いた。


澪が立っていた。


昨日よりも、

少しだけ強い表情で。


未来はその姿を見た瞬間、

遼の腕の中で身を乗り出した。


「……ま……!」


澪の胸が一気に熱くなる。


「……未来……」


その声は震えていたが、

確かに“母の声”だった。


遼は未来をそっと澪の方へ向けた。


「澪……

 未来、会いたがってる」


澪はゆっくりと歩き出した。


一歩。

また一歩。


未来は小さな手を伸ばす。


澪はその手を、

両手で包み込んだ。


触れた瞬間――

胸の奥で何かが弾けた。


「……あ……

 この感触……」


未来の手は温かくて、

柔らかくて、

懐かしい。


記憶ではない。

でも、確かに“知っている”。


澪は涙をこぼしながら、

未来をそっと抱き上げた。


未来は澪の胸に顔を埋め、

安心したように息を吐いた。


「……ま……」


澪は未来の背中を撫でながら、

震える声で言った。


「……未来……

 ごめんね……

 でも……

 ありがとう……

 また……抱かせてくれて……」


遼はその光景を見つめながら、

静かに涙を拭った。


「澪……

 ゆっくりでいい。

 未来は……

 ちゃんと覚えてるよ」


澪は未来を抱きしめたまま、

遼を見上げた。


「……私……

 母親になれるかな……

 また……」


遼は優しく微笑んだ。


「もうなってるよ。

 未来が……

 こうして安心してる」


未来は澪の胸の中で、

小さく笑った。


その笑顔は、

澪の心の奥に静かに灯りをともした。


――


面会室の空気は、

とても静かで、

とても温かかった。


劇的な再会とは違う。


でも、

確かに“家族が始まる瞬間”だった。


第86話 あいまい ― 近すぎず、遠すぎず


面会室での再会から数日後。


澪は施設の庭にいた。

ベンチに座り、

未来の写真を膝の上に置いている。


風が頬を撫でるたび、

胸の奥が少しだけざわつく。


「……遼……」


名前を口にすると、

胸が温かくなるような、

痛むような、不思議な感覚が広がった。


そこへ、

遼が未来を抱いて歩いてきた。


「澪」


その声に、

澪は顔を上げた。


遼は少し距離を置いて立ち止まった。

以前なら自然に隣に座っていたはずなのに、

今はその“自然”が分からない。


澪も、

どう距離を取ればいいのか分からなかった。


「……未来、元気?」


澪がそう言うと、

未来は嬉しそうに手を伸ばした。


「ま!」


遼は微笑んだ。


「澪に会いたがってた」


澪はそっと未来を受け取った。

抱いた瞬間、胸がじんわりと熱くなる。


「……かわいい……

 ほんとに……」


遼は澪の横に座ろうとして、

一度ためらった。


澪はその動きを見て、

胸が少し痛んだ。


――私のせいだ。

――記憶がないから。

――どう接していいか分からないから。


澪は未来を抱きながら、

小さく言った。


「……遼……

 無理してない?」


遼は驚いたように澪を見た。


「無理なんてしてないよ」


「でも……

 私……

 あなたのこと……

 思い出せない」


その言葉は、

澪自身が一番苦しかった。


遼はゆっくりと息を吸い、

優しく言った。


「澪。

 思い出さなくていいんだ。

 無理に戻らなくていい。

 今の澪が……

 未来を抱いてくれるだけで十分だよ」


澪の目に涙が浮かんだ。


「……でも……

 あなたは……

 私のこと……

 ずっと……」


遼は首を横に振った。


「澪を失ったと思ったとき……

 俺は、澪の“記憶”じゃなくて……

 澪そのものを失ったと思って苦しかった」


澪は息を呑んだ。


遼は続けた。


「だから……

 澪が生きてるなら……

 記憶がなくても……

 それでいい。

 俺は……

 澪が澪でいてくれたら、それでいい」


澪の涙がこぼれた。


未来が澪の頬に触れ、

小さく笑った。


「……ま……」


澪は未来を抱きしめながら、

震える声で言った。


「……遼……

 ありがとう……

 でも……

 少しずつでいい?

 あなたとの距離……

 ゆっくり……

 戻していきたい……」


遼は静かに頷いた。


「もちろん。

 澪のペースでいい。

 俺は……

 待つよ。

 何度でも」


澪は涙を拭い、

未来の頭を撫でた。


「……ありがとう……」


風が三人の間を通り抜けた。


近すぎず、

遠すぎず。


でも確かに、

三人の距離は少しずつ近づいていた。


澪は未来を抱きながら、遼の横顔を見つめた。


胸が痛い。

でも、温かい。


「……どうして……

 あなたを見ると……

 こんなに苦しくて……

 こんなに安心するんだろう……」


遼は静かに微笑んだ。


「澪。

 俺たちは……

 きっと、もっと深いところで

 ずっとつながってたんだと思う」


澪は涙をこぼした。


「……記憶がなくても……?」


「記憶なんかより、

 もっと大事なものが残ってる。

 澪の中にも、俺の中にも」


未来が二人の手をつないだ。


その瞬間、

距離は自然に縮まった。


無理に近づいたわけでも、

無理に離れたわけでもない。


ただ――

深い愛が、

二人を“ちょうどいい場所”へ導いた。


第87話 ふたり ― 言葉より深いところで


夕方の支援施設の庭。

面会時間が終わり、未来は黒川に預けられた。


澪と遼だけが、

静かなベンチに並んで座っていた。


風が木々を揺らし、

葉の音がささやくように響く。


澪は膝の上で手を組み、

ゆっくりと口を開いた。


「……遼。

 こうして二人きりになるの……

 なんだか不思議」


遼は少し笑った。


「俺もだよ。

 でも……悪くない」


澪は横顔を見つめた。

胸の奥が、じんわりと熱くなる。


「ねえ……

 私……あなたのこと……

 思い出せないのに……

 どうしてこんなに……

 安心するんだろう」


遼は少しだけ目を伏せた。


「澪は昔から……

 自分の気持ちより、

 人の気持ちを優先する人だった」


澪は驚いたように遼を見た。


「……そうだったの?」


「うん。

 俺が落ち込んでるとき、

 自分のことみたいに泣いてくれた。

 俺が笑うと、

 自分のことみたいに喜んでくれた」


澪の胸がきゅっと締めつけられた。


「……そんな自分だったのかな……

 今の私には……想像できない」


遼は首を横に振った。


「いや。

 今の澪も同じだよ」


「え……?」


「未来を抱いたとき……

 澪、泣いてた。

 あれは“記憶”じゃなくて……

 澪の深いところにある愛が反応したんだと思う」


澪は息を呑んだ。


胸の奥が、

静かに震えた。


「……遼……

 あなたは……

 私のこと……

 どう思ってたの……?」


遼は少しだけ迷い、

それでも正直に言った。


「澪が……

 俺の人生の中心だった」


澪の目に涙が浮かんだ。


「……そんなふうに……

 思ってくれてたの……?」


「うん。

 でも……

 澪が記憶を失ったと聞いたとき……

 俺は“愛された記憶”を失ったんじゃなくて……

 澪そのものを失ったと思って苦しかった」


澪は唇を震わせた。


「……ごめん……

 私……

 あなたを苦しめた……?」


遼は首を横に振った。


「違う。

 澪は悪くない。

 誰も悪くない。

 ただ……

 俺は澪が生きてるって分かっただけで……

 もう十分なんだ」


澪は涙をこぼしながら、

小さく呟いた。


「……遼……

 私……

 あなたのこと……

 好きだったの……?」


遼は静かに微笑んだ。


「うん。

 すごく。

 俺なんかよりずっと深く……

 澪は俺を愛してくれてた」


澪の胸が熱くなる。


「……じゃあ……

 この胸の痛さは……

 その名残なのかな……」


遼はそっと澪の手に触れた。

触れた瞬間、澪の肩が震えた。


「澪。

 無理に思い出さなくていい。

 でも……

 この“痛さ”は……

 きっと愛の形なんだと思う」


澪は遼の手を握り返した。


「……遼……

 私……

 もう一度……

 あなたを知りたい」


遼は目を閉じ、

深く息を吸った。


「俺も……

 もう一度、澪と出会いたい」


二人の手が重なったまま、

夕暮れの光が静かに二人を包んだ。


言葉より深いところで、

二人の距離は確かに縮まっていた。


第88話 きざし ― 触れた瞬間の記憶


夕暮れの支援施設の庭。

澪は未来を抱きながら、

遼と並んで歩いていた。


未来は澪の胸に顔を埋め、

安心したように小さく息を吐く。


その温度が、

澪の胸の奥にじんわりと広がった。


「……あったかい……」


その瞬間だった。


――ぱちん。


何かが弾けるように、

澪の視界が一瞬だけ白く染まった。


次の瞬間――

胸の奥に、

知らないはずの光景が流れ込んできた。


***


白い病室。

汗で濡れた髪。

腕の中に、小さな温もり。


「……未来……

 生まれてきてくれて……ありがとう……」


自分の声。

震えているのに、

どこまでも優しい声。


その横で、

遼が泣きながら笑っている。


「澪……

 ありがとう……

 本当に……ありがとう……」


その顔を見た瞬間、

胸が熱くなって――


***


「……っ!」


澪は息を呑んだ。


腕の中の未来が、

不思議そうに澪を見上げる。


遼が心配そうに近づいた。


「澪、大丈夫……?」


澪は震える手で胸を押さえた。


「……今……

 何か……見えた……」


遼は息を呑んだ。


「どんな……?」


澪はゆっくりと目を閉じた。


「……病室……

 未来を抱いて……

 あなたが……

 泣いて笑ってて……

 私……

 “ありがとう”って……言ってた……」


遼の目に涙が浮かんだ。


「……それ……

 本当にあった光景だよ……」


澪の胸が強く脈打った。


「……どうして……

 思い出せないはずなのに……

 こんなに……

 胸が痛くて……

 あったかいの……?」


遼はそっと澪の手に触れた。


「澪……

 それは“記憶”じゃなくて……

 “愛”が先に戻ってきてるんだと思う」


澪の目から涙がこぼれた。


「……遼……

 私……

 あなたのこと……

 好きだったんだね……

 すごく……」


遼は涙をこらえながら微笑んだ。


「うん。

 そして今も……

 澪の中に残ってる」


未来が澪の胸に顔を埋め、

小さく「ま……」と呟いた。


その声が、

澪の胸の奥にまた小さな光を灯した。


「……もっと……

 思い出したい……

 あなたのことも……

 未来のことも……

 私が……

 どれだけ愛してたのか……」


遼は澪の肩にそっと手を置いた。


「焦らなくていい。

 澪の中にある“深い愛”が……

 少しずつ導いてくれるから」


澪は未来を抱きしめ、

静かに目を閉じた。


胸の奥で、

またひとつ、

小さな光が生まれた。


第89話 ふれあい ― 愛が呼び起こす記憶


その日の午後。

澪はリハビリを終え、

施設の廊下をゆっくり歩いていた。


窓から差し込む光が、

床に柔らかい影を落としている。


胸の奥が、

なぜかざわついていた。


「……遼に……会いたい……」


自分でそう思った瞬間、

胸が熱くなった。


理由は分からない。

でも、確かに“会いたい”と感じた。


そのとき――

廊下の向こうから遼が歩いてきた。


未来を抱き、

優しい表情で。


澪の胸が強く脈打った。


「……遼……」


遼も気づき、微笑んだ。


「澪。

 リハビリ、お疲れさま」


その声を聞いた瞬間――


――ぱちん。


また何かが弾けた。


視界が白く染まり、

胸の奥に熱が走る。


次の瞬間――

澪の脳裏に、

知らないはずの光景が流れ込んできた。


***


夜の部屋。

薄暗い照明。

遼が澪の手を握っている。


「澪……

 俺は……

 君がいればそれでいい」


遼の声は震えていた。


澪は遼の頬に触れ、

涙を拭っていた。


「遼……

 私……

 あなたのためなら……

 何だってできるよ……

 あなたが笑ってくれるなら……

 それだけで……いい……」


遼は澪を抱きしめた。


「澪……

 そんなこと言うなよ……

 俺は……

 君が幸せじゃなきゃ意味がない……」


澪は遼の胸に顔を埋め、

小さく呟いた。


「……遼……

 あなたの未来を守りたい……

 あなたが幸せなら……

 私はそれで……」


遼は澪を強く抱きしめた。


「澪……

 俺も……

 君を守りたい……

 君の未来を……

 俺が守りたい……」


二人の涙が混ざり合い、

温かい夜が続いていた。


***


「……っ……!」


澪はその場に立ち止まった。


胸が痛いほど熱くなる。


遼が心配そうに近づいた。


「澪、大丈夫……?」


澪は震える声で言った。


「……今……

 あなたと……

 手を握って……

 泣いて……

 抱きしめ合って……

 “守りたい”って……

 言い合ってた……」


遼の目が大きく開いた。


「……それ……

 本当にあった夜だよ……」


澪の目から涙が溢れた。


「……遼……

 私……

 あなたのこと……

 すごく……

 すごく……

 愛してたんだね……」


遼は澪の手をそっと握った。


「うん。

 そして……

 今もその愛は……

 澪の中に残ってる」


澪は遼の手を握り返した。


「……思い出したい……

 全部じゃなくていい……

 でも……

 あなたを愛していた私を……

 もう一度……知りたい……」


遼は涙をこらえながら微笑んだ。


「澪……

 ゆっくりでいい。

 その“深い愛”が……

 きっとまた導いてくれる」


未来が遼の腕の中で笑った。


「ま!」


澪は未来を見つめ、

胸に手を当てた。


「……この子が……

 私たちの愛の証なんだね……」


遼は静かに頷いた。


「そうだよ。

 未来は……

 澪と俺の“未来”なんだ」


澪の胸の奥で、

またひとつ光が灯った。


第90話 みまもる ― 黒川の静かな祈り


夕暮れの支援施設の庭。

黒川はベンチに座り、

未来を膝に乗せてあやしていた。


未来は黒川の胸に寄りかかり、

小さく笑っている。


「お前は本当に……

 よく笑うなあ、未来ちゃん」


黒川は優しく未来の背中を撫でた。


その視線の先には、

少し離れた場所で話す遼と澪の姿があった。


二人はゆっくりと歩きながら、

何かを静かに話している。


距離は近すぎず、

遠すぎず。

でも確かに、

以前よりも自然に寄り添っていた。


黒川はその光景を見て、

胸の奥がじんわりと温かくなる。


「……よかったな、遼くん……

 澪さん……」


未来が黒川の胸に顔を埋め、

小さく「ま」と呟いた。


黒川は微笑んだ。


「ママのこと、好きなんだな。

 ちゃんと分かってるんだ」


未来は嬉しそうに笑った。


黒川は空を見上げ、

静かに息を吐いた。


「……あの日……

 遼くんが泣きながら未来ちゃんを抱いてきたとき……

 俺は……

 この子を守るって決めたんだ」


未来の髪をそっと撫でる。


「でも……

 本当は……

 守るべきは遼くんの心だったんだな」


黒川は遼と澪の方へ視線を戻した。


澪が未来の話をしているのだろう。

遼は優しく頷き、

澪は少し照れたように笑っている。


その笑顔は、

記憶を失う前の澪と同じ柔らかさを持っていた。


黒川の胸が熱くなる。


「……澪さん……

 戻ってきてくれて……ありがとう」


未来が黒川の指を掴んだ。


「……くー……」


黒川は笑った。


「黒川って言いたいのか?

 それはまだ早いぞ」


未来はケラケラと笑う。


黒川は未来を抱き上げ、

遼と澪の方へ歩き出した。


「おーい、遼くん。

 未来ちゃん、そろそろ眠そうだぞ」


遼が振り返り、

澪も優しく微笑んだ。


黒川は未来を遼に渡しながら言った。


「澪さん。

 未来ちゃん、今日はずっとご機嫌でしたよ。

 あなたに会えたからでしょうね」


澪は少し照れながら未来の頭を撫でた。


「……ありがとう、黒川さん。

 いつも……助けてくれて」


黒川は首を振った。


「助けてるんじゃありませんよ。

 俺はただ……

 この家族が幸せになるのを見たいだけです」


遼が笑った。


「黒川さんは……

 俺たちの家族みたいなもんですよ」


黒川は少し照れたように視線を逸らした。


「……やめてくださいよ。

 そんなこと言われたら……

 泣いちまうじゃないですか」


澪は優しく微笑んだ。


「黒川さん……

 本当に……ありがとう」


黒川は深く息を吸い、

静かに言った。


「……澪さん。

 遼くんを……

 未来ちゃんを……

 どうか、よろしくお願いします」


澪は胸に手を当て、

真っ直ぐに頷いた。


「……はい。

 私……

 もう一度……

 この家族を大切にしたいです」


黒川はその言葉を聞いて、

初めて心の底から安堵した。


「……よかった……

 本当によかった……」


夕暮れの光が三人と一人を包み込む。


黒川は静かに微笑んだ。


「さあ、帰りましょうか。

 家族みんなで」


第91話 けつい ― 黒川の選んだ道


夜の支援施設。

面会が終わり、遼と澪が帰ったあと。


黒川はひとり、

未来を寝かしつけていた。


小さな寝息が、

静かな部屋に規則正しく響く。


黒川は未来の髪をそっと撫でた。


「……未来ちゃん。

 お前は……

 俺の人生を変えたんだよ」


その声は、

誰に聞かせるでもない、

ただの独り言だった。


だが、

胸の奥から溢れ出る本音だった。


黒川は窓の外を見つめた。


あの日――

遼が泣きながら未来を抱いて現れた日のことを思い出す。


「澪さんが……

 いなくなった……」


遼の声は震えていた。

未来はまだ生まれたばかりで、

小さく泣いていた。


黒川はその瞬間、

心の奥で何かが決まった。


――この子は俺が守る。


遼がどれだけ強くても、

どれだけ優しくても、

ひとりで抱えられる痛みじゃない。


澪を失った遼の心は、

折れそうだった。


だから黒川は、

未来を抱き上げ、

静かに言った。


「遼くん。

 この子は……

 俺が育てる」


遼は驚き、

涙をこぼしながら首を振った。


「黒川さん……

 そんなこと……」


黒川は遼の肩に手を置いた。


「お前は……

 今は自分を保つだけで精一杯だ。

 未来ちゃんを守るには……

 もう一人、大人が必要なんだよ」


遼は泣き崩れた。


黒川は未来を抱きしめながら、

静かに決意した。


――この子の父親にはなれない。

――でも、この子の“守り手”にはなれる。


その決意は、

今も変わっていない。


未来が寝返りを打ち、

黒川の指を握った。


「……くー……」


黒川は微笑んだ。


「黒川って言いたいのか?

 お前は本当に……かわいいな」


そのとき、

部屋の扉がノックされた。


遼が立っていた。


「黒川さん……

 少し話せますか」


黒川は未来を寝かせ、

遼の方へ向き直った。


遼は深く頭を下げた。


「……あのとき……

 未来を育ててくれて……

 本当に……ありがとう」


黒川は首を振った。


「礼なんかいらない。

 俺が勝手に決めたことだ」


遼は涙をこらえながら言った。


「でも……

 あなたがいなかったら……

 俺は……

 未来を守れなかった」


黒川は静かに言った。


「遼くん。

 俺は……

 お前たち三人が幸せになるなら……

 それでいいんだ」


遼は胸に手を当てた。


「黒川さん……

 あなたは……

 俺たちの家族です」


黒川は目を伏せ、

小さく笑った。


「……そんなこと言われたら……

 泣いちまうだろ……」


未来の寝息が、

静かに部屋に響いていた。


黒川はその音を聞きながら、

心の中でそっと呟いた。


――未来ちゃん。

 お前が幸せなら……

 俺はそれでいい。


その決意は、

誰よりも強く、

誰よりも静かだった。


黒川は未来を抱きながら、遼に言った。


「遼くん。俺は……澪さんがいなくなったあの日、

 この子を一人で育てる覚悟を決めた」


遼は黙って聞いていた。


「でもな……俺は父親じゃない。

 未来ちゃんの本当の父親は、お前だ」


遼の目が揺れた。


黒川は続けた。


「だから……戻ってきたいと思ったら、

 いつでも参加してくれ。

 俺はそのために、この子を守ってるんだ」


遼は涙をこらえながら頷いた。


「黒川さん……ありがとう」


黒川は未来の頭を撫でた。


「俺は代わりじゃない。

 お前が戻るまでの……ただの“つなぎ”だよ」


第92話 よるのひ ― 黒川の覚悟


キャンセルになった建築資材が積まれた空き地。

夜の冷たい風が吹き抜け、

木材の山が黒い影を落としている。


黒川はライターを握りしめ、

しばらく動けずにいた。


「……これを燃やせば……

 もう後戻りはできない」


遼の会社が倒れかけていたあの頃。

澪は行方不明。

遼は心を壊し、

未来は泣き続けていた。


黒川はそのすべてを見ていた。


だからこそ、

未来を抱きながら遼に言った。


――俺が育てる。


あれは遼を排除する言葉ではなく、

遼を守るための言葉だった。


遼は壊れかけていた。

未来を抱く手が震えていた。

澪を失った痛みで、

呼吸すらままならなかった。


黒川はその姿を見て、

胸の奥で決めた。


――この子は俺が守る。

――遼が戻ってくるまで、俺が支える。


だからこそ、

後日遼にこう言った。


――君も参加するか?


それは

「父親として戻ってきていい」

という黒川なりの優しい誘いだった。


黒川は“代わりの父”ではなく、

“つなぎの父”でありたかった。


だが――

この夜は違う。


黒川は木材の山を見つめ、

深く息を吸った。


「遼くん……

 お前の未来を守るためなら……

 俺はなんだってやる」


遼の会社を救うために、

どうしても必要な“時間”と“余裕”。

そのために、

この資材を処分しなければならなかった。


違法すれすれの行為。

捕まる可能性もある。

人生が終わるかもしれない。


それでも――

黒川は迷わなかった。


未来の寝顔が脳裏に浮かぶ。

遼が泣きながら未来を抱いていた日の記憶が蘇る。


「……あの子を……

 遼くんを……

 守るためなら……」


黒川はライターを木材に近づけた。


火が走る。

乾いた木が一気に燃え上がる。


炎が黒川の顔を照らす。


「……これでいい……

 これで……遼くんは……

 未来ちゃんを守れる……」


黒川は炎を見つめながら、

静かに呟いた。


「俺は……

 父親にはなれない。

 でも……

 あの子の未来を守る“影”にはなれる」


炎が夜空を赤く染める。


黒川はその光の中で、

ひとり静かに涙を流した。


「……澪さん……

 遼くんを……

 未来ちゃんを……

 どうか……見守っていてください」


その夜、

黒川は誰にも知られないまま、

家族を守るために罪を背負った。


そしてその罪は、

遼にも澪にも未来にも、

決して語られることはなかった。


ただ――

黒川の心の奥にだけ、

静かに燃え続けていた。


第93話 こどう ― 愛の核心


その日の夕方。

澪は面会室で未来を抱きながら、

遼と向かい合って座っていた。


未来は澪の胸に顔を埋め、

安心したように眠っている。


その小さな寝息が、

澪の胸の奥に静かに響いていた。


「……かわいい……

 こんなに……愛おしいんだね……」


澪がそう呟いた瞬間――


――ぱちん。


胸の奥で、

また何かが弾けた。


視界が白く染まり、

息が止まる。


次の瞬間――

澪の脳裏に、

知らないはずの光景が流れ込んできた。


***


夜の公園。

ベンチに座る遼の隣で、

澪は泣いていた。


「……遼……

 私……

 あなたのこと……

 死ぬほど好きなの……」


遼は驚いたように澪を見つめた。


澪は涙を拭いながら続けた。


「あなたが笑ってくれたら……

 それだけで幸せなの。

 あなたが苦しんでたら……

 私……胸が痛くて……

 息ができなくなるの……」


遼は澪の手を握った。


「澪……

 そんなに……俺を……?」


澪は遼の胸に顔を埋めた。


「……あなたがいなくなったら……

 私……生きていけない……

 でも……

 あなたの未来を壊すくらいなら……

 私は……消えてもいい……」


遼は澪を強く抱きしめた。


「澪……

 そんなこと言うな……

 俺は……

 君がいなきゃ……

 生きていけないんだよ……」


澪は震える声で呟いた。


「……遼……

 あなたを守りたい……

 あなたの未来を……

 私の命より大事にしたい……

 それが……

 私の愛なの……」


遼は涙をこぼしながら、

澪の頬を両手で包んだ。


「澪……

 俺も……

 君を守りたい……

 君の未来を……

 俺の命より大事にしたい……」


二人は抱き合いながら泣いた。


その夜、

二人は互いの“未来”を誓い合った。


***


「……っ……!」


澪は息を呑み、

未来を抱いたまま震えた。


遼が心配そうに近づく。


「澪……?

 また……見えたのか……?」


澪は涙をこぼしながら頷いた。


「……遼……

 私……

 あなたのこと……

 死ぬほど……

 好きだった……」


遼の目が揺れた。


「……澪……」


澪は胸に手を当てた。


「……あなたが笑うと……

 胸があったかくて……

 あなたが苦しむと……

 胸が痛くて……

 あなたの未来を守りたいって……

 心の奥で……

 叫んでた……」


遼は澪の手をそっと握った。


「澪……

 それは……

 君の“愛の核心”だよ」


澪は涙を流しながら微笑んだ。


「……記憶は戻らなくても……

 この気持ちは……

 ちゃんと残ってる……

 あなたを……

 愛してた私が……

 ここにいる……」


遼は澪の手を強く握り返した。


「澪……

 俺も……

 今も……

 君を愛してる」


未来が澪の胸の中で、

小さく笑った。


その笑顔が、

二人の心を静かに結びつけた。


澪の胸の奥で、

またひとつ光が灯った。


それは――

“愛の核心”が戻ってきた証だった。


第94話 しんじつ ― 黒川の背中


夕暮れの支援施設。

澪はリハビリを終え、

廊下を歩いていた。


ふと、

面会室の前で黒川の声が聞こえた。


「……遼くん。

 あのときのことは……

 澪さんには言わなくていい」


遼の声が低く返る。


「でも……

 澪には知る権利がある」


澪は立ち止まり、

胸がざわついた。


――あのとき?


――何の話?


遼が続けた。


「黒川さんが……

 未来を育ててくれたことも……

 俺の代わりに……

 全部背負ってくれたことも……

 澪は知らないんだ」


澪の心臓が跳ねた。


黒川は静かに言った。


「遼くん。

 俺は……

 あの子を守りたかっただけだ。

 お前が壊れそうだったから……

 未来ちゃんを抱いて……

 “俺が育てる”って決めた」


澪は息を呑んだ。


――黒川さんが……

――未来を……?


遼の声が震える。


「でも……

 あなたは俺に言った。

 “君も参加するか”って……

 父親として戻ってきていいって……

 そう言ってくれた」


黒川は少し笑った。


「当たり前だろ。

 未来ちゃんの父親は……

 遼くんなんだから」


澪の胸が熱くなる。


黒川は続けた。


「俺は……

 代わりじゃない。

 お前が戻るまでの……

 ただの“つなぎ”だよ」


遼は言った。


「黒川さん……

 あの火事の夜も……

 あなたは俺たちのために……」


澪の呼吸が止まった。


――火事?


黒川は静かに遮った。


「遼くん。

 あれは……

 俺が勝手にやったことだ。

 誰のせいでもない。

 澪さんに言う必要はない」


遼は言った。


「でも……

 澪は……

 あなたに感謝するべきだ」


黒川は首を振った。


「感謝なんていらない。

 俺は……

 あの家族が幸せになるなら……

 それでいいんだ」


その言葉を聞いた瞬間――

澪の胸の奥で、

何かが崩れ落ちた。


涙が止まらなかった。


澪は震える声で言った。


「……黒川さん……」


遼と黒川が驚いて振り向く。


澪は涙をこぼしながら、

黒川に近づいた。


「……どうして……

 どうして……

 そんな大変なこと……

 私に何も言わなかったの……?」


黒川は困ったように笑った。


「澪さん。

 あなたは……

 生きてるだけで十分なんです。

 あの頃は……

 それだけで奇跡だった」


澪は首を振った。


「違う……

 あなたは……

 私の家族を……

 守ってくれた……

 私の代わりに……

 未来を……

 遼を……

 全部……」


黒川は静かに言った。


「澪さん。

 俺は……

 あなたの代わりになんてなれませんよ。

 でも……

 あなたが戻ってくるまで……

 あの子を守りたかった」


澪は涙を流しながら、

深く頭を下げた。


「……ありがとう……

 黒川さん……

 本当に……

 ありがとう……」


黒川は少し照れたように笑った。


「やめてくださいよ。

 そんなふうに言われたら……

 泣いちまうじゃないですか」


遼も涙をこらえながら微笑んだ。


澪は黒川を見つめ、

静かに言った。


「……私……

 この家族を……

 もう一度……

 大切にしたい」


黒川は深く頷いた。


「それが聞けたら……

 俺はもう十分です」


夕暮れの光が三人を包む。


澪の心は、

この瞬間に決まった。


――私はこの家族を守る。

――今度は私が、守る番だ。


第95話 さんぽ ― はじめての家族


春の風が、支援施設の庭をやわらかく揺らしていた。


澪は玄関前で、

未来の小さな靴を履かせていた。


「よし……できた」


未来は嬉しそうに足をバタバタさせる。


遼が横で微笑んだ。


「外に出るの、楽しみなんだな」


澪は未来の手を握りながら、

少し緊張したように言った。


「……三人で外に出るのって……

 なんだか不思議」


遼は優しく答えた。


「でも……

 これが“家族”なんだと思う」


澪は胸が熱くなった。


――家族。


その言葉が、

こんなにも温かいものだったなんて。


黒川が玄関から顔を出した。


「おーい。

 行ってらっしゃい。

 未来ちゃん、楽しんでこいよ」


未来は黒川に手を振った。


「くー!」


黒川は笑った。


「お前は本当に……かわいいな」


澪は黒川に深く頭を下げた。


「……黒川さん。

 行ってきます」


黒川は静かに頷いた。


「はい。

 家族で、ゆっくり楽しんできてください」


――


三人は手をつないで歩き出した。


未来は真ん中で、

両手をぶんぶん振りながら歩く。


「ままー!

 ぱぱー!」


澪は驚いて立ち止まった。


「……今……

 言った……?」


遼も息を呑んだ。


未来は笑いながら、

もう一度叫んだ。


「まま!

 ぱぱ!」


澪の目から涙がこぼれた。


「……未来……

 私……

 ママでいいの……?」


未来は澪の頬に触れ、

にこっと笑った。


「まま!」


その瞬間、

澪は未来を抱きしめた。


「……ありがとう……

 ありがとう……」


遼はその姿を見つめながら、

胸が熱くなった。


「澪……

 未来は……

 ちゃんと分かってるよ」


澪は涙を拭い、

遼を見つめた。


「遼……

 あなたも……

 パパなんだね……」


遼は照れたように笑った。


「まあ……

 そうらしいな」


未来は二人の手をぎゅっと握った。


「まま、ぱぱ、いっしょ!」


澪は未来の手を握り返し、

遼の手にもそっと触れた。


三人の手がつながる。


その瞬間、

風がやわらかく吹き抜けた。


まるで、

新しい家族の始まりを祝福するように。


――


公園に着くと、

未来は芝生の上を走り回った。


澪はその姿を見て、

胸がじんわりと温かくなる。


「……こんな日が来るなんて……

 思わなかった……」


遼が隣に座り、

静かに言った。


「澪。

 これからは……

 こういう日が増えていくんだと思う」


澪は遼の横顔を見つめた。


「……そうだといいな……」


遼は澪の手にそっと触れた。


「そうなるよ。

 俺たちなら」


澪はその手を握り返した。


「……うん……」


未来が二人のもとへ走ってきて、

両腕を広げた。


「ままー!

 ぱぱー!

 だっこ!」


澪と遼は顔を見合わせ、

同時に笑った。


そして二人で未来を抱き上げた。


三人の影が、

春の光の中でひとつに重なった。


それは、

“家族の再生”が完成した瞬間だった。


第96話 えらぶ ― 今の私たち


家族三人での外出から数日後。


澪は施設の屋上にいた。

夕暮れの風が、髪をそっと揺らしている。


胸の奥が、静かにざわついていた。


――私は、遼のことをどう思っているんだろう。


記憶は戻らない。

でも、胸の奥に灯った“あの温かさ”は消えない。


そのとき、扉が開いた。


「澪」


遼が立っていた。


夕陽に照らされた横顔が、

なぜか胸を締めつける。


「……来てくれたんだ」


「うん。話したいことがあって」


二人は並んでフェンスにもたれた。

沈む夕陽が、街を赤く染めている。


しばらく沈黙が続いた。


澪が口を開いた。


「遼……

 私ね……

 あなたのこと……

 “好きだった”って記憶はないの」


遼は静かに頷いた。


「うん。分かってる」


「でも……

 あなたを見ると胸が痛くて……

 未来と三人でいると……

 すごく幸せで……

 それが何なのか……

 ずっと考えてた」


遼は少しだけ笑った。


「澪は昔から、考えすぎるところがあったよ」


澪も笑った。


「そうなの?」


「そうだよ。

 でも……

 その“考える澪”が好きだった」


澪の胸が熱くなる。


遼は夕陽を見つめながら言った。


「澪。

 俺は……

 過去の澪を取り戻したいんじゃない。

 “今の澪”と生きたい」


澪は息を呑んだ。


遼は続けた。


「記憶が戻らなくてもいい。

 昔みたいに笑えなくてもいい。

 俺は……

 今の澪を、もう一度好きになってる」


澪の目に涙が浮かんだ。


「……遼……

 そんなこと言われたら……

 泣いちゃうよ……」


遼は澪の手にそっと触れた。


「澪。

 俺たち……

 もう一度、始めないか。

 “昔の二人”じゃなくて……

 “今の二人”として」


澪は遼の手を握り返した。


「……うん……

 私も……

 あなたを知りたい。

 今の私として……

 あなたを好きになりたい」


夕陽が沈む。


二人の影が、ゆっくりと重なった。


遼は小さく呟いた。


「澪……

 ありがとう」


澪は涙を拭き、微笑んだ。


「こちらこそ……

 もう一度、よろしくね」


風が吹き抜ける。


それはまるで、

新しい恋の始まりを祝福するようだった。


第97話 よびかた ― ほんとうのママ


日曜の午後。

施設の中庭は、春の光で満ちていた。


澪はベンチに座り、

未来の靴紐を結び直していた。


「よし……これで大丈夫」


未来は嬉しそうに足をバタバタさせる。


遼が横で笑った。


「元気だなあ。

 外に出るのが嬉しいんだろうな」


澪は未来の頬に触れながら、

少しだけ不安そうに言った。


「……未来は……

 本当に私のこと“ママ”って思ってくれてるのかな」


遼は優しく答えた。


「思ってるよ。

 澪が思ってる以上に」


澪は胸に手を当てた。


――でも、私は……

――この子の“記憶の中のママ”じゃない。


その不安が、

ずっと胸の奥に残っていた。


そのときだった。


未来が澪の膝に手を置き、

まっすぐ澪を見上げた。


「……まま」


澪は息を呑んだ。


未来はもう一度、

はっきりと言った。


「まま。

 だっこ」


澪の目に涙が溢れた。


「……未来……

 今……

 私のこと……

 ママって……」


未来は小さな腕を広げた。


「まま、だっこ」


澪は震える手で未来を抱き上げた。


「……ありがとう……

 未来……

 ありがとう……」


未来は澪の首にぎゅっと腕を回し、

安心したように笑った。


「まま、すき」


その言葉が、

澪の胸の奥に深く染み込んだ。


遼はその光景を見つめながら、

静かに目を潤ませた。


「澪……

 未来は……

 ちゃんと分かってるよ。

 “今の澪”が自分のママだって」


澪は未来を抱きしめたまま、

遼を見つめた。


「……遼……

 私……

 この子のママでいいんだね……?」


遼は頷いた。


「いいんだよ。

 澪が……

 未来のママなんだ」


未来は二人の顔を交互に見て、

嬉しそうに笑った。


「まま、ぱぱ、いっしょ」


澪は涙を拭い、

未来の頬にそっと触れた。


「……うん。

 いっしょだよ。

 これからも……ずっと」


風がやわらかく吹き抜ける。


三人の影が、

春の光の中でひとつに重なった。


その瞬間、

“家族”は完全に戻ってきた。


第98話 はなれる ― 思春期の影


未来が中学生になった頃。


澪は、娘の変化に気づいていた。


朝、声をかけても返事がない。

食卓に座っても、スマホから目を離さない。

遼が話しかけても、どこか上の空。


未来は、静かに距離を置き始めていた。


――


ある夕方。


澪はリビングで夕飯の準備をしていた。

未来の好きなハンバーグを焼きながら、

ふと、玄関の音に気づく。


「未来、おかえり」


返事はない。


未来は靴を脱ぎ捨てるようにして部屋へ向かった。


澪は胸がざわついた。


「未来、ちょっと話せる?」


未来は振り返らずに言った。


「あとで」


その言い方が、

胸に刺さった。


「……未来。

 最近、話してくれないよね」


未来は立ち止まり、

ゆっくり振り返った。


その目は、

どこか冷たかった。


「別に。

 話すことないし」


澪は息を呑んだ。


「でも……

 ママ、心配で……」


未来の声が鋭くなった。


「ママって言わないで」


澪の心臓が止まったように感じた。


未来は続けた。


「……本当のママじゃないくせに」


その言葉は、

刃のように澪の胸を切り裂いた。


「未来……

 どうして……そんな……」


未来は唇を噛み、

涙をこらえるように言った。


「だって……

 私、覚えてないんだよ。

 小さい頃のママのこと。

 全部……

 “あとからのママ”なんだよ」


澪は震える声で言った。


「……それでも……

 私はあなたのママだよ」


未来は首を振った。


「違う。

 私の中には……

 ママの記憶なんてない。

 だから……

 どう接していいか分かんないの」


澪の目から涙がこぼれた。


「未来……

 私は……

 あなたを愛してるよ……

 記憶じゃなくて……

 今のあなたを……」


未来は視線をそらした。


「……分かんないよ、そんなの」


そして部屋に閉じこもった。


扉が閉まる音が、

澪の胸に深く響いた。


――


その夜。


遼が帰宅すると、

澪はテーブルに座り込んでいた。


「澪……?」


澪は涙をこらえながら言った。


「未来に……

 “本当のママじゃない”って……

 言われた……」


遼は澪の肩に手を置いた。


「澪……

 未来は……

 自分の中の“空白”と戦ってるんだよ」


澪は首を振った。


「分かってる……

 でも……

 痛いよ……

 すごく……」


遼は澪を抱きしめた。


「大丈夫。

 未来は……

 必ず戻ってくる。

 あの子は……

 澪を愛してるから」


澪は遼の胸に顔を埋め、

静かに泣いた。


その涙は、

母としての痛みであり、

愛の証でもあった。


――


廊下の影で、

未来はそっと涙を拭っていた。


「……ごめん……

 ママ……」


でも、

どうやって戻ればいいのか分からなかった。


第99話 こい ― はじめての痛み


未来が高校一年になった頃。


澪は、娘の表情がどこか浮ついていることに気づいていた。


朝、鏡の前で髪を整える時間が長くなった。

制服のスカートを気にしたり、

スマホを見ては小さく笑ったり。


――恋だ。


澪は胸の奥がざわついた。


嬉しさと、不安と、寂しさが混ざったような感情。


夕方、未来が帰宅した。


「ただいま」


声が明るい。


澪はキッチンから顔を出した。


「おかえり。今日は早かったね」


未来は靴を脱ぎながら、

どこか照れたように笑った。


「……友達と帰ってきたから」


澪は胸が跳ねた。


「友達……? 女の子?」


未来は一瞬だけ目をそらした。


「……男の子」


澪の心臓がぎゅっと縮んだ。


――来た。


未来は鞄を置き、

リビングへ向かおうとした。


澪は思わず声をかけた。


「未来、その……

 どんな子なの?」


未来は振り返り、

少しだけ頬を赤くした。


「優しいよ。

 頭もいいし……

 話してると楽しい」


澪は微笑もうとしたが、

胸の奥がざわついたままだった。


「そっか……

 よかったね」


未来は照れたように笑い、

自分の部屋へ向かった。


扉が閉まる音がした瞬間、

澪は胸に手を当てた。


――娘が、誰かを好きになった。


嬉しいはずなのに、

どこか寂しい。


未来が“自分の世界”を持ち始めたことが、

澪には少しだけ怖かった。


――


その夜。


遼が帰宅すると、

澪はソファに座り込んでいた。


「澪、どうした?」


澪は苦笑した。


「未来に……

 好きな男の子ができたみたい」


遼は目を丸くした。


「えっ……

 あの未来が……?」


澪は頷いた。


「うん。

 嬉しいんだけど……

 なんか……

 胸が苦しくて」


遼は澪の隣に座り、

優しく言った。


「澪。

 未来は……

 ちゃんと大人になってるんだよ」


澪は涙をこらえながら言った。


「分かってる……

 でも……

 あの子が誰かを好きになるって……

 なんだか……

 私から離れていくみたいで……」


遼は澪の手を握った。


「離れないよ。

 未来は……

 澪の娘だ。

 どれだけ大人になっても」


澪は小さく頷いた。


――


その頃。


未来は部屋でスマホを見つめていた。


画面には、

今日一緒に帰った男の子からのメッセージ。


『また明日、一緒に帰ろう』


未来は胸が熱くなった。


でも同時に、

胸の奥が少しだけ痛んだ。


――ママ、泣いてないかな。


未来はスマホを握りしめ、

小さく呟いた。


「……私も……

 どうしたらいいか分かんないよ……」


恋は嬉しい。

でも、怖い。


未来は初めて、

“自分の弱さ”と向き合い始めていた。


第100話 おい ― ゆっくりとした坂道


未来が高校二年になった頃。


黒川は、少しずつ歩く速度が遅くなっていた。


階段を上がるときに手すりを使うようになり、

重い荷物を持つときに息が上がるようになり、

笑うときの声が、どこか柔らかくなった。


遼は気づいていた。


澪も気づいていた。


未来も、気づいていた。


でも黒川は、いつもと同じように笑っていた。


「お前たちが元気なら、それでいいんだよ」


その言葉が、

以前より少しだけ弱く聞こえた。


――


ある休日。


遼の家に、黒川が遊びに来た。


未来は恋人の話を澪にしていて、

遼はキッチンでコーヒーを淹れていた。


黒川はソファに座り、

ゆっくりと息を吐いた。


「……未来ちゃん、大きくなったなあ」


遼が笑った。


「そうですね。

 最近は……恋なんてしてるみたいで」


黒川は目を細めた。


「恋か……

 あの子も、そんな年になったんだな」


遼は黒川の前にコーヒーを置いた。


「黒川さん。

 無理してませんか」


黒川は一瞬だけ目を伏せた。


「……遼くん。

 俺も、もう若くないんだよ」


遼は胸が痛んだ。


黒川は続けた。


「でもな……

 未来ちゃんが笑ってるのを見ると……

 それだけで、まだ生きていたいって思えるんだ」


遼は言葉を失った。


黒川はカップを両手で包み込み、

静かに言った。


「俺は……

 あの子が小さかった頃のことを、

 今でもはっきり覚えてる」


遼は頷いた。


「俺が壊れそうだったとき……

 未来を抱いてくれたこと、

 忘れません」


黒川は笑った。


「そんな昔のこと、いいんだよ。

 俺はただ……

 あの子が幸せなら、それでいい」


その言葉は、

以前よりも深く、

そしてどこか寂しげだった。


――


夕方。


未来がリビングに降りてきた。


「くー!」


黒川は顔を上げ、

優しく笑った。


「おう、未来ちゃん。

 今日もかわいいな」


未来は黒川の隣に座り、

腕にしがみついた。


「くー、最近疲れてるでしょ。

 無理しないでね」


黒川は未来の頭を撫でた。


「未来ちゃんにそう言われると……

 なんだか泣きそうになるな」


未来は笑った。


「泣いていいよ。

 私、くーのこと大好きだから」


黒川は目を細めた。


「……ありがとう。

 未来ちゃんにそう言われると……

 生きててよかったって思えるよ」


未来は黒川の手を握った。


その手は、

昔よりも細く、

少しだけ冷たかった。


――


その夜。


澪は寝室で遼に言った。


「黒川さん……

 少しずつ……

 弱ってきてるね」


遼は静かに頷いた。


「でも……

 あの人は、最後まで笑ってるよ。

 未来のために」


澪は胸に手を当てた。


「……私たちも……

 覚悟しなきゃいけないのかもしれないね」


遼は澪の手を握った。


「うん。

 でも……

 黒川さんが残してくれたものを、

 俺たちが受け継げばいい」


澪は涙をこらえながら微笑んだ。


「そうだね……

 家族だもんね」


窓の外で、

夜風が静かに揺れていた。


黒川の歩く“ゆっくりとした坂道”は、

確かに始まっていた。


でもその背中は、

今も変わらず温かかった。


第101話 わかれ ― 静かな灯


黒川が入院した。


大きな病気ではなかった。

ただ、年齢とともに弱っていた身体が、

ゆっくりと限界に近づいていた。


医師は言った。


「急ではありません。

 ただ……ご家族の方は、

 会えるときに会っておいてください」


遼は深く頷いた。


澪は胸に手を当てた。


未来は唇を噛みしめていた。


――


病室は静かだった。


窓から差し込む光が、

黒川の白いシーツをやわらかく照らしている。


黒川は三人を見ると、

いつものように笑った。


「おう……来てくれたのか」


未来が駆け寄った。


「くー!」


黒川は未来の頭を撫でた。


「未来ちゃん……

 大きくなったなあ……

 ほんとに……きれいになった」


未来は涙をこらえながら笑った。


「くーのほうが……

 ずっとかっこいいよ」


黒川は目を細めた。


「そんなこと言われたら……

 死ねなくなるじゃないか」


未来は首を振った。


「死なないでよ……

 まだ……

 まだ一緒にいたいよ……」


黒川は未来の手を握った。


「未来ちゃん。

 俺はな……

 お前が笑って生きてくれたら……

 それで十分なんだよ」


未来の涙が落ちた。


――


遼と澪が黒川のそばに座った。


遼は静かに言った。


「黒川さん……

 俺たち……

 あなたにどれだけ助けられたか……

 言い切れません」


黒川は笑った。


「遼くん。

 お前は……

 俺の誇りだよ」


遼の目が揺れた。


澪は黒川の手を握り、

震える声で言った。


「黒川さん……

 あなたがいなかったら……

 私は……

 この家族に戻れませんでした」


黒川は澪を見つめた。


「澪さん。

 あの日……

 お前が戻ってきたとき……

 俺は……

 心の底から嬉しかったんだ」


澪の涙が落ちた。


黒川は続けた。


「お前たちは……

 俺の家族だよ。

 血なんか関係ない。

 俺は……

 お前たちを……

 ずっと……」


言葉が途切れた。


未来が黒川の手を強く握った。


「くー……

 ありがとう……

 私……

 くーのこと……

 ずっと大好きだよ……」


黒川は微笑んだ。


「未来ちゃん……

 その言葉だけで……

 俺は……

 もう……十分だ……」


黒川の目がゆっくり閉じていく。


遼が声を震わせた。


「黒川さん……!」


澪が涙をこらえながら呼びかけた。


「黒川さん……!」


未来が泣きながら叫んだ。


「くー!!」


黒川は最後の力で、

三人の手を握り返した。


そして――

静かに息を吐いた。


そのまま、

穏やかな表情で眠りについた。


まるで、

長い旅を終えた人のように。


――


三人はしばらく声を出せなかった。


ただ、

黒川の手を握りながら泣いた。


その涙は、

悲しみだけではなく、

感謝と愛と、

そして“受け継ぐ覚悟”の涙だった。


第102話 みらい ― 受け継ぐもの


黒川が亡くなってから、三ヶ月が経った。


季節は夏へ向かい、

街の空気は少しずつ熱を帯び始めていた。


未来は、黒川の遺影の前に座っていた。


写真の中の黒川は、

いつものように優しく笑っている。


「くー……

 私ね……

 まだ、くーがいないのに慣れないよ」


未来は小さく笑った。


「でも……

 くーが言ってたこと、

 最近ちょっと分かる気がするの」


未来は胸に手を当てた。


「“弱さに負けないことが大事だ”って……

 くー、よく言ってたよね」


黒川の声が、

心の奥で静かに響くような気がした。


――未来ちゃん。

 嵐は誰にでも来るんだよ。

 でもな……

 逃げなきゃ、負けじゃない。


未来は目を閉じた。


「……うん。

 私、逃げないよ」


――


その日の夕方。


未来は家のリビングで、

澪と遼の前に立っていた。


「パパ、ママ。

 話したいことがあるの」


澪は少し緊張したように微笑んだ。


「どうしたの、未来」


未来は深呼吸をした。


「私……

 大学、県外に行きたい」


澪の目が大きく開いた。


遼も驚いたように未来を見つめた。


未来は続けた。


「くーがね……

 “未来ちゃんは、自分の道を歩け”って

 よく言ってたの」


澪は胸に手を当てた。


未来はまっすぐ二人を見た。


「私……

 自分の弱さに負けたくない。

 くーが守ってくれた家族から、

 ちゃんと一歩踏み出したいの」


遼はゆっくりと頷いた。


「未来……

 それが君の選んだ道なんだな」


未来は強く頷いた。


「うん。

 怖いけど……

 でも、行きたい」


澪は未来の手を握った。


「未来……

 あなたは強い子だよ。

 ママは……

 あなたの選んだ道を応援する」


未来の目に涙が浮かんだ。


「……ありがとう」


遼も未来の肩に手を置いた。


「未来。

 どこに行っても……

 お前は俺たちの娘だ。

 帰りたくなったら、いつでも帰ってこい」


未来は涙をこらえながら笑った。


「うん……

 ありがとう……」


――


その夜。


未来は自分の部屋で、

黒川の形見の腕時計を手に取った。


古くて、少し傷がついていて、

でも温かい。


未来はそっと腕にはめた。


「くー。

 私、行くね」


窓の外には、

夏の夜風が静かに流れていた。


未来はその風を胸いっぱいに吸い込み、

小さく呟いた。


「弱さに負けない。

 それだけは……

 絶対に守るから」


その言葉は、

黒川への誓いであり、

未来自身の未来への宣言だった。


最終話 たびだち ― 弱さに負けない


未来が大学へ旅立つ朝。


家の前には、

大きなスーツケースと、

少し緊張した未来の姿があった。


澪は玄関で、

未来の襟を整えながら微笑んだ。


「ちゃんと食べるんだよ。

 無理しないでね」


未来は照れたように笑った。


「ママこそ。

 泣かないでよ」


澪は目をそらした。


「泣かないよ……

 たぶん」


遼が笑いながら近づいた。


「未来。

 困ったらすぐ連絡しろよ。

 父さん、飛んでいくから」


未来は肩をすくめた。


「パパは飛ばなくていいよ。

 でも……連絡はする」


三人はしばらく黙った。


その沈黙は、

寂しさではなく、

確かな絆の沈黙だった。


――


未来はスーツケースを引きながら、

家の前の道をゆっくり歩き出した。


ふと、

腕時計に触れた。


黒川の形見。


少し重くて、

少し冷たくて、

でも確かに温かい。


未来は空を見上げた。


「くー。

 私、行くね」


風が吹いた。


まるで黒川が

「行ってこい」

と背中を押してくれたようだった。


――


駅に着くと、

ホームには朝の光が差し込んでいた。


未来は深呼吸をした。


胸の奥に、

黒川の声が響く。


――未来ちゃん。

 嵐は来る。

 でもな……

 逃げなきゃ負けじゃない。


未来は目を閉じた。


「うん。

 私、逃げない」


電車がゆっくりと入ってくる。


未来は一歩、前へ踏み出した。


その一歩は、

黒川が守り、

遼と澪が育て、

未来自身が選んだ一歩だった。


――


電車の窓に映る自分の顔を見て、

未来は小さく笑った。


「弱さに負けない。

 それだけは……

 ずっと守るから」


電車が動き出す。


家族の町が遠ざかる。


未来の旅が始まる。


そして物語は、

静かに幕を閉じた。


けれど――

未来の人生は、

ここから続いていく。

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嵐のあとで、もう一度 @6841

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